「――ナイーヴ……ナーシング……?」
その男が名乗った名を反芻する。
「そう。そう読んでくれて構わないよ。ただ字は『弱者の剣』と書いてくれたまえ。ココのナカでね」
そう答えてその車椅子の男は自らのコメカミを人差し指でトントントンと3回叩いて見せた。
今より数十分ほど前、昇降口棟にてうっかり窓を開け放ってしまい、廊下中を桜の花びらまみれにしてしまった後、希咲は急いで廊下を掃除してゴミを処分し道具を片付け、自身と親交のある上級生たちと部活動開始前に会うべく急いでこの文化講堂に来ていた。
来週より10日間、G・W開始前であるにも関わらず学校を休み、諸事情により自身の幼馴染たちと旅行へ行くので、その旨を先輩方にご挨拶申し上げていたのだ。
本来そんな挨拶などする筋もないのだが、その旅行に行くメンバーの中心人物の
ただでさえ希咲を含めたこの幼馴染グループである――希咲としては紅月とそんな関係になった覚えはないので大変不名誉な呼び名である――『紅月ハーレム』は、いい意味でも悪い意味でも目立つので、あまり嫉妬ややっかみから来るありがたいお言葉を頂くわけにはいかない。
他の幼馴染たちは喧嘩上等な連中ばかりなので、希咲としてはこの『紅月ハーレム』の広報担当兼営業担当(不本意)として学園内外の知り合いたちとの調整を行い、不用意に揉め事に発展しないよう常日頃から苦心しているのである。
そんな訳で本日の放課後はクラスメイトの素行の悪い女子2人にご挨拶し、その後文科系部活動に所属する先輩方に会いに来る予定であったのだが、自らの過失により廊下を汚してしまい、その清掃が完了後何とか予定どおりに事を済ませる為に、この文化講堂へと急行したのだった。
どうにか予定を熟すことが出来て、本日の学園でのタスクを完了し、これから帰宅前にシフトを入れていたバイト先へと向かおうかと、講堂を後にしようとした時である。
現在地の学園東側にあるこの文化講堂から、学園西側体育館、中庭付近の図書館、そして南側の文化部の部室棟、この三方向に別れる連絡通路へと入った時に――
現在時刻の、部活動を行う者がそれぞれの活動場所への移動を終え、放課後に活動のない者たちが帰宅するべく粗方学園から出払った、校内の各通路に人通りが少なくなると思われる今のこの時を狙ったかのようなタイミングで――
学園中心地の教師や警備員の詰め所などがある大人が常駐する時計塔への直通通路がないこの場所で――
『
希咲はそれとなく視線を左右に流し一団を確認する。
(――5人、か……でも――偶然?)
メンバー構成は車椅子の男を含めて、男子生徒が4人に女子生徒が1人。左手側――今は彼ら全員を視界に納める為に壁を背中にした為向きが変わったが、元々は希咲の進行方向であった帰路に着く為に向かった昇降口棟へ繋がる部室棟への通路を阻む様に車椅子の男を含む3名。
希咲の右手側――体育館へと続く通路に1名。
今は希咲の正面――図書館へと繋がる通路に1名。
合計5名により包囲されていた。
右手に太った男子生徒が1名。正面に特徴の挙げづらい多少陰気そうだが、普通としか形容できない男子生徒が1名。左手側にはこれもまた特徴の挙げにくい、地味――と謂うべきか――そんな女子生徒が1名と車椅子を押すためだろう後ろに控えたガタイのいい男子生徒が1名と、そして――
「ふふふ。『どうしてこんなことになったんだろう』なぁーんて、そんな回想は終わったかな? まだだったら遠慮せずに言ってくれよぉ? 完全下校時間までならいくらでも待とうじゃあないか。もちろん許すとも。だってそうだろぉ? 後悔は弱さ故に付き纏うものだからね。ならば、ボクはそれを許さなければぁならない」
――そして、この男だ。
車椅子に座った――足が悪いんだろうか――痩せぎすの男。しかしその両の目だけはやけにギラついていて、粘着いたような貼り付くような、粘着質で嫌味ったらしく、まるでわざと人を苛つかせる為にしているような大仰な喋り方をする不気味な男。
(ここを通りがかった人なら誰でもよかったのか、それともあたしを待ち伏せしてたのか……)
先程――『無知で弱いキミにモノを教えてあげて救ってあげる。ボクは人格者だからね、そのために来たんだ』――この不気味な男はそう言った。
(まるで、あたしを狙ってたみたいな口ぶりだけど)
しかし、当然だがこんな連中とは希咲は面識がない。
そもそも今この時間に自分がここに居ることをどうやって知った? 自分の中では予め決めていた行動だが、しかしそれを誰にも教えてはいないのだ。それに、件のイケメン幼馴染様関連での厄介ごとではないだろう。集まっている面子を見る限りそういう用件ではなさそうだ。
しかし、なら、それ以外でこのように何の用件かはわからないが、取り囲まれて通行を妨げられるような覚えは、そんな恨みを買った覚えは全くないとは言わないが、検討もつかない。
それこそ――
(まぁ、告白――だなんて、そんな雰囲気でもなさそうだしね、それにしてもこの連中……)
何か違和感を感じる。
普通の女子高生であればこのように突然複数人に囲まれれば怯えてしまいそうなものだが、しかし希咲は冷静に状況を考察する。
この学園に於いて突然このように囲まれたり、また希咲 七海に限っても、このような状況になることは認めたくはないが別段珍しいことでもなく、全く喜ばしくもないが彼女は場馴れしていた。
しかし、現状はその珍しくもない出来事とは少しズレを感じる。
それはやはりこの連中の異質さだ。この異様な彼らに違和感を、そして表現し難い “やりづらさ” を希咲は感じていた。
前提として、この学園でよくあるこういった騒動、迷惑行為。希咲 七海の身に起きるものとしては、先に挙げた幼馴染絡み――紅月 聖人にお熱な女子に唆されて自分に嫌がらせ、もしくは実力行使に来る連中。
次いで、『俺と付き合えよ』だとか『一発ヤらせろよ』だのと、ちょっと見た目を平均よりはほんの気持ち少しだけ派手めにしてるからと謂って、勝手にお安く見てくれやがる勘違いした無遠慮な連中。
そういった手合いが多い。
そして、そんな連中は総じて――見た目からしてわかりやすくガラの悪い不良連中だ。
対して現在目の前にいる彼らは――
希咲はもう一度彼らを見遣る。
何というか、不良などには全く見えない。普通というか……それどころか――
「なんだこの弱そうな連中は?――なぁーんて今そう考えたかなぁ? フフフ」
また思考を先回りされたようで気味が悪くなる。
「なぁに、大丈夫だよ。失礼なことを――なぁんて怒ったりはしないさ。さっきボクが自分でそう言ったからね。ご明察だよ。ボクらはぁ弱いんだ。だからボクらを許してくれよぉ。まさか弱いくせに通路の真ん中に立ちやがって生意気だぁ、なぁんてそんなことはぁ言わないよねぇ? だってそうだろぉ? そんなのは『差別』じゃあないか。とぉっても『ひどいこと』だぜぇ」
気味が悪い。
そう、希咲はこの一見闘争や揉め事などとは無関係そうな、一人一人で見れば普通で大人しそうな彼らが、このように集団で自分を取り囲みニヤニヤと笑っている現在の状況が気味が悪くて仕方がなかった。
正体の知れないもの。目的のわからないもの。
得体の知れないものに対する畏れ。
だが、知らないものは調べる。わからないものは考える。それでもわからなければ直接訊けばいい。
希咲 七海はそのように考える。
(まっ、このまま黙ってても勝手にこっちの意向を汲んで教えてくれるなんて、そんな親切な奴らには見えないしね。友好的でないのは間違いないし……)
「で?」
「ん?」
「答えになってないんだけど?」
「おや、そうかい? 『何』と訊かれたから正確に確実に僕らが『何』であるかと名乗らせて戴いたつもりだったんだがねぇ。あぁ、もしかしてボクの名前が知りたかったのかなぁ? これは大変失礼したね。至らなかったよ。これはボクの過失でありそして弱さだ。だから許してくれよ。ククク……」
「いっちいち回りくどいし厭味ったらしいわね。とりあえずあんたが『ヤなヤツ』ってことだけはよくわかったわ」
一向に進まない会話。望んだ情報・答えが得られないやり取りに苛立ちが募る。しかし、おそらく――というかほぼ間違いなくわざとやっているのだろう。何の為にかは知らないが、こちらを怒らせる為に煽るような言葉ばかりを口から吐くのだろう。希咲はそれにはのらないよう努めて怒りを抑える。
「おいおいひどいじゃあないか。『ヤなヤツ』だなんて。そんなレッテルを貼るのはやめてくれよぉ。ボクのことをよく知らない人が誤解したらどうするんだい? それでボクがイジメられでもしたらどう責任取ってくれるんだい? まさかイジメられる奴が悪い。『ヤなヤツ』はイジメられても仕方ない。自力で解決できない、弱いことが悪いだなんて、そぉんな『ひどいこと』言わないよなぁ?」
「そうやって変な風に拡大していちいち大袈裟に喚くのが『ヤなヤツ』って言ってんだけど?」
「あぁ……大袈裟だなんて『ひどい』ぜぇ。被害者の気持ちを考えてやれよぉ。キミには大袈裟でもその人にとっては耐え難く辛いことだっていっぱいあるんだぜぇ? それこそ自殺にまで至ることだってある。そんな『ひどいこと』はこの世界からなくさなければならない。怒りに震えて涙が止まらないよぉ。人の気持ちを考えましょう、だ。だからボクは弱者の味方をするのさ、どんな時もね。だってそうだろぉ? 弱者には弱者の気持ちがわかるからねぇ。キミにもわかるはずさ、弱いか弱い――希咲 七海さん」
「あんた――」
「おっと、これは失礼! そう、ボクはキミを知ってる。キミの名前を知っているよ希咲 七海さん。でもキミはボクの名前を知らない。だから名乗ろうじゃないか。だってそうだろぉ? そんなのは『平等』じゃあないからね」
(――こいつ、やっぱりあたしを知ってて……)
「ボクの名前は
「――法廷院……」
ここで待ち伏せをしていた上に自分の名前を知っている。間違いなく自分を狙って来たのだろうがしかし、彼が名乗った『法廷院 擁護』という名には全く聞き覚えがなかった。面識も間違いなくないであろう。目的が見えない。
「あぁ、すまない。これは伝え忘れた。ボクのことは名前で呼んでくれたまえ。自分の姓があまり好きではなくてね。『
「…………」
(……あたしのことを知っててあたしを待ち伏せしてた……話を聞いても、言ってることは要領を得ない、目的も見えない。けど、そんなのもう全部関係ない!)
「――どういう意味?」
「ん? なぁにがかなぁ?」
「『過保護な』ってどういう意味? あんた何を知ってるの? 『過保護』って何のことを言ってるの? 誰のことを言ってるの?」
(こいつ……もしも愛苗のことを言ってるんなら――)
「ねぇ――どういうイミ?」
(――ここで潰す……っ!)
「これは怖いねえ。文字通り目の色が変わったねぇ」
視線で突き刺す。猫などがそうするように視線の先の獲物を逃さぬよう、瞳孔が縦長に収縮してピントを合わせる。
こちらの纏う雰囲気が変わったのを感じたのか、今度は彼らが気圧されるように後退る。ただし、車椅子の男とその後ろで車椅子を補助する男は動かなかった。
「やめてくれよぉ、こわいなぁ。そんな眼で睨まないでくれよ。見てごらん、ボクの同志たちを。こぉんなに怯えてしまってかわいそうに。ボクだって震え上がってしまうよぉ。だってそうだろぉ? ボクたちは弱いんだぁ」
「質問に答えろってのよ。言っとくけどこれはとぼけさせたりしないから。絶対に喋らせる――無理やりにでもね」
「なんてこった。無理やりだって? おいおいおい、やめてくれよ、野蛮だなぁ。誰だって誰にも無理強いをしてはいけないよ。だってそうだろぉ? そんなの『自由の侵害』じゃあないか」
「だったら少しはあたしと『会話』してくんないかしら? 人の通行妨げてわけわかんないこと一人で喋って。あたしこれからバイトなの。人の時間奪っておいてよく言うわね。これはあんたの言う『自由の侵害』にはならないわけ?」
「おぉっと、こいつはぁ一本とられたねぇ。そうだね、キミの言う通りだぁ。ちょっと調子にノリすぎちゃったねぇ。どうか自制心の弱いボクを許してくれよぉ」
言っていることとは裏腹に車椅子の男は――法廷院と名乗ったその男はまったく悪びれてもいなければ悔しそうでもない。その態度はずっと変わらず、ニヤニヤと薄ら笑いを浮かべながら不敵なままギラついた目を向けてくる。
しかし、希咲としてもここに至ってはもはや退くわけにも見逃すわけにもいかない。