野次馬たちは続々と我も我もと水無瀬の周りに集まり、思い思いの台詞を彼女に復唱させる。感極まって涙を流す者までおり、会場は大盛り上がりだ。場には異様な熱気と人々の情念が渦巻き、そしてそこにあるのは圧倒的な感謝だった。
「……ありがとうございます……」
「ありがとうございますっ‼」
「……ありがとうございます……」
「ありがとうございますっ‼」
「……ありがとうございます……」
「ありがとうございますっ‼」
「……ありがとうございます……」
もはや水無瀬が復唱しているのか、水無瀬の言葉を周囲が復唱しているのかわからない状態へと陥り、感謝を伝える言葉は怒号となり学園の敷地中に響き渡りそうな勢いだ。もちろんこの場の全員が感謝の合唱に参加しているわけではなく、極めて常識的な者達にとっては侮蔑の対象なのだが、しかし世間一般的には常識的でマジョリティであってもこの場に於いてはマイノリティ側に立たされ、この差異の感覚はその者達にとってはただただ恐怖でしかなかった。
「え? ちょっとマジで怖ぇんだけど……なにこれ? カルト?」
「……私これ知ってる……うちのパパが昔勤めてた会社でさ、入社してすぐ合宿だとか言って携帯奪われて山奥の収容所に入れられて、わけわかんないセミナー受けさせられたらしいのよ。んで、自分でもよくわかんないけど最終日はこんな感じでみんなで泣きながら叫んでたって聞いたわ……えぇ、もちろんブラック企業よ」
場は混迷を極めた。もはやこの場を収拾することはたとえ教師や警備部であっても難しいかもしれない。だが、そうであったとしてもこれを見過ごすことは出来ない者もいる。
弥堂 優輝は風紀委員だ。校内の風紀の乱れを正す職務を担っている以上、このような学園敷地内での騒乱を認めるわけにはいかない。
なので、速やかにこの場を鎮圧することに決めた弥堂は、慣れた動作で暴徒鎮圧用に懐に忍ばせていた爆竹を取り出すと100円ライターで素早く着火し、感謝の合唱をしている集団の手前のスペースに迷いなく放り込んだ。
爆竹から発せられるパパパパパパーンっと乾いた破裂音により集団の感謝の合唱は止み、代わりに多数の悲鳴が上がった。
「ぱぱぱぱぱぱーん」
「おわぁっ⁉ てってててててってめぇこら弥堂こらボケェっ! やっていいことと悪いことがマジでわかんねえのかてめぇこら!」
「てめーこらびとーこらぼけー……」
「黙れこのクズどもが」
「だまれこのくずどもが」
「んだこら? 爆竹なんぞ放ってくれやがってクズはてめぇだろうが」
「んだこら……」
「俺は風紀だ。校内での騒ぎは認められない」
「元はと言えば1から10まで全部てめぇのせいだろうがあああっ‼」
「……てめーのせーだろーがー」
見ようによってはより一層に阿鼻叫喚となったかもしれないが、ともかく多くの者がショックと怒りにより正気へと返り、儀式めいた怪しい合唱を止めることには成功した。幸い負傷者は出なかったようだが、しかし水無瀬さんの不具合は解消されなかったようだ。
「おうこらぼけ、上等な口ききやがって三下風紀がよぉ、随分チョーシくれてんじゃねぇか、えぇおい? やんならやったんぞこらぁ」
「やったんぞこらー」
「黙れ低能。貴様にやれることなど何もない。失せろ」
「だまれてーのー」
「あぁ⁉ 試してみっかぁ? てめ、 こら! ぶち殺……あ、あの、水無瀬さん? 危ないからあっちのお姉ちゃんのとこ行ってようね? ね?」
「ぶちころー」
随分とガラの悪い生徒さんであったようだが女子供には優しいナイスガイのようで、「水無瀬ちゃんこっちこっちー」と手招きする女生徒の方へと水無瀬を促した。ただ単に意気が削がれて邪魔だっただけとも謂える。
「待て」
しかし、弥堂はか弱い女生徒の避難を妨害した。
「あぁ?」
「迂闊にそいつに触れるな」
「んだこら? 彼氏気どりかぁ? あぁん? チョーシのんなよてめぇ」
「今からそいつを元に戻す。俺の邪魔をするな。消えろ」
「戻すって……お前ホントに戻せんのかこれ?」
弥堂はその言葉には答えず水無瀬へと顔を向けた。必要なことはもう伝えた。これ以上邪魔をするようなら実力を以て排除するだけだ。
「水無瀬」
「みなせ」
水無瀬の目を見つめ彼女の状態を回帰させるべく以前に教わったことを記録から引き出す。その方法を――
――方法を……方法を……方法を……
「ふむ」
弥堂は指先で顎を撫でた。
「お、おい。どう思う?」
「怪しいぜ……なんか考え込んでるぞあいつ」
一応は静粛にしていたが、不穏な気配を感じた野次馬たちから囁き声が上がり始める。
そういえば――
そういえば、弥堂にこれを教えた女が所属していた組織は過激極まる宗教団体の暗部だ。
そもそも対象を洗脳し、必要とする情報を引き出すために主に使われた技法であったのだが……情報さえ得られればその対象はもう用済みなわけであって――
つまりは、もとに戻す方法など存在しなかった。
「おい弥堂……お前、まさか……」
「黙れ」
「だまれ」
だが、まぁないものは仕方ない。弥堂はもう面倒になった。
「あー、水無瀬ー。その、あれだ。俺の手を見ろ。今から指をパチンっと鳴らす。それでお前は元に戻る。もうそれでいいな?」
「ちょっと! 何よその投げやり!」
「それでいいな?ってなんだ⁉ お前ふざけてんのか、クソ野郎!」
「……くそやろー」
周囲からは非難の嵐だが、弥堂は全てを無視してカウントを始める。カウントした方がなんかそれっぽいと思ったからだ。
「あー……3……2……1……」
パチンと弥堂は指を鳴らした。
「――はっ⁉ 私は一体何を――⁉」
「「「「「嘘でしょ⁉⁉」」」」」
ちょっと考えられないくらい単純で思い込みの激しい水無瀬さんは正気に返った。
一同からの総ツッコミであったが、しかし一応は状況は事無きを得たようで、催眠時の記憶がないのか事態が掴めずにキョロキョロと辺りを見回す水無瀬の姿に人々は安堵した。
そして不本意ではあるが一応形上は功労者である木の上の男に労いの言葉をかける。その功労者は下手人でもあるのだが。
「ははっ、なんだよ弥堂お前。出来んなら早くやれよな。マジでビビっただろ」
朗らかに弥堂へ賛辞を贈るがしかし、当の本人はだんまりで水無瀬へと懐疑的な視線を送っていた。声をかけた男子生徒がその様子を不審に思い彼を見ていると、誰に聞かせるつもりでもなく思わずといった様子で弥堂の口から言葉が漏れた。
「――嘘だろ」
「おい!」
「マジかよ……こいつ、マジかよ……!」
「頭おかしいんじゃないの」
今日イチどん引きした人々からの、元々最低な弥堂の好感度がさらに最小値を下に更新した瞬間であった。
弥堂は暫く水無瀬の様子を見守っていたが、信じ難いことではあるがどうやら本当に回復しているようで、施術者としてはそうなる理由は一つたりとも思いつかなかったが、だがしかし、いくら理屈を後付けしたところで今目の前で起こっている事象以上の説得力を持たせることは不可能であるし、それを超え覆すような理論を考えることも不毛だ。弥堂はこれはもうそういうものなのだと割り切った。
「水無瀬」
「え――あ! 弥堂くんっ!――そうだ……私すぐに――」
「それはもういい。動くな、喋るな、考えるな。そっちのお姉ちゃんの所に行っていろ」
弥堂に気が付き、水無瀬は自分が何をしようとしていたのか思い出したのだろう、すぐにまた慌てだしそうになるが、弥堂は機先を制しそれを止めた。
「で、でも……ど、どうしたら……」
「どうもこうもない。飛び降りる」
「飛び降りって……え⁉」
弥堂が現在居る木の枝は校舎二階フロアに相当する高さだ。本人は簡単に言ってはいるが飛び降りるとなるとそれなりに危険を伴う高さとなる。
水無瀬は「あわわわわ……どうしようどうしよう」と焦って辺りを見回すと「水無瀬ちゃんおいでー」と両手を拡げて呼びかける上級生のお姉さんが目に入った。それに何か閃きを得たのだろう、彼女が何か思いついた時に周囲の者に幻視させるお花をピコンっと頭に一本咲かせた。
「ど、どうぞっ‼」
木の上の弥堂に向って両腕を拡げて伸ばすとぎゅっと目を瞑った。
「……何の真似だ……」
またしても理解不能な仕草を見せた被験者に弥堂は再度不審な視線を送った。
「うっ、受け止めますっ! どうぞ‼」
「どうぞじゃないが?」
目は瞑ったままでしかし、気概は十分だというアピールで水無瀬は再度その短い両腕をバっと拡げた。
「……受け止めるって……お前な……」
弥堂は身長178㎝、体重は70㎏近くある。対して受け止める側の水無瀬は小柄で、150㎝にも満たない身長に体重もどう見ても50㎏はない。せいぜい40㎏あればいい方であろう。
男子の中でも高身長な部類の弥堂を女子の中でも小柄な水無瀬が受け止める。誰がどう考えても無理だった。
「私こう見えてもけっこう力もちだから遠慮しないでっ、どうぞっ!」
弥堂の疑心を掃うように水無瀬は「ふんっふんっ」と鼻息荒く気合を見せた。
弥堂はそれに「はぁ――」と溜め息を一つ。
そもそも水無瀬の立ち位置は弥堂の居る桜の木から5mほど離れている。助走もなしにそこまで飛べというのかと呆れを滲ませつつ、しかしその方が今は都合がいいと「いいか? 絶対に動くなよ」と短く警告を発し、何の予備動作も覚悟もなく落下した。
急速に高度の変わる視界の中で、「ひょわあぁっ」と奇声をあげる水無瀬が自身の着地点に突っ込んでくるようなことがないと確認し、特に何事もなく両の足で着地をした。
着地の瞬間『タタッタタッタタッターン』と高速で乾いた音が鳴る。
その音に周囲の者達は驚き、また水無瀬も、彼女の鈍い反射神経と運動能力なりに遅れて弥堂を受け止めるべく一歩だけ踏み出していた体勢で固まった。
口をぽかーんと開きながらその大きく丸い目で茫然と弥堂を見ていたが、数瞬で我を取り戻すとわたわたと弥堂に走り寄り、目の前でしゃがみこんだ。
それを訝しんだ弥堂は、害はないだろうとは思うがしかし、何かおかしな動きを見せれば即座に膝蹴りを叩き込めるよう重心を調整し様子を見る。すると水無瀬は人差し指で恐る恐る弥堂の膝をチョンチョンっとつつき、次いで脹脛や腿をペタペタと触わると、遂には何やら揉み解し始めた。
「…………何をしている?」
弥堂は努めて冷静に尋ねた。
「だ、だいじょうぶ? 足じぃーーんってなってない?」
心底から案じているのだろうとわかるほどに、瞳に心配の色を滲ませこちらを見上げてくる彼女に頭を抱えたくなる。
弥堂からしてみればバカにしているのかと感じられるが、しかし先程までと同様にこれもまた総て彼女の善意なのだろう。
疲労感を吐き出すように弥堂は短く息を吐き、未だ自分の足に謎のマッサージを施す水無瀬の眼前に左手を差し出した。
目の前に差し出された手の意図がわからず、水無瀬は首をかしげ少しだけ考えると、弥堂のその手を両手でハシっと捕まえ、なにやらにぎにぎし始めた。
別に手をマッサージしろという意図を込めたつもりのない弥堂が彼女に「違う。両手でしっかり摑まっていろ」と伝えると、水無瀬はようやく意図を察し、その大きな両の瞳をキラキラと輝かさせると彼の左手を両手でしっかりと握った。
それを確認した弥堂は――出来れば安全の為に彼女の手首を握りたかったので掌を握るのはやめて欲しかったのだが――特に力を入れることもなく彼女の軽い身体を引っ張り上げた。
それほど強く引っ張ったつもりは弥堂にはなかったが、運動神経の乏しい水無瀬は立ち上がった瞬間にトトっとバランスを崩してよろけると弥堂の方へ倒れこみそうになる。
それを弥堂は彼女の肩を右手で軽く抑えることで支えてやる。
「えへへ……ありがとう」と照れ隠しに笑いながら礼を言う彼女がしっかりと立っていることを確認すると、弥堂はすぐに彼女から両手を離した。
それでも、何が楽しいのかわからないがそのままニコニコとしながら自分に顔を向け続けている彼女の――水無瀬 愛苗の顏を見ていると、彼は――弥堂 優輝は何か言い知れない不思議な感覚に囚われた。
先程までここで起きていた騒動は事態が収拾したのかどうかさえ、もはやよくわからなかった。そもそも自分はここで何をしていて、何をしに来ていたのかさえ忘れそうになる。締まりが悪く、締まりがなく、全くを以て冗長が極まって、段取りもなければ結もない。要はグダグダすぎた。
彼女に付き合っているとしばしば、こういった不思議な脱力感に苛まれる。弥堂があまり経験のしたことのない、彼には言語化の出来ない徒労感や諦観に似たナニカ。
弥堂にはそれが何なのかわからなかった。
そして、こういった無駄を最も嫌うはずの自分がそれほどには不快になっていないことに、弥堂 優輝は気が付いてはいなかった。