弥堂は自身の仕出かしたことから興味を失う。
しかし世間様は彼ほど切り替えが早くはない。
「失敗のようだな、じゃないでしょ! 弥堂アンタこれどうすんのよ!」
「お前これ弥堂これ、元に戻せるんだろうな? 水無瀬さん完全にバグってんじゃねえか」
極めて常識的な倫理観をお持ちの方々から、ご尤もなお怒りのメッセージが届けられた。
この間も水無瀬は棒読みで同じ単語を連呼し続けている。
そんな中で――
「水無瀬ちゃん水無瀬ちゃんこっち向いて?……『お姉ちゃんだいすきっ!』」
「……おねーちゃんだいすき……」
「きゃーかわいいーーー!」
「水無瀬さん、自分もいっすか……? んんっ……、『クセェんだよこの豚野郎っ!』」
「……くせーんだよこのぶたやろー……」
「あっ、あああありがとうございますぅっ!」
「あ、あの水無瀬さん……? 『お兄ちゃんごめんなさい』」
「……おにーちゃんごめんなさい…… 」
「ありがとうございます! ありがとうございますっ!」
――こうして早速悪用し始める者たちが居て。
この私立 美景台学園は一般生徒と謂えどもその民度は割と最悪であった。
野次馬たちは続々と、我も我もと水無瀬の周りに集まる。
そして思い思いの台詞を彼女に復唱させた。
一部には感極まって涙を流す者までおり、会場は大盛り上がりだ。
場には異様な熱気と人々の情念が渦巻き――
そしてそこにあるのは圧倒的な感謝だった。
「……ありがとうございます……」
「ありがとうございますっ!」
「……ありがとうございます……」
「ありがとうございますっ!」
「……ありがとうございます……」
「ありがとうございますっ!」
「……ありがとうございます……」
もはや水無瀬が復唱しているのか、水無瀬の言葉を周囲が復唱しているのかがわからない状態へと陥る。
各々の感謝を伝える言葉は怒号となり、学園の敷地中に響き渡りそうな勢いだ。
もちろんこの場の全員が、この感謝の合唱に参加しているわけではない。
極めて常識的な者達にとってはハッキリと侮蔑の対象だ。
しかし、世間一般的には常識的でマジョリティであっても、この場に於いてはマイノリティ側に立たされることとなる。
この差異の感覚は、常識人たちにとってはただただ恐怖でしかなかった。
「え? ちょっと、マジで怖ぇんだけど……。なにこれ? カルト?」
「……私、これ知ってる……。ウチのパパが昔勤めてた会社でさ? 入社してすぐ合宿だとか言って。ケータイ奪われて山奥の収容所に入れられて。ワケわかんないセミナー受けさせられたらしいのよ。んで、自分でもよくわかんないけど最終日はこんな感じでみんなで泣きながら叫んでたって、パパに聞いたわ。……えぇ、もちろんブラック企業よ」
場は混迷を極めた。
もはやこの場を収拾することは、たとえ教師や警備部であっても難しいかもしれない。
だが、例えそうであったとしても。
これを見過ごすことは出来ない者もいる。
弥堂 優輝は風紀委員だ。
校内の風紀の乱れを正す職務を担っている以上――
学園敷地内でのこのような騒乱を認めるわけにはいかない。
なので。
速やかにこの場を鎮圧することに決めた弥堂は、暴徒鎮圧用に懐に忍ばせていた爆竹を慣れた動作で取り出す。
そして100円ライターで素早く着火し、感謝の合唱をしている集団の手前のスペースに迷いなく放り込んだ。
パパパパパパーン――っと。
爆竹から発せられる乾いた破裂音により、集団の感謝の合唱は止む。
代わりに多数の悲鳴が上がった。
「ぱぱぱぱぱぱーん」
「おわぁ――っ⁉ てっ、てててててっテメェこら弥堂こらボケェっ! やっていいことと悪いことがマジでわかんねえのかテメェこらァッ!」
「てめーこらびとーこらぼけー……」
「黙れこのクズどもが」
「だまれこのくずどもが」
「ンだコラ? 爆竹なんぞ放ってくれやがって、クズはテメェだろうが」
「んだこら……」
「俺は風紀だ。校内での騒ぎは認められない」
「元はと言えば1から10まで全部テメェのせいだろうがあぁぁッ!」
「……てめーのせーだろーがー」
見ようによってはより一層に阿鼻叫喚の地獄絵図となったかもしれない。
だが、ともかく多くの者がショックと怒りにより正気へと返り、儀式めいた怪しい合唱を止めることには成功した。
幸い負傷者は出なかったようではある。
しかし、水無瀬さんの不具合は解消されなかったようだ。
「おぅコラボケェ、上等な口ききやがって三下風紀がよぉ。随分チョーシくれてんじゃねぇか? えぇオイ? やんならやったんぞコラァ」
「やったんぞこらー」
「黙れ低能。貴様にやれることなど何もない。失せろ」
「だまれてーのー」
「アァッ⁉ 試してみっかァ? テメ、 コラ! ぶち殺……、あ、あの、水無瀬さん? 危ないからあっちのお姉ちゃんのとこ行ってようね? ね?」
「ぶちころー」
随分とガラの悪い生徒さんであったようだが、女子供には優しいナイスガイのようだ。
「水無瀬ちゃんこっちこっちー」と手招きする女生徒の方へと水無瀬を促す。
ただ単に意気が削がれて邪魔だっただけとも謂える。
しかし――
「――待て」
弥堂はか弱い女生徒の避難を妨害した。
「アァ?」
「迂闊にそいつに触れるな」
「ンだコラ? 彼氏気どりかァ? アァン? チョーシのんなよテメェ」
「今からそいつを元に戻す。俺の邪魔をするな。消えろ」
「戻すって……、オマエホントに戻せんのか、これ?」
弥堂はその言葉には答えず水無瀬の方へと顔を向ける。
必要なことはもう伝えた。
これ以上邪魔をするようなら実力を以て排除するだけだ。
「水無瀬」
「みなせ」
弥堂は水無瀬の目を見つめ、彼女の状態を回帰させるべく以前に教わったことを記録から引き出す。
その方法を――
――方法を……方法を……方法を……
「――ふむ」
弥堂は指先で顎を撫でた。
「お、おい。どう思う?」
「怪しいぜ……。なんか考え込んでるぞあいつ」
野次馬たちは一応は静粛にしていたが。
弥堂の様子から不穏な気配を感じ、再び囁き声をげ始める。
そういえば――
そういえば。
弥堂にこれを教えた女が所属していた組織は、過激極まる宗教団体の暗部だ。
そもそも対象を洗脳し、必要とする情報を引き出すために主に使われた技法であった。
――のだが。
情報さえ得られればその対象はもう用済みなわけであって。
つまりは――
元に戻す方法など存在しなかった。
「おい弥堂……? オマエ、まさか……」
「黙れ」
「だまれ」
だが、まぁないものは仕方ない――と。
弥堂はもう面倒になった。
「あー、水無瀬ー。その、あれだ。俺の手を見ろ。今から指をパチンっと鳴らす。それでお前は元に戻る。もうそれでいいな?」
「ちょっと!? 何よその投げやり!」
「それでいいな?ってなんだ⁉ オマエふざけてんのか、クソ野郎!」
「……くそやろー」
周囲からは当然非難の嵐。
だが、弥堂はその全てを無視してカウントを始める。
カウントした方がなんかそれっぽいと思ったからだ。
「あー……、3……2……1……」
パチン――と。
弥堂は指を鳴らした。
すると――
「――はっ⁉ 私は一体何を――⁉」
「「「「「嘘でしょーーッ⁉⁉」」」」」
ちょっと考えられないくらい単純で思い込みの激しい水無瀬さんは正気に返ってしまった。
一同からの総ツッコミはあったが。
しかし一応は状況は事無きを得たようだ。
水無瀬は催眠時の記憶がないのか。
事態が掴めずにキョロキョロと辺りを見回す。
そんな水無瀬の姿に人々は一旦安堵した。
そして不本意ではあるが一応、形上は、功労者である木の上の男に、人々は労いの言葉をかける。
その功労者は下手人でもあるのだが。
「ハハっ、なんだよ弥堂オマエ。出来んなら早くやれよな。マジでビビっただろ」
朗らかに弥堂へ賛辞を贈るがしかし――
当の本人はだんまりで。
水無瀬へと懐疑的な視線を送っていた。
声をかけた男子生徒はその様子を不審に思う。
そのまま彼を見ていると。
誰に聞かせるつもりでもなく思わずといった様子で、弥堂の口から言葉が漏れた。
「――嘘だろ」
「おいッ!」
「マジかよ……! こいつ、マジかよ……ッ!」
「頭おかしいんじゃないの」
今日イチどん引きした人々からの、元々最低な弥堂の好感度がさらに最小値を更新した瞬間であった。
もちろん下に更新である。
世間様の声を無視して、弥堂は暫く水無瀬の様子を見守っていたが――
信じ難いことではあるがどうやら本当に水無瀬は催眠から回復しているようだ。
施術者である弥堂としては、そうなる理由は一つたりとも思いつかない。
だがしかし。
いくら理屈を後付けしたところで、今目の前で起こっている事象以上の説得力を持たせることは不可能だ。
そして、それを超え覆すような理論を考えることも不毛である。
弥堂は、これはもうそういうものなのだと割り切った。
「――水無瀬」
「え……? あっ⁉ 弥堂くんっ……! そうだ……、私すぐに――」
「それはもういい。動くな、喋るな、考えるな。そっちのお姉ちゃんの所に行っていろ」
声をかけられたことで水無瀬は弥堂に気が付く。
そこで自分が何をしようとしていたのか思い出したのだろう。
彼女のミッションは――
『木登りして降りられなくなっちゃった弥堂くんを助けよう』
――だった。
すぐにまた彼女は慌てて駆け出しそうになるが。
弥堂は機先を制し、それを止めた。
「で、でも……。ど、どうしたら……」
「どうもこうもない。飛び降りる」
「飛び降りって……、え――⁉」
弥堂が居る木の枝は、校舎2階フロアに相当する高さだ。
本人は簡単に言っているが、飛び降りるとなるとそれなりに危険を伴う高さとなる。
「あわわわわ……どうしようどうしよう……⁉」
水無瀬は焦って辺りを見回す。
すると、「水無瀬ちゃんおいでー」と両手を拡げて呼びかける上級生のお姉さんが目に入った。
それに何か閃きを得たのだろう。
愛苗ちゃんが何か思いついた時に、周囲の者に幻視させるお花をピコンっと1本、頭上に咲かせた。
「――ど、どうぞ……っ!」
水無瀬は木の上の弥堂に向かって両腕を拡げて伸ばす。
同時にぎゅっとお目めを瞑った。
「……何の真似だ」
またしても理解不能な仕草を見せた被験者に、弥堂は不信感たっぷりの視線を送る。
「うっ、受け止めますっ! どうぞ……っ!」
「どうぞじゃないが?」
目は瞑ったままでしかし――気概は十分だというアピールで。
水無瀬は再度その短い両腕をバっと拡げた。
「……受け止めるって。お前な……」
弥堂は身長178㎝、体重は70㎏近くある。
対して受け止める側の水無瀬は小柄だ。
150㎝にも満たない身長に、体重もどう見ても50㎏はない。
せいぜい40㎏あればいい方であろう。
男子の中でも高身長な部類の弥堂を、女子の中でも小柄な水無瀬が受け止める。
誰がどう考えても無理だった。
「私こう見えてもけっこう力もちだから、遠慮しないでっ。どうぞ……っ!」
弥堂の疑心を掃うように、水無瀬は「ふんっふんっ」と鼻息荒く気合を見せた。
それに対して弥堂は、「はぁ――」と溜め息を一つ。
そもそも水無瀬の立ち位置、は弥堂の居る桜の木から5mほど離れている。
助走もなしにそこまで飛べというのかと、呆れを滲ませつつ。
しかしその方が今は都合がいいとも考えた。
「いいか? 絶対に動くなよ――」
短く警告を発すると。
弥堂は何の予備動作も覚悟もなく枝から落下した。
急速に高度の変わる視界の中で――
「ひょわあぁっ」と、奇声をあげる水無瀬が自身の着地点に突っ込んでくるようなことがないと確認し――
弥堂は特に何事もなく、両の足で着地をする。
着地の瞬間――
『タタッタタッタタッターン』
――と、高速で乾いた音が鳴った。
その音に周囲の者達は驚き、また水無瀬も固まる。
彼女の鈍い反射神経と運動能力なりにだが、それでも彼女なりに弥堂を受け止めるべく一歩だけ踏み出していたようで――
その体勢のままでフリーズしてしまう。
水無瀬は口をぽかーんと開きながら、その大きく丸い目で茫然と弥堂を見ていた。
だが、数瞬で我を取り戻すと――
わたわたと弥堂に走り寄り、そして彼の目の前でしゃがみこんだ。
その行動を弥堂は訝む。
害はないだろうとは思うがしかし。
何かおかしな動きを見せれば即座に膝蹴りを叩き込めるよう重心を調整し、彼女の様子を見る。
すると、水無瀬は人差し指で恐る恐る弥堂の膝をチョンチョンっとつつき。
次いで脹脛や腿をペタペタと触わる。
しまいには、弥堂の脚をモミモミと揉み解し始めた。
「…………何をしている?」
弥堂は努めて冷静に尋ねた。
「だ、だいじょうぶ? 足じぃーーんってなってない……?」
心底から案じているのだろうとわかるほどに、水無瀬は瞳に心配の色を滲ませこちらを見上げてくる。
そんな彼女に弥堂は頭を抱えたくなった。
弥堂からしてみれば、バカにしているのかと感じられるが。
しかし先程までと同様に、これもまた総て彼女の善意なのだろう。
疲労感を吐き出すように弥堂は短く息を吐く。
そして、未だ自分の足に謎のマッサージを施す水無瀬の眼前に、左手を差し出した。
目の前に差し出された手の意図がわからず、水無瀬は首をかしげ少しだけ考える。
すると、弥堂のその手を両手でハシっと捕まえ、今度はなにやらにぎにぎし始めた。
別に手をマッサージしろという意図を込めたつもりはないので。
「違う。両手でしっかり摑まっていろ」
弥堂は彼女にそう伝える。
そこでようやく水無瀬は意図を察する。
その大きな両の瞳をキラキラと輝かせると。
彼の左手を両手でしっかりと握った。
それを確認した弥堂は――出来れば安全の為に彼女の手首を握りたかったので掌を握るのはやめて欲しかったのだが――
特に力を入れることもなく、彼女の軽い身体を引っ張り上げた。
それほど強く引っ張ったつもりはなかったが。
運動神経の乏しい水無瀬は立ち上がった瞬間にトトっとバランスを崩してよろける。
弥堂の方へ倒れこみそうになった。
弥堂は彼女の肩を右手で軽く抑えることで、それを支えてやる。
「えへへ……ありがとう」
照れ隠しに笑いながら水無瀬は礼を言う。
そんな表情には見向きもせず。
彼女がしっかりと立っていることを確認すると、弥堂はすぐに彼女から両手を離した。
それでも――
何が楽しいのかわからないが。
水無瀬はそのままニコニコとしながら弥堂に顔を向け続けている。
そんな彼女の――
水無瀬 愛苗の顏を見ていると。
彼は――
弥堂 優輝は、何か言い知れない不思議な感覚に囚われた。
先程までここで起きていた騒動は事態が収拾したのかどうかさえ、もはやよくわからない。
そもそも自分はここで何をしていて、何をしに来ていたのかさえ忘れてしまいそうになる。
締まりが悪く。
締まりがなく。
全くを以て冗長が極まって。
段取りもなければ結もない。
要はグダグダすぎた。
彼女に付き合っていると、しばしばこういった不思議な脱力感に苛まれることがある。
弥堂があまり経験のしたことのない――彼には言語化の出来ない徒労感や諦観に似たナニカ。
弥堂にはそれが何なのかわからなかった。
そして、こういった無駄を最も嫌うはずの自分がそれほどには不快になっていないことに――
弥堂 優輝は気が付いてはいなかった。