ケモカフェ! 〜ifストーリー〜   作:灰色の雪

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学校の二学期

夏休みは終わった。

終わったのか、それとも私が終わらせたのか、その区別がもうつかなかった。

カレンダーを見ると確かに八月の最後のページが残り少なくなっていて、新しい月の表が待っていた。九月。二学期の始まる月。けれど私の中で「夏休みが終わる」という感覚はうまく結ばなかった。お菓子作りもしなくなった私には、休みも休みでなくなる日もただ均等に並んでいる日々の中の一日にすぎなかった。

朝、目が覚めて、いつものように身支度をして、制服を着る。

メガネをかけ直す。

鏡の中の自分は、夏休み前と同じ顔をしていた。

同じ顔のはずだった。

ただ、何かが変わっている気がして、しばらく自分の顔を見つめた。眉のかたち、目の大きさ、唇の色 ―― どれも変わっていない。なのに、その顔の奥のもっと深い場所で、何かが沈んでしまったような気がした。

魚が水底まで沈んで、もう動かなくなったような。そんな静けさが、目の奥に居座っていた。

「愛、朝食できたよぉ」

階下から、おばあちゃんの声がした。

私はメガネをもう一度押し上げて、階段を降りた。

 

ダイニングテーブルには三人分の食事が並んでいた。

蓮華さんはもうそこに座っていて、新聞を綺麗にたたんで膝の横に置いていた。今朝も彼女の周りだけ、空気が違って見えた。窓から差し込む朝の光が、彼女の頬を撫でて、その輪郭を白磁の器のように透き通らせていた。フランスの古い屋敷の朝食室にそのまま置けそうな佇まい。

「おはようございます」

「お、おはよう、蓮華さん……」

「今日から学校でしたね」

「うん……」

「ご一緒に通うことになります。よろしくお願いいたします」

蓮華さんは静かにお辞儀をした。

その所作には今朝も一切の翳りがなかった。

私はうまく頷くことができないまま、椅子に座った。

ご一緒に通う ――。

そうだった。蓮華さんは、私の通う中学校に転入することになっていた。おばあちゃんから何日か前に聞いた話。「蓮華ちゃんも、二学期から愛の学校に通うんだよぉ」と、おばあちゃんは嬉しそうに教えてくれた。私もその時、「うん、わかった、よかったね」と笑顔で頷いた。

頷いた、けれど、その時の自分の気持ちが、何だったのか、自分でもよくわからなかった。

蓮華さんが学校に来ることが、嬉しかったのか、嫌だったのか、ただ無感覚だったのか。

たぶん、無感覚に近かった。

「タカラ」での私の場所が削り取られていく日々を、もうずっと前から見続けてきた私は、それが学校という別の場所でも同じように起こることに、もう驚く力を持っていなかった。むしろ「ああ、そうなんだ」と、頭のどこかで静かに納得していた気がする。

朝食のお味噌汁を一口飲んだ。

おばあちゃんのお味噌汁の味は、変わっていなかった。優しい、いつもの味。けれどなぜか、その味が遠かった。口の中に入っているはずなのに、私の舌のどこか手前で味がぼやけて、奥まで届かなかった。

「愛、今日は初日だから、しっかりおあがり」

「うん、おばあちゃん」

私はもう一口、お味噌汁を口に運んだ。

味は、やっぱり遠かった。

 

家を出た時、蓮華さんは紺色の制服に身を包んでいた。

私の通う中学校の指定の制服。スカートの丈、ブラウスの襟、リボンの結び方 ―― すべて校則どおりのはずなのに、彼女が着るとそれが別のもののように見えた。リボンがほんの少しだけ立体的に結ばれていて、その結び目の中に、彼女がフランスで身につけてきた何かの美意識が、こっそりと忍ばせてあった。

ただの制服が、舞台衣装のように見える ―― そんな雰囲気を、彼女はまとっていた。

「行ってまいります」

「いってらっしゃい、おふたりとも」

おばあちゃんが、玄関まで送り出してくれた。

家を出ると、夏の終わりの風が頬を撫でた。空気がほんの少しだけ冷たくなり始めている。蝉の声は、まだ続いているけれど、もう以前のような勢いはない。

私と蓮華さんは、並んで歩き出した。

正確には、並んで歩いているのではなく、私が彼女の半歩後ろを歩いていた。

別に意識して下がったわけではなかった。ただ、隣に並ぶと、何かを話さなければいけないような気がして、何を話していいかわからなくて、自然と歩く速度を少しだけ落としてしまった。

蓮華さんは前を向いて、姿勢を崩さずに歩いていた。

長い髪が、風で揺れていた。

その背中を、私は半歩後ろから見つめていた。

「タカラ」の厨房で、その背中を見つめていた時と、同じ景色だった。

 

バス停に着いた。

夏休み前の私の朝の景色 ―― いつもの錆びた看板、いつもの曲がった時刻表、いつもの隣の家の塀。けれどそこに蓮華さんが立つだけで、その光景までもが別の絵に変わって見えた。

バスが来た。

私はいつものように、後ろの席を目指して歩いた。蓮華さんは少しだけ周りを見渡してから、迷いなく、窓際の二人がけの席を選んだ。

私はその席に座っていいのか、別の席に座るべきなのか、わからなくなった。

「ご一緒に」

蓮華さんが、隣を、軽く手で示した。

「あ、う、うん……」

私はおずおずと座った。

肩が、ほんの少しだけ触れそうな距離。

けれど私は、自分の腕を体の内側に縮めて、絶対に触れないようにした。蓮華さんに、肩を触れさせていい人間ではない、と無意識のうちに自分を扱っていた。

バスが動き出した。

窓の外を、いつもの景色が流れていく。

蓮華さんは、窓の外を見ていた。

何を考えているのか、わからなかった。

たぶん、何も考えていないわけではないのだろうけれど、その思考は、私のような子どもには触れられない高さにある何かを、見ているような気がした。

「あの ――」

ふと、私は何か話さなければいけない気がして、口を開いた。

「な、なに、かな……、学校で、不安なこと、ありますか……?」

我ながら、ぼそぼそとした、しまりのない問いだった。

蓮華さんは、ゆっくりと窓の外から視線を私に向けた。

少しだけ考えてから、こう答えた。

「不安、というほどのものはありません」

「あ、そう、なんだ……」

「初めての場所で、初めての人と過ごすことは、これまでにも何度かありました。フランスでも、いくつかの学校を移ったので」

「あ……」

「慣れています」

短い言葉だった。

冷たくはなかった。

けれど、その「慣れています」の中に、蓮華さんがこれまで生きてきた時間の重さが、ちらりと覗いた気がした。彼女は何度も新しい場所に立たされて、その度に最初から自分の場所を作り直してきた人なのだ。私が中学校の入学式から三ヶ月以上も「友達がひとりもいない」と縮こまっていたのに対して、彼女はたぶん、午後にはすでにクラスの中で自分の位置を確立してしまう。

そういう、根本的な差。

「あ、あの、もし、何か、わからないこととか、あったら……訊いて、ね……」

私は、なんとか付け加えた。

蓮華さんは、軽く頷いた。

「ありがとうございます」

それだけだった。

それ以上の会話はなかった。

バスの中で、私たちは隣り合わせに座ったまま、それぞれが、別の世界に座っていた。

 

学校に着いて、職員室で蓮華さんを先生に引き渡した。

「あ、桜小路さん。優希さんも一緒だったんですね」

担任の先生が、嬉しそうに私の顔を見た。

「あの ―― 蓮華さんは、私の家にいて、それで……」

「そう、聞いていますよ。じゃあ、桜小路さんの紹介を、ホームルームでしたあと、お席に案内するから、先に教室に行っていてくださいね」

「は、はい」

私はぺこりと頭を下げて、職員室を出た。

廊下を歩きながら、ふと、自分の足取りが軽くなっていることに気づいた。

別に蓮華さんと一緒に通学したことが嫌だったわけではない。けれど、彼女の隣で過ごす時間は、私にとっては、自分の小ささを連続的に確認させられる時間でもあった。職員室で先生に引き渡した瞬間、その重さから一時的に解放された ―― そんな感覚があった。

教室に向かう廊下の途中で、ふと、見慣れた背中が見えた。

狐森コンくん。

彼は、教室の前で、何人かのクラスメイトに囲まれていた。

夏休み前と変わらない、彼の姿。背が伸びたのかもしれない、と、ふと思った。久しぶりに見たから、ほんの少し、印象が違って見える。狐の耳が、頭の上で、いつもより少しだけ大きく見える気がした。

「久しぶりだな、コン」

「夏休み、どこ行った?」

「うちは家族で軽井沢」

「俺は受験対策の塾で、ずっと缶詰だったよ」

クラスの男子たちが、楽しそうに話している。

その輪の中で、コンくんは、相変わらず少し距離を置いた感じで、けれど、ちゃんと答えていた。

「俺は、家にいた」

短い、けれど、彼らしい答え。

私は、自分が彼の視界に入らないように、廊下の壁際を歩いて、教室のドアに向かった。

ドアを開けると、教室の中の空気が、夏休み前と少しだけ違っていた。

何が違うのかは、わからない。ただ、夏休みを挟んだクラスというのは、こういう、不思議な空気を持っているものだった。みんな少しずつ大人になって、けれどみんな少しずつ、夏休み前のことを覚え直そうとしている。そんな空気。

私は自分の席に向かった。

席に座って、鞄からノートと筆箱を出す。

机の上を整える、いつもの動作。

その動作が、私を、なんとか日常の中に繋ぎ止めてくれていた。

「ねえねえ、優希さん、聞いた?」

突然、後ろから声がかかった。

私が振り向くと、クラスの女子のひとりが、目を輝かせて私を見ていた。

夏休み前は、私のことを「メガネで顔が見えない」「ぼそぼそしてて怖い」と陰で言っていたはずの子だった。それなのに今日は、こんなふうに親しげに話しかけてくる。

「あ ―― う、うん、なにを……?」

「今日、新しい子が転入してくるんだって」

「あ、う、うん……」

「めちゃくちゃ可愛いらしいよ、フランス帰りなんだって」

「うん、知ってる」

「えっ、なんで知ってるの?」

その女子が、不思議そうに首を傾げた。

「あ、その ――」

「あ、もしかして、コンくんと同じで、優希さんの家でも何か知ってた?」

「コンくんと、同じ……?」

「うん、コンくんちは町の地主だから、桜小路家のこと知ってるみたいよ。新しい子の名前も、もう知ってるって」

「あ……うん。私のお家にも、その子、来てるの」

「えっ、ええっ!?」

女子の声が、急に大きくなった。

「優希さん、新しい子と、おうち、一緒に住んでるの?」

「あ、う、うん……。家族の遠縁の子で……」

「ええーっ、何それ、めっちゃ羨ましいんだけど!」

その女子が言うと、周りにいた他の女子たちも、わっと寄ってきた。

「えっ、それって、本当のフランス帰りなの?」

「優希さん、その子のこと、教えて教えて」

「写真とか撮ってないの?」

私の机の周りが、急に賑やかになった。

それは、入学してから三ヶ月以上、一度もなかった光景だった。

私の席の周りに、女子たちが集まって、私の顔を覗き込んでいる。

私が話せば、彼女たちが「ふんふん」と頷いてくれる。

これが「友達ができる」ということなのかもしれない、と一瞬だけ、思った。

思って、すぐに、その考えを打ち消した。

彼女たちが見ているのは、私ではない。

私の口を通して語られる、蓮華さんの情報。

私は、彼女たちにとって、蓮華さんに関する情報の、入り口だった。

「あ、あの……桜小路、蓮華さん、っていう名前で、ね、お料理が、すごく、上手で……」

「ええ、お料理も?才能の塊じゃん」

「うん……、それで、お、お菓子も、本格的なフランス風のを作って……」

「うわぁ、めっちゃ会いたい」

「これは絶対、クラスの女王様だわ」

「待って待って、コンくん、今のうちに私たちでアプローチしておくべきじゃない?前の優希さんみたいに、コンくんがその子に取られちゃう前に」

私は ―― 自分のことを、語られていることに、気づいた。

「前の優希さんみたいに」 ――。

私は、夏休み前まで、コンくんに「話しかけられる」だけで、女子たちから疎まれていた。「優希さんばっかりずるい」と言われていた。私は、彼女たちのライバルだった。

けれど、今、その言葉は、過去形になっていた。

「前の優希さん」。

私は、もう、ライバルではなくなっている。

それは、コンくんが私に話しかけることがなくなる、ということの予告だった。

そして、それは ―― 私の心の中に、ほんの少しだけ、安堵をもたらした。

私は、もうコンくんに、嫌味を言われることはないのかもしれない。

そう思うと、ほっとした、はずだった。

「あ、来た」

廊下の方を見ていた女子が、声を上げた。

教室の中の声が、ふっと、静かになった。

ガラリ、と教室のドアが開いた。

先生に連れられて、蓮華さんが、入ってきた。

 

蓮華さんが教室に入ってきた瞬間、空気が、変わった。

「あ ――」

誰かが、小さく声を漏らした。

二十数人のクラスメイト全員が、息をするのを忘れたみたいに、彼女の方を見ていた。

蓮華さんは、教壇の前まで歩いて、ゆっくりと、こちらに向き直った。

そして、両手をお腹の前で組んで、軽く頭を下げた。

「桜小路 蓮華と申します。フランスより参りました。二学期から、こちらでお世話になります。よろしくお願いいたします」

声は、いつもと同じ、低くも高くもない、けれど一音一音にしんと張った重さがある声。

その声が、教室の天井の高さまで届いた瞬間、私は、教室の空気が、確かに変質したのを感じた。

教室というのは、いつも、雑多な気配で満ちている場所だった。だれかの汗の匂い、誰かのお弁当の匂い、消しゴムのカスの匂い、廊下から流れ込んでくる体育館のワックスの匂い ―― そういう「中学校」の匂いが、空気の中に混ざっていた。

それが、蓮華さんが立った瞬間、その匂いがすうっと退いた。

代わりに、何か別の匂いが、彼女の周りから漂い始めた。

香水ではない。何かもっと、生まれつきの清潔さのようなもの。誰かに教えられて身につけた所作ではなく、生まれた時からその身に染みついていた品の、匂い。

クラスの男子たちが、固まっていた。

私の隣の席の男子は、口を半分開けて、彼女を見ていた。

クラスの女子たちは、最初の数秒間、感嘆の眼差しで彼女を見ていた。

けれど、その感嘆が、次の数秒で、別の感情に変質した。

「……」

私の机の周りにさっきまでいた女子たちが、いつの間にか、私のそばを離れていた。彼女たちは、もう、私の方を見ていなかった。

新しい、輝かしい中心が、教室の前に、現れていた。

私の机は、その中心から、いちばん遠い場所にあった。

 

担任の先生が、蓮華さんに席を案内した。

私の席の、右斜め前。

近すぎないけれど、遠すぎもしない、絶妙な位置だった。

蓮華さんは、その席に向かって歩き出した。

そして、私の机の横を、通り過ぎた。

私と目が合うかと思った。

合わなかった。

蓮華さんの視線は、私の机の上を、まっすぐに通り過ぎていった。家でいつも私を「視界に入れる」程度には見てくれていた彼女が、教室では、私を視界に入れることすらしなかった。

別に、無視されたわけではない。たぶん、教室という公的な場所で、家族のことを示さない、という、彼女なりの礼儀作法なのだろう。私を「家の関係者」として、特別扱いしないでくれている。

そう思おうとした。

そう思おうとしたけれど、その時、私の中で、もうひとつの考えが、静かに浮かんだ。

蓮華さんにとって、私が「家の関係者」だという事実そのものが、もう、彼女の意識の中で、優先順位の低いことになっていたのかもしれない、と。

家でも、私は、彼女の世界の周辺にいた。

学校でも、私は、彼女の世界の周辺にいた。

場所が変わっても、私の位置は変わらなかった。

それは、彼女が私を意図的に外しているのではなく、彼女の世界の中で、私が最初からその位置だった、ということ。

中心になるはずがない場所に、私はずっと、立っていた。

 

授業が始まった。

担任の先生による、二学期初日のホームルーム。連絡事項、夏休みの宿題の提出、文化祭の準備の話。

私はノートに、いつものように、先生の言葉を書き写していた。

書き写しながら、ふと、教室の中の雰囲気の変化に気づいた。

クラスメイトたちの視線が、頻繁に、蓮華さんの方に流れていた。

特に、女子たちの視線が。

最初は、嫉妬と驚嘆が混ざった視線だった。「あんな子、ずるい」「コンくんに取られちゃう前に何とかしなきゃ」 ―― そういう、防衛的な視線。

けれど、ホームルームが進むにつれて、その視線の質が、少しずつ変わっていくのが、私にもわかった。

蓮華さんは、姿勢を崩さなかった。

ノートを取る手の動き、先生の方を見る目の角度、椅子に座っている時の背筋、すべてが、教室の中で唯一、芸術品のようだった。

そして彼女は、女子たちに「敵」を作らなかった。

休み時間になった瞬間、女子のひとりが、思い切ったように、彼女の机に近づいた。

「あ、あの ――桜小路さん、ですよね?私、湯沢っていいます。よろしくお願いします」

蓮華さんは、ゆっくりとそちらに向き直って、にこやかに微笑んだ。

その微笑みを、私は、家で一度も見たことがなかった。

家の中で蓮華さんは、淡々とした表情のままだった。けれど、今、教室の中で湯沢さんに向けた微笑みは、温度のある、人間らしい微笑みだった。

「湯沢さん。よろしくお願いいたします。こちらは私のほうこそ、いろいろと教えていただかなくては」

「あっ、いえ、こちらこそ ―― あの、フランス、長かったんですか?」

「十年以上、おりました」

「えええ、すごい、ずっと向こうで?」

「父の仕事の都合で」

「ね、ねえ、桜小路さん、よかったら今日、お昼一緒に食べない?」

「ええ、ぜひ」

蓮華さんが微笑むと、湯沢さんの周りに、わっと他の女子たちが集まってきた。

「私も、私も入れて!」

「桜小路さんって、フランス語ペラペラ?」

「フランスのカフェってどんな感じ?」

「お菓子作るって聞いたよ、すごい!」

蓮華さんは、ひとりひとりの質問に、丁寧に、けれど決して馴れ馴れしくはならない距離を保ちながら、答えていた。彼女の周りに、たちまち、女子たちの輪ができた。

その輪は、教室の前の方に、ひとつの宇宙のように、出来上がっていた。

明るくて、華やかで、すべてを引き寄せる中心。

私の机は、その宇宙の、外側にあった。

 

私はノートを閉じて、机の上を片付けるふりをしながら、その様子を見ていた。

不思議なことに、心は、それほど揺れなかった。

夏休み前なら、こういう場面で、私はもっと深く傷ついていたかもしれない。「私のこと、もう完全に忘れたんだ」と、胸の奥がしくしくと痛んだかもしれない。

でも今日は、そういう種類の痛みは、来なかった。

代わりに、ある種の納得が、心の中に静かに流れた。

そうだよね、と思った。

これが、ちゃんとした順序なんだ。

私のような、地味で、ぼそぼそした、メガネをかけた子の周りに、女子たちが集まる方が、おかしかった。蓮華さんのような、明るくて、華やかで、上品な子の周りに、女子たちが集まるのが、本来の流れなんだ。

夏休み前まで、女子たちが私の方を見ていたのは、私を見ていたわけではない。コンくんが私に話しかけることへの嫉妬を、私を経由して表現していただけだった。彼女たちにとって、私は、最初から、見られる対象ではなかった。

その「視線の不在」が、今、本来あるべき形に、戻っただけ。

そう考えた。

そう考えたら、なぜか、楽になった。

楽になった、というよりは、感じる必要がなくなった、というほうが、正確かもしれない。

夏休み前の私は、女子たちの陰口に、確かに、心を痛めていた。「メガネで顔が見えない」「ぼそぼそしてて怖い」 ―― そういう言葉のひとつひとつが、刺さって、夜になると思い出して、眠れなくなったりした。

けれど今、その痛みが、もう来なかった。

私の心は、彼女たちの視線を「受け止める」役割を、すでに、終えていた。

新しい受け止め手が、教室の前に立った。

私は、もう、降りていい。

 

その時、教室の後ろのドアが、ガラリと開いた。

「うっせえな、誰だよこんなところに新しいクラス入れたのは」

低い、不機嫌な声。

クラスの空気が、ぴくりと、また別の方向に揺れた。

コンくんが、教室に入ってきた。

休み時間の間、たぶん廊下のどこかでサボっていたんだろう。少し気だるそうな顔をして、片手をポケットに突っ込んで、教室の中を見渡した。

そして ―― 彼の目が、止まった。

彼の視線の先には、蓮華さんがいた。

彼女は、湯沢さんたちと話していた途中だった。話している最中に、教室に新しい人が入ってきたことに気づいて、ゆっくりとそちらを向いた。

蓮華さんと、コンくんの目が、合った。

その瞬間、私は、教室の空気が、また別の質に変化したのを感じた。

コンくんの、狐の耳が、ぴくりと動いた。

これまで、私が彼の耳の動きを意識したことはほとんどなかった。けれど、今、その耳が、はっきりと、何かに反応していた。獣人族の本能 ―― 私の知らない、人間ではない領域の感覚が、何か特別な存在を、感知している。そんな動きだった。

蓮華さんは、コンくんを見て、静かに微笑んだ。

「あら ―― 狐の獣人ね」

コンくんが、ふんっと鼻を鳴らした。

「狐じゃねえ、狐森だ」

「ごめんなさい、失礼いたしました。狐森さんですね」

蓮華さんが、丁寧にお辞儀をした。

その一連のやりとりが、私には、見たことのない景色だった。

蓮華さんの「狐の獣人ね」は、フランスから帰ってきたばかりの彼女が、日本の獣人族の文化に親しんでいないことを示す、ほんの少しの不器用な発言だった。普段の彼女が見せたことのない、ささやかな、けれど確かな「人間らしい」隙だった。

そして、コンくんの返事。

「狐じゃねえ、狐森だ」

それは、私がよく知っている、彼の刺のある声 ―― ではなかった。

声の語気は、いつもの彼のものだった。けれど、その奥に、いつもの彼にはない、何かが、混ざっていた。

何だろう、と思って、しばらく考えて、わかった。

それは、興味、だった。

コンくんが、相手に対して、興味を持っている時の声。

夏休み前まで、彼が誰かに対してこういう声を出したことを、私は思い出せなかった。

少なくとも、女子に対しては、絶対になかった。「俺は女子が嫌いなんだよ」と彼はいつも言っていた。それなのに、今、彼の声の奥には、確かに、相手に対する関心が、ほんの少しだけ、混じっていた。

蓮華さんが、にっこりと微笑んだ。

「狐森さん、よろしくお願いいたします」

「……あ、おう」

コンくんは、その微笑みを受けて、なぜか、少しだけ視線を逸らした。彼の頬が、ほんの少しだけ赤らんでいるように見えた。気のせいかもしれない。気のせいでないかもしれない。

そして彼は、いつも通りの不機嫌な顔を作り直して、自分の席に向かおうとした。

その動線が、私の机の横を通る道筋だった。

私は、息を、軽くつめた。

夏休み前まで、彼が私の机の横を通る時、彼は必ず、何か嫌味を言ってきた。「お前のメガネ、いつもズレてんなぁ」とか、「お前、また暗い顔してんな」とか、そういう類のひとこと。それが、私への、彼なりの「関わり方」だった。

私は、彼の刺を、いつも、心を縮めながら受け止めてきた。

夏休みのあと、彼がどんな刺を持って戻ってきたんだろうかと、ほんの一瞬、身構えた。

身構えた、けれど ――。

コンくんは、私の机の横を、通り過ぎた。

通り過ぎただけだった。

私の顔を、見なかった。

何の言葉も、なかった。

刺すら、なかった。

ただ、彼の体が、空気を切るような速度で、私の横を通過していった。

それだけだった。

 

私は、しばらく、自分の手元を見ていた。

ノートの上の、自分の字を、見ていた。

今、起きたことが、何を意味しているのか、考えなくても、わかった。

コンくんの「関わり方」が、私から、外れた。

夏休み前、私は彼にとって「関わる対象」だった。嫌味の対象であり、刺を向ける対象であった。けれど、何にしても、関心の対象だった。

それが、今日、彼の関心は、私から、別の人に、移った。

そして彼は、私という存在を、わざわざ刺すまでもない、ただの背景として、通り過ぎていった。

私の心は、それほど揺れなかった。

揺れなかった、はずだった。

ただ、ノートの上の自分の字が、なぜか、いつもよりも、薄く見えた。

書いたばかりのはずなのに、もう、消えかかっているように見えた。

私の字も、私自身も、教室の中で、薄くなっていく途中なのかもしれない、と、ふと思った。

 

昼休みになった。

蓮華さんは、湯沢さんたちの輪に、自然と引き入れられて、お昼を一緒に食べに行くことになった。

私は、いつものように、自分の席で、お弁当を広げた。

おばあちゃんが今朝、忙しい中で作ってくれた、おにぎりと卵焼きと、夏野菜の煮物。

私のためだけに作ってくれた、おばあちゃんのお弁当。

それを食べているはずなのに、なぜか、味は、やっぱり遠かった。

教室の窓際で、蓮華さんたちの輪が盛り上がっている声が、聞こえた。

「桜小路さん、フランスのお菓子作れるんでしょ?今度作って来てー!」

「うふふ、考えておきます」

「文化祭のクラスの出し物、桜小路さんのお菓子のお店とか、どう?」

「あらまぁ、それは素敵なご提案ですね」

蓮華さんの笑い声が、教室の天井に、ぽろぽろと、銀の鈴のように響いた。

家では一度も聞いたことのなかった、彼女の笑い声だった。

家にいる時の彼女が「外出着」の蓮華さんなら、今、教室にいる彼女もまた、別の「外出着」の蓮華さんなのかもしれない。

その「外出着」のひとつ ―― 教室用 ―― には、私を一切含まない、明るく華やかな世界が、含まれていた。

私は、お弁当の卵焼きを、一口、口に入れた。

おばあちゃんの卵焼きの味も、やっぱり、遠かった。

おばあちゃんの卵焼きを、こんなふうに「遠い」と感じる日が来るなんて、夏休み前の私は、想像もしていなかった。

 

午後の授業を終えて、放課後になった。

蓮華さんは、湯沢さんたちと、初日からカフェに行く約束をしているらしかった。「優希さんも一緒に」と誰かが言いかけたけれど、湯沢さんが「あ、優希さんはバスだもんね、別かな」と曖昧に流して、それで終わった。

私は鞄を肩に掛けて、教室を出た。

廊下を歩いて、下駄箱に向かう。

ふと、廊下の途中で、コンくんが立っているのが見えた。

彼は、誰かを待っているような顔で、廊下の窓際に寄りかかっていた。

私は、彼の視界に入らないように、廊下の反対側の壁際を通って、下駄箱に向かおうとした。

その時、ふと、自分の中で、ある衝動が、ぽつりと、湧いた。

朝、コンくんに「おはよう」を言いそびれた。

夏休み前の私は、彼に話しかけられる立場で、自分から話しかけることなんて、ほとんどなかった。けれど、ちょうど夏休みの前のある朝、彼にバスの中で偶然会った時、彼が「お前、おはようくらい言えねえのかよ」と笑ったことがあった。

それを、私は、覚えていた。

夏休みのあと、私は、彼に「おはよう」と言ってみようかな、と、ほんの一瞬、思ったことがあった。彼が私に向ける刺の中に、もしかしたら、ほんの少しだけ、私を気にかけてくれる気持ちが混ざっているのかもしれない、と、心のどこかで思っていた。

その「もしかしたら」を、今、確かめてみたい気持ちが、ふっと、出てきた。

たぶん、もう、確かめても、何も変わらない。

それでも、なぜか、最後に一度だけ、確かめておきたかった。

私は、勇気を出して、彼の方に、少しだけ歩み寄った。

「あ、あの、コ、コンくん ――」

声が、うわずった。

「お、おはよう……朝、言いそびれて、しまって……」

たぶん、自分の声が、自分でも聞こえないくらい、小さかった。

コンくんは、廊下の窓際で、何かを待っているような姿勢のまま、止まっていた。

止まっていた、けれど ――。

私の方を、見なかった。

聞こえなかったのか、聞こえて無視したのか、わからなかった。

ただ彼の視線は、廊下の向こう側、教室の方を見ていた。

たぶん、彼は、蓮華さんが、湯沢さんたちと一緒に教室を出てくるのを、待っていた。

そう、わかった。

彼の意識は、廊下の向こう側にだけ向けられていて、私の小さな声は、その意識のどこにも届かなかった。

私は、ぺこりとお辞儀をして、足早に、その場を離れた。

下駄箱まで、振り返らずに歩いた。

下駄箱で、上履きを靴に履き替えながら、初めて、自分の手が、少しだけ震えていることに気づいた。

声を出して話しかけたことが、こんなに体に負担をかけていたのか、と、不思議に思った。

夏休み前、私は、コンくんに刺を投げつけられても、ここまで震えなかった気がする。

刺は、刺。

刺は、まだ、彼が私に向けてくれていた、何かの形のひとつだった。

それが、今、彼の視線が私を素通りした、その素通りの瞬間に、私の体は、刺の数百倍の重さを、受け取ったらしかった。

 

下駄箱を出て、校門に向かう途中、ふと、後ろから、廊下の方の声が、聞こえてきた。

「桜小路さん、待ってよー」

湯沢さんたちの、明るい声。

「コンくん、桜小路さんとも知り合いなんだー、いいなぁ」

「コンくん、今日帰り、桜小路さんと一緒なんでしょー?」

私は、振り返らなかった。

振り返らなくても、声で、わかった。

校門のところで、コンくんが、蓮華さんと、湯沢さんたちと、待ち合わせていた。

そして、彼らは、私の前を、賑やかに、通り過ぎていった。

私の横を、コンくんと蓮華さんと、女子たちの集団が、通り過ぎた。

私は、足を止めて、その背中を、見送った。

蓮華さんの長い髪が、夕方の風に揺れていた。

コンくんの狐の耳が、彼女の隣で、いつもよりも少しだけ、立っているように見えた。

その光景は、夏の日の絵画のように、美しかった。

美しい、光景だった。

私は、ぽつんと、その場所に、立っていた。

立っていた、けれど ――。

ふと、自分が、もう、何にも揺れていないことに気づいた。

胸が痛い、わけではなかった。

寂しい、わけでもなかった。

ただ、自分の体の温度が、季節の境目の空気の温度と、同じくらいにまで、下がっていた。

冷たい、わけでもなかった。

ただ、空気と、自分とが、もう、同じ温度になっていた、というだけのこと。

 

バス停まで歩いて、いつもの錆びた看板の前に立った。

夏休み前、ここでバスを待っていた時の私と、今、ここでバスを待っている私は、見た目はほとんど同じはずだった。

メガネ、地味な制服、痩せた肩。

でも、夏休み前の私は、毎朝、おばあちゃんに「行ってきます」を言う時、ほんの少しだけ、誇らしかった。「タカラ」のお手伝いをしっかりやれる私。学校では地味だけど、家ではちゃんと役に立つ私。

その「ちゃんと役に立つ私」は、もう、いない。

「タカラ」での私の場所は、もう、ない。

学校での私の場所も、最初から、なかった。

そして、コンくんの視界から、私は、消えた。

私が立っている場所が、急に、世界の縁のように感じられた。

バスが来た。

蓮華さんは、コンくんたちと一緒に、街の方のカフェに行く約束らしいから、私と一緒には帰らない。

ひとりで、バスに乗った。

夏休み前と、同じバス。

夏休み前と、同じ運転手さん。

夏休み前と、同じ景色。

なのに、その全部が、別の場所に来てしまったように見えた。

バスの窓に、自分の顔が映っていた。

メガネをかけた、私の顔。

その顔を、しばらく見ていた。

夏休み前の私は、この顔のことを「地味だけど、おじいちゃんが好きでいてくれた顔」だと思っていた。「メガネを取られると母に言われた『その顔を見てるとイライラするの』を思い出すから、メガネを外さない顔」だと思っていた。

今、私は、その顔について、何も思わなくなっていた。

地味、とも思わなかった。

醜い、とも思わなかった。

可愛い、とも、もちろん、思わなかった。

ただ ―― 知らない人の顔のように、見えた。

「タカラ」での場所も失い、学校での場所も最初からなく、コンくんの視界からも消えた、その私の顔。

その顔の持ち主が、誰なのか、私自身、もう、よくわからなかった。

バスが、山道を上っていく。

窓の外で、夕方の光が、薄くなっていく。

蝉の声は、もう聞こえなくなっていた。

夏が、終わろうとしていた。

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