旅館に三人が集まってより、この街の見渡せる場所を求めて、山頂を見上げては上りたい。連れ立つ三人はうなずいて、早朝のまだ暑くはない時間を機とみて歩き出してみる。
「さすが、山に近づくにつれて涼しい」
つぶやくセイアの右肩に手の甲を当ててみると確かに冷たい。いつしか手の甲が頬に押し付けられて、右手のかわゆい、つるつるとしてしっとりとした指が絡みつく。しかし手を引けば容易に解ける。ちらりと顔を見れば、わずかばかり目と口を窄めた顔に名残惜しさを感じて、まだ弱い朝の陽ざしに艶と光る彼女の頬に触れていた手の甲に意識が縛られ、その残滓を追い続けているのだろうか。
「――――でね、ナギちゃん。聞いてる?」
「ええ、聞いていますよ、ミカさん。セイアさんも先生もこちらへ来て話に交じってください」
ミカとナギサは前を歩いて楽しげに話している。振り向きざま、白む山はまさに背後と言うところで無邪気な笑みが浮き上がった。苔むした石の鳥居に古びて削れた石段を上る、私の一寸前にはミカとナギサがいる、一寸後ろにはセイアがいる、囲む匂いは混ざり合って酩酊の中に沈むような気がしたけれども、下る風が乗せた若葉と土の薫るのがいちどきに吹きとばしてしまった。
「えーと、登山口は……あったよ」
「ああ、そこに。ちょっと休もうか、どっこい……いや」
ナギサはくつくつと笑って、
「いえ、少し、年寄りの様(さま)、それを隠すのがおかしく思いまして」
「いやはや、若いっていいねってのがすでに認めているようなもんだけど、変なところで意識してしまう。ハハ、まだまだだよ、思いたい思いたい」
笑いが移ってくつくつと階段の上開けた境内に響く。雲の混じった空の日は山に隠れて、見渡す山の端(は)は霞浅くわずかに光る。セイアは境内の碑文の長々と書かれた事柄を眺め、頭を悩ます。ミカは先の道を目でたどって今か今かと待っていたところ、
「二人して、何か面白いことがあった?」
てちてちというような音のなる気がした。ぼっちりした目に首を傾げた聞くものの答えを言わず、くつくつ笑うことは止まらない。
「いや、くっ、止まらない。どうもね、いや、馬鹿にしているわけじゃあない、笑いを見て笑う、奇妙なこだわりが笑いどころの始まりで、私は何か考えているわけじゃあないんだ」
「それじゃあ楽しいね。笑いしかなくってねって、面白いことの訳のない面白いに、何も考えなくて、笑って、でもやめようと思ったらやめれて」
音の止み微笑が浮くままのナギサは立ち上がって、
「しがらみのないのは健やかです」
と唯答えた。緑薫る深山の道はいよいよ明らむ、山の裾から端(は)へ吹き上がる風は怠りを諫むるよう、立ち上がってあたりを見ると垣根の根元に卯の花が並ぶ。少し寂れた神社に参ってさあ行こうというとき、どこだろうか鳥の羽ばたく音が響くと、心の中の何かを置いてきたような気がして、立ち止ると振り向いた、進んだ道は来た時より一層暗く見えた。三人は私の前を行く。
冷たい静寂(しじま)の薄暗い山の頂上が日と重なって、木々の間を抜ける光線は暖かく。その木の間を抜けつつ、山道の勾配が激しいことに息を切らして。先行する三人を見つめては口の端をほころばせると、息が漏れてハハッと笑う。
「先生、疲れたの?笑ったの?」
振り向いたミカが進みながら聞き、私はさらに笑うのだった。
「腰につけてる鈴の音が三者三様に、チリチリ鳴って楽しそうで、うれしくって」
笑いに震えて足も震えて、止まった私は三人に声をかけて近くの岩に腰かけた。セイアが私の汗を拭きはじめて目をつぶってみると、弱く、丁寧に、しかしもどかしいような焦燥を感じる愛撫に、指が意図せずピクリと跳ねると瞼も震える。それが無くなってただ空(くう)を感じるようになったころ、ふっと体が軽くなる。目を開けて広がる景色の中に布巾を握って上の空のセイアがいて、しかし軽くした主はいない。見渡せば私から荷物を取ったミカの、事も無げな顔が目に付く。持った荷物を土にもつけず、幼いお使いの様にかあいらしく重ね合わせた両手に下げている。ナギサは茶を取り出してカップに入れると、湯気の出るそれに向けて懸命に息を吹きかけていた、その湯気は上る道を大胆に逸らされながらもゆっくりと天に昇って霧散する。目で追うのも束の間差し出された茶は暑くもなく冷たくもなく、ただ自然の温度と言えた。その心遣い、どれもに礼の声が出てこなくて悪い。鈴の音は一つ止めばもう一つが鳴り、もう一つが止めばそのもう一つが鳴る。それが声ならぬ声のようすで、また耳から聞く彼女らのようすで、悪い悪いと気持ちの強くなる拍子に私は立ち上がった。と耳に、
『ここらを見渡せるところでしょうか?そりゃここからもすぐに見える山のてっぺんですよ。あすこには一つ小屋のような展望台がありましてね、草木も刈って手入れしてあるものですから、そりゃあいい眺めですよ』その奥に残った声が頭の中で再生されて頂上を見上げる。視界は一点を見つめたままぼんやりとしていく。たまにはこうやって疲れるのもいい。
「はい、もう進もう。急勾配で休んでたって仕様がない。先が見えているから、それを眺めてあと一息、と思えば進みたくなった」
茶を一飲み、荷物を持って歩き出せば、今度は私が前になる。コンクリートや石のとは違うふかふかとした道に足の裏は痛くならない。山の清浄な空気が肺の中で漂って、どこであろう水音のしらべがかすかに、樹上からホトトギスが来鳴きて響く、山の音はそのどれもが重く沈むように浸み込んでいった。
「セイアちゃんは大丈夫?支えてあげようか?」
「君はもう少し私への認識を改めさせる必要があるようだね」
「できるの?登りながら」
「登り切って降り切って、息も切れない試し事してみよう、君は今日のうちに気づける」
「へえ~覚えておくね」
「覚えられたらね」
「一言多いよ~。セイアちゃんも忘れないでね」
「忘れまいよ。友垣の一言一句、今昔(こんじゃく)の徒然なる日暮らし、現世のあらゆるをないがしろにしないと決めている。厭世は予言とともに消えて、今や私は私というものが残って、私は私のしたいことをする。道は好むところによって安し、ああ、安しだよ」
「覚えてるってこと?わかんないけど」
ミカはいたずらな笑みを浮かべて、
「簡単ってね。よーし。じゃあ頂上まで急ごう!」
「待ってくれたまえ。いや、待たなくてもいい。いいとも……いいとも。ただ私は山を楽しむのが先生と意図と思うがね」
「ふーん。ま、急ぐことでもないか」
思うがままを口にして、そこには二人の少女がいる。会話は山の澄み切っているように何も残らず。
「騒がしくってのびのびと、学生の本分だね」
笑顔と、足音と、山も空も静か、梢の擦れも止み、鳥は何処へ。いよいよ頂上に着くという昼前、雲が急激に空を覆って、静(しずか)の空の開けた山頂に凄まじい風雨が立ち込めた。
「展望台へ」
手で目をかばって齷齪(あくせく)しながら展望台へ駆け寄った。鈴を激しくかき鳴らしてべたりべたりと纏(まつ)わる雨雫を払おうかという激しい身振りで、その騒がしさを一顧だにせず私たちは息激しく心激しく。一瞬間に全身の濡れた三人のぬらぬらとした髪や服が体に纏わって、その降りかかった不幸がまざまざと漂う。
「とりあえずみんな何か拭くものを」
皆大きめのタオルを肩にかけていた。
「一先ずここから動けそうにありませんね、不幸でもありますが幸でもありましょう、山の天気は変わりやすいと言います」
つとめて冷静に話す彼女は誰とも目を合わせず、小さく木霊してきそうな声だった。
「ああ、そうだね。……鼻がムズムズする。少し、寒いね」
「大丈夫ですか?セイアさん。ミカさんも先生ももう少し寄り合ってみませんか?」
タオルを隔てて肩を擦りあい、私とナギサが外側へミカとセイアが内側に、私の隣はセイアである。
「喉が渇いたね、茶が、茶が飲みたい」
言う声は虚しく響いて、三人がどれだけ動こうと鈴はならず、声も出さず、頬を染めてうなだれるばかり。あたりは雨が葉や地面に落ちる音だけが、かまびすしく騒ぎ立てる。しかし心持ち弱くなったような気がする。
ただやっぱり私は、君たちが笑っているのが好きだ。沈黙に堪えかねて口を開いた時、やかましい、薄暗い、しかし静寂と言った景色は徐々に、静かで、明るい、しかしやかましい景色へと変わっていく。とすれば艶めく三人が外を向いた。
「ああ!晴れてきたよ!」
「行きましょう」
「行こうか」
三人は一斉に私の腕をつかんで同じ場所へ向かう。その時三様の鈴の音が一つの新たな音色に変わって、私は声を漏らした。もしこれを伝えれば、たちまち鈴の音の気まぐれな一体は消え去ってしまうだろう。風とともに雨は去って雲もいない。雨の名残無き空と、有って輝く自然の縁取りに三人が映った時、ひとときの至宝が心の奥に転げ落ちて、もはや取れなくなってしまったのである。もし彼女らが災難から心が曇り、すべてが信じられなくなり、もはや晴れなど来ないと思ったとき、この瞬間を思い出すことができないのがとても惜しく感じる。しかし私はこの鈴の音のいたずらを忘れないだろう。
誘いの乗るまま見下ろす町は、霞降(ふ)りて陽光照らしてにおい淡く。あるいは帰る道に於いても……。