経緯はどうあれ――
一応は
周囲に集まっていた人々も安堵し、その場に漂っていた緊張感も霧散した――
と思いきや。
多くの者が微妙な表情で気味が悪そうに弥堂を見ている。
「なぁ……見たかよ? なんだよあの気持ち悪い動き……」
「あの着地のやつだろ? なんかめっちゃ足動いてたぞ……」
「アタシ夢に見そうなんだけど……」
「マジきもいわ……」
どうやら高所から無傷で着地をキメた際に弥堂が見せた動作に関して、みなさんはお気に召さなかったようだ。
というのも。
ぴょんっと飛んで普通にスタっと二本の足で着地をしたわけではなく。
身体にダメージを負わぬよう接地の際の衝撃を殺す為に、少々特殊な着地の仕方をしたのだ。
例によって彼の師である女性に教わった技法を弥堂は使用した。
『五点接地』という技術がある。
高所からの着地時に、衝撃が一か所に集中しないよう――
足からの着地後、地面を転がりながら順に接地場所を移して衝撃を分散させる技術である。
両足を揃え、膝を柔らかく力を抜いて。
つま先から着地をしながら転がる。
足の側面、尻、背中、肩と転がりながら接地面をズラしていき、謂わば『受け身』の延長線上にあるような技術だ。
十分に熟達をすれば、地上から5~6m程度の高さくらいなら危なげなく着地を成功させられるとも謂われている。
もちろん、これには特殊な訓練が必要でなので、よいこや良識のある大人は安易に真似をしようなどとは思ってはいけない。
そしてわるいこや良識の備わっていない大人は好きにやって、せめて他人の迷惑にならない場所で勝手に死ねばいい。
しかし――
これを弥堂の師に謂わせれば。
着地するだけでいいのならばそれだけでもいい。
だが、もしもそこが敵地の真っ只中だった場合、悠長に地面を転がっていては格好の的になる――と。
実戦では、戦時下では使えない技である――と。
お師匠さまはそう仰っていた。
故に彼女は弥堂に『手ほどき』をした。
敵の集団のど真ん中に着地をしても、速やかに戦闘に移行出来る業を。
その技法とはこうだ――
まず片足――どちらでもいいので仮に左足からとしよう。
左足のつま先から地面に接する。
次に踵を着けてから膝を曲げ衝撃を抜く。
そして左の膝を抜くと同時に、右足のつま先を着け同様の工程を熟す。
そのままではそれで終わりなのだが。
そこからさらに――
右足の踵が着くと同時に、先に接地していた左足を上げ地面から離し。
右足の膝を曲げて衝撃を抜いたと同時に、再度左足のつま先を設置させる。
同じ工程を行い、そして右足もまた一回上げてまた下すことで――なんと何度でも再利用できるのだ。
五点接地では身体の各部分で順に衝撃を受け止めていくわけだが。
このように高速で足踏みをすることで!
なんと足だけで全ての衝撃をいなすことが可能となるのだ!
初めて彼女からこれを聞かされた時――
弥堂はちょっと何を言ってるのかよくわからなかったので、率直に忌憚なく「ちょっと何を言ってるのかよくわからない」と彼女に伝えた。
そうしたところ首根っこを掴まれ――
『死にたくなければ死ぬ前に出来るようになるのです』
――と、画期的なコツを教わり。
建物三階ほどの高さから、出来るようになるまで突き落とされ続けた。
骨が折れようが皮膚が破れようが彼女は許してくれなかった。
なので、必死に頑張った結果――
弥堂は自分でも何がどうなっているのかよくわからないが、なんとなく出来ようになった。
今回は校舎二階の床面より少し高い程度――約5m程の高さであった。
今では、これくらいなら特に意識しなくとも、問題なく着地を成功させられるようになっていた。
普通の人からしてみればここまででも十分にビックリ芸であったが。
しかし、この業にはさらに続きがあった。
師は云った――
『――いいですかユウキ。聞いているのですか? まずは着地を無事に済ませるところまでで初歩です。あなたはまだ入り口に立っただけに過ぎません。今は地面と人体が衝突した際に生まれた衝撃を抜いて身体の外へ徹して流していますよね? この衝撃を攻撃に転用するのです。今回は修練の為に特別に許されていますが。本来はそれが生物ではないとはいえ、生まれたものをそのまま消失させるなどということは罪深いことなのです。神はそのような無駄をお許しにはなりません。ですので試練は次の段階です。足を接地することで生じたエネルギーを、人体の中で流し周回させ一点に集約させます。その集めた力を敵の身体の内部に直接徹すのです。これが出来るようになれば――ユウキ? 人の話はきちんと目を見て聞きなさい。目線を隠すのは敵に対してだけです。私はあなたの敵ではありません。――いいですか? これは理論上は飛び降りる場所が高所であれば高所であるほど、その高度に比例して得られる衝撃は上がり。つまり比例して打撃の威力も天井なしに上がっていくというわけです。ということは――とても高い所から飛び降りればとても強い力になるので、どんな敵であろうと一撃で……、ユウキ? どこに行くのです? 話はまだ終わっていません。待ちなさいユウ――おねがいまって、おいてかないで……。無視するのやだぁ――』
――記録を切る。
普通の人から見たら十分にビックリ芸な着地を習得した弥堂ではあるが。
これには本当に何を言ってるかわからなかったので、習得は固辞させてもらった。
彼女の言う“試練”とやらに付き合っていると流血は免れないので、これ以降弥堂は何かと屁理屈を捏ねて逃げることになる。
だが――
彼女は実際に弥堂の目の前でこれをやって見せた。
小柄な彼女が、自身の倍はあろうかという大男を10mほどぶっ飛ばしていたのを目撃したことがある。
確かに彼女の言うとおり『りろんじょう』は可能なのであろう。
実際のところ。
この着地までの技法はとても便利で。
弥堂はこの学園に編入してからもよく、校舎の二階窓を突き破って逃走する時などに運用していた。
しかし、どんなに便利な技術にも欠点はある。
この技法に限って言えば、その欠点は絵面がひどい、という点だ。
簡単に言えば高速足踏みで着地をするので、バタバタ動かす足の動きがとても無様で見栄えが悪いということである。
弥堂は他人の目を気にしないので、問題はないといえばない。
だが、それを見た人々はこうしてみな気味悪がるのであった。
弥堂の師である彼女はいつもメイド服を着用していた。
ロングスカートにより足の動きが見えづらい為、その動作の優雅さは然程損なわれない。
しかし、男性である弥堂は基本的にはズボン――今も学園指定制服のスラックスを着用している。
故に、傍から見れば高速タップダンスで着地をキメる変態にしか見えないのだ。
そのためこうして今も、人々は遠巻きにどん引きしている。
人間とは、自分の理解の及ばないものを畏れるモノなのだ。
不特定多数の野次馬のことなどどうでもいい。
弥堂は思考を切り替えた。
同時に視点も変えて――
ちょっとよくわからない――
そんな自身の理解の及ばないものを視る。
その畏れの根源を覗き視ようとする。
眼を細め。
水無瀬 愛苗の瞳を。
その瞳の輝きを視る。
澱みなく濁りなく。
一分の不純物の混在も視止められないその強く真っ直ぐな輝きは――
彼女の――
水無瀬 愛苗というモノの、その存在の強さそのものを、水無瀬 愛苗という存在のカタチをそのまま顕しているようであった。
『世界』の総てを――
『人間』の統べてを信じ切ったような瞳。
まるで悪などというモノはこの世界に存在しない――そんな風に信じ切っていそうなその瞳の色。
醜いモノ、汚いモノ、悪いモノ。
それらを一度足りとてその眼球の水晶体に映したことなどないのだろうか。
ヒトとは己の外の情報を得るのに、その殆どを視界に頼る。
目が見えるのであれば、その依存度は80%であったか90%であったか――
細かい数字はどうでもよく。
だがその多くを目に映るもの映すものに依存しているのであれば――
――眼窩とは、『世界』を覗く窓である。
骨の周りを肉で固め。
その肉の塊に与えられた生命という、必ず喪われる燃料をなるべく長く維持する為に。
効率よく消費する為に。
様々な内蔵器官という肉を肉体という肉の中に埋め込み。
血を流し込み。
漏れ出ぬように皮で包んだ、ヒトという生き物。
その肉の塊の中に己という。
人格という。
自我という。
当て嵌める言葉は何でもいいのかもしれない。
そのよくわからない、あやふやで遷ろう何だかわからない不確かな自分というものを。
臆病にも卑怯にも内に隠し。
眼窩という肉の塊にぽっかりと空いたくぼみに嵌め込まれた、眼球という器官に取り付けられた水晶体というレンズで。
己の外の『世界』を映し。
己以外を――
自分ではない総てのモノを、その中に映像情報として撮り込む。
水晶体が触れた情報は神経を伝達し脳に因って処理をされ、映像として再生される。
それをこの肉体の中で――
自分という誰かが認識をし。鑑賞をし。感動をし。感情が生産される。
感じるという動作で感動する。
自分でもどうやって何を動かしているのかもわからない作業で作用で所作で反射・反応で――
感情という何かわからないものが生産され。
そしてそれは何にどう消費されているのかもわからずに。
わからないままで必ず消えて喪われる。
いつどこで何を亡くしたのだろうか。わからない。
肉体とは自我の牢獄である――
全ての生き物はこの『世界』の中に生まれながら、それぞれの牢獄に囚われ『世界』から隔離される。
唯一『眼窩の窓』から――
収監されたその部屋の天井付近に小さく空いたその窓から――
『世界』を覗くことだけが許される。
視力がないのなら代わりに、聴覚・触覚・嗅覚など、いずれかの手段で以て。
しかし、同様に覗き見ることしか出来ない。
己という誰かは死ぬまでその刑期を終えることはなく。
『世界』を覗き見て撮り込んだ情報から己を何かに定義付けることは出来たとしても――
窓から出て『、世界』に入り込むことは出来ない。
故に――
誰にも。
己にも、『世界』を変えることなどは出来ない。
『世界』の中に生まれ存在しながら、『世界』には入れず。
『世界』には為れず。
己以外の何物にも為れないまま死んでいく。
『世界』は変えられない。
英雄にも勇者にも魔王にも為れずに。
天使にも悪魔にも為れず。
もちろん神にも為れず。
何者にも為れないまま、不確かな己のままで死んでいく。
生まれたことは罪で。
産まれ落ちたことは過失で。
死んでいないことは悪徳で。
誰もがこの牢獄の中で一生を懸けて償い、後悔しながら贖い続ける。
そして――
やがて生命の総てを消費し尽くし、死んだ時にだけ。
己という自我が消失して、初めて釈放され。
『世界』へと還ることが許される。
『世界』の中に為れる。
設計図がある――
魂という――
知覚することは出来ない、あらゆる存在の根幹となるそれを、生命体として物質化するにあたって必要な『魂の設計図』。
それに総てそう書き込まれている。
決められ、定められ、規定され、定義され、デザインされ、許可を能えられた――
その『魂の設計図』が描かれ完成して。
そこで初めて生まれて存在することが許され。
それに描かれた通りの中で、仕様の中でのみ、生きることが許される。
他人より――他の囚人よりも少しだけ優れた才能という先天的だと思った何かがあったとしても。
血の滲むような努力をして、自分に元々備わったモノとは違う新しい何かを勝ち得た気になったとしても。
それは全て仕様の内だ。
当然設計図に予め書き込まれていたそれは、『世界』を変えることなどは出来ない。
取るに足らない『加護』だ。
取るに足らないからこそ許され能えられる。
要件定義などしてくれはしない。
例えば――『魂の設計図』を視覚することが出来たとして。
その中身を読み取ることが出来たとしても。
それを書き換えることは決して出来ない。
設計図を切り刻み、破り捨て、燃やし尽くし。
破壊することは出来たとしても。
その中身を――
魂のデザインを、己の望むように書き換えることなどは決して誰にも出来ないのだ。
『世界』はそれを許したりは――
それを可能とする
決して、しない。
『世界』が。
『世界』自身が、その存続を維持し続ける為に。
どこまでもいつまでも。
己は己という誰でもないままで。
何者にも為れはしない。
それが――
その眼窩の窓から、その眼で視て、知った、牢獄の外の『世界』であった。
では――
彼女の瞳を覗き込む。
その眼窩から彼女の――
水無瀬 愛苗というカタチをした肉の詰まった皮袋のその奥底を――
その洞の中に隠れているはずの、その牢獄の中に囚われているはずの、誰かをナニカを覗き視ようと試みる。
弥堂 優輝と水無瀬 愛苗が、例えば同じ時間に同じ場所で同じモノをそれぞれの目に映したとしても――きっと全く違うモノを感じ取り、全く違う認識をするのだろう。
それは何故だ。
首から提げた借り物のカメラ――
それなりに値の張りそうな、それなりに性能の高そうな、そのレンズの縁を、そっと右手の人差し指でなぞる。
同じものを見ているはずなのに。
その前提は間違いがないと仮定したとして。
その結果に差異が生じるのであれば、その原因は何処にある?
弥堂は左手をゆっくりと上げると、その手をまたゆっくりと水無瀬の顏へと近付ける。
どんなに反射神経の鈍い者でも、頭の回転の遅い者でも反応が出来るように。
わざとゆっくりとよく見えるように。
その手を少女の頬へと近付けていく。
水無瀬は動かない。
自分に近づいてくるその手を、その指先を、少しだけ不思議そうに見つめている。
年頃の少女や女性が異性に触れられる時に抱くような、緊張も忌避も期待も嫌悪も何もない。
疑念も危機も抱くことなく。
近づいてくるままに。
こちらのするがままを許し、されるがままを受け入れて。
その身にその肌に触れさせる。
彼女の髪と右の頬の間に、左手の人差し指と中指を挿し入れて肌に触れる。
水無瀬 愛苗に触れた。
水無瀬は身体を強張らせることもしなかった。
そのまま二本の指で頬に触れながら、薬指で顎の骨に触れ、そのラインをなぞり。
カタチを確かめるようにしながら頬を撫で、奥へと挿し進む。
指先が耳にまで届き、耳朶に触れた時に。
水無瀬は少しだけ擽ったそうに身動ぎをした。
しかし嫌がることも拒絶することもなく、笑みを浮かべながら見つめ返してくる。
小指を折り曲げ、その指で彼女の顎を持ち上げる。
彼女のその顔が、その瞳がよく見えるように。
上を向かせる。
そして彼女の顔を――まだ幼さを多く残すものの出来がよくカタチ作られたその相貌を見下ろす。
彼女の右目をその瞳をよく視る。
もしも――
同じものを見てその結果に差異が生じるのならば。
それはこの目玉に備わった『世界』を映す為のレンズである水晶体の性能に差異が、優劣があるのだろうか。
彼女の頬に触れ顎を上げさせたまま親指の腹で、彼女の右の下眼瞼を撫でる。
水無瀬の頭蓋骨にぽっかりと空いた眼窩の窪み。
その淵をなぞりながら、目玉を視る。
それは同時に彼女に――
水無瀬 愛苗に弥堂 優輝というカタチをしたモノを見させることにもなる。
彼女は今、『世界』を挟んで弥堂を見て。
眼窩の窓からこの光景を覗き見て。
何をどう認識しているのだろう。
眼球の性能の差で認識に相違が生じるのであれば――
(――こいつのこの右目と俺のこの忌々しい役立たずの右眼を抉り出し。交換してお互いの眼窩に嵌め直したのならば。俺はこいつと同じものを見て。こいつは俺と同じモノを視ることが可能なのだろうか)
そんなはずはない。
そんな程度のことでは『世界』は変わらない。
であるのならば。
眼球の性能が起因でないのだとすれば。
水晶体に映した情報を、神経を通して送る時の情報の劣化に個人差があるのか。
もしくは送られた情報を、映像として再生する脳の処理方法か能力か。
そこに差異があるのか。
わからない。
わからない。わからない。
わかったところで意味がない。
学者や科学者ならば、これを明確に解き明かし理路整然と説明をしてくれるのだろうか。
それを聞いたところで意味はない。
だが、誰かに決めて欲しかった。
仕組みを。
成り立ちを。
その
『世界』を知ることの出来ない己には理解の出来ない、操ることの出来ない理を。
理不尽でも、不公平でも。
何でもいいからこの不満足を解消して欲しかった。
だが、『世界』は誰しもに平等に触れられないモノであるので。
結局のところは誰にも解き明かすことなどは出来ないのであろう。
それも許されていないのだろう。
肉体に、その器官に差異がないのであれば。
それならばその起因はやはり、それぞれの牢獄の中に収監されたそれぞれの自我に差異があるのだろう。
自分は自分というモノでしかなく。
自分以外の他のナニカではなくて。
他のナニカ以外のモノが自分で。
他の何物にもなれないから。
それはやはり違うのだろう。
弥堂 優輝は弥堂 優輝でしかなく。
水無瀬 愛苗は水無瀬 愛苗でしかない。
それでしかなく。
それ以外ではない。
為れない。
弥堂 優輝は、『世界』の中に存在しながら生きながら。
しかし『世界』の中に自分はいない。
視えない。
眼窩の窓から覗く『世界』に見えるのは、自分ではない総てのモノで。
その自分でない総てのモノが『世界』だ。
そしてそれは水無瀬 愛苗も同じだ。
同じ、はずだ。
彼女に近づく。
もっとよく視えるように屈んで顔を近づける。
水無瀬 愛苗という善意の塊の、その眼窩からその洞の中を覗く。
その中にいるはずの何者かを――弥堂 優輝ではないナニカを覗き視る為に。
もっと近くで――
もっとよく――
(――視せろ――)
至近で暫し視る。
見せ合う。
見つめ合う。
もしも、例えば――
この水無瀬 愛苗の眼窩の窓から――
彼女の入り口からその奥底へと――
――弥堂 優輝という器の中に納まった、弥堂 優輝が弥堂 優輝としてこの『世界』を視て、この身の奥に在るモノを弥堂 優輝とした総てを――
――水無瀬 愛苗のナカへと流し込むことが出来たとしたら。
そうしたら一体どうなるのだろうか。
彼女は一体ナニに為るのだろうか。
彼女は彼女のままなのか。
弥堂 優輝と為るのか。
それともお互いの情報が溶け合って混ざり合って。
弥堂 優輝でもなく水無瀬 愛苗でもない、もっと他のナニカに為ってしまうのか。
存在が裏返って、生まれ変わって、産まれ直して。
別の何者かに成り果てるのだろうか。
暫し視詰めて覗き視て――
そんなことはありえないと視線を緩めた。
改めて彼女を見る。
先程からずっと変わらず――
楽しそうに笑みを浮かべたまま、自分の頬に触れる弥堂をニコニコと見つめている。
何をされているのかもわからないだろうに。
何かを――危害を加えられるなどとは微塵も思っていないのだろう。
弥堂を信じているから――ではなく。
そもそも危害を加えられるなどという可能性すら考慮していない。
そんな発想すら持ち合わせてはいないのだろう。
彼女が見る『世界』は――
彼女から見た彼女が生きる『世界』には――
そんな悪意は存在しないのだろう。
(――だが)
彼女の顎を持ち上げていた小指を外す。
(だが、水無瀬。今お前の目の前にいる者は、お前が知らない悪いモノだ)
礼代わりというわけでもないが、親指で軽く彼女の頬を2・3度擽ってやる。
手を放し顔を離し、彼女を解放してやった。
水無瀬は擽ったそうにして。
だが嬉しそうに笑った。
一連の総てが何だったのか知らないまま、わからないまま。
だがそれでも彼女は笑った。
彼女は笑うのだ。
お互いのことは知らない。わからない。
知らないまま出会い。わからないままで別れる。
誰もが。誰とも。
この『世界』はそういう風に出来ている。
(俺たちはそういう風にデザインされている)
いくら知ろうとしても。
どんなに覗き視て解き明かそうとしたとしても。
だが、当然そんなものは視えはしない。
『魂の設計図』が視えたとしても。
それを読み解き思うままに書き換えることは、どうせ出来はしないのだから。
わかりあうことが、他者を思い知ることが大切だと多くの者が言う。
誰もが自分以外の誰一人をすら、知らないくせに。
わからないくせに。
賢しげに人の好さそうな顔で。
知った風な耳障りの好い言葉で。
まるで自分はわかっているかのように振舞い。
そんな嘘を吐く。
この世界は――人間の社会は嘘だらけだ。
だが、そんな嘘は必要で。
それによって人間の暮らしの多くの部分は守られている。
そんな嘘で守ったものの成功例の最大値が、この水無瀬 愛苗なのだろうか。
しかし、遅かれ早かれ。
いつかは誰もが、社会に守られていた者達が社会を維持する側に立たされた時にそんな嘘に気付き。
他者の悪意に悪徳に気付き。
そしてそれを自分も同様に行うことが許されているのだと気付く。
やがて自分も嘘を吐く側になる。
或いは得る為に。
或いは守る為に。
誰かに何かを騙って聞かせる。
そんな嘘を吐き続けることが――
他人を理解し思いやれるそんなフリが――
出来なくなってしまったのなら。
やり通すことが出来なくなってしまったのなら。
人間の世界は戦場と為り。
人と人はもう殺し奪い合うことしか出来なくなるのだから。
ヒトが人間の皮を被ることをやめてしまえば――
その時は必ずその中に詰められた血が流れ、肉が零れ出す。
自分のモノも他人のモノも。
だから――
ヒトが人間として在り続ける為に。
その種の集合体の存続を請うた為に。
『世界』は誰しもに『嘘』という『
そんな『加護』に因って。
そのおかげで。
弥堂もまた人間として人間の社会に迎え入れられその恩恵を受けて。
嘘に因ってかろうじて人間として振舞うことが出来ている。
もしも人間のフリが出来なくなってしまったのなら、その時は自分はまた――
きっと。
自分と彼女の――
弥堂 優輝と水無瀬 愛苗との差異が気にかかったのは――
気に障るのは――
彼女が嘘に守られながらしかし、彼女自身はそれを行使せずに。
それでも人間として成り立っているから。
それに、その事実にきっと――
――弥堂 優輝は劣等感を感じているのだろう。
彼女のことはわからない。
自分以外の他のモノのことは何一つわからない。
だけど、それでも。
彼女は――
弥堂 優輝とも、ここに居る他の総ての者とも、ここに居ない総ての誰かとも。
水無瀬 愛苗は違うモノだと。
それだけは弥堂 優輝にはわかった。