俺は普通の高校生なので、   作:雨ノ千雨

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1章18 4月18日 ➀

 4月18日 土曜日。

 

 

 その日は美景台学園高校は休みだが、午前中から目を覚ました弥堂 優輝(びとう ゆうき)が寝室から出てきて最初に眼にしたのはダイニングテーブルの上のバッテリーの切れたスマホだった。

 

 

「……あいつどんだけメッセージ送ってきたんだ」

 

 

 弥堂をしてゾッとさせるような量の未読メッセージを確かめるのは流石に躊躇するので、出来ればこのままスマホを眠らせておきたい。

 

 

 だが、本日の予定を熟す以上スマホは必要不可欠なので、仕方なく弥堂は充電ケーブルを挿しこんだ。

 

 

 続いて湯を沸かすためにキッチンへ向かう。

 

 

 朝にコーヒーを飲む習慣は普段はないのだが、何故だか今朝は苦味を吐き出したい気分だったのだ。

 

 

 しかし、周りを見渡してもヤカンが見当たらない。

 

 

 昨夜も使ったばかりなのですぐに見つからないような場所に仕舞うようなことはないはずだがと、記憶の中の記録を探ってみる。

 

 

 すると、すぐに思い出す。

 

 

 そういえばゴミ捨ての際に階下のゴミ捨て場にいる小沼さんになんとなくヤカンを投げつけたのだった。

 

 

 チッと舌を打ち、しかし特段執着することなくすぐに諦める。

 

 

 元々そんな習慣はない。

 

 得ることが出来なかったからといっても何かを失ったわけではない。

 

 ヤカンを失った男はそう自分に言い聞かせた。

 

 

 代わりに冷蔵庫から水のペットボトルを取り出し、万能バランス栄養食である『Energy(エナジー) Bite(バイト)』を一つ持ってテーブルへ戻る。

 

 朝食だ。

 

 

 少しは溜まっただろうかと電源ボタンを指で抑えつけると画面に灯が入った。

 

 起動中のスマホをテーブルに放置して、Energy Biteの袋を開ける。

 

 一口齧ると脳が痛むような甘味を感じ、寝起きの意識が一気に覚醒する。

 

 

 誰も居ない、物が極端に少ない部屋にブロックを齧る音だけが鳴り、ただそれだけの一定の時間が流れる。

 

 

 覚醒した意識が再びぼやけていくような、時計の秒数がカウントアップされていくだけの時間。

 

 

 

 

 

 

 

 スマホが鳴る。

 

 

 流れ出した音楽は魔法少女プリティメロディ☆フローラルスパークのテーマ――つまり電話の着信だ。

 

 

 ペットボトルを傾け、ゴッゴッ――と水を喉の奥に流し込み、それからスマホに手を伸ばす。

 

 

「俺だ」

『いよぉ、兄弟。オレだ』

 

「なんだ」

『あぁ。朝から悪ぃな。つかよ、取り込み中か?』

 

「いや。何故そう思う?」

『何度か電話かけたんだがよ、ずっと繋がらなかったからな。女でも連れ込んで抱いてんなら邪魔しちゃ悪ぃなってな』

 

「朝からそんなことをするほど暇じゃない」

『夜からずっとって線もあるぜ? 聞いたぜ? 抜かずに三発だって? クカカっ、やっぱオメーは面白ぇなぁ、兄弟』

 

「言っただろ。生憎そんな無駄なことに割く時間がないんだ」

『おいおい、そいつぁよくねーぜ。男には立ち返る時間や場所が必要だ。だから女は定期的に抱いておけ。じゃねーと早死にするぜ?』

 

「そうだな。今抱えている仕事が終わったら考えてみよう」

『女ならいくらでも世話してやるから、いつでも言えよ?』

 

「考えておこう」

『ハッ、そいつぁツレないねぇ。まぁ、いいぜ。とにかく今は大丈夫ってことだな?』

 

「あぁ」

『そうかい。そいつぁ重畳』

 

 

 電話の向こうでニヤリと哂った気配を錯覚した。

 

 

「で?」

『あぁ。用件は一つだけだ』

 

「そうか。例の?」

『あぁ。今日の昼に新美景北口。歓楽街の中。風俗通りの手前あたりに行けば会えるはずだ』

 

「よく潜り込ませられたな。しかもこんなに早く」

『あぁ。運よく最適な人材がいたからな。だが、時間がなかった分まだ大したネタはねえだろう。今日は顔合わせ程度に考えてくれ』

 

「わかった。それで、誰に会えばいいんだ?」

『行きゃあわかるぜ。言ったろ? 最適なヤツだって』

 

「あぁ。あの人か……」

『そういうことだ。いい配置だろ?』

 

「そうかもな。会うだけでいいのか?」

『あぁ。ヤツを出した時点ではこっちも兄弟が受けてくれるか決まってなかったからな。向こうは誰が来るかわかってねえ。顔なじみだし、問題ないよな?』

 

「あぁ」

『オレの方からの要望としては今日のところは挨拶だけでいい。何か訊きたいことがあればヤツに訊いてもらって構わねえぜ』

 

「わかった」

『何か必要な物はあるか? 何でも用立てるぜ』

 

「必要ない」

『ハッ、ツレないねぇ。チャカでもなんでも用意するって言っただろ』

 

「なんだ? 今日でもう仕留めて来いと言いたいのか?」

『そいつぁ誤解だぜ。むしろモメねえでくれって気を揉んでるぜ』

 

「そうか」

『まぁ、なんかあったら言ってくれよな。取引だからってことじゃあねえ。オレぁよ、兄弟。オメーの為なら労は惜しまねえぜ』

 

「そうか。じゃあ一つ用立てて貰おうか」

『お? なんだ? いいぜ。なんでも言いな』

 

「ヤカンだ」

『あ?』

 

「ヤカンをくれ」

『……そいつは何かの比喩か? 聞いたことねえが、人間の首とかって話か?』

 

「違う。ヤカンはヤカンだ。湯を沸かすヤカン。家にあった物を紛失してしまってな」

『ヤカンって失くせる物なのか……?』

 

「それと、もうひとつ――」

『あん?』

 

「――俺はお前の兄弟になった覚えはない」

 

 

 電話を切る。

 

 

 やることは決まった。

 

 とりあえずは着替えて出かける準備を始める。

 

 スマホの充電が溜まった時には出掛けるにちょうどいい頃合いだろう。

 

 

 テーブルを立とうとした時にスマホの画面上部の通知アイコンが眼に入る。

 

 こちらは既に相当に溜まっていることが予測できる。

 

 

 弥堂は眉を寄せて通知をタップする。

 

 

 画面に触れた指を下方向へ撫で盛大に顔を顰めると、次は画面下から上へ指を払って画面外へそれを追い出した。

 

 

 立ち上がり、ケーブルに拘束されたスマホを置き去りにテーブルを離れる。

 

 

 

 

 

 

 

 新美景駅北口。

 

 時刻は12:30を過ぎた頃。

 

 

 昼飯時で行き交う人の群れに紛れ、弥堂は歓楽街を歩いていた。

 

 

 ここは基本的には飲み屋街なのだが、日中にも営業をしているキャバクラやバーに加えて通常の飲食店などもあることから、この時間帯でも人通りは多い。

 

 

 駅の北口から出るとすぐにこの飲み屋街が広がっており、その中を奥に入っていくと風俗店が密集した区域に繋がる。

 

 その為、今弥堂が歩いている通りでは、飲み屋・飲食店・風俗店の各キャッチが精力的に動いているので男女の声が飛び交い、見た目の上では活気があるように映る。

 

 

 だが、実際にはこの街は澱んでいる。

 

 

 現行の条例では、こういったキャッチ行為は禁止されているのだが、ここの歓楽街は奥にあるスラム――外人街の影響が大きく、よっぽどのことがなければ警察も自主的に取り締まりをしない。

 

 警察の利権に海外マフィアが食い込んでいるためだ。

 

 

 過去に一般市民がキャッチのことについて生活安全課に通報をしたことがあり、その場合は警察も動かざるをえないので取り締まりを行ったことがある。

 

 

 その際に起きたのは見せしめだ。

 

 

 被害者は警官ではない。

 

 

 通報を行った罪もない一般市民が“何らかの方法で”外人街の連中に特定をされ殺された。

 

 早朝に駅前に吊るされた裸に剥かれた死体が見つかるという事件が何回か起きるに連れ、通報をする地元の人間は段々と減っていき、現在では誰も触れないようになった。

 

 

 もちろん、死体が見つかるたびに犯人は捕まっているのだが、そんなものは当然ただの身代わりだ。

 

 だが、表向きはそれぞれの殺人事件は解決されたことになっている。

 

 

 しかし、身代わりにする手下以下の捨て駒などいくらでもいるので、奴らの気分次第でこれからもいくらでも同じことが出来るだろう。

 

 

 そんな危険な街ではあるが、奴らもやりたいことは商売なので、特に面子を潰されるようなことがない限りは普通の歓楽街とそう大きくは変わらない。

 

 ここを利用する客も自分が楽しむのに不都合がなければそれで構わないし、ここで働く人間の多くも自分の所属する店が具体的にどの程度闇に関わっているかなど気にもしていない。

 

 

 一時の快楽、一夜の幻想。

 

 夢から覚めればいつもの日常に帰れる。

 

 

 その夢をどうやって見ているのかなど考えても割に合わないし、もしかしたらそれは無粋なのかもしれない。

 

 

 警察や、元々ここをナワバリにしていた地元のヤクザなどには気に食わないことなのだろうが、弥堂にとっては都合がよかった。

 

 

 他の街に比べ、ちょっとやそっとのことでは警察が出てこないからだ。

 

 殺しさえしなければ、ちょっとくらい人を殴っても咎められることは少ないし、また治安が悪い地域のため、弥堂に殴られた相手も後ろ暗い事情があり警察に頼れないケースが多い。

 

 

 非常に快適で過ごしやすい街だと謂えた。

 

 

 足を止める。

 

 

 人の流れの中で突然それを堰き止めるような真似をすれば当然接触の危険がある。

 

 

 弥堂の後ろを歩いていた男が舌打ちをし方向転換する。

 

 追い越しざまに目線を弥堂へ向け睨みつけてきた。

 

 

 弥堂がその男の尻を蹴りつけてやると彼は悲鳴をあげ走って逃げていった。

 

 

 それには眼もくれず弥堂は辺りを視線で撫でる。

 

 

 ここは風俗通りや貸事務所などの雑居ビルが並ぶ道にも繋がるちょっとした広場になっているスペースだ。

 

 ここらには人も多く集まるようになっているため、前述したキャッチの者どもも必然的に多い。

 

 

 恐らくこの辺りが弥堂の目的地になるはずで、ここに会う約束になっている該当の人物がいるはずだ。

 

 

 人混みの中からその既知の人物を探そうとしていると、一際大きなキャッチの声が聴こえる。

 

 

 そちらに眼を向けると、そこに居るのは大きな看板を持った小汚い男が居た。

 

 

 半裸の女性の写真が十数枚貼り付けられた板に棒を打ち付けただけの粗雑な手製の看板。

 

 コーディネートもクソもない着られればなんでもいいとばかりのボロボロの服装。

 

 腰に巻き付けられたロープは地面に引き摺られた網と繋がっており、彼が動くたびに網の中の無数の空き缶がガラガラと音を鳴らす。

 

 ボサボサの白髪。

 

 顏の半分も覆うような伸ばしっぱなしのヒゲの中から、その大きな声を発する度に口が覗く。ボロボロで本数の足りない黄ばんだ歯が、その身から放つ異臭とともに声を掛けられた者に不快感を齎す。

 

 どう見てもホームレスだ。

 

 

「シャチョサン! ポッキリ! ポッキリヨ! シンミカゲリュウ イチマンエン ポッキリ! ホンバン ポッキリ! オ〇〇コデキルヨ! オ〇〇コポッキリ! イイコイルヨ! キモチイイヨ! スゴイシマルヨ! シャチョサンノオ〇〇ポモポッキリヨ!」

 

 

 声を掛けられた男は興味深そうに看板の写真を覗き込もうとするが、異臭が鼻についたのか、すぐに顔を顰めて離れていく。

 

 

 ホームレスのキャッチはそのことを全く気に留めた様子もなく次の通りすがりの男たちに近づいていく。

 

 ガラガラと空き缶が鳴った。

 

 

 カタコトではあるが、他にいる普通のキャッチたちよりも威勢よく声を張り出してアピールをしている。

 

 しかし、下に伸びきった眉毛は瞼にかかり、そこから半分ほど覗く目は茫洋としており何処か定まらず、話しかけた相手にもはっきりとはその視線は向いていない。

 

 

 弥堂はその男の方へ近づいていく。

 

 

 すぐ背後まで辿り着くと、ちょうど話しかけられた男たちが離れたところだった。

 

 

 しかし、しつこくしすぎたのか、ホームレスの男に腕を掴まれた男が不快感を顕わに力強く振り払う。

 

 その際に手に持った看板が傾いたせいで大きくバランスを崩しホームレスの老人は倒れそうになる。

 

 

「チャンさん」

 

 

 弥堂は名を呼んで声を掛けながら傾いた看板を右手で持ち、左手でホームレスの身体を支えてやった。

 

 

「アイヤーッ⁉ ……ン? オォ……、シャチョサン アリガトネ。シェイシェイヨ、アリガトヨ。オレイニヤスクスルヨ! ポッキリネ! ソク〇メ イチマンエン! ポッキリヨ! イイコ イルヨ!」

 

 

 ホームレスは自分を支える弥堂に気が付くと嬉し気な声で礼を述べ、すぐに客引きのターゲットを向けてきた。

 

 その視線はやはりはっきりとは弥堂へ向いていない。

 

 

 弥堂は呆れたように息を吐き、もう一度声をかける。

 

 

「チャンさん」

 

「ダイジョブ! ワカテルネ! ダイジョブヨ! ポッキリヨ! ポッキリダカラ! カワイイコシカイネーヨ! ミンナ ホンバン! ミンナ ポッキリヨ!」

 

「チャンさん。俺だ」

 

「ンン?」

 

 

 そこで初めて気が付いたかのように指で目にかかる眉毛を持ち上げて弥堂の顔を覗き込んでくる。

 

 

 異臭が漂ってくるが慣れた臭いだ。特には気にならない。

 

 

「アー! アー、アー!」

 

 

 ホームレスの男は弥堂の顔を認め、手を打って大袈裟に納得したような雰囲気を出す。

 

 

「ダイジョブ、ダイジョブ! ワタシ ワカテル! ダイジョブヨ!」

 

 

 汚らしい眉毛で隠れる目の奥がニヤリと獰猛に哂った気がした。

 

 

 

 垂れさがった瞼が細められ、歪んだ三日月が描かれる。

 

 

「アイヤー! オニサン! ワカルヨ オニサン! コナイダハアリガトネ! シェイシェイヨ! イイオ〇〇コダタロ? キニイッタカ? マタイクカ? ポッキリヨ! イツモ イチマンエン ポッキリヨ!」

 

「チッ、またトんでんのか。アンタ」

 

「トベル! モチロン トベルヨ! トベル オ〇〇コ イチマンエン ポッキリヨ!」

 

「違う」

 

「チカウ? ナニ チガウ? オマエ オ〇〇コ イラナイカ?」

 

「そうだ。お〇〇こはいらない」

 

「アイヤー! ソダタカ! ワタシ マチカエタ! オマエ ソッチダタカ!」

 

「そっち? わかってんのか?」

 

「ワカル! ワタシ ワカル! ダイジョブ! アルヨ! エーエフ アルヨ! オニサン エーエフ ダイスキ! エーエフ センモン イチマンエン ポッキリ! ケツアナ ポッキリ! ポッキリア〇ルヨ!」

 

「ちげーつってんだろ、このクソジジイ」

 

 

 まるで意思の疎通が図れずに辟易し、弥堂はこのままの状態でコミュニケーションをとることを諦めた。

 

 ジャケットに手を突っこみ内ポケットを探る。

 

 そこから小さめの密閉袋を取り出しジップを開ける。

 

 

 そしてその袋を逆さまにし、未だ勢いを失わずに営業トークを駆使する老人の目の前に中身をぶちまけた。

 

 

 老ホームレスの反応は顕著だった。

 

 

「アヒャアァーーーーーっ! シケモク! シケモクジャアーーーーーっ!」

 

 

 手に持っていた物を放り出し、ガバっと地面に這いつくばる。

 

 倒れそうになる看板を弥堂は危なげなくキャッチし、老人の様子を醒めた瞳で見下ろす。

 

 

「シケモク! シケモク! ワシノ! ワシノ! ポッキリシケモク!」

 

 

 地に撒いたのは予め用意してきたタバコの吸い殻だ。風紀委員のボランティア活動や校内巡回中に拾い集めた物である。

 

 

 老人は路面に膝を着け両手でそれを搔き集めて、動作の定まらぬ震える手で懐からクシャクシャのビニール袋を取り出す。

 

 それから骨ばった痩せた手で吸い殻の塊を握り込み、指の間からボロボロと溢しながら袋に詰めていく。

 

 その目はギンギンにギラついている。

 

 

 そうしているとやがて落ち着かぬ様子で自身の身体のあちこちをポンポンと叩きつつ辺りをキョロキョロとする。

 

 

「チャンさん。ほら」

 

 

 弥堂は嘆息しつつチャンさんと呼んだ老ホームレスの眼前に100円ライターを差し出してやる。

 

 チャンさんは弥堂の顏には一瞥もくれずにライターを持つ手に飛びつき両手で摑まえる。

 

 

 骨と皮しかないような痩せた手の見た目にそぐわぬ強い力で掴まれ、そして奪い取るようにライターをひったくられた。

 

 伸びきって黒く汚れた爪が掌を引っ掻いていった。

 

 

 そのことに悪びれるどころか気付いた様子もなく、チャンさんは慌ててライターを操作し、2回着火に失敗してから3回目で口に咥えたシケモクの点火に成功する。

 

 そのままンパンパと音を漏らしながら喫煙に夢中になる。

 

 

「ンパッ ンパッ シケモク ンパッ」

 

「ヤクじゃねえんだからよ。アンタ一体どうなってんだ……?」

 

「ンパッ ウメェ! ンパッ ンパッ シケモク ウメェ!」

 

「おい。そろそろいいだろ」

 

 

 声をかけるがチャンさんは弥堂の声など届いていないかのようにンパンパしている。

 

 弥堂は3度目の嘆息をすると手に持った棒を持ち上げ板を縦にし、無言で老人の後頭部目掛けて振り下ろした。

 

 

 ヒュオ――っと風を切った板が地面にぶつかる直前でピタっと止まるまで、弥堂の手に何の手ごたえも伝えてはこなかった。

 

 振り下ろした看板と地面との間には誰もいない。

 

 

「おいおい。年寄りになんちゅう真似しやがるんじゃ、このクソガキャぁ」

 

 

 その声が聴こえてくるとほぼ同時に、手に感じる重みが増す。

 

 

 地面から視線を上げ、手に持った看板の先を視る。

 

 

 縦にした板の角に乗ってその老人はしゃがんでいた。

 

 ニィっと唇を歪め、僅かに残った黄ばんだ歯と色の悪い歯茎を見せつけてくる。

 

 その視線は鋭く、はっきりと弥堂へ向いていた。

 

 

 

「アンタがいつまでもボケてっからだろ」

 

「ダァレがボケてるってぇ? ワシャァもう現役じゃあねえがまだそんな歳じゃあねえぞ」

 

「そっちのボケじゃない。シケモク吸わねえと正気に戻らないってアンタどんな病気なんだ? 医者行けよ」

 

「カカッ、そうしてえのも山々だが生憎ワシャァ保険証がねえからなぁ」

 

「だろうな。そろそろいいか?」

 

「アン? せっかちなガキだな。まぁいい。ここじゃあ人目につく。こっちに来な小僧」

 

 

 そう言ってチャンさんはこのメイン通りに空いた小さな穴のような狭い路地の入り口を顎でしゃくった。

 

 黙ってそちらへ歩くと背後からガラガラと喧しい音が着いてくる。

 

 

 弥堂は先に路地に入り、振り返って老人に看板を返してやった。

 

 それを受け取ったチャンさんは路地の入口に立ちメイン通りの方へ向く。

 

 そして自身の身体の前で看板を持ち、路地に蓋をするようにして仁王立ちになった。

 

 弥堂は路地の壁に背を預ける。

 

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