曇天は切り開かれて ブルアカ短編集   作:清水竣成

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休息のひとときの至宝

 おそらく電車にはねられて、病院に担ぎ込まれた。担ぎ込んでくれたのはティーパーティ―の三人だった。勤めで偶然に居合わせていたという。はねられた理由は私の疲労だった。助けてくれたアロナとプラナにはしこたま叱られた。

 三人の計らいで百鬼夜行連合学院の温泉宿に養生に行くこととなった。

 

 

 その街はよく手入れされた杉林を抜けた先にあった。平屋の立ち並んだ簡素な街は、断続的に人を見る。湿った冷風のサッと流れた時、私はようやく養生というものを現実に感じることが出来た。

 その街の中央、どっかりと構える温泉宿こそ私の目的地だった。

「このあたり、たまに養生にいらっしゃる方々がいるのですよ。何分都会の喧騒からは離れておりますからねぇ」

 雀の女将はそう言って私に鍵を渡す。

「ええ、私もそんな口です。今日からお世話になります」

「ええ、十二分にお金は貰っておりますから、サァビスも十二分にさせていただきますね」

 そう言って雀の女将はニコッと笑う。それを背に私は自分の部屋へ行くのだった。

 

 

 高級な庭付きの和の部屋に着くと、雨脚がその庭を白く染めて、凄まじい勢いで私を取り囲んだ。私はちょっと座椅子に座って、ただひたすらに眺める。雨の日こそ、和の様式がよりなじんで行くのだろうか。

 とりわけ、濡れる木の葉、控えめな室内の光を映して、揺らめく意識を呼ぶ。葉に雫が砕け、梢を揺らし、ぱちぱちと音のするのが、心の中に響いて行く。

 突然思い立って、畳んであった浴衣をもって、露天風呂へつかりに行った。しかしそこにあるのは松の木で、雨音はジャバジャバと。私はひとまず湯につかって、脱力して、泥のようになった後に、浴衣を着てふらふらと部屋へ戻っていった。

 

 

「おや、先生。遅かったね。少しタオルを借りているよ」

 部屋の中にはセイアがいた。彼女は濡れている。今来たばかりか、服すら変えていない。私はクローゼットからもっとも小さいサイズの浴衣を出して、セイアの前に差し出した。彼女はタオルを隔てて受け取って、洗面の部屋に入って戸を閉めた。ガサゴソとしてしばらくたつ。

「先生、ちょっと来てくれないか?」

 そんな声がして戸を開けると、浴衣に着替えたけれども、まだ髪が艶と光るセイアがいた。

「少し難儀してね、すまないが髪を乾かしてくれないか」

 奔放にして雲髪とした長髪はしとしと鳴りを潜めて、濡れて締まって重みのあるそれをうなじの生え際からさっと撫でる。手の平にじんわりと湿りがにじむ。私はすでにコンセントにつないであるドライヤーをもって電源をつけた。垂れ下がった髪を何度も温風に当てて、私はだんだん乾いてくる髪に手を櫛として絡ませながら、サラサラほどいて乾かして行く。次第に雲髪が戻ってくる。次は頭のてっぺんから前髪、もみあげを吹いて乾かす。

「ありがとう、先生。やはり一人ではこの長い髪は難儀してしまってね」

 セイアの頬は心持ち紅潮して、優しく笑った。

 

 

 浴衣で一人、雨音響いて、優しい薄暗い照明が照らす。部屋はだんだん寒くなって、暖房はあるけれども、私は手を伸ばしはしなかった。

 セイアはと言うと、部屋に備え付けてある露天風呂の淵に座って足だけつかり、気持ちよさそうに歌っている。というのは、私が暖房をつけないためであろう。彼女の歌は雨音を遮りはしなかった。雨粒が葉に砕けるのを彼女の歌は邪魔しなかった。

『風流は寒きものなり』

 という言葉がある。私は眺めている立場に居ながら、あえて不便を受け入れ、染み入らせていた。彼女の歌にもまた遮るのなく染み入っていった。で、ありながら私はカバンからこっそり持ってきたノートパソコンを取り出そうとする。とその前に、シッテムの箱を裏返しに置く。そして荷物を開くと、そこにノートパソコンはなかった。

「しまったな」

 そう思ってカバンを置く、敢えてしたようにカバンは少し濡れていた。私は咎めようと思わなかった。

「先生……いうことを聞かない獣には、時として厳しい態度を取らなければならない。そう思はないか?」

 セイアは蠱惑的含蓄の笑いを向けて、どこに隠しておいたか、いつの間にか持っていたノートパソコンを机の上に置いた。

「これ……何かわかるかい」

「仕事用だよ」

「約束は……覚えているかい」

「うん」

 私は毅然と答えた。セイアのため息が響く。

「願いとは…春の夢のようだね。覚める、また覚める。蓋(けだ)しその行為は空しいように思える。もう良い時間の無駄だというといえども、私は見捨てることなどあるまいよ」

 いつの間にかセイアは柔らかな雰囲気となった。

「私の仕事のする理由はまだはっきりとしていないんだ」

 私は突然に告白したくなった。

「それは恐ろしいことだね」

 セイアは神妙な顔つきで、まっすぐと目、背、首筋、とても自然で、佳人と化した。

「ぼんやりとしている。もしかしたらこの後君は私の生活を調べ上げて、死の近さであったり、近しい過去の失敗のふがいなさであったり、また何かの精神的苦痛であったり、私さえ知らない不安を調べあげるかもしれない。もちろんそれも多分に含まれている。けれどどれか一つというわけではないんだ。私の心の中はるつぼとなって、ぼんやりとして、もはや何のために何をやっているのかさえ分からないんだ」

 必死の吐露を黙って聞く、佳人は強く座して、冷たい私の手を握った。何も言わない空白に、私の頭は良く動いて、それを吐いて捨てるのに苦心、目の前の事にどうすることも出来なかった。

「一つ一つ、解剖して行こう。今日は休む時だから、ゆっくり眠っていくべきだ。眠るためにはそれを理解して取り除くべきだと思う。だけれども、それに焦る必要はない。ゆっくりだらだらというのに必死さが絡んではいけないから」

 微笑みは、果てしなく穏やかなるもののように、落ち着きを呼んで、一先ず今は仕事から離れられる。

「今日は一日中居るの?」

「うん、今日は私だね」

 セイアは優しく頷いて答えた。と、一瞬間に震えが体に走って、がちがちと音がして、粒々とした肌は白くなって冷たい。

「おや、先生。日も静まって来たからね」

 そう言ってセイアは寄り添ってきた。風呂に入ればいいことだが、無下にするわけにもいかず、誰かに見られても都合が悪い。

「大丈夫だよ、呼ばない限り来ることはない。そういう風にしてあるからね」

 それが本当かどうかはわからない。金があるだけに、どうとでもできそうだ。

「なら、もう少しだけこうしておこうかな」

 私はセイアに仕返しのつもりで、案の定セイアは赤くなって、ただ今更引けないのか、離れることはなかった。

「ぬくいぬくい」

 しみじみ、感じるのだった。

 その後二人とも腹の虫が鳴って、夕食を用意してもらってその部屋に向かう、楽しみながらそれを食べて、戻ってくると一つだけ布団が敷いてあった。

「こ、今度から二つ用意してもらうように言っておこうかな」

 背筋に冷や汗がたらり、セイアは私と顔を合わせない。

「先生……今日は暖房を付けなくてもよさそうだね」

 顔を合わせないままセイアは言った。『風流は寒きものなり』寒きとは不便の比喩である。不便さえ受け入れ、余裕を持つ。その時ようやく雅や趣というのが強調される。しかし『寒き』があってより良いと言えるのは何も風流というわけではないと思った。

 

 

 その晩、皆寝静まった頃、私は途中で起きてしまった。心中の喧騒甚だしく、頭ぐるぐるとして、目に、体に、眠気が残っても全く眠れない。傍のセイアは私に結合するばかりに身を寄せて眠っていた。私はカーテンの開け放たれた庭から、床を這う月光を見つめた。

「ああ……あああ」

 と眠れる彼女は呻き始める。

「うなされているの、どんな夢を見ているの?」

 彼女の脳の深く深くあるところに私は興味を惹かれて、話しかけてみれば口を開かない。

「ううん…ああ」

 私の声がなくなってしばらく経つと彼女はまた呻き始める。そして次は何かにもがくように手足を動かし始めた。まるで会話しているような彼女の姿に私は強く魅せられてしまうのだった。

 起きている時とはずっと違う。駄目だ駄目だと心で怒鳴っても、汗だくで豊艶とした肉付きに苦しむ顔をつけて、次第に私の背徳を排斥し始め、代わりによくない官能と言えるものを刺激して。

 私はついに彼女の月光の下に伸び縮みする蛭(ひる)のように小さくしっとりと乗る唇にそっと触れる。指先はしびれるようだった。体は震えるようだった。

 瞬間、彼女の口は大きく開いて、指が口の中に入ろうかという時、ゾッと背が張って、指を引き戻すと、月光に指先のしめりが怪しく光るのだった。

「ご、ごめん」

 私は思わずそう口にした。怪しい輝きは、良い先生、尊敬する先生という名の私を強く照らし出して、そのしめりの艶を覗き込んでいた。

「ああ、やめてくれ。私、私を」

 とうとうセイアは尋常でないほどうなされて、私を布団から押しのけられようとするほどだった。

 鬼気迫るようなものが胸の底からせりあがって、私は彼女の背を右手で抱えてゆっくりと揺らし、袖で額や頬に浮き出る汗を拭いた。

「大丈夫、大丈夫」

 心の底に沈み込むように、低く、しかしゆっくり言うと、次第にセイアは落ち着き始めた。

 汗に濡れて、なおも清潔なセイアの顔は、静寂閑雅沁み込んで、見れば見るほど浸かっていく、そんな心持。

 セイアを丁重に戻して、私も布団に入る。心中はもはや呼吸の音しか響かない。

 

 

「それじゃあ…………また」

 セイアは私の右手の指を両手で包み込んで間に沈黙を置きながら言った。私の人差し指は彼女の質感にしめっていた。しばらくは忘れられそうもなかった。

 

 

 

 

 

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