曇天は切り開かれて ブルアカ短編集   作:清水竣成

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休息のひとときの至宝 2

 別れからしばらく経っても、私は寂しくなかった。発病の憂いもなかった。

「お待たせ、先生。今日は私だよ~」

顔にいっぱいの笑顔を浮かべた、彼女の肢体とショーとマントは、喜ぶようにひらひら舞って、私と近くなっていく。

「お姫様、いかがいたしましたか」

 微笑んでそう言うと、「えへへ」と笑った彼女は私の手を取った。

「今日は私が案内するから、ついて来て」

 そうして宿を連れ出された。林に入り、雨上がりの森のにおいをかぎながら、木漏れ日が時々まぶしい砂利道を、抜ければ湖だった。周辺は公園があった。

「なにしよっか?」

 笑顔のミカは天真爛漫自然に纏わらせて、ふわふわとして、ただの少女たる一人だった。

「あ、先生」

 私はミカの左の手を右の手で包んで歩き始めた。湖の外周は散歩に都合がいい。

「先生って、結構ずるいよね」

 彼女は顔を赤らめて、ほっぺを少しぷくっとさせた。

「あいまいでダラダラした関係程、長く続いて行くものなんだ。だからずるくするんだよ」

「先生も?」

「え……」

「先生の悩みもそうなの、ほら、あいまいでダラダラってこと」

 立ち止まって、考えてみた。最初になんとはなしに浮かんだ不安は、確かに正体の解っていることだった。しかしだらだらと何の悪いことも良いこともなく、ただ責任というものを果たしていくうちに、不安だけが残ってしまった。

 これは忘れるほどに昔感じた不安。

「ちょっと先生、考えこんじゃダメだよ。ほら、お散歩しよ」

 ミカは笑って手を引いてくれる。私は現実に引き戻されるような気がした。もどかしい気がしても、私はなんだか心地よい感じがした。どうせ忘れるならば、不安さえも忘れてしまえばよいのにと思った。

「今日は晴れてよかったね~昨日はどうなっちゃうかと思ったよぉ」

 ほのぼの笑い、ゆったり歩く、豊艶の人は今私の手を引きながら歩いている。ぬるい風が顔にあたりつつ、私は周りの景色見ている。

「そんなにうれしいの?」

「うん、先生が楽しいことが、私にも楽しいから」

 ミカはこちらが楽しくなるほど笑顔だった。

「静かでいいところだね、ここ」

 ミカと手を繋ぎながら私は言った。湖は涼しくなるほど透明で小さな波一つ立たない。そんなことだから、何か乱したくなって、水切りをしたくなった。よく跳ねるように、できるだけ水平に石を投げた。それは一度も跳ねることなく、丁度跳び上がった魚の頭に直撃した。エラの辺りだったのかもしれない。魚は浮き上がって、湖にじんわり血が広がっていく。もう魚は動かない。

「あ……あ」

 その時私の考えに浮かんで来たのは殺生への、罪悪感でも、喜びでも、怒りでも、悲しみでもなかった。まして弁明でもなかった。ただ私が死んで、そのあとは大抵こうであろう。そんなことだった。

「ミカ、私はあれと何の違いがあるんだろう」

 私はふと聞いてみた。彼女に困ったような顔が浮かぶ。

「ごめん、意地悪な言い方だったね。たまたま死ななかった私と、たまたま死んでしまったあの魚。本当ならとっくの昔にあの魚のように――」

 そこまで言ったところでミカに口をふさがれた。真摯な顔尾をこちらに向け、私の目をずっと見つめてくる。

「先生、ダメだよ!ダメだよ!」

 ミカは必死にそう言った。もはや泣き出さんばかりの顔は心ここに在らずとして、ただじっと私は彼女の顔を見つめた。

「ありがとう、ありがとう」

 私は感謝する、そうしなければならない気がした。微笑む、そんな私に満足したのか、ミカは私の手を引き一歩を出そうとする。

「あ!あそこ」

 うつむいていた私は上を指差す彼女の清潔な指を追いかけて、そこにいたのは鳥だった。青い鳥が今羽ばたいている。

 

 

 談笑して歩いていれば、いつの間にか目の前にはイノシシの親子がいた。驚きつつも私はウリボウに自分をなぜか重ねていた。

 私はこの柔らかさを持ったまま、この世に放り出された。世界はずっと危険だった。それを守る親を見てみると無性に愛おしい。

「―――!」

 母イノシシは非常に気性が荒くなった。荒々しい興奮を肌で感じた。しかし不思議と恐ろしくはない。

「ごめんね、驚かせちゃって。すぐに立ち去るから落ち着いてくれないかな。あなたにも守りたいものがあるでしょう?」

 ミカは、幼くも母を宿し、私をかばいつつイノシシにそう言った。そして立ち去る。もうあのイノシシの興奮を肌で感じることはなかった。

 宿へ帰っているころ。

「ミカ、ありがとう。守ってくれて、守りたいって言ってくれて」

「え、良いよ。私がやりたかったことだし、思ってたことだし。それにね、むしろどんどん助けたいな~って思ってたり?」

 彼女は両手の指を一本ずつ交差させて、頬を紅潮させた。周りは伽藍(がらん)となって、周りに纏(まつ)わっている。

「どうして。私は君を守るのは当然のことだ、大人が子供を守るのはね。けれど君に当然というものはないんだよ」

「当然って言ってくれるからかな、嬉しくさせてくれるからかな。でもね、一つ言えることは、先生が大事って思ってくれている分、私も大事って思ってるの。ほかのみんなもそうなんじゃないかな?」

 陽光に照らされる彼女の髪は少しの反射を伴って、光を散らしている。その長髪と笑顔とが一体となって、華と明るく、心を抱擁、そんな明るく前向きな君の、そうなった感動が私を包んで、また私のこれまでの道程が今化身となって見えているようで、泣きたくなるほど美しいのだった。

 次第に、自らのぼんやりから飛び出した一つの物が、浮かんでいる。明晰としたそれは死なるものへの恐れ。亡霊が張り付いていたように、ずっと語り掛けてきていた。しかしそれと遠い者へ、まめまめしく世話をするほど、そこへ目が行くことは無くなって、いつの間にか見失って行った。

 彼女はよく笑いかけて、しゃべりかけて、そうした日常の喜びがつまったもの、それはおひさまの光として柔らかい。しかしあらゆるものを退ける強さを秘めている、それは私が導いた成果で。いつの間にか近くにあったものが遠ざかっていた、遠ざかって初めて分かった。

 私は彼女にしみじみ祈りたくなった、過去の私にも。

 

 

 その後はほのぼの過ごした。ただの日常で、それがたまらなく楽しくって、時間は瞬く間に過ぎて行った。そして就寝の時になった。そんな時の夢。

 それは私の死から始まる。明晰とせず、恐ろしくはなく無性に悲しい。周りはぼんやりとしていつつも普段と変わりない町の様子であろう。自分の死んだという傷は見えなくても、なぜか自分は死んでいるとわかった。

 重い重い体、その中で、眼球に力をを入れて、動かしてみると、生徒たちは号泣していた。顔はぼんやりとしていても知っている顔だとわかった。それが無性に悲しいのだった。

 やがて視界が暗くなっていく、とともに凄まじい痛みが全身を襲い始めた。すると突然、薄暗い天井で目が覚めた。

「う!は……は……、はぁーはぁー」

 夢の中から覚めても、そこから地続きのように痛みが続いている。私はもう一度眠るのが恐ろしくて、震え始めて、震えは私の眠気を吹き飛ばして、次第に周りさえ恐ろしい気配を帯び始めた。私は目をつむっても、良く冴えて眠れそうもない。

「気づけても、遠ざけても、放してはくれないんだ。逃がしてはくれないんだ。自分を守ってくれる存在がいても、それがいなくなってしまえば、また近くなってしまうんだ」

 布団から顔を出して、少し起き上がって、恐怖を拭い去ろうとした。心臓は痛いほど速く脈打っている。

 月光は雲に隠れて、虫の音(ね)、風声、寝息、心臓の音は速く、外の電灯だけが、薄く光をつたえて、辺りはぼぉっと物の形が見えるばかり。ふと気になって、首だけ起こして庭を見れば、陰影の中に形だけ見える木々が、見も慣れぬ怪物のごとく、殺伐と佇んでいる。一方は広葉を存分に生かし、見る者を射殺すような迫力がある。また一方は針葉だけれども、妖(あやかし)の老人であって、凍りつくような気配を漂わせる。

「う、ううう」

 とうとう風は強くなって、家は軽くきしみだして、何かに取り囲まれているようだった。一心不乱、私はミカの左手を手繰り寄せて、それに祈った。

「先生、眠れないの?」

 眠気の取れないとろんとした声で、そう語りかけるのが、寝返りを打って、私の方へ向いた。花の香りが包む。私は豊艶とした肉付きの体へ一瞬間に寄せた、人という人の、女という女を強く感じないではいられなかった。

「大丈夫~大丈夫」

 おそらく酩酊の中。ミカは右手を私の背中へ回す。余裕が付いた、抱擁それだけであったけれども。私はこれ以上ないほどすぐに、深く眠りにつけた。

 

 

 翌朝私はミカよりいち早く起きた。彼女は一晩中私を片腕で抱擁していた。その安心感の下、私はもう一度寝ようとした。

「あ、先生……!ご、ごめん、直ぐに――」

 と慌てた様、私は唇に指をあてた。夜の希望であった、彼女に何かいい物をあげなければと思った。

「ミカ、ありがとう。これはその、気持ちだから」

 唇はしっとりとして指につく、そこから指を離して、そのまま布団から起き上がった。そこから備え付けの脱衣所に入って、服を着替えて歯を磨いた。戻るとミカはまだ固まって、人差し指を自分の唇につけている。

「ミカ、ミカ、そろそろ戻ってきて」

「だ、だって先生が……」

 そう言ってゆっくり立ち上がったミカは、ゆっくりと私と同じことをして、その後は彼女の寝癖を直してあげた。

「あ、ありがと、先生。じゃあまたね」

 そそくさと帰っていくミカの純粋が愛おしかった。そして遠くいく彼女の影を見えなくなるまで追っていた。

 

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