「先生、少しトラブルがありまして、お時間いただけますか?」
午前、九時。尾刃カンナ。ヴァルキューレ警察学校公安局、局長、狂犬。
天気予報はこれから雨だという、シャーレの部室はキーボードの音が今止まったところ。
「お安い御用だよ、何をするのかな」
私は窓見て答えた。また中を見れば、部室は少しまぶしい、体は少し重たい。だけれども、立ち上がって外行の準備を始めた。
「これから雨だと言いますから」
そう言ってコートを持ってきたのが、私に羽織らせてくれた。平日の外はまだ行きのにぎわい。だというけれど、どこかどんよりとして、怪しく不気味。
私はシャーレのドアを開けた。半開きのドアに体を押し込もうとすると、ドアのふちをカンナが手を添えた。何とはなしに、後ろに引きさがると、そのままドアは閉まってしまった。束の間しんとした。
「何処へ行こうというのですか?まだ場所は伝えていませんよ」
「そうだったかな、ごめんね。すこしぼぉっとしてたよ」
カンナの顔は背にある空と一緒になって、悲しい何かが迫って来た。なにか、善い人が悪を働いたときのような心臓の動きを喉の下直ぐに感じて、絞り出した言葉は、相手にも私のなにがしの不調が感じ取れるだろう。
「……ゲヘナへ」
そう言って前進、止まってしまった私の前を歩いてくれた。
哀しいほど寒い道中だった。吹いて抜ける風も、本当は暖かいのかもしれないけれども、風になれば体温を下げて行くばかり。背を見て、揺れる髪をみて、歩いて彼女の動きは真摯な美しさで。けれど頭の中に彼女はいなくて、ずっと過去の後悔ばかりがちらついていた。
「カンナ、ゲヘナではどういうことが起こっているの?」
ふと、思い出したかのように。
「先生――いえ。あそこで大規模なテロが起こったようで、さすがにヒナ委員長で手が回らなくなり、駆り出されたわけですが、万が一のことがあればいけないので、こうして先生のお時間をいただいているわけです」
簡潔に話し出されたその言葉に私はしっかりとうなずいて。エレベーターに入ると、壁に背をつけて黙る。
カンナは時折口を開くも、こころをちょっとどこかにやった私を見れば、ボタンを覗いてしまう。私の明らかな会話の拒絶であったと気づいた時にはもう遅くて、彼女も黙ってしまった。
何か申し訳ないような気がして、声をかけようとしても、舌の先まででつかえて、溜息と変わってしまった。
数分経って、建物から出ると外は雨が降っていた。カンナが傘を差してくれる。
「ありがとう」
カンナは、はにかみ笑顔で心持顔を傾けて、けれど表情(かお)を隠さない。
ふと笑い声が聞こえる。と共にパチャパチャ地がはじける。三人の子供が真っ白のカッパを着て目の前をはしゃぎ、過ぎて行ってしまう。
私はゲヘナ行きの電車に乗る。大事(おおごと)らしい、ワルキューレの生徒たちだけが乗っている。
隣を座るカンナの右肩は濡れていた。
景色であったものはただ無造作に並べた色になった。ただ流れて行った。いつの間にか電車は止まった。
「何かトラブルがあったようですね、予想はできますが」
カンナは立ち上がって、私を見た。
「行こうか」
電車は駅で無いところに留まっている。それからはカンナ、そして同乗していた生徒たちの指揮を取って、電車を襲撃してきた不良たちを倒していると、情報を聞きつけたか、ヒナが凄まじい速さでやってきて蹴散らす。私はヒナを加えて指揮を執り、この不良たちの争乱を収めた。ただその時私は右手を怪我して、ヒナの心配げな眼差しが私のまぶたに残る。
ふと、彼女が右手を差し出した。
「事態の収拾はあちら側に任せましょう。……もしよろしければ、昼食を一緒に食べませんか?」
カンナの頬は薄紅にうるうるとして、今にも逸らそうとする澄んだ青い瞳はそれでも私を見続ける。私は頷いて、彼女の手を取った。
ビル風が吹く。彼女の髪は喜ぶように、流れて暴れて背中に纏わる。そんな大きい流れの辺境、もみあげが私の頬をくすぐった。
私達は道をまだ進む、カンナはカフェに行くつもりだという。雨は止めども、雲はまだ鉛のような重みを感じる。スマホはずっと雨だという。
「それで――、――先生、聞いていますか」
カンナはそう言うけれども、私の頭もまた雲がかかって、鉛となって、全く回りそうもない。響くはずもない。辺りを見回すと、三人の人影を見取る。よく見ればアリスとモモイとミドリだった。アリスが先導している、ヒナのところに会いに行くのだろうか。
「先生‼」
カンナの呼び声が強く耳を叩く。私の意識は液体が広がっていくようにスゥっと彼女の存在を認めた。ずっと呼び掛けていたのかもしれない。申し訳なくて、謝りたくて。
「ごめん」
語尾の枯れた声だった。
「先生、今日は何かおかしくないですか」
カンナが詰め寄ってくる。二人は足を止めた。なんだかはっきりとしない。
「今はカフェに行こう」
私はそう言ってしまった。カフェに行けば離さなければならなのは、気が重いけれども、私はそう言って先延ばしにするしかなかった。
重い足に、何か柔らかい物を踏んだ。驚いて下を見れば人形を踏んでいた。けれどそのもののあるのを感じた時、人形は消えてしまった。
「今私は踏んでしまった?」
そう呟くと、カンナはぎょっとした目で私を見た。
「気のせいみたいだ」
そうして前を向くと、次は道端に絵が置いてあった。何が書いてあるのか明瞭(はっきり)としない。私は気づかないふりをしてその絵を踏みつけた。カンナにもう私の不調を見られたくなかった。なぜか惨めだった。家電量販店のテレビだった映るのは『しばらくお待ちください』の文字と、草原の丘の背景だった。
その時、私の腕時計が外れて落ちた。すぐにカンナが拾ってくれる、けれど腕時計は止まってしまった。私は受け取ってポケットに入れた。
「話してみてください」
カフェのテラス席、彼女は私の目を真摯に見る。彼女の瞳映った自分の姿が、私の心の中にも移る。その自分に私は何度も背中を押す、時には強い言葉も浴びせる。
「話してみると、幾分か楽になります。もちろん、私などが先生のお悩みを解決できるとは思っていませんが、それでも話してみてください」
安堵を宿して微笑む彼女の母ぶりは、はるか高みにいる者を見上げるように、まぶしさに目がくらむ。震い付きたくなるのを何とか抑え、髪を手に絡ませて、サラサラして、そのまま引き寄せた彼女の目鼻唇のそれぞれ違った潤みを見取った。彼女は困ったような顔して、半身のみならず椅子を動かした。
戦闘の熱気に、散歩に、雨上がりの湿度か、整った襟口から人の人たる暖かな微風がさまよい出て、それを見たのに気付くと彼女は、迅速に手でそこを栓した。病的な私には刺されるほどに清いのだった。感化された頭は明晰(めいせき)として、一心に話せる。
「私はね、生徒の皆がただ遊んでいる姿を見たいんだ、ただ眺めていたいんだ。危ないことをしようとしたら止めてあげて、転びそうになったら、遊具から落ちそうになったら、さっと捕まえて、ただ笑って過ぎる」
私は一息ついた。周りの音はだんだん遠のいて、私の頬にすっと一筋汗が伝う。カンナはそっとハンカチで拭いてくれる。私はお礼も言えなかった。
「けれどもね、私は捕まえ損ねてしまったんだ。人が自分の夢をかなえられないと知った時、その絶望は計り知れないんだ。私もね、人だから」
そこから先は喉でつっかえて、不自然に詰まってしまった。私は瞳を下にして、もう一度上げた時。
「先生、手を伸ばしてください」
カンナがそんなことを言う。私はとりあえず言う事を聞いた。
「どうですか、何人も、何人も、捕まえられそうですか」
私は首を振る。カンナの意図も分かって、それにも否定をしようとした。
「それでも!」
彼女はさえぎった。
「それでも、手の大きさは、腕の長さは決まっていて、届かない手もあれば、零れ落ちて行くものもあります。私は公安に努め、いつの間にか局長にまでなってしまいました。何度も何度も、大きさや小ささにかかわらず、そんな場面に出くわしました」
一息ついて、真摯な顔になる。空気はずっと優しい。
「けれど、それがあるからこそ、そうして苦心していったからこそ、今の立場があります。もちろん、先生の立場とは比べるべくもないですが。それでも、先生のその姿は諦めようとしない尊い思いの下にあるのです。だから自分を責めないでください」
「そうだね、学びに、大人も子供もないよ。うん、ありがとう。悩んでいるのもいいけど、そればかりではだめだから。私は私のできる事を精いっぱいしてみる」
回りの音はよく聞こえる。やかましいほど聞こえる。私はカンナから離れて立ち上がる。家々、ビル、人の流れ、魚のように、逆らっていく人もいる。皆様々な顔して、私の前を通って去っていく。
私の目前の世界は、透き通っていくもののように綺麗になっていった。今日の天気予報はもう、当たりそうもない。
カンナは私の少し後ろでまだ座っている。もう彼女の瞳から私を見て、移り現れるようなことはもうないだろう。
(時計屋さんに行かなければ)
そう思ってポケットから腕時計を取り出す。止まっていたそれはまた時を刻みだしていた。
空を見れば一筋飛行機雲が通る、私はいっぱいに手を広げて大きく息を吸う。飛行機雲の主は横に一回転して、雲の輪を作った。心の底に、それはスンと染みていく。