呪物語   作:マクガフィン

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ひたぎグラビティ

 

 

 001

 

 

 

 重し蟹

 

 

 人の想いを、人の重さごと持ち去ってしまう怪異。

 

 ええ、知っています。

 

 かつて戦場ヶ原さんが、行き遭って、その結果、阿良々木君と巡り逢って……云々。

 

 血迷って、いえ、迷っていたなんて言い訳ですね。兎に角、あの頃の私は、妄想に浸っていた私は、不遜にも蛇じゃなくて、蟹に憑かれたかったなぁ、なんて数え切れないくらい考えたことはありますとも。

 

 順番さえ違えば、そう願ったことがありますとも。

 

 思い人と再会した時にはもうゲームオーバー。ラブもコメディも全て席が埋まっていました。

 

 これが年単位、せめて月単位なら、ショックは大きかったでしょうけど、子供にとっては重すぎる時間の重さに潰されることが叶いました。

 

 

 しかし、───ひと月でした。

 

 

 厳密には一ヶ月と3日。

 

 阿良々木さんと戦場ヶ原さんが出会った日と、私が彼と再会した日の隔たりです。

 

 狂いそうになりました。いえ、実際に狂いましたとも。

 

 今にしてみれば、順番なんて関係なくって、彼と彼女はそうなるべくして惹かれあったお似合いのお二人だと、そう思います。

 

 しかし、当時の私にしてみれば、それどころではありません。

 

 たった一ヶ月、たった35日、たった840時間。

 

 その差で、こう書くと軽く思えてしまうこの差で、数年間溜め込んできた恋心を、重い想いを捨てなければならなくなったのですから。

 

 ですから、蟹に、重し蟹に憑かれたかったなぁ、と思うこともいつかはあったのです。

 

 

 002

 

 

「登録済みの特級呪霊『重し蟹』の被害が確認された。ここまでなら特段問題視することでは無いが……、今回は被害の数と質が尋常じゃない。重さを切り取られた者の体重は1mgまで減少、同時に記憶……この場合は"想い"と述べる方が適切か。兎に角、それも廃人化、もしくは昏睡状態に陥るレベルで奪われている。その被害が複数人、同時多発的にだ。お前たちの任務はこの被害に関して調査すること、そして原因となった特級呪霊『重し蟹』を祓い切る事である」

 

 夜蛾先生からの任務説明。

 

 7月下旬、私達に新たな任務が言い渡されたのです。

 

 相手は、色々と因縁の怪異でした。

 

「あのカニ、無害じゃなかったっけ。人のトラウマ持ってくだけの。副作用で体重持っていかれて、健康診断の結果がバグるくらいが最大の被害っしょ」

 

 いや、どう見積もっても体重5kgは洒落にならないと思うのですが。

 

 ひょっとすると、私が知っている例はかなり極端な場合なだけで、本来は数kg単位の被害しか無いような怪異なのかもしれません。

 

「おや?無害なのに特級とは妙な話だね、悟」

 

「今更んなこと聞く?"登録済み"の"特級"自体が妙な概念だって気づけよ、傑」

 

「───なるほど、被害規模が、祓う労力と釣り合っていないのか」

 

「???」

 

 今更でいいので、さらに教えてほしいです。さっぱり分かりません。

 

「ふつー、特級呪霊が出たら1にも2にも祓うでしょ。それを登録だけしてほっとく"登録済みの特級呪霊"っていう概念に疑問を持て、って五条は言ってる」

 

「あっ、確かに。ありがとう、硝子ちゃん」

 

 だとすると、登録して放っておく場合にはいくつかケースが考えられますね。

 

 一つ目は、単純に倒せない、倒し切れないパターン。

 強さだったり、不死性だったり、倒す事でより面倒が起こったり。

 

 これは、特級ではありませんが月火ちゃんが該当しますね。不死身相手に暖簾に腕押しする程、業界は暇ではありません。おまけに阿良々木家や彼らを取り巻く人々を相手にするとなると……手を出す意味は皆無に等しいです。

 

 二つ目は、倒し方が分からないパターン。

 

 あの有名な『トイレの花子さん』がこのパターンに該当するのでしょう。特定状況の相手にだけ発生して、こちらからのアプローチが不可能なパターンです。

 

 そして三つ目。

 

 倒そうと思えば、なんとか倒せなくも無いかもしれないけど、労力に釣り合う程の被害も出ていないし、被害に釣り合わない犠牲が予想されるから放っておくパターン。

 

 現在の忍ちゃん、そして今回の『重し蟹』が該当していました。

 

 このパターンに限っては、単純な業界の怠惰であり、汚い贔屓であると言ってしまえる、罵られる側面がありますとも。

 

 釣り合わないだけで、被害は出ています。故に被害者がいますから。

 

 被害者の方々からすれば、被害を身勝手に過小評価されて業界から見放されたも同然。

 

 非難の一つでも飛ばしたくもなりますよ。

 

「被害地域は新潟県上越市……撫子は土地勘があるだろう。現地を他の奴らに案内してくれると助かる」

 

「あ"」 

 

 反射的に、変な声が喉の奥から漏れてしまいました。

 

「おっ、撫子の故郷じゃん」

 

「武勇伝の一つや二つ発掘したいところだね」

 

「美味しいもの教えて〜」

 

 ええ、新潟県上越市───直江津。

 

 私のざっくばらんとしたかつての住所です。まさか、こんなに早く帰る事になるとは……漫画家として大成するまでは故郷の土は踏まない、と縛った訳ではないですが、それくらいの気概を持って飛び出した分、ノコノコと出戻るのは些か気恥ずかしいというものです。

 

 

 003

 

 

 それなりに遠く、長かったと記憶している故郷への家路は、十数分の時間、その程度の隔たりしかありませんでした。

 

「いやぁ、便利だね。『虹龍』」

 

「単純に自家用ジェットだもんな。俺の実家も流石にジェット機までは持ってねぇわ」

 

「買うお金はありそうだけど、使わなさそうだもんね〜。あの感じの人達って、海外とか絶対いかないでしょ」

 

 空港どころか、駅すら経由しない移動は、便利なんてレベルではありません。

 

 今回はその利便性が仇となった形ですが。どうやっても気持ちの準備が間に合いません。どこでもドアが当たり前の未来の世界には、こんな憂鬱が蔓延っているのでしょうか?

 

 そう思考したところで、現実は変わりません。

 

「帰ってきて、しまった……」

 

 見覚えのある景色、見覚えのある空気、見覚えのある人々。

 

 置いてきたしがらみが、ネチネチと絡みついてくるのを感じます。ここを離れたとき程は重く感じないのは、既にここが私の中で殆ど過去になってしまったからでしょうか。それはそれで、自身の薄情さ加減に思うところはありますが、後回しで良いでしょう。

 

 兎に角、思っていたよりは身軽ですので、そのまま軽くお仕事を済ませて東京に帰りましょう。

 

「この街、やべーな。完全に呪力や陰気のエアスポットになってやがる。今は上手い事処置して落ち着いてるけど、それでも強い呪霊の発生率は他の比じゃ無いだろ」

 

「あー、うん。らしいね。臥煙さんもこの街の平定には苦心していたし」

 

 業界人として舞い戻ってきて、再び相対したこの街の評価は、爆薬庫といった具合です。

 

 莫大な呪力を土地自体が溜め込んでいて、土地自体の特色として蝿頭のような雑多な弱い呪いが生まれにくく、呪力は比較的強力な怪異として排出されて、おまけに外部から強い呪いを招聘しやすい。

 

 業界からの扱いは、アンタッチャブル。完全な禁足地扱いです。まさか地元が禁足地呼ばわりされているとは……と知った時にはそれなりにショックでしたが、東京で三ヶ月仕事をしていて、禁足地呼ばわりもやむなしと思える視点も得ましたとも。

 

 この街では、常に怪異事が起こりますから。

 

 入れ替わり立ち替わり。

 

 丁寧に、順番に出てくるのです。

 

 故に、倒しても、祓っても、解決しても、次が来ます。

 

 次があります。

 

 永遠に終わる事がありません。

 

 纏めて来てくれれば、五条君や夏油君のような戦闘力の高い術師による一掃が出来るのですが、必ずダブらず順番に出てくるので、能力に依らず時間が盗られます。

 

 仕事が無くならないのは業界的には良い事ですが、仕事をする意味が無いのはよろしくありません。

 

 この街にどれだけ労力をかけても、この街に怪異がいる、という状態が解決する事はありませんから。どうせ次がきますから。

 

 なので、余程変なのが出なければ放置。というか弱い怪異や放置しても良い怪異が居座ったらわざと放置して、次の登壇を止めるのが解決策です。

 

 ええ、その放置を推奨されていた怪異が私こと千石撫子なのでした。

 

 あのまま放っておいても、阿良々木君と戦場ヶ原さん、あと忍ちゃんの三名、いや業界的には放置するだけで、忍ちゃんがワンチャン討ち取られる事を考えると嬉々として放っておくでしょう。

 

 千石撫子が忍ちゃんに負けても元より状況が悪化する訳でもありませんので、当事者以外は放置して当然レベルのお話でした。

 

「私としては、この街の根本的問題も気になるところだけどね。取り敢えずは、任務のために動こうか。『重し蟹』の捜索といこう」

 

「撫子、なんかこの蟹について知ってる風だけど、なんかあったの?」

 

「……えっと、そんな大した因縁でもなくって、まぁみんなにはある程度事情がバレてるんでぶっちゃけちゃうと、───私の恋敵が意中だった人と出会ったきっかけの怪異なんだ」

 

「オモロ、蟹側からしたら超とばっちりじゃねーか」

 

「まさか呪霊も、自身の呪いのせいで意中の人を盗られたと、呪いの被害者でもない人から恨まれるとは思わないだろうね。呪いは廻るとはよく言うけど、こんなルートで廻ってきたら蟹側も泡を吹くんじゃないかな」

 

「てか、普通にソレ、とっかかりになんね?その恋敵の人は、この被害が報告されるずっと前に、その蟹に行き遭っているんでしょ?もし、まだこの街にいるとしたら、そこから調べるのが自然でしょ」

 

 ええ、そうでしょう。そうでしょうとも。

 

 常識的に考えれば、怪異の被害が出ていて、その怪異の被害に遭った事がある人間がいれば、まずはそこから調べるのが自然です。

 

 はい、それ即ち、戦場ヶ原ひたぎさんに話を伺うことが定石でしょう。

 

 しかしその石は、私には些か重すぎます。

 

 何せ、かつての恋敵。ぶっ殺そうとしていた相手ですもの。

 

 気まずいどころか、単純に不味いです。

 

 事によっては今更のように罪を訴求されて、業界に訴えられる可能性だってありますから。

 

 彼女、戦場ヶ原さんがそういう事をしない人というのは、累計二回しか話したことの無い私でも感じられるでしょう。

 

 しかし、他の人の事情によってその札が使われる可能性は、どうしたって否定できません。例えば、今回のような昔馴染みの自身と関連のある怪異が暴れ回っているときなんて。

 

「……わかった、案内するよ」

 

 でも、そんな個人的な心配事は全て自業自得。これで身を滅ぼしても、それは完全に身から出た錆です。

 

 

 004

 

 

 扇さんには、感謝しないとですね。

 

 皆目見当違いであったとはいえ、戦場ヶ原さんの住所を教えてくれていたのは僥倖でした。

 

 民倉荘。

 

 彼女の住む、住んでいたアパートは───

 

 ぺしゃんこに押し潰されて、消滅していました。

 

 ……犯人は私じゃありませんよ。

 

「こりゃ、蟹の重しで押し潰されたな。残穢が残ってる」

 

「いきなりアタリじゃないか、撫子。やっぱり君の元恋敵が今回の事件に関連しているとみて良いだろう」

 

「死者は出ていないみたい、奇跡的、或いは恣意的に」

 

 だんだんと憂いていた展開が確定的になってきて、気が重くなっていきます。

 

 やはり戦場ヶ原さんの身辺がトリガーになって今回の事変は起こっていると見て良いでしょう。ハズれていたとしても、彼女を探る事でより多くの手掛かりが得られる事は確定的です。

 

 となれば───

 

「うん、一度月火ちゃん……戦場ヶ原さんと繋げられるかもしれない人に連絡してみるよ」

 

「連絡するまでも無く、私ならここにいるよ、撫子ちゃん。久しぶりだね、私に無断で上京した撫子ちゃん。髪まで伸ばしちゃって、イカした友達まで連れて、すっかりシティーガールになっちゃって、プラチナむかついちゃう」

 

「げっ」

 

 ええ、よく考えなくても、月火ちゃんはこういうタイミングの良さと悪さを合わせ持つ人物なのでした。

 

「撫子、そいつ───」

 

「うんうん!知ってる、しってるから。祓わないで!」

 

 即座に戦闘体制に入った五条君を慌てて止めます。五条君でも殺せはしないと思いますけれど、無駄に話がややこしくなるのは御免です。

 

「はらわないで?折角払ってくれる人になんてこと言うのさ、腹が立っちゃうよ、撫子ちゃん。私は払われたいんですけど、払われてみたいんですけど」

 

 月火ちゃんの勘違いが言葉を売っていきます。

 

 買われてしまったら、その瞬間に民倉荘の比にならないレベルでぺしゃんこに潰されてバイバイしてしまう言葉を売っていきます。

 

「あ"ー思い出したわ。そんな鳥も居たな。厄介、というより傍迷惑が過ぎる術式だし、撫子の知り合いなら対処は任せるわ」

 

 『蒼』を撃たれる寸前で、五条君側が矛を納めました。

 

「ありがとう、五条君。……月火ちゃん、私、今日はお仕事の一環で帰って来てて、そのお仕事の事情で、戦場ヶ原さんに会わないといけないんだ。その───」

 

「無理、むり、できませーん。だってもう他人だもの、完全に他人にお兄ちゃんがしちゃったもの」

 

 

 

「───お兄ちゃんとひたぎさん、別れちゃったもん」

 

 

 ……え?

 

 

「おっ、撫子、良かったね。チャンスじゃないか」

 

 

 005

 

 

 びっくらポンです。

 

 私の心中は、そんな適当な言葉でしか言い表せないくらいめちゃくちゃになっていますとも。

 

「すっげー動揺してるの、マジウケるわ」

 

「恐ろしい程のタイミングの良さだね。悟が言っていた"しでの鳥"の術式のせいかな」

 

「日常のちょっとした不幸を記憶から消して溜め込み、最も事が悪くなるタイミングで周囲にぶち撒ける、っていう本人無自覚パターンの術式だったっけ?撫子、そんなのと良く友達やってたね。いや、悪意だとかあの子の悪口という訳ではなくて、純粋にずっと友達やれてた事がスゴい、的なさ」

 

「いや、意外と慣れれば楽しいよ。月火ちゃんの周りは。偶にこういう風に重い一撃をもらっちゃうけど」

 

 あの後、そう冷たく断った月火ちゃんが帰った後(相変わらず自由過ぎますね)私達は、というか主に私が、途方に暮れてしまいました。

 

 どうしよう。

 

「1.傑の呪霊操術でマッチポンプを仕掛ける。昔こっ酷く振った女が死ぬ程垢抜けて、且つ自分のピンチを救ってくれたらグラッと来ない男はいない」

 

「しないよ、やんないよ、というか出来ないよ、二の句は告げさせないよ」

 

「えー、でも千載一遇のチャンスじゃない?別に付き合う云々は置いといても、自分の事を見向きもしてくれなかった男に少し意趣返しくらいしてもよくない?私も、撫子に見向きもしない男が一体どんな奴か気になるし」

 

「いやいや、仕返しどころか、"死返し"しようとした事あるから、これ以上は過剰だよ」

 

 どう考えても、あの件は0:100で私が悪いです。特に大きな接点も無いのに好きになった男が勝手に彼女を作ったと負けヒロイン面をして喚き散らし、男とその彼女に当たり散らして、命まで散らそうとした。

 

 こう書くと、我ながら本当に酷い話ですね。

 

「んじゃ、やっぱりその元カノの方を探す事になりそうだな。アテはあるの?」

 

「うん、進学した先の大学は知ってるから」

 

 問題は、その大学には、あの人もいる事で……そうすると同級生共が散々考えて下さった案が実行に移される可能性が。

 

 ……まぁ、ウジウジしても仕方がありませんね。出くわしたら、出くわしたときです。そろそろ初恋に割り切りをつけませんと。

 

 

 006

 

 

 蟹

 

 蟹、蟹、蟹

 

 蟹、蟹、蟹、蟹、蟹

 

 蟹、蟹、蟹、蟹、蟹、かに、かに、かに、かに、かに

 

 

「なんじゃこりゃ」

 

 

 大学自体が蟹に憑かれていました。

 

 蟹によって、あらゆる建物やオブジェクトが押し潰されていきます。

 

「悟」

 

「重し蟹の分霊、式神かね。完全に見境無しに重さを切り取ってやがる。数は500体以上、式神でも等級は呪霊換算で二級くらいはある。手早く片付けろ」

 

「じゃ、私は重さを失った人を固定したり、怪我人の捜索をする。夏油、撫子、なんか護衛寄越せ」

 

「『黒沐死』をつけよう。群体かつ元々非常に軽いゴキブリなら、重し蟹の術式とは相性がいい筈だ。……私の呪霊で全域を同時に鎮圧する。悟と撫子で本体を探してくれ」

 

「わかったよ、夏油君。帳はおと撫子に降ろさせておくね」

 

 そう会話を交わし、怪異の世界に足を踏み入れていきます。

 

 故郷のこの街で、都会の流儀であるバトル漫画的仕事をするというのは些か違和感がありますが、そんなことを論じている場合ではありません。

 

 私達は一斉に散開し、手早く事態の収拾を図ります。

 

 空に登った『虹龍』が、光を放ち建物内や物陰にいる蟹以外を一撃で消し飛ばしました。初撃で事態の半分は終わってしまいましたとも。

 

 物陰に隠れた蟹達には、夏油君の呪霊達が次から次へと対処をしていきます。

 

「ったく、傑め、仕事が早過ぎる。俺の分が無くなっちまったじゃねぇか」

 

「五条君、こっち!国際経済学科がこの事変の爆心地みたい」

 

 ええ、国際経済学科。

 

 彼女が進学した学科ですとも。

 

 やはり覚悟を決めるしか無いみたいですね。

 

 

 007

 

 

 大講義室。

 

 黒板と教卓が一番低く、それを囲むようにして段々と席が設けられている構造の小中高の教室では見られない、ともすれば中学の中途でチュー出来ずに中退した私が一生見ることは無かったであろう教室です。

 

 生徒の席には全て蟹、これが本当のスチューデントクラブ、生徒会なのでしょうか。

 

「バーカ、生徒会は英語でstudent councilだ」

 

「五条君英語出来たの?!」

 

「撫子、お前さぁ俺のこと何だと思ってんのよ。っと、あの教卓にいる女が───」

 

 知っている姿でした。

 

 覚えのある姿でした。

 

 かつて想いの限りその位置を呪い呪った、立ち姿でした。

 

 

「───ッ」

 

 

 鋏が、降ろされそうになっていました。

 

 正直言って、私はまだ怖いです。

 

 過去の被害者と真正面から向き合うのは、やっぱり嫌で。

 

 そのまま自然消滅的に、或いは新しい日常で今を更新していって。

 

 ゆっくりと癒していきたかった重い傷痕です。

 

「阿良ら……千石さん?」

 

 腕から、鋏に挟まれた腕から血が流れます。

 

「……」

 

 言葉は発せません。何か気の利いた事でも言えればよかったのですが、未だ癒えない私の(想い)が、口を重くします。

 

 しかし、断ち切らせはしませんとも。

 

 戦場ヶ原さんの、きっとひと時の行き違いで壊れかけているその恋も。

 

 私の、もう二度と報われる事の無いあの頃の恋も。

 

 蟹に切り取られて良いような、軽い傷ではありません。

 

「ほい、ぜんぶ祓った。で、原因はそっちの大学生ね。重し蟹の狙いはそいつ一人で、あまりにも抵抗が頑強だから、分霊じゃなくて本体が降臨しそうになってる」

 

「……ありがとう、ございます。忍野さんのような専門家の方ですよね。千石さんもそうなったと聞いています」

 

 声には、覇気がありませんでした。芯が、重みが、ありませんでした。

 

「私の、私のせいなんです。阿良々木君と喧嘩してしまって、言葉の勢いで破局までしてしまって。飛び出した夜道で───いつかの蟹に行き遭ってしまいました」

 

「私の想いを、切り取られそうになって───その寸前で、その想いの重さに気がついて」

 

 一瞬ですが、声に芯が、心が戻りました。

 

「あー、で、呼んでおいて『やっぱナシ』ってしちまったか〜。それ、呪術的に一番バグが起こりやすいタブーよ」

 

 五条君がこれ見よがしに天を仰ぎました。しかし、私にはそれ以上に気になる文言があります。

 

「呼んだ?」

 

「んあ、重し蟹は、それを求めている奴か解呪の儀以外で分霊を送ってくる事は無いし、本体は見た事がある奴すらいねータイプだから。てか普通は"やっぱナシ"なんて出来るような相手じゃねぇんだけど、二回目ってのが災いしたな。まぁバグでも起こさないと祓えない呪霊だったし、いい機会っしょ」

 

 本人に呼んだ意識はなくとも、求めていたら勝手に応じてしまう辺りが厄介な神様の典型ですね。この業界、大きめの事件はだいたい神様の大雑把さか自意識過剰さで起こっています。

 

「で、五条君。解決方法はあるの?」

 

「あ?さっき言ったみたいに普通にぶっ飛ばすだけっしょ。そっちのJDの「捨てる」「捨てない」をグダグダ論ずる痴話喧嘩に首突っ込むほうがめんどいわ」

 

「えぇ……」

 

 そこは論じましょうよ。なんかそういうのやっとかないと、怪異って絶対倒せないイメージあるんですけど。

 

 というか怪異でなくとも、こういうこれ見よがしなゲストキャラが登場する回って、絶対その内心や悩みを論じないと勝てないように作られているイメージですけども。

 

「……千石さん、この人何かしら。折角、この私が、大恥かきながら、シリアス感出してキャラ崩して敬語まで使って、これ見よがしな導線を作ってあげたのに、全スルーだなんて」

 

 あっ、これが噂に聞く戦場ヶ原さんの毒舌。生で聞けて感無量ですとも。

 

「……あー、うん。五条君、人の心ありませんから」

 

 えぇ、どう見てもここまでの前振りを全部すっ飛ばして、普通に特級呪霊とバトることしか考えていません。

 

 多分、頭の中にあるのは、夏油君が暴れてるから、もっと暴れようくらいしか無いんじゃないんでしょうか。

 

 というか、戦場ヶ原さんと普通に会話できました。共通の敵って偉大ですね、イジメが無くならないわけです。

 

「というか千石さん。あなたも一体全体最近何しでかしているのよ。こよ……阿良々木君が、偶にやけ酒かっくらいながら『千石が〜、千石が〜』とずぴずぴ言っていてこちらとしても弱ってて美味し……いえ、良い迷惑なのだけれど」

 

「あ〜、どれくらい伝わっちゃってます?」

 

「『僕が大人になっていい歳だしと、投げ捨てたスプラッタなバトル展開をよりにもよって千石が拾っちまった!』という嘆きから始まって、それはもう色々と」

 

「例えば……そう、『口裂け女』」

 

「倒しましたね〜、全身を鋏でズタズタにされました」

 

「地名の方の戦場ヶ原に行って、九尾の狐・玉藻前」

 

「こちらは、ギリギリバトル展開は最小限で済みましたとも」

 

「ゴキブリの怪異をパンチで潰したというのは」

 

「あ〜、正確にはキスをショットして倒しました。阿良々木さんには内緒でお願いします」

 

「岩手の喫茶店で疫病神に遭ったというのは」

 

「棺桶とお墓付きの生前葬を挙げられました、情けないことに色々あって取り逃してしまいましたし」

 

「星の見える夜に龍を狩りに行ったのは」

 

「たまにはいい事言うそこの五条君の提案で狩りました」

 

 

 

「───やり過ぎよ!いえ、私達は貴方の被害者で、反省して欲しい気持ちが無いと言ったら嘘になるのだけれど、そこまで自傷的に命を投げ捨てながら過酷に働かれても、こちらとしても逆に心苦しいのよ」

 

 

 

「いえ、割と楽しくやってますので、ほんっとーにお気遣いは大丈夫です」

 

「本当に大丈夫そうに言うわね、あなた。……本当に見違えたわね。いえ、見違える程、あなたを見た事が無い私が言うのも可笑しな話だけれども、きっと以前の貴女を知る誰が見ても、見違えてしまうでしょうね」

 

 戦場ヶ原さんは、真っ直ぐ私の目を見て、そう言いました。まっすぐな、どこまでも真っ直ぐな群青の瞳です。

 

 こうして見ると、やっぱり勝てっこなかったと、昔の卑屈な私が顔を出してしまう程に。

 

 しかし、それでは、折角見違えてくれた戦場ヶ原さんが、とんだ見当違いだった事になってしまいますとも。 

 

 見返してやりましょうとも、ここで蛇睨みされたように縮こまらず。

 

 青春は、きみに恋するためにある訳では無いということを。

 

 

 

「カッコつけてるところ悪いけど、お出ましだぜ」

 

 

 

 ひえっ

 

 

 

 008

 

 

 

 国立曲直瀬大学は、天に昇りました。

 

 マーチ?旧帝?いえ、この世に存在するあらゆる大学より高いです。

 

 学歴社会に疎い、というかそれを投げ捨てた私にとってそもそも大学自体が天上の存在なのですが、そんな私でもわかるくらい、トップの大学になりました。

 

「成層圏は超えたわね、気温が0℃くらいなのを考えると、中間圏の下の方かしら」

 

「おっ、肝座ってんじゃん。流石撫子の故郷の一般JD」

 

「私の故郷の偏見を持つのは大概にするんだYO!」

 

「それは幻のDJ撫子じゃない。無駄にJDに張り合う必要ないわよ」

 

 なんて、現実逃避してみますが、現実は逃がしてくれません。

 

 寧ろがっつり挟まれていますとも。鋏で土地ごと切り取られましたとも。

 

「悟!撫子!無事かい?」

 

「傑、硝子!」

 

 虹龍に乗って、夏油君と硝子ちゃんがやってきました。

 

 そうです、私は何かと成層圏と縁がありますのでもう慣れっこですとも。

 

 同級生達と散々飛び回ったのもこの空域ですし、人生初飛行機でも搭乗者3人仲良く成層圏にほっぽり出されています。

 

「あれが、特級呪霊『重し蟹』の本体?甲羅が月の柄とそっくりになってる所を見るに、月に擬態して分霊を送っていた、っていうのが真相っぽいね」

 

「そこは日本だから兎であって欲しかった所だね。ところでそちらのお嬢さんは?」

 

「今回、蟹に憑かれた奴。思いを切り取られるの拒否ったからみんなの思い出が籠った校舎と一緒に切り取られた感じ」

 

「この校舎に思い出が出来る程、思い入れは無いのだけれど」

 

「とんだ思い違いだね。戦場ヶ原さん。……で、どうしよう、普通に祓ったら、蟹が消えて国立曲直瀬大学は、転落していく事になっちゃうよ。地元に迷惑をかける大学生なんてレベルじゃないよ。大学が地元を破壊しちゃうよ」

 

「傑の呪霊操術でゲットして、ゆっくり降ろせばよくね?」

 

「私では、取り込みきる為にかかる時間のラグで、この学校自体が空中に散乱してしまう。悟の無下限呪術で支える方が確実だ」

 

「となると、俺は大学の下でスタンバっとかんとダメか。下手にバトって、蟹が鋏離したらそれでこの大学が街に降り注ぐもんな」

 

「それで頼む、悟。硝子、この大学にいた非術師の避難や安全確保は?」

 

「あのゴキブリ呪霊を使えば誘導はチョー簡単だった。いい感じに失神する奴も多かったし。どんな状況でも比較的安全な位置を選んどいたから、まぁ大丈夫でしょ」

 

 人類特攻持ってますもんね、ゴキブリ。

 

 それが群れをなして追いかけて回してきて逃げない人はいません。

 

「えっ、千石さん、結局あの蟹倒すの?ほら、ここに事件の原因になったメンヘラ女がいるわよ。いい感じに儀式なりなんなりして和解してとか、色々あるじゃない」

 

「うん、首都の方ではこっちが主流らしいよ。たぶん、怪異の原因になるメンヘラ女なんて、ダース単位でいるから、いちいち構ってられない的な感じじゃないかな」

 

 私も最初はびっくりしましたとも。

 

 あっ、初手から殴るんだ、って。

 

 いえ、勿論、私以外のケースでは、この街でも見敵必殺で殴る蹴る、刺す刺される、内臓が飛び出すスプラッタを初手からしでかされたケースはあるにはあるらしいと伺っているので、これは単に見識が狭いだけかもです。

 

「撫子は『神撫子』使って、この大学を白蛇で縛ってくれ」

 

「うん、じゃあ『媚び撫子』は夏油君の援護に、『逆撫子』は戦場ヶ原さんの護衛につけるよ。『おと撫子』の帳はまだギリギリ耐えてるから、ここがラピュタ呼ばわりされる事は無い筈」

 

 そう言って、全式神を起動し、割り振っていきます。この作業も慣れたものですね。式神使いとしては、そこそこ熟達した自負のようなものはちょっぴり芽生えたりしています。

 

「なるほど、すっかり専門家ね。そんな専門家の千石さん、素人同然の私に何か手伝える事はあるかしら?流石に『都会と田舎の流儀違い』くらいで納得できるくらい、私は簡単なメンヘラ女ではなくってよ」

 

「メンヘラ拗らせている事を自信満々に言われても……でも、うん。私もメンヘラ拗らせて迷惑かけた訳ですし、なんとかしてみせましょう!」

 

 メンヘラ仲間として!と二の句を告げたら、口にホッチキスを突っ込まれる未来が見えましたのでやめておきました。

 

 もう口が裂けても言えない事を言うのは懲り懲りです。

 

 

 009

 

 

「『呪霊操術』『虹龍』『玉藻前』『黒沐死』」

 

「『神撫子』、『媚び撫子』、お願い!」

 

 戦の時間です。

 

 ヴァルハラのハラの方が味方についてますし、天空にありますしで、実質もう勝ったようなものです。はい。

 

 ヴァルハラが戦死した後に行くあの世的ところ、というのは努めて無視しましょうとも。

 

「まずは私が替えが効く戦力、『黒沐死』の取り巻きゴキブリや『虹龍』の海棲生物の式神で小手調べをする……敵の目的はそちらのお嬢さんの重み、大技を使って私達事殲滅するのは先ず無いと見て良いだろう」

 

 そう言って、夏油君が呪霊操術で使役している呪霊が使役している式神をけしかけました。

 

 式神の世界にも下請けが存在するなんて、なんとも世知辛い。そもそも、私達も任務を高専から下請けているだけである事を考えると、呪いの世界ですら、日本で最も根深いといっても過言では無い、下請け構造、という呪縛から逃れられないのでしょうか?

 

「……全滅、か。動作の起こりは見えなかった、何か見えないモノにはたき落とされたようにも見えたね」

 

 そんな下請け呪霊達は、威力偵察という役割を全うして、殉職しました。

 

 二階級特進で、立場的には私と同格になりました。……知らない同級生が増えていきます。

 

 しかしながら、私は幸運にもこの一度で相手の種を見破ることが出来ました。いえ、見破る、なんて大層な事では無く"見た事がある"だけなのですが。

 

「……前に岩手で出会った呪詛師が、似たような術式を使ったのを見た事があるよ、『反重力機構(アンチ・グラビティシステム)』を術式反転させたときの挙動が似てた。投げた槍の重さが突然変わったみたいに、落とされていたよ」

 

「成る程、直球に重力か。『重し蟹』である以上、重さに関わる概念を司る術式を持っているとは思っていたけど、そこまで高位且つ普遍的な概念を弄れる可能性を無意識下で外していたよ。相手が未知の特級呪霊で、呪詛師ですらそんな術式を持っているなら、あり得ない推測じゃない」

 

「私達がまだ潰されていない事を考えると、重さを付与できる射程は極端に短いと見ていいよね。両方の鋏で学校を挟んでいる事のせいかな」

 

「短い、とはいっても本体の物理的大きさのせいで、その射程範囲は通常の領域よりもずっと広い。……呪力が重力の影響を受けるのか、という極めて量子力学な議論をするのも楽しそうだけど、今は時間が無い。確実な手段にしようか」

 

 そう言って、夏油君は術式を使用し始めます。

 

「『虹龍』!術式解放、7番」

 

 ええ、重力の影響が少ない攻撃手段。それは『光』です。

 

「厳密には、影響を受けない訳ではないんだけどね」

 

「そうよ、千石さん、夏油さん。あの蟹が、光すら飲み込むブラックホールレベルの重さを持っていた場合はどうするのよ」

 

「無いね。仮にそんな事が出来たとしても、その瞬間に自分も、そして地球も終わる。そんな自爆じみた真似は、……人間以外はしない」

 

 愚かですねー人類。

 

 やけっぱち、死なば諸共、一矢報いる。そういった類の行動は、自然界には存在しない奇行らしいです。

 

 特に、今回の相手『重し蟹』も神様としての側面も持つ相手。

 

 現人神で荒人神だった私と違い、元々神様だったような手合いですのでその辺りの加減はよく分かってらっしゃると信じるしかありませんとも。

 

 ───動きました。

 

 『虹龍』が『重し蟹』の射程外から、レーザーを照射し、蟹を焼き切ります。

 

 しかしながら、即座に勝負を決するには単純に的が大きすぎましたね。大学の一定範囲の敷地を丸ごと摘めるレベルの大きさ、甲羅が月に擬態出来る大きさですから。

 

 『重し蟹』側もやられっぱなしではありません。

 

 あちらも下請けの式神を使い攻撃を仕掛けてきます。

 

「───こいつら、術式で尋常じゃない重さが付与されている。気をつけるんだ!」

 

 重さを切り取る事が出来るなら、重さをつける事も出来ますとも。

 

 切り貼りする事が出来ることは、戦場ヶ原さんという生還者から予期することは容易です。

 

 しかし、せいぜい身体が重くなる程度と考えていた私が愚かでした。

 

 ───雨が降っています。

 

 蟹の雨です。一体一体が、ダンプカー並みの質量を伴った。

 

 掠っただけでも持っていかれます、当たればぺしゃんこです。

 

「『玉藻前』『虹龍』」

 

 狐撫子が、幻術っぽい術式(玉藻前さんの術式の全容は、まだまだ夏油君も解明中のようですが、単純に狐ですので化かす能力はあるようです)で全体的な被害を上手いこと逸らし、『虹龍』が『智慧の瞳』と『光』を併用して致死的な攻撃を迎撃します。

 

 一見不利そうに見える形勢ですが、正直言って……勝つだけならこのまま放置すれば勝てます。

 

 虹龍と玉藻前により、重し蟹の現状唯一の攻撃手段である重力付加した式神の攻撃は無力化、強大な重力場による防御も光による攻撃は防げません。

 

 このまま隙を見て『光』をチクチクと撃ち込む耐久戦を続ければ、呪力量的にも耐久度的にも干上がるのはあちら。

 

 ですが、それはあくまで『私達』は勝てるというお話。

 

 大学構内に残った人や大学の建物に詰め込まれた数多の知的財産はまた別の問題ですとも。

 

「───呪術師は、非術師を守るためにある。……撫子の作戦を実行に移そう」

 

 そして、それを夏油君が容認出来る筈がありませんとも。大雑把なところはありますが、根底にある正義の重みは揺らぎようがありません。

 

 

 010

 

 

「あの日はバナナの皮だったわね」

 

「バナナの皮で滑って落ちて、恋に落ちるなんていう、文字通りコミカルなオチで出会ったんだね」

 

 大学の敷地の端。

 

 一歩先には、一歩下には、青空が広がっています。

 

 私は、こんなことでも無ければ一生知ることは無かったであろう、私の恋の敗北を決定した運命の分岐点がまさかのバナナの皮だった、という話を伺っていました。

 

 何故、そんな話になっているのかと言えば、今から再び落ちるからでしょう。

 

 しかし、今回の落下は私が体験したヴァージョン。

 

 人気最絶頂から、地の底まで叩きつけられる、成層圏からの落下傘無しスカイダイビング。

 

 同じヒロインでも、落下だけでここまでの落差があるなんて、瞳から涙が落ちそうになります。

 

 ええ、重し蟹の狙いはあくまで戦場ヶ原さん。

 

 戦闘での被害を逸らすためには、一緒に摘まれた大学から落ちるしかありません。

 

 大学に落ちるではなく、大学から落ちるとは。

 

 戦場ヶ原さんの華々しい経歴に泥を塗ることになってしまうことは心苦しいですが、本人が良いと言っている以上は、ウダウダ言っていられません。

 

「背中を押すのは、私を落とすのは、恋敵である貴女に任せるわ。私に阿良々木君を掠め取られた怨みを、思う存分この背中にぶつけなさい」

 

「今の私が思う存分をぶつけるのは、色々重すぎるからそれは遠慮しておくよ」

 

 えいっ。

 

 というわけで私は戦場ヶ原さんの背中を軽く押し、空へ放ちました。

 

 それなりにスカッとした性格の悪い撫子がいるのは、内緒でございます。

 

 

 ───瞬間、事が動きました。

 

 

 『重し蟹』は1にも2にも、戦場ヶ原さんを切り取ろうと、両方の鋏を国立曲直瀬大学から離して、移動を始めます。

 

 蟹ですが、縦横無尽に動き回ります。

 

 そうすると、蟹自体は大学の下に移動する訳で。

 

 大学の下には、我々高校生、五条君と硝子ちゃんがスタンバイ。

 

 この前も見た、必殺の紫色の光を溜めておりますとも。

 

 大学の自由落下を阻止する力は、必殺技まで使っている五条君にマルチタスクさせるのは、いささか過剰労働ですので、夏油君の呪霊操術がお手伝い。

 

 かくして、蟹の鋏は戦場ヶ原さんを切り取ることなく、夏油君が美味しく頂きました。五条君も加減が上手いですね。

 

 で、ここまで何もしていない私の役目は落下傘。

 

 媚び撫子や神撫子の連携でキャッチする、というよりはヨーヨーの要領で引っ張り上げる───予定でした。

 

 

 

「───ひたぎ!!!」

 

 

 やっぱり、思う存分背中を押しておきたかったと思ってしまいますねぇ。

 

 うらやましい。

 

 

 

 011

 

 

 成層圏まで愛しの彼女をキャッチしにきてくれるスーパー主人公をただ遠目に、指を咥えて見ているしか出来なかった負けヒロインの私は、拗ねるように挨拶すらせずに東京に帰りましたとも。

 

 気分としては、原作で読んだ鬱展開をアニメでもう一度見たとき、原作を知っているからと舐めてかかったら思ったよりダメージが大きかった、みたいなみっともなさを感じます。

 

「やーい、撫子の負けヒロイン!フラれた後にもう一回勝手に敗北してやがるの、恋愛弱者なんてレベルじゃねーな」

 

「兵は拙速を尊ぶ、というだろう。別れた事を知った時点で、先に元カノの方に許可取ろうとなんてせずに、1にも2にもいかないのが敗因かもね」

 

「初恋が実はハーフ吸血鬼だったコミカルだけど何処か影がある年上のイケメンお兄さん、っていうのも良くない。あれに比べたら同級生の男なんて全員ジャガイモレベルでしょ。次の恋のハードルが高すぎる〜」

 

 同級生共がボロカスに言ってきます。ゲラゲラ笑っております。

 

「髪、切ろっかな……」

 

 伸びた、伸ばしてもらった髪が、まさかもう一回失恋する前フリだとは。

 

 とんだトラップです。

 

「おや、ご入用かい?」

 

 夏油君がこれ見よがしに『重し蟹』を出してきました。成る程、重い想いと一緒にぶった斬って貰えるサービス付きの0円カットですか。

 

「今度は出家するレベルになるんじゃね」

 

「まぁ尼さんの呪術師もけっこーいるから違和感ないしね。お風呂もちょー楽になるし、全部ボディソープで良くなるし」

 

「……」

 

 尼撫子(あまなでこ)……あまなでこ、ううむ。

 

 いえ、そんなに甘く無いのが、ヘビィなのが人生ですとも。

 

 甘くない、甘やかしませんとも。

 

 この重さを背負って、真っ直ぐ、とはいきませんけども。

 

 蟹歩きでも、蛇道でも、後ろ髪を引かれながらでも

 

 重い足を、思い想いに進めていきましょう。

 

 

 

 

 

 

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