俺は普通の高校生なので、   作:雨ノ千雨

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1章27 深き宵深く酔い浅き眠り朝は来ない ①

 5階の扉を開くとそこにも薄暗い通路があった。

 

 

 ただし、今しがた通ってきた場所の様にバックヤードのような薄暗さではなく、高級感のあるホテルの廊下のような様相だ。

 

 

 床にはカーペットが敷き詰められ余程不作法な歩き方をしなければ足音も鳴らない。

 

 廊下の左右にはいくつものドアがあり、それぞれが個室になっている。

 

 そのドアの横には仄暗い暖色ライトが飾られておりぼやっと部屋番号が書かれたプレートを浮かび上がらせている。

 

 

 4階よりもさらに静かな場所だ。

 

 それぞれの部屋にはしっかりと防音が施されているようで、4階よりもさらに静かだ。

 

 しかし、それでも静謐さなどはここにはなく、どこか重くてジメついた空気が蔓延している気がした。

 

 

 それを感じさせるのは各部屋からほんの僅かに漏れ聴こえてくる人の声のせいだ。

 

 

 防音処理をしてはいるが、しかし安全上完全に防音にするわけにはいかないので、注意をしていなければ聴こえない程度の音が漏れている。

 

 

 虫の鳴き声のような遠さで廊下に散りばめられているのは、男女の談笑する声と、くぐもったような女の嬌声だ。

 

 

 立ち止まる弥堂を追い越して前に進み出たバニーさんが、わざとらしい仕草で頭の上のうさ耳に手を当てて耳を澄ますフリをする。

 

 

「うーん……、今日もみんな元気に『あんあん』と励んでますなー」

 

「趣味が悪いぞ」

 

 

「うんうん」と満足げに頷くバニーさんに侮蔑の眼を向けると、彼女はスススッと近寄ってきて声を潜める。

 

 

「ねねね? ここの全部の部屋でさ、色んな女の子――それも知ってる子たちがさ、エッチしてるんだよ……? コーフンしない?」

 

「別に」

 

「強がんなよこいつぅー。普段リンっと澄ました子とかー、ツンっと連れない子やー、キャピっと爛漫な子もー、みぃーんなアンアン啼いてるんだよ? コーフンするっしょ?」

 

「何故だ? 彼女達は仕事をしてるだけだろう?」

 

「えぇー……ノリわるーい」

 

「そう言われてもな。例えば、公園で子供たちにアイスクリームを売ろうと、世界中の人間が使うような便利な機械を売ろうと、ここでこうしていようと、手にした1円の重量も価値も変わらないだろう?」

 

「えぇ……、でもそんなこと言ったら強盗して手に入れたお金も同じ、とかって言えちゃわない?」

 

「それは犯罪だろう。俺が言ったのは合法な商売の話だ」

 

「……でもさ、ワタシよくわかんないんだけど、ホントはキャバでこういうのってマズイんじゃないの?」

 

「さぁな。俺も専門ではないが、仮に立ち入られても一応合法だと言い逃れが出来るようにはなっているらしいぞ」

 

「えぇっ⁉ そうなの⁉」

 

 

 反射的に驚きから大声を出してしまい、バニーさんはパっと自身の口をおさえてキョロキョロと周囲を見回す。

 

 弥堂はその仕草に呆れ混じりの視線を向けながら補足する。

 

 

「そもそもだが、そういった検査だか監査だかが入る時は事前にリークがあるらしい。その為に定期的に金を払っているようだしな。よっぽどの事件性があって緊急を要するような通報がない限りは本当の意味での抜き打ちなどない」

 

「えぇ……、なにそれー……、あんまり知りたくなかったぁ」

 

「知らない方がいい。言っただろ線引きをしろと。こういった事に詳しくなりすぎて、さっき俺が言ったようなことに共感できるようになったら、もう簡単には抜けられないくらいに足が浸かり過ぎていると思え」

 

「気をつけます……」

 

 

 気落ちしたように肩を落とすバニーさんはふと弥堂に目を向けると、パチパチと不思議そうに目を瞬かせ首を傾げる。

 

 

「そういえば、なんでジャージなの?」

 

「今更か」

 

「しかもガッコジャージだし。居たなぁ。ワタシがJKの時にも。私服ジャージの子。クスクス……ださーい」

 

「校外活動をしていてな、着替える時間がなかったんだ」

 

「……こうして見ると信じるしかないけど、ホントに高校生なんだね……」

 

「どういう意味だ」

 

「なぁーんかさー。年下に見えないし思えないし。年上って言われた方がナットクいくし、最低でもタメかなぁーって……」

 

「それはキミの受け取り方次第だ」

 

 

 答えにならない答えを返す弥堂を疑惑の目で見るバニーさんだったが、それとは関係のない箇所に気が付きピッと指を差す。

 

 

「あ、ねねね。思いっきしガッコ名書いてるけど、コレはマズくない?」

 

「うん? あぁ、そうだな。確かによくないな」

 

 

 言われて思い出したと弥堂はジャージの上着を脱ぐ。

 

 その様子をジッとバニーさんに見守られながら脱いだジャージを裏返し、そしてそれをそのまま着込んだ。

 

 

「これでよし。さぁ、いくぞ」

 

「ダダダダ、ダセェーーッ⁉」

 

「おい、うるさいぞ」

 

「いやいや……いくらなんでもそんなテキトーな……」

 

 

 凛々しい顏つきでジッとジャージのジッパーを無理矢理閉じた男にバニーさんが呆れていると、一際大きな女の嬌声が聴こえた。

 

 するとバニーさんは顏にいやらしい笑みを浮かべた。

 

 

「おやおやぁ~? 今の声って華蓮さんじゃなぁ~い? 意外とカワイイ声出すのね」

 

「……違うな。今のは彼女の声じゃない」

 

「へぇ~……、わかるんだ? 『違う』って。ふぅ~ん?」

 

 

 咎めつつも面白がる、そんな嗜虐的な色に光る視線が彼女の瞳から向けられる。

 

 そうしながら彼女はまた身を寄せてきた。

 

 

「ねぇ? なんで違うってわかるの?」

 

「単に記憶している彼女の声とは違うと思ったからだが」

 

「ふぅーん。その記憶ってさぁ、『いつ』『どこで』『どんな時に』聴いた記憶? もしかしてベッドの中で……とかだったり……?」

 

「邪推はよせ」

 

 

 再び首に腕を絡められながら弥堂は鬱陶しそうに女をあしらう。

 

 

「いーじゃん。なんで隠すの? ユウキくんは別に黒服じゃないんだから風紀にはなんないでしょ? 華蓮さんに聞いてもはぐらかされるし」

 

「別に隠してはいない。そのような事実はない。それだけだ」

 

「えー、絶対ウソだよー」

 

「しつこいぞ」

 

「ふぅ~ん? じゃあ証明できるよね?」

 

「する必要がないな」

 

 

 にべもない弥堂を無視して、彼女は艶っぽく舌先で唇を薄く舐めた。

 

 

「ね。華蓮さんが入ってる部屋。隣は今空き室なんだ」

 

「それがどうした」

 

「一緒にそこ、いこ……?」

 

「行く必要がないな」

 

「華蓮さんがどっかのおじさんにヤられちゃってる隣でさ? ワタシとシてみない?」

 

「みる必要がないな」

 

「本当に華蓮さんとそうゆう関係じゃないんならさ。デキるよね? ワタシと」

 

「必要があるならな」

 

「じゃあ証明してみせてよ。ホントのコトだって、ワタシに身体でわからせてみせてよ……」

 

「……お前わざと無視してるだろ」

 

「もぉーっ! そこは売り言葉に買い言葉でノってきてよー! つまんなーいっ!」

 

 

 頑なにえっちなお姉さんムーブを続ける女に胡乱な瞳を向けると、彼女はコロッと表情を変えて今度はダダを捏ね始めた。

 

 

「いい加減にしろよ。さっさと俺を案内するか部屋番を教えろ」

 

「やだやだつまんなーいっ!」

 

「うるさい黙れ」

 

「じゃあさ、黙らせればいいじゃん! ほらほらっ、バニーさんのぷるぷるの唇だよー? んーーー」

 

「…………」

 

 

 目を閉じて唇を突き出してくる女に弥堂が深く溜め息を吐くと、その吐息が彼女の前髪を揺らす。

 

 

 ここまで大分我慢を重ねた。

 

 

 重要な仕事前ということもあるし、何より契約を交わしている店の従業員ということもある。

 

 だから我慢をした。

 

 しかし、それもここまでだ。

 

 

 そういえばつい先日に『煩い女の黙らせ方』を記憶から引き出したばかりだったなと思い出しながらバニーさんの後頭部をガシッと掴む。

 

 

「え――?」

 

 

 そして間近にあった彼女の唇に自分の唇を当てる。

 

 

「――あむ……っ⁉ ちゅ……、んぅっ……そんな、ほんと……にっ……んんーっ⁉」

 

 

 上から覆うように唇を重ね、彼女がなにやら言葉を喋ろうとした隙に強引にその咥内へと侵入していく。

 

 

「――んーーっ、んちゅ……、ぷぁ……、いきなり……んっ、したまで……ぇっ、んちゅ……っ」

 

 

 口を塞いで呼吸を阻害しながら蠢く舌を執拗に絡めとり、何も喋らせぬよう何も考えさせぬよう脳髄を痺れさせる。

 

 応じるようにあちらから舌を絡めようと伸ばしてきたら自身の舌を引っ込め、こちらの咥内へと這入りこんでくるそれを強く吸い込みながら抑えつけ下唇の裏側を舐めあげる。

 

 疲弊して舌を退きあげさせればそれを追ってまた相手の咥内へと突っこみ、掻き出すようにして引き摺り出す。

 

 

 水音が弾ける音と荒い鼻息を無感情に聴きながら、そんな暴力的な接吻を暫く作業的に続けていく。

 

 すると、弥堂の袖口をギュッと掴んでいた彼女の手からクタっと力が抜ける。

 

 それを確認して唇を離し、焦点の惚けた彼女の瞳を冷酷に見下ろした。

 

 

 尻を鷲掴みにし腰砕けになるのを許さず立たせ続ける。髪が乱れることを慮らずに後頭部を掴み目を逸らすことを許さず、そして必要なことを訊く。

 

 

「華蓮さんの部屋は何番だ。言え」

 

「ふぁぃ……、S1、れしゅ…………」

 

「そうか」

 

 

 唾液と、それに溶けた口紅で汚れる彼女の口元をジャージの袖口でグイっと雑に拭い、その手で彼女の胸元を覆う布を強引にずり下げて乳房を露出させた。

 

 そして今度は彼女の背中に手を回す。

 

 背中を撫でおろしていくと指先がバニースーツと彼女の肌との隙間にぶつかる。

 

 その隙間に親指を捻じ込んだ。

 

 

「あんっ……強引……っ、部屋までガマンできない……? ここでしちゃう……?」

 

 

 期待と情欲に濡れる瞳には何も応えず、無言で突っこんだ指を引っ掛けながらバニースーツを掴んで力づくで彼女の身体ごと片手で持ち上げる。

 

 

「んっ――⁉ やだ……くいこんじゃ……って、いたっ! いたたたたたっ……⁉ ちょっと! 食い込みすぎてマジ痛いんだけどっ⁉」

 

 

 素に戻ってガチめの抗議をする女を無視し、片手で彼女を持ったまま手近な部屋のドアへ近づいていく。

 

 

「えっと……? えっ? なになに? ちょっとその部屋はお客さんが……まさか――っ⁉」

 

「発情して困ってんだろ? 偶然にも同じように発情した男が中に居るみたいでな」

 

「うそぉっ⁉ うそうそやだやだやだ……っ! むりっ! むりだからっ!」

 

「お客様に失礼のないように使ってもらえ」

 

 

 躊躇いなくドアノブを回して扉を開けると、中の利用者が何か反応を見せる前に性欲旺盛なバニーさんを投げ入れた。

 

 

「――ぅきゃあぁぁぁーーーっ!」

 

 

 彼女の叫び声が終わる前に扉を閉める。

 

 

 耳に馴染みのない男女の慌てたような声も背景にしながら、さっき使った方とは逆の袖で自身の口周りも雑に拭い、ベッと高価なカーペットの上に唾を吐き捨てて歩きだす。

 

 

 目的地となる部屋はS1番の部屋。

 

 廊下の右側の列の一番奥だ。

 

 

 先程バニーさんが言っていた通りならその隣のS3番の部屋は空いているらしい。恐らく少しくらいなら大きな声を出されても大丈夫なようにマネージャーが配慮して空けておいてくれたのだろう。

 

 

(黒瀬さんにはいつも気を遣わせるな)

 

 

 S1番の部屋のドアノブに手を伸ばしながらそんなことを考え、その手を止める。

 

 

 どうせならその配慮を最大限活用させてもらおうかと、右足を持ち上げ靴底を勢いよく前に突き出して扉を蹴り開けた――

 

 

 

 

 

――バタンと、大きな音を立てて扉が開かれ、パタパタと慌ただしくも軽い足音を鳴らしながら屋内へ駆けこむ。

 

 

「ただいまーーっ!」

 

 

 自宅へと帰ってきた水無瀬 愛苗(みなせ まな)は玄関から廊下の向こうへと元気いっぱいに帰宅を報せるごあいさつをした。

 

 間もなくしてパタパタとスリッパの踵が床を叩く音とともに奥の部屋から女性が現れる。

 

 

「おかえりなさい、愛苗。遅かったわねー」

 

「うん、こんな時間になっちゃってゴメンなさいお母さん」

 

 

 そう言ってペコリと頭を下げる娘に「あらあら」と困ったように笑いながら玄関まで迎えに来たのは水無瀬の母親だ。

 

 娘の愛苗とよく似た栗色の髪を緩くまとめている、おっとりとした雰囲気の女性だ。

 

 

「ちゃんと買えたかしら?」

 

「うんっ! ほら!」

 

「あらあら、よかったわねぇ」

 

 

 時刻は20時前後、休日とはいえ高校生としては大分遅い時間に帰宅した娘を特に咎めることもなく、戦利品を見せびらかすように手荷物を前に掲げる姿に「あらあらうふふ」と嬉しそうな笑顔を浮かべる。

 

 

「すぐにご飯たべる? それとも先にお風呂かしら?」

 

「えっとね……、おなかすいた!」

 

「うふふ、それじゃあ手を洗ってお父さんを呼んできてくれるかしら?」

 

「えっ? もしかしてご飯待っててくれたの?」

 

「そうなの。愛苗と一緒にたべたいって聞かなくって……」

 

「わわわ……っ! 大変だぁ。ごめんなさーいっ」

 

「ほら、荷物持っててあげる。お父さんはお店の方にいるからお願いね?」

 

「うんっ。ありがとう」

 

 

 買い物袋を母親へ手渡し玄関框に腰掛けてスニーカーを脱ぐ。

 

 それから脱いだ靴を綺麗に揃え直して「うんうん」と満足げに頷くと、ネコさんスリッパに足を通してパタパタと奥へ駆けていく。

 

 

「あらあら。慌てなくていいのよー?」

 

 

 慌ただしく走っていく娘の背を見送っていると「んなーぉ」と鳴き声がかかる。

 

 

「あら。メロちゃんもおかえりなさい」

 

 

 にこやかに足元に声を返した。

 

 

 一緒に帰宅していた黒猫は玄関の床にゴロリと寝転がると自分を見下ろす水無瀬母へと四本足を突き出した。

 

 

 勝手知ったるとばかりに母親は雑巾を取り出しメロの足裏を拭き始める。

 

 

「メロちゃんは本当にお利口さんねぇ」

 

「ぅなぁー」

 

「うふふ。お父さんに内緒で残しておいたお刺身あげるわね?」

 

 

 口元に手を寄せ飼い猫へと内緒話をする。

 

 そうしてうにゃうにゃと喜びの声をあげる猫を抱き上げキッチンへと戻っていった。

 

 

 水無瀬家は自営業で『amore fiore』という花屋を営んでいる。

 

 娘の愛苗の高校進学に合わせて学校に徒歩で通える距離の新興住宅地にて開業した形で、元々はこの美景市の出身ではない。

 

 自宅と店舗は一体となっており、1階は店舗スペースとダイニングキッチンやリビングに風呂などがあり、2階が寝室となっている。

 

 

 居住スペースと店舗には特に大袈裟な区切りなどはなく、扉ひとつで隔てているだけだ。

 

 

 愛苗はその扉を開け放つ。

 

 

「お父さんゴメンなさーい!」

 

「おや、おかえり愛苗」

 

 

 店舗スペースに入るとすぐ目に付く場所で作業をしていた父親が顔をあげる。

 

 柔らかい笑みを浮かべる眼鏡をかけた優しげな男性だ。

 

 

「あっ……! ただいまっ。遅くなっちゃってごめんね?」

 

「いいんだよ。ちょうどやりたい作業があったからさ」

 

「そうなんだ。私お手伝いするね!」

 

「大丈夫。今終わったところだよ。それよりご飯なんじゃないのかな?」

 

「わわわ……っ! そうだった。待っててくれてありがとう。えへへー、一緒に行こう?」

 

 

 ニコッと笑みを浮かべて父親の手を引き歩き出す。

 

 高校生となった今でも大分距離の近い親子のようで、そのまま手を繋いで母親の待つダイニングへと向かう。

 

 

「あらあら仲良しねー」

 

「うんっ! お母さんも手つなごー」

 

「うふふ、いいわね。でもね、その前に愛苗には、はいこれ」

 

「あっ」

 

「先にお部屋に荷物置いてきなさい? 大事なものでしょ?」

 

「そうだったぁ! あっ――でも、ちょっと待ってね……」

 

 

 母親へ預けていた荷物を受け取りすぐにその場にしゃがみこんで紙袋をゴソゴソとあさる。

 

 そして取り出した物を父親と母親にそれぞれ差し出した。

 

 

「はい、これっ。あのね、お父さんとお母さんにもプレゼント買ってきたの!」

 

「おや」

「まぁ」

 

 

 二人は驚いたように目を丸くしてそれを受け取る。

 

 

「お、お小遣いは大丈夫なのかい? 追加であげようか……?」

「もう、お父さんったら……。まずは愛苗にありがとう、でしょ?」

 

「えへへ。セールになってた物なんだけど、お父さんにはネクタイでお母さんにはハンカチにしたの」

 

「ありがとう愛苗。嬉しいよ」

「大切に使うわね。ありがとう愛苗」

 

 

 慈しむ目で娘へと感謝を伝える。

 

 父親は普段カジュアルスタイルでエプロンを着けて仕事をしているので、冠婚葬祭の時くらいしかネクタイなどは使わないのだが、そんなことはおくびにも出さずに心から喜び娘の頭を撫でる。

 

 

 通常、高校生くらいの年頃の娘はそんなことをされれば髪型の崩れを気にしたり、父親とはいえ性別の違いから嫌がるケースも多い。

 

 しかし、水無瀬家ではこれが日常の風景であり、愛苗も少し擽ったそうにするだけで嫌悪など欠片もなく、両親が喜んでくれたことを心から嬉しく思っていた。

 

 

「じゃあ、私お片付けしてくるねっ」

 

 

 満面の笑みを浮かべてパタパタと階段を上がって自室へと向かっていく。

 

 

 穏やかな笑顔でそれを見送っていた夫婦だったが、ふと呟くように父親が言葉を漏らした。

 

 

「……あの愛苗が恋だなんて……」

 

「うふふ。さみしい?」

 

 

 隣に立つ母親は少しイタズラげに夫の顔を覗く。

 

 

「うぅーん、もちろんそんな気持ちもあるんだけど、嬉しい気持ちの方が大きいかなぁ……。ちゃんと普通の女の子みたいになってくれて」

 

 

 染み入るようなその言葉を受けて、ふと母親の表情に陰が差す。

 

 

「……本当はこんな時間まで出歩いてること、叱らなきゃいけないんだけど……。最近学校の帰りも遅くなってるし」

 

「……そうだね。でも、それよりも。元気に外で遊べるようになってることに嬉しくなっちゃうなんて……。ダメだなぁ、ボクたち」

 

「うふふ、そうね。あの子なら悪いことしたりとかは大丈夫だと思うけど……、危ないこともあるかもしれないし」

 

「もしもあまり続くようならボクから言うよ。父親だからね……嫌われたり、しないよね……?」

 

「大丈夫よ。あの子が誰かを嫌ったりなんてあるわけないわ」

 

「そうだよね。でも、本当に元気に育ってくれてよかった……」

 

「えぇ……」

 

 

 どちらからともなく、気持ちを擦り合わせるようにキュッと手を握り合う。

 

 すると足元からも同調するように「んなぁー」と細い鳴き声があがり、スリスリと母親の足に身体を擦り寄せられた。

 

 

「あら、悲しそうに鳴いて。おなかすいて我慢できなくなっちゃったの? ごめんなさいねメロちゃん」

 

 

 空気を切り替えるように「うふふ」と笑いながら母親はメロを抱き上げてキッチンへと連れて行く。

 

 

「……そうだよな。辛いことも苦しいことも、もう乗り越えたんだ。こらからはたくさんの幸せだけがあるはずだ。いつまでも引きずってちゃいけない……」

 

 

 一人その場に残った父親は不安や陰鬱さを吐き出す為にか、重く一つ溜息を吐いた。

 

 

 その姿を、母親に抱かれて連れて行かれる黒猫が耳をヘナっと伏せながら見ていた。

 

 

 

 

 

 はぁ――

 

 

 自身の心情を示唆する為だけにそうしていることを隠そうともしない――そんな露骨な女の溜め息が大して広くもない個室内に響く。

 

 

(しつこいな。いつまでやってんだ)

 

 

 つい浮かんでしまったそんな感想はおくびにも出さず、弥堂も弥堂でその溜息を露骨に無視してスマホを操作する。

 

 今しがた新たにできた『お友達』の連絡先などの個人情報を共有すべく関係各所に送信してバラまいた。

 

 自分自身はディスプレイに表示された番号を登録はせずに、ジッと視て記録する。

 

 

 すると、また重い溜め息が聴こえる。

 

 当然弥堂は無視をした。

 

 

 スマホを仕舞い、床に散乱した物を拾っていく。

 

 これらは今回の会談の為にと弥堂が用意してきたプレゼン資料だ。

 

 床に放られているので、これらは投げ捨てられ取引は破談になったかのようにも見えるがそんなことはない。

 

 これらの資料はとても役に立ったし取引も無事に成立をした。

 

 

 なので、これらの資料は一旦は用済みということになるのだが、何かの機会に再び必要になることもあるかもしれないし、一応はこれらを決して外部には流出はさせないという約束にもなったため、こうしてわざわざ回収をしているのだ。

 

 

 自身の横顔に照射されるジトっとした視線を無視しながら弥堂は黙々と裸で絡み合う男女が写った写真を拾い集める。

 

 

 適当に周囲に目線を振り、拾い溢しがないかを形だけ確認して立ち上がった。

 

 それからようやく口を開く。

 

 

「さて、やるべきことは済んだ。おかげで助かったぞ。ご苦労だったな。協力感謝する。また何かあれば頼むこともあるだろう。では、俺はこれで――」

 

「――待ちなさい」

 

 

 流れでいけばこのまま帰れるかもしれないと弥堂はとりあえずチャレンジしてみたが、当然呼び止められる。

 

 こういった場合、『自分は当然のことをしている。何もおかしなことなどない』という態度を貫くことが肝要だ。

 

 そのことを意識しながら弥堂は女の方へようやく顏を向けた。

 

 

 そこに居るのはソファーに座った半分ドレス姿の女。

 

 

 スタイリストによって綺麗に盛られて巻かれた明るい色の髪。

 

 暗い場所でもはっきりと映えるメイク。

 

 素体の方も頭の天辺から足の先まで惜しみなく時間と金をかけて手入れを行き届かせていることがわかる。

 

 

 そんな女が、高級感のある革張りのソファーに腰を下ろし優雅に足を組みながら、こちらへ厳しい眼差しを向けていた。

 

 

「なにか用か?」

 

 

 素っ気のない弥堂の返事に、女の瞼がピクと震える。

 

 その動きで瞼に豪奢に貼り付けて増殖させた睫毛が一層際立ち目に付いたので、なんとなくそこに視点を合わせて彼女の目を見ているフリをする。

 

 

「なにか――ですって……? まさかなにもないだなんて思ってないわよね?」

 

「もちろんだ」

 

 

 弥堂は即答で意を得たりと厳かに頷く。

 

 

 もちろん、彼女が何を言いたいのかは弥堂にはまるでわかっていない。

 

 

 しかし、この手の自分の意図を男に言わせていちいち正解・不正解を言い渡してくるような女は、もしも最初にわからないと伝えた場合、『どうして私の気持ちをわかってくれないの』などとイチャモンをつけてくるのだ。

 

 なので弥堂はこういった場合はとりあえず『わかる』と答えるようにしている。

 

 

 当然、後でそのことがバレて余計に怒られることになるケースが多いのだが、運よく正解を引くことが出来れば事無きを得られることもある。

 

 どうせ怒られるならと、そのワンチャンを引き当てる僅かな可能性を少しでも未来へと繋ごうとしても損はないと、弥堂はそのように考えていた。

 

 

「言ってみなさい」

 

「断る」

 

「はぁ?」

 

 

 即答で言及することを断る弥堂へ向ける不機嫌そうな女の視線がより険しいものに変わる。

 

 

「なんで?」

 

「要はアンタがなにに怒っているのかという話だろ?」

 

「そうよ。それを言ってみなさい」

 

「その必要はない」

 

「私が言えと言っているの。正誤次第で許してあげるかどうかを決めるわ」

 

「意味がないな。俺はそれをわかっている。アンタも当然わかっている。自分のことだからな。お互いにわかっているとわかっていることをわざわざ話し合う必要などない。時間の無駄だ。とっとと俺を許せ」

 

「…………」

 

 

 今まで無視してたくせに急に言葉数多く捲し立ててきた男を女は無言でジッと見た。

 

 弥堂もその視線を受けながら眼を逸らさずに彼女の姿を目に映し続ける。

 

 

 あともう一回突っ込まれたらこれ以上は返す言葉の持ち合わせがないのだが、だからこそ正々堂々とハッタリと強気な態度でゴリ押すべきだと、そう判断をしたからだ。

 

 

 数秒見つめ合い、やがて女の方が諦めたように肩を落として溜め息を吐く。

 

 

「……もういいわ」

 

「そうか。俺も言い過ぎた。悪かったな。では――」

 

「――待ちなさい」

 

 

 1秒でも早くこの場を辞そうとした弥堂だったが、先程と同じように呼び止められ女からジト目を向けられた。

 

 

「行っていいなんて言ってないわ」

 

「なにか用か」

 

「……それじゃあ繰り返しになっちゃうでしょう?」

 

 

 言いながら女は胸の下で腕を組み、ソファーの背もたれに気怠げに体重を預ける。

 

 

「相変わらずなんだから。いいわ。ちょっと時間をあげます。キミがここに入って来た時のことをよく思い出してみなさい」

 

「…………」

 

 

 呆れたような言葉と共に女が肩を竦めると、胸の下で組んだ腕に持ち上げられ乳房が形を変える。

 

 その様子を視界に映しながら、どうも彼女には逃がしてくれるつもりは毛頭ないようだと弥堂も諦めた。

 

 

「……返事は?」

 

「わかったよ。華蓮さん」

 

 

 彼女には世話になっていることだし、思い出せと言われればそれくらいのことはしてやってもいいかと、彼女の指定通り先程この部屋のドアを蹴破って突入した時の記憶を記録の中から取り出して見る――

 

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