「――やはり角度が合わないか」
放課後の時間を利用して『
本日の放課後は風紀委員会の見廻り当番のシフトに組み込まれているのだが、この『希咲 七海おぱんつ撮影事件』はまだ同委員会には報告をしていないのであくまで弥堂個人での非公式の調査となる。
そのため正門付近の見廻りという名目でこの場に来ていた。
正門付近から2年B組の教室内を撮影できるポイントはないかという検証で、高さを合わせるために木に登り、写真部から捜査の為にと強制的に徴収してきた望遠カメラを校舎二階相当の高さの何ヶ所かの枝から構えてみたのだが、
どうやら敷地内の高所からでは不可能なようだ。
(敷地の外でもそれは同じように思える……やはりドローンか、それとも――)
遠距離狙撃か。
狙撃銃とやらの有効射程距離というものがどの程度のものなのか弥堂は寡聞にして知らないが、もしも数㎞ほど先の距離からでも狙うことが可能なのであれば敷地外も捜査するべきなのかもしれない。
頭の中で捜査の順序を組み立てていく。ドローンの線と外部からの狙撃の線、この二つを同時に調べていく必要がある。
ドローンの方は警備部に乗り込んで撮影データの開示を要求したい所だが、今の所は風紀委員として公式に行っている捜査ではないのでそれは難しい。
それに警備部の中の誰かが、もしくは警備部自体がクロだった場合はこちらの身が危険になる。まずは警備員を何人か攫って尋問をしてみるべきか……どちらにせよこれは今日すぐには行動に移すのは厳しいだろう。準備が要る。
次に狙撃の線だが、これについては専門知識がないのでとられる手段が大分限られてくる。
せいぜいが帰り道でついでに狙撃が可能だと思われる地点を捜す程度か。それと問題になるのが、『一体誰を狙ったものなのか』という点だ。
クラスメイト達の中で生命を狙われる覚えがある者がいるか調べる必要がある。
自身にも後ろ暗い事情がたっぷりとある弥堂には、大人や警察に相談をするという方針は選択肢に浮かび上がることすらなかった。
現在はもう放課後だ。今からすぐに全員を調べることは難しいだろう。
今日これから出来ることがあるとすれば、風紀委員の見廻り業務を行いつつ、見かけたクラスメイトがいれば都度聞き取りをしていく程度か。
「びっ、弥堂くんっ‼ 何してるの⁉」
「む?」
ちょうど自らの行動プランがまとまったところで声がかかる。
現在は桜の木の枝の上だ。眼下の正門から昇降口へと伸びる並木道へと目を向けてみれば、木上の自分を見上げる形で幾人かの生徒達が騒ついていた。
無理もない。本人には一切の自覚がないが、木に登りやたらとごつい望遠レンズなどをとりつけた物々しいカメラを構え、校舎へと鋭い視線を向けているその姿は、客観的に見れば言い訳のしようもなくただの盗撮犯であった。
声をかけてきたのは
「あ、あぶないよ弥堂くんっ! そんなところ登っちゃだめなんだよ!」
「ちぃっ」
弥堂は舌打ちをした。
下に数人集まっていることには気が付いていたが、わざわざ自分に声をかけてくる者などいないだろうと決めつけ、特に気にせず無視をしていた為に最も厄介な者の接近を許してしまった。
「舌打ちされた⁉」と、心配して声をかけたのにも関わらず、その相手にあんまりにもあんまりなリアクションをされ、まるで頭上にでっかく『が~ん』とでも文字が浮かび上がった様が幻視できそうなほどショックを受ける水無瀬を尻目に、弥堂は周囲の状況を確認した。
自分が現在登っている桜の木の周辺だけではなく、校舎と正門をつなぐ並木道にも全体的に下校のために通行をする生徒たちが増えてきていた。どうやら大分時間が経過して下校のピーク時間となっているようだった。
「――潮時か」
これ以上注目を集めて騒ぎになるわけにもいかない。
満足するような情報は何も得られなかったが、騒ぎを聞きつけられて他の風紀委員や警備部に見つかっても面倒だ。
弥堂は調査を打ち切ることにした。
「弥堂くんっ、弥堂くんってば!」
眼下からはまた水無瀬の喧しい声が呼びかけてくる。
「なんだ、水無瀬」
下手に無視をして騒がれても面白くない為、弥堂は簡潔に返事をかえした。
「は、早く降りなきゃ危ないよ! このままじゃ落ちちゃうかも…………え⁉ 落ちちゃう? 落ちちゃうのっ⁉ あわわわわ、大変だぁ――」
「おい、落ち着け」
自分で自分の言葉にパニックになっていく水無瀬の様子に弥堂は一抹の不安を覚えた。
「もっもももももしかして降りられなくなっちゃったの⁉ 公園とかにいる猫さんみたいに!」
「馬鹿にしてんのかお前」
一度この少女には自分のことを何だと思っているのか厳しく問い詰めたい、弥堂はそういった衝動に駆られた。
「どっどどどどうしよう! どうしよう? …………はしご? ……はしごとか――ダメ。どこにあるかわかんない‼ ……あっ、そうだ! 体操マット! 体操マットなら――」
「待て水無瀬。おかしなことは考えるな」
「あのっ! この中で誰か手伝ってくれる人はいませんか⁉ 体操マットをここまで運ぶのを手伝って欲しいんです!」
「水無瀬よせっ! 余計なことはするな!」
もはや弥堂の声など聞こえていない様子で、即断即決し周囲の野次馬から協力者を募りだす水無瀬に思わずこちらの語気も上がる。弥堂はここに至り、突如として自分が窮地に追いやられようとしていることを察した。
静観して状況が好転することは決してないであろう。水無瀬を説得するべく慎重に声をかける。
「いいか、水無瀬。聞いてくれ。俺はだいじょう――」
「――大丈夫だからね弥堂くんっ! 私に任せて。落ち着いてじっとしててね! 絶対に助けてあげるからねっ」
「聞けよてめぇ」
弥堂を不安にさせないようにとの配慮なのだろう。彼女も慌てているだろうにも関わらず、健気にも優しい笑顔を向けてくれる。しかしそれが弥堂を激しく苛立たせた。
ちなみに今この時が、二人が出会って一年ほどであるが、常は受動的に言葉を返すだけであった弥堂から水無瀬へと、正真正銘初めて自発的に話しかけた瞬間であった。
しかし弥堂 優輝の声も言葉も真意も彼女へと届くことはなく、無情にもその事実に水無瀬 愛苗が気付くことはなかった。
「あの、あなたC組の金子さんだよね? えへへ……私、B組の水無瀬 愛苗です。あのね? これから私、体育館に行ってマットをとってくるからその間ね? 弥堂くんが落ちちゃわないように見ててあげてほしいの」
「は? え?……あ、はい」
周囲の野次馬の中から目敏く名前を知っている顔を見つけた水無瀬はその女生徒の手をやんわりと取り、彼女の顔を見上げるとその目を見つめて真摯に懇願した。
C組の金子さんは下校の通りすがりに人が集まっているのを見つけ、何の騒ぎだろうと軽い気持ちで覗いてみただけであったのだが、この場の状況には全くついていけていないにも関わらず、人のいい彼女は思わず流れで承諾してしまった。
「いきなりごめんね、ありがとう……あとねあとね? 弥堂くんが怖くて泣いちゃわないように励ましててあげてほしいの。お願いできる?」
「えっ⁉」
了承した途端に重ねられた無茶ぶりに激しく動揺しながら、金子さんは「はげ……ま……す……?」と木の上の要救助者へと目を向けた。
すると人の生命など塵芥にも等しいとでも思っているに違いない、血も涙もない殺し屋のような冷酷な眼と視線が合い、通りすがりに巻き込まれてしまった憐れな女生徒は「ひっ」と短く悲鳴をあげた。
元から鋭く無機質な眼をしている弥堂ではあるが、着実に悪くなっていくこの場の状況に普段よりも何割か増しで視線を険しくさせていた。
要救助者が怖くて泣いちゃわないように励ます係の金子さんが怖くて泣いちゃったのだが、既に他の野次馬に助力を求めて声をかけている水無瀬さんがそれに気付くことはなかった。
「それじゃあ、私は急いで体育館に向います! もしも手伝ってくれるって人がいたらどうか追いかけて来てくださいっ! 大したお礼はできないけど、私にできることならなんでもしますから、どうか弥堂くんを助けてあげてくださいっ」
「ん?」
「いま?」
「なんでもって?」
集まった野次馬たちの前に立ち丁寧にペコリとおじぎをしてお願いしつつ、元気いっぱいに声を張り上げる水無瀬の勢いにか、彼女が振りまくお花畑な雰囲気につられたのか、何人かは彼女の手伝いを申し出そうな勢いだ。若干数名は邪な思惑を抱いていそうだが。
ご両親の教育がよかったのだろう、『良いこと』、『正しいこと』をしようと無責任に声をあげるだけではなく、自ら率先して行動を起こし、自身はその行動の結果なんの報酬も得られないであろうにも関わらず、自分の身を切ってまで協力者には報いようと、そこまでして『人助け』をしようと、水無瀬さん家の愛苗ちゃんはやさしくりっぱなお子さんに育っていた。
そしてその善意が確実に弥堂を追い詰めていく。
(――なんなんだこいつは)
理解不能な存在と状況への苛立ちに
普段はどんくさく、何事ももたもたとしてはドジを踏み、へらへらしている
この緊急時――とは彼女が勝手に思い込んでいるだけだが――に於いては、その普段の姿が嘘だったかのように状況をまとめあげていく。
擬態だったのか?――違う。
それともわざとこちらを追い込んでいるのか?――違う。
そのようには見えない。視えない。
これは善意なのだ。
100%、他の何一つをすら混入することのない、純血で純潔なる善たる意志を以て水無瀬 愛苗は行動しているのだ。
そうとしか見えない。
見えない。見えない。視ているのに視えない。
これまで数多の悪意と戦ってきた。
数多の悪意の中で生き抜いてきた。
そんな道を歩んできた弥堂 優輝を以てしても、純粋なる善意により窮地に追いやられるなどという状況は完全に想像の埒外だった。
このまま水無瀬を体育館に辿りつかせたらどうなる?
体操マットが収容されている体育倉庫は通常施錠されている。その鍵の管理をしているのは体育教師の箕輪という男性教員だ。奴はサバイバル部と風紀委員会を、その中でも特に弥堂を目の敵にしている。当然だ。彼が顧問をしていた空手部を潰してやったのは弥堂だからだ。
水無瀬が箕輪の元へ行き、倉庫の鍵を借りる為に事情を説明すれば、あの男は嬉々として水無瀬を手伝いこの現場にまで着いてくるであろう。
そうなってしまえば弥堂が今週中に提出しなければならない反省文が一つ増えるであろうことは考えるまでもないことだ。
そしてそれだけならばまだしも、弥堂個人だけでなくサバイバル部や風紀委員会への追及をする機会を与える口実にもなりかねない。さらにはもっと最悪、木の上で校舎へとカメラを向けていた弥堂の所持品を検められ、万が一スマホの中の『
当然それは許容を出来ることではない。
弥堂は手に持った望遠カメラの重さと感触を確かめた。
この色々と立派なカメラを、あそこにいる“前頭前野お花満開娘”の後頭部に直撃させれば奴を仕留めることが出来るであろうか。
(――NOだ。目撃者が多すぎる)
こうしている間にも、愛苗ちゃんの一所懸命ながんばりにより続々と野次馬が増えている。いくらなんでもこの人数の口を短時間で全て封じるのは不可能だ。
状況は予断を許さず刻一刻と着実に弥堂を破滅へと向かわせている。
弥堂は軽く両の瞼を閉じると天を仰いだ。
久しぶりの感覚であった。
久方振りの窮地。久方振りの絶望。
圧倒的に不利な状況下で孤立無援。
しかしそんな戦況の中に於いて、むしろそんな環境の中でこそ弥堂の心の置き場所は定まる。
例え生存までの道筋が一筋たりとて見えなかろうとも、思考を止めることも、行動を止めることもありえない。
弥堂 優輝というモノはそのようには出来てはいない。
弥堂 優輝は目を開ける。
目標を見定める。
下腹に威を籠め、今にも体育館へ向けて『よ~いどん』しそうな水無瀬の背に向けて発する。
「――水無瀬っっっ‼」
「ひゃいぃぃぃっ‼」
元気いっぱいに走り出そうとしていた水無瀬はピシっと気を付けをして直立不動の姿勢となる。周囲の野次馬たちの騒めきも止んで、まるで大型獣に吠えられた獲物のように誰もが硬直していた。
低い音、低い声音。
怒鳴りたてるわけではなくただ適確に空間を振動させ対象に威を徹す。
やったことと謂えば単純に大声で驚かせただけだ。少しだけ特殊な呼吸の仕方と発声の仕方が必要とはなるが、相手を所謂『気に当てられる』という状態にする技法だ。
弥堂に『これ』を仕込んだ女は戦闘中に於いても相手を硬直させ崩しに使うほどの“業”にまで昇華させていたが、弥堂にはそこまでの習得は出来なかった。しかし、何かしらの訓練を受けているわけでもない一般人を短時間無力化する程度の芸当は彼にも出来た。気の弱い金子さんなどは腰を抜かしてしまっている。
弥堂 優輝にとっては師とも云えるような存在でもあったその女に云わせれば、弥堂には決定的に才能が足りなく、一つとして業を極めることは出来ないであろうが、しかし長年修練を積めば彼女に近いレベルに達することも或いは可能ではあるかもしれないとのことであった。
つまり見込みなしという意味なのだが、ついぞ弥堂を見限ることが出来なかった彼女は、はっきりそうとは言ってくれなかった。
だが、いつ実用に足るようになるかわからないようなものに注力する気概は弥堂にはなく、もしも現在の弥堂が彼女と同じようなことがしたいと考えたのならば、気の遠くなる訓練をするよりもスタングレネードの入手ルートを捜すだろう。その方がはるかに効率がいい。
『いま』『ここで』『見込んだ』『効果』を発揮できる戦力以外には弥堂は価値を見出さない。以前にそれを伝えた時の彼女の大きく失望した顔が頭に過った。それでも弥堂を見限れなかったことが彼女の数少ない欠点であり、そして最大の過ちであったように今では思えた。
弥堂は意識して女のことを頭から振り払った。
続けてこれもまた彼女に教わった技術を行使するべく、いまだ硬直したままの水無瀬の背に声をかける。
「水無瀬」
「は、はいっ!」
萎縮し、硬直したままの彼女に努めて穏やかにゆっくりと話しかける。
「ゆっくりでいい。俺の言葉を落ち着いて聞け。まずは何も考えずにゆっくりと浅く息を吸って、ゆっくりとそれを吐き出すんだ。それを3回繰り返せ。ゆっくりだぞ?」
「すぅーはぁー、すぅーはぁー、すぅーはぁー」
素直なよいこの愛苗ちゃんはとりあえず言う通りにした。
「よし。よく出来たな。えらいぞ。そうしたら今度は深く息を吸って吐きながらこっちを向け。これもゆっくりだぞ。できるな?」
「――えらい……わたし、えらい……すぅーーーー」
弥堂らしからぬ丁寧な口調で褒められてよくわからないけど嬉しくなった愛苗ちゃんは追従する。
「――よーし、上手に振り向けたな、いいぞ。呼吸も上手にできていい子だ。そのまま呼吸を繰り返しながら次は俺の手を見るんだ。左手だ。そう。見えたな。えらいぞ。指が何本見える?……そう5本だ。よくわかったじゃないか。キミはすごいな」
「……すぅーーはぁーー、すぅーーはぁーー……」
弥堂は目を細め、注意深く被験者の様子を見定めながら工程を進めた。
「水無瀬。そのまま俺の手を見ていろ。おっと、呼吸を忘れるな? うむ、えらいぞ。では指を減らしていくぞ……今俺の指は何本立っている?……すごいぞ、正解だ。1本だ。キミは賢いな。よし、この1本の指の先端から目を離すなよ。水無瀬はいい子だな。とても上手だ」
「……えらい……わたし……すごい……わたし……かしこい……わたし……いいこ……わたし……じょうず……」
順調に受け答えがおかしくなっていく水無瀬の様子に、弥堂によって硬直させられてから多少正常を取り戻してきた野次馬たちが騒めく。
「お、おい……なんだ? これ、なんだ? 俺たちは何を見せられてるんだ?」
「なぁ……俺こんな胡散臭いもの初めて見たんだけど……え? まさか催眠術とかじゃないよな? そんなわけないよな?」
「ね、ねぇ……あの子なんか目がとろんってなってきてない? 大丈夫なのこれ?」
「絶対やばいよ……警備員さんか風紀委員呼んできた方がよくない?」
今まさに木の上に登りながら怪しげな儀式を学園の玄関口たる正門前で行っているこの者こそが、残念ながらこの美景台学園の風紀を守るべく活動を行う風紀委員なのだが、目の前のやばすぎる絵面が彼ら彼女らにその事実を失念させた。
「いい調子だ。卓越したパフォーマンスだぞ。次は上下だ……いいぞ水無瀬、キミはスーパーだ」
「……みぎぃ~ひだりぃ~……すぅ~はぁ~……わたし~すぅ~ぱぁ~……うえぇ~したぁ~……すぅ~ぱぁ~……」
左右に上下にとゆっくり動かされる弥堂の指先を見つめ、彼に言われた通りに深呼吸を繰り返しながらその動きに合わせて首を動かす。そんな水無瀬の様子に頃合いと診て弥堂は段階を進めた。
「よし、いいぞ。では呼吸は続けたまま今度は俺の言葉を復唱するんだ。復唱とは確認のために言われた内容を自分も繰り返して唱えることだ。わかるか?……そうか、わかるのか。キミは天才なんじゃないのか」
「……てんさい……すぅ~ぱぁ~……わたし……すぅ~ぱぁ~てんさい……」
どうやら愛苗ちゃんは『スーパー』がお気に召したようで、息を吸って吐く動作とともに発せられるスーパー天才・水無瀬 愛苗の呼吸音がスーパーになった。
虚ろな目で『すぅ~ぱぁ~』『すぅ~ぱぁ~』している水無瀬に弥堂は続けた。
「私は水無瀬 愛苗です。希咲 七海ではありません」
「わたしはみなせまなです。ななみちゃんではありません」
「復唱は正確に行え。私は水無瀬 愛苗です。希咲 七海ではありません」
「ふくしょうはせいかくに……わたしはみなせまなです。きさきななみではありません」
「よしいい子だ」
虚ろな目で棒読み口調で自分の言葉を反芻するクラスメイトの女子の様子に弥堂は満足げに頷いた。
「どうすんだよこれ。一気に犯罪臭さが加速したぞ」
「え? さすがにネタでしょ?……こんなことってある?」
「ねぇ、大人のひと呼んで来ようよ……」
「いや待て。この後どうなるのか若干興味がある。もう少し様子見ようぜ」
周囲の皆さんの戸惑いを他所に状況は進んでいく。
「よしいいこだ」
「おい、それは復唱しなくていい」
「おい、それはふくしょーしなくていい」
「聞けよてめぇ」
「きけよてめー」
「どういうことだ」
「どーいうことだ」
想定していたものとは違う挙動を見せる実験動物を弥堂は訝しんだ。
「おい! 本当に大丈夫か!? このまま様子見てていいのかこれ」
「私いやよ! 犯罪発生の現場に立ち会うとか!」
「でもよ……へへっ、なんかいいな……あの水無瀬さんの口から汚い言葉が聞けるなんて……」
「は? きもいんだけど」
騒然となっていく周囲の様子を鑑みて、多少想定とは違うものの、時間がないと判断し弥堂はこのまま進めることを選んだ。
「私、水無瀬 愛苗は放課後に弥堂 優輝には会いませんでした」
「わたし、みなせまなはほーかごにびとーゆーきにはあいませんでした」
「よし」
「よし」
概ね目論み通りに暗示がかかっていると判断して弥堂は手応えを感じた。
元々は特殊な環境で特殊な薬品の使用を伴って行うものであったが、これを教えてくれた“彼女”曰く、『通常では考えられないくらい単純で思い込みが激しい者ならば条件不充分でも掛かるかもしれない』とのことであったが、どうやら今回は対象がちょっと考えられないくらいの者であったようで、期待通りに事が進みそうだ。多少思っていたのとは違う挙動も見せてはいるが弥堂はそれには目を瞑った。
「私、水無瀬 愛苗は体育館には行きません」
こちらにとって最も致命傷と成り得る行動を止めるべく進める。――が、しかし
「わたし、みなせまなはたいいく……かん……いき…………」
「む?」
少なくともここまで、余計なものまで含めて言葉を繰り返すことだけは完璧であった水無瀬の様子が変わる。
「……たい、いく……かん……いきま……いく……かん……いきまかん……」
「おい、水無瀬?」
「……いく……いく……いくかんいく……いきまなんみないくかんいくかん……」
「違う、行きませんだ。ちゃんと復唱しろ。私は体育館に行かない」
不穏を感じて弥堂は語気を強めた。
「……た、いいく、かん……いかな、いく……いくいくかんいく……いきたい……」
「ダメだ、行くな。それは許可出来ない。行かないと言え」
「たいいく、だめ……いく、だめ……いかない……やだ、だめ……いく……だめ、いくいくいく……」
「くっ……なんてことだ……」
虚ろな目で「いくいく」を連呼するマシーンと化した水無瀬を制御することが出来ずに弥堂は己の未熟を恥じた。当然周囲のみなさんはどん引きだ。
「おいこら弥堂‼ 水無瀬さんになんてこと言わせてんだてめぇっありがとうございますっ‼」
「このクソ野郎、公共の場所で突然特殊なプレイおっぱじめやがってどうもありがとうございますねェェっ⁉」
「おいこら男子ども、本音出てるぞ」
義憤に燃える男子生徒達は激昂し、女子生徒達からの見る目は冷たい。周囲の状況は混沌となってきた。
「ふむ」
しかし、そんな状況でも弥堂は特に気にした様子もなく、落ち着いて顎に手を当てしばし思考すると
「どうやら失敗のようだな」
別段、固執することもなく即座に作戦の失敗を認めた。弥堂は『いま』『ここで』『見込んだ』『効果』を発揮できるものにしか価値を見出さないのだ。
しかし世間様は彼ほど切り替えが早くはない。
「失敗のようだなじゃないでしょ! 弥堂あんたこれどうすんのよ!」
「お前これ弥堂これ、もとに戻せるんだろうな? 水無瀬さん完全にバグってんじゃねえか」
極めて常識的な倫理観をお持ちの方々からご尤もなお怒りのメッセージが届けられる。この間も水無瀬は棒読みで同じ単語を連呼し続けている。そして中には――
「水無瀬ちゃん水無瀬ちゃんこっち向いて?……お姉ちゃんだいすきっ!」
「……おねーちゃんだいすき……」
「きゃーかわいいーーー!」
「水無瀬さん自分もいっすか……んんっ、くせぇんだよこの豚野郎!」
「……くせーんだよこのぶたやろー……」
「ああああありがとうございますっ‼」
「あ、あの水無瀬さん……お兄ちゃんごめんなさい」
「……おにーちゃんごめんなさい…… 」
「ありがとうございます! ありがとうございます‼」
――中には早速悪用する者たちが居て、この私立美景台学園は一般生徒と謂えどもその民度は割と最悪であった。