早朝が過ぎて、いよいよ昼に差し掛かろうというのどかな頃。猛風が白雲を吹き飛ばしながら、激しく窓を揺らした。その中「がさり」と一匹、何かが庭の草木に墜落した。
私は立ち上がって窓際に立つ。梢の隙間に見える褐色のそれは、平たく寝そべってまだ動きそうもなかった。
どうしたものかと庭のほうに歩いた時、
「先生」
と呼ぶものがいる。窓にうっすらと人影が映った。
「やっぱり来ると思っていたよ」
私は振り向かずに答えた。近づいてくる足音の主は斜光に入って露になる。その容姿眼底に痛く刺さる、花顔玉容にしてよく手入れされた清流たる亜麻の艶髪、すっとなびいて私の横に並び立った。
「待っていてくれたんですか?」
彼女はいかなる顔だろうか、窓の不出来な鏡には表情の機微は欠落していた。私はそれにじっと目を凝らして見る。
「ナギサ……ありがとう」
ぼんやりと映った不出来な鏡の世界に生々しい指がスルスルと這って、遂に縁へ到達すればゆっくりと開け放たれてゆく。風に目が乾くのに耐えかねた私が大きく瞬きをしながらナギサの方を向くと、激流となった髪が、激しく乱れて部屋の中へせめぎこんだ。
「お礼を言われるほどのことでは……。それはそれとして先生、今日はいかがなさいますか?」
ここに於いてようやくナギサと目が合った。ともに頬をじりじりと焼かれる。ふっと右手を額に当てて、急いできてくれたか、いきれに指が潤っていく。頬に火照りがぼうっと浮かぶ。ゆっくりと開眼する瞳の鏡に私を見ると、どうやっても自分と思えない。
「先生――」
「ごめん!……なんとなく、こうしたくて」
私はさっと手を放して下げようとする半ば、手を捕まれた。
「別に怒っているわけではありませんよ、真意が知りたかっただけです。もし悪い気にさせてしまったのならすみません。ただでさえ先生には休息が必要なのに」
ナギサの顔は俯いたことにより暗く影が刺して、重々しい空気が漂って、私は握られた手を強く握り返した。すると驚いたであろうナギサが強張る。私は見開かれたその目を射るようにまっすぐ見つめた。さらに固くなったナギサの、頬に汗が静かに伝う。
「そんなに肩の力を入れないでほしいな。私は小心者だから、目の前の人が、それも自分を今まさに助けようとする人が、そんな切羽詰まったようだと、心が安まらないよ」
私は微笑んで彼女に語り掛けると、弱い風が私たち二人をやさしく撫でた。絡み合った手は力の無くなっていくに伴い、滑らかに解けて行った。
「ふふふ、そうですか。ですけれど先生は小心者ではありませんよ」
ナギサは弱風に無抵抗でなよなよと揺らめいて、私はそんな彼女に手を伸ばしたけれども、触れることもなく手をまた下げた。
小鳥は立ち上がっただろうか、眠ったままだろうか。そう思って庭の草木の方をじっと見た。じっと見れば褐色が見つかる。さらにじっと見れば小鳥であって、しっかりと立っていた。庭に出てみると小鳥は飛び立ってしまった。
「空を羽ばたくものは、墜落することを考えないのかな。落ちた時も、また落ちることを考えないかもしれない。だから見下ろし続けるのか」
ふっと浮かんだ思い、知らず知らずのうちに私の口から漏れ出ていたようで。
「おそらく知り続けないのでしょう。そういう生き方は我々にはできません。見てしまうのですもの」
ナギサは微笑んだ。彼女は飛び立った小鳥をずっと見ていた。まっすぐまっすぐ見ていた。
「良ければナギサの持っているもの、何か一つ、貸してもらえないかな」
すると彼女は微笑して、私の右手を両手で包み込んだ。掌に人間の生暖かさが降りかかる。あるのは彼女の胸元の黒いリボンだった。
宿の玄関を抜けて街道を行く、古風な街並みの血脈たるアスファルトは晴天の下熱を跳ね返す。
「こりゃあ暑い。もう春は終わったのかな」
「まだ六月ですが、もう六月と言うようになってしまうのでしょうか。まだ六月、そう言えるのが続いてほしいものです」
ナギサは遥か遠くを見るような顔をした。陽光とアスファルトの熱気に彼女は一層輝き、上品なるものの風体は一切の乱れもない。
「変わらないね、君は。いや、変わらない人間はいないけれども。実際君は何度も心変わりというものをしているけれども。魂の格というものかな。君の気品というものは眩しいくらいだよ。私というものは、目まぐるしく変わる敵に流される弱さに。程度の低い、格の低い、精神を感じる」
「先生は、善なるものの、崇高なるものの、その選択ばかりを選んだ人を見たことがありますか?理想郷を、見たことがありますか?」
言う声は遠近(おちこち)に響いた。
「私は思うことすらできそうにないんだ」
温風に彼女の亜麻の匂い漂う、家々を数えながら進む道。鷹揚に歩む人を連れて当てなく歩くこともついに限界が訪れ、何処(いずこ)から彷徨い出る風鈴の音、惹かれて或る茶屋に入る。夏向き風情が一足先にきた古風な茶屋は、閑散として薄暗い。
「さあ、先に」
私が座布団に腰かけると、ナギサは茶と茶菓子を頼んだ。沈黙が間に入って重々しく感じても、私は息ばかり吐いた。
「陰に入るだけでかなり違いますね」
腰掛け向いては話しかける。ここは屋根と柱だけで風を遮らず、空気は湿っていない。
まめまめしく世話するものが、距離を忘れて私に触れる。にべもなく遠くの山を見て茶をすすった。重なる峰の白んだ森林のぼうっと佇むさま、じっと見つめては心をどこかにやった私は、ナギサの手が私の額に触れて引き戻された。
「あ、すみません。体調に異常があるのかと」
透き通った声の屋根に当たる響きは柔らかく。涼しい微風が漂う。人の往来が増えてきた昼時、茶屋の利用者もだんだんと増えてきた。彼女は今どのような顔をしているだろうか。
「お待たせいたしました」
私は置かれた緑茶をひっつかんで流し込み。茶菓子はナギサの近くに置いた。
「あら、どうしたんですか?」
「乱暴に食うものじゃない」
「茶は乱暴にしてもいいと?」
「喉が渇いた」
「ならもっと頼みましょうか?」
「潤った」
「お腹はすいておられないと」
「どうだろうね」
「答えてばかりですよ、私は聞いてばかり。先生がわかりません、私はわかりません。どうしたらよいのですか?今に於いてはその懇願はおかしなことですけれど、」
「解らなくていいんだ、知らなくていいんだ」
「…そうですか」
哀しくなるほど沈んだ声、そのまま暗く重くのしかかっていくような。彼女なゆっくり味わうように茶を飲み、茶菓子を食べた。
「そろそろ戻りますか」
ナギサは立ち上がって日差しに向かって歩き始めた、私はその背を眺める。
「馬鹿だ、馬鹿だよ。見れもしない、触れもしない」
私はポケットの中のたたんだリボンを静かに取り出して、鳩尾の前で握る。清矑(せいろ)に映る存在をみとめつつ、日下眩むほどの彼女に目を細め、見つめることをやめはしなかった。
続くは晴天の下店を回ってともに行く、少しの食事を求めても胃袋はただ静まって何かを伝えることもない。空きも膨れも曖昧な腹、顔に現れた私を見ても、に、ナギサは何も同様知らず。
町の喧騒甚だしく土産物屋も盛況に、長い列の間を縫うて視線を通す。その先の商品棚の上、ぽつりと座る小さな鈴が三つある。買い物を楽しむナギサに隠れて購入、笑顔の彼女は「いいものが買えた」と戻って来て見せる。つられて笑って見せた。
笑っていること、それがこのまぶしい彼女のための答えと願う。握りしめたリボンは手について離れそうもない。
夜中宿にて、風呂上りにまだ熱を放つ上気した身体(からだ)は心までを弾ませ、私はナギサの持ってきていた荷物を物色、その中に書類の束がある。私はそれを見て上気の酔いも醒めてしまった。
「先生、先に上がっていましたか」
私の眼前にあり気高くも優しく見つめる、彼女のその瞳の奥にある、磨かれた純粋の美を艶と輝かせながら、はっきりと見える姿形。
「あら、見つかってしまいましたか」
ナギサは薄く笑う、ただ私を見下ろす。少し乱れた浴衣が体を覆い、若干の湿り気を帯びる髪が、頭から首、背中にかけて、静かに纏わっている。春らしからぬ蒸し暑さに冷房をつけて、柔らかな照明に照らされる和室。その涼やかな畳の上をとんとん歩いて、
「いけないことですけれど、いけないとわかっていたらこっそりと持っていきたくなったのです」
と言ってナギサは私の横に正座した。
「やるなと言われちゃあ、やりたくなるね。童心に帰るのも良い。誰にも言っちゃあ、ダメだよ」
私も持ってきていたパソコンを取り出し、机へと移動した。ナギサもまたついてきた。静寂に冷房の丁度よく設定された風が送られて、すらすらと進むその作業も一段落。
「先生は……」
呼ぶ声は小さな反響をもって私の胸の中に沈み込んだ。
「先生はどうしてそこまで傷ついて、ぼろぼろになって、そうなりながらも私たちに慈しみを忘れないのですか?」
「私が先生だからだよ」
冷房の風が当たった。
「そればかりですよ。先生は、そればかりです」
静かな声だった。月も星も雲に隠れた暗夜に部屋の明かりは一層輝いていた。
「それしかないからだよ。ああ、こりゃ困った。全く進まないね。それに疲れたかな」
私が疲労を提示すると、本当に疲れたように、はあっはあ、ととぎれとぎれの口呼吸が出始め、吐いた息は少し白んだ。
「……どうしたいのですか、先生」
私たちは電気を消して布団に入った。ディスプレイの光に目がまだチカチカして、眠りにつけそうもない。瞼の裏の断続的な光の中に、ナギサの最後の顔が映る。眉間にしわを寄せ、目を少し細め、力んでいる、そんな顔、見た私はすぐに目をそむけてしまった。
ゆっくりと目を開けると、暗がりにお互いの境界線はあいまいになって、距離というものの感じとれない私は、ジッと横になるばかり。しだいに体全体で張り詰めた肉の小さな反発を強く感じた。頭は近くにあるのだろうか、彼女はどこを向いているだろうか、何もわからない。
「枯れ木は枯れ木のままに、種子の養分となって、そこにあった痕跡さえなくなってしまうけれども、その種子が顧みれば確かにある、森は確かにあったことを知っている。その程度でいい。だけれどもね、その、種子と枯れ木の関係が逆転してはいけないんだよ」
呼吸に合わせて滑らかに言葉が躍り出た。
「それが理と言うのですね、あなたの。責任の重視を良しとすることは私は賛成です。しかし種の潰えることのなんと多いことでしょう。ことキヴォトスに於いていくつも見てきたはずです。十二分に特別なのです」
部屋は静寂に沈みつつ物の形のみはっきりと主張し、色は黒の濃淡ばかりが支配していた。その中心、陰に機微を感じる。
「買い被りだよ、私は何か特別の秘密があってやっているというわけではないんだ」
口から出たのはとぼけた口調で、私はそこからしっかりと閉口してしまった。
「先生は脆弱です。おおらかです。そして……――卑怯です」
私は沈黙とともに目を閉じた。暗い視界は暗いまま、腹部のあたりにぬくみを感じた。それはやさしく包み込まんとしている。その暖かみのまま夢現の境も感じず、気づけば朝陽の眩しさに目が覚めていた。療養最後の日、過ぎてしまえば仕事に戻る。私はナギサを起こさぬよう、丁重に体を動かしながら、布団から抜け出した。
「先生……もう起きられたのですか?」
ナギサはみだれ髪を床に広げたまま聞いた。