「おはよう」という声に「おはよう」という声が返る。
そして木霊するように「おはよう」「おはよう」「おはよう」……と、朝の挨拶が拡がっていく。
どこの学校にでもある、そんなありふれた朝の教室の光景だ。
ここ私立
続々と登校してくる生徒達の声が途切れることなく教室内を廻っていた。
朝のHRの開始まであと数分――
まだ教室に顔を見せていない生徒の数もあと僅かばかりな様子だ。
すでに登校を終えた生徒達は自身の席に荷物を置くと。
仲の良い友人達で集まるか、または自分の席に近い者達と向き合って談笑をしている。
二年生へと進級をした際にクラス替えがあった。
この美景台学園は1学年は大体5~7クラス程で、1クラスにつき多くても30名ほどの生徒しかいない。
その為、学園内は狭い社会となっている。
今学期から初めて同じクラスとなった者同士であっても、大体は去年の1年間の中で校内のどこかでお互いに見かけたことくらいはある。
既にそんな顔見知り同士が多かった。
そういった背景もあり。
極端に社交性のない者でもない限りは――
新クラスとなってまだ1週間程ではあるが、挨拶や世間話程度は誰とでも出来る関係性を、殆どの生徒が築くことが出来ていた。
今期のこの新2年B組に関しても、現在のところ“極一部”を除いて問題のある生徒はそれほどは居ない。
また生徒同士の関係も、その“極一部”を除けば概ね良好である。
このクラスに所属する生徒たち自身は、そんな風に感じていた。
教室の至る所で思い思いの話題が
昨日の夕飯が――
今日の朝食が――
昨日のTVが ――
今日の朝練が――
昨日の放課後が ――
今日の放課後は――
勉強にスポーツに習い事に色事に家族に友人に遊びに揉め事に恋に愛に思い出に将来に――
同じようで似たようでそれぞれ違う。
共感性を重んじるはずの思春期の少年少女達にありがちの、四分五裂な自己主張は不協和な喧噪となって教室を彩っていた。
HR開始までに自分の話したいことを全て言いきってしまいたいのか――幾人かの生徒達はその声を高め、速めていく。
その時、ガラリと教室の扉が開いた。
2年B組の担任教師である木ノ下 遥香は、毎回HR開始を知らせる時計台の鐘の音が鳴り終わってから入室してくる。
それが、この新学期が始まってからの通例となっていた。
それ故、今教室へ入って来たのはまだ登校していなかったクラスメイトであろうことが予想される。
談笑していた生徒の幾人かは、ギリギリの時間に登校してきた級友を迎える声をかけるべく出入口の方へと顔を向けた。
しかし――
再び挨拶の声を上げようと口を開き構えた生徒たちは、廊下から現れた者の姿を確認して次々と身を固くしてしまう。
先ほどのような挨拶の山彦とは真逆で。
今度は教室中で上がっていた声が不揃いに止んでいく。
各所を無音が連鎖していき、喧噪から一転――裏返って静寂となった。
色を失った教室に現れたのは“極一部”――
つまり、
戸を開いた弥堂は教室内へと踏み入る直前で、右から左へスッと視線を流した。
教室の喧噪が止んだことに戸惑ったわけではない。
室内に立ち入る際に異常や異物が存在しないかを確認をするのは、ただの癖であり習慣であった。
そして、特に問題は認められなかったので漸く弥堂は室内へと足を踏み入れる。
続いて淀みない動作で扉を閉め。
それから自身の席へと迷わず歩き出した。
進級をしクラス替えが行われたばかりの今時分、各教室の生徒達の席の配置は出席番号順に並べられていた。
教壇のある位置を“前”とする。
教室内右側にあたる廊下側先頭から出席番号1番――つまり『あ』行の生徒から縦に順番に座っていく。
縦の列は男女各3列――つまり合計6列となる。
廊下側の列は教室の前後に出入口が設置されている関係で3席。
真ん中の教壇正面の列は5席。
窓側の列も5席。
こういった配置になっていた
つまりこの2年B組は、男女各13名――合計で26名の生徒が所属していることになる。
『は』行の男子生徒である弥堂の席は窓側から2番目の列だ。
教壇を通り抜けて自席の方へと繋がるルートを選ぶ。
そこには教壇周辺を陣取って談笑をしていた生徒のグループがあった。
弥堂が接近してくるのを察知すると、彼らはスッと道を空ける。
級友が通行し易いようにとの、そんな親切心からではない。
彼らの瞳に浮かぶ感情の色は、いずれも澱み濁ったものであった。
弥堂とてその色の正体はわかっている。
自身が教室に現れたことによってクラスメイトたちの談笑が止んだことも。
彼ら彼女らから向けられる視線の意味も。
そしてその奥にある感情にも、気が付いていないわけではなかった。
だが、ただ、それに何も思わなかった。
弥堂の歩と共に、ゆっくりと蛇口を捻ったように教室内の静寂から音が漏れ出していく。
その殆どは囁き声だ。
各所から弥堂へ様々な視線が向けられる。
それらを特に見渡さなくとも、進行方向に並ぶ貌たちは自然と弥堂の眼に入った。
恐れ、怯え、嫌悪、軽蔑、嘲り、敵意――だけでなく、無関心な者も当然いる。
だがそれを加味しても、その中に好意的なものは一つもなかった。
しかしこれらのものは弥堂にとって何の痛痒にもならない。
血走った目で罵詈雑言を喚き散らかされるでも、石を投げつけられるでもなく――
時には正面から直接的な武力を以って襲撃をされたり、死角から不意に刃物を突き立てられるわけでもないのだ。
それらを鑑みれば極めて良好な人間関係を築けているとさえ言ってしまってもいいだろう。
実害が完全にゼロというわけではないが、それでも今の所は十分に許容範囲内であると弥堂は判断していた。
とはいえ――
このようなことになった原因には、当然だが弥堂にも心当たりが無いわけではない。
まず一つは、先刻この教室に来るまでの道中で思い浮かべたこの半年間の活動であろう。
風紀委員としての『業務』を行ったことで――もちろん証拠を残すような下手は打っていないが――“結果として”、弥堂の所属する部活動が利益を得ることになったのは隠しようがない。
だから、“結果として”不利益を被った者たち――特に運動部の者たちからの不興を買ってしまうのも当然であろう。
その運動部に所属する生徒達から漏れた話は噂となり、校内を駆け巡り、弥堂たちと面識がないような者達にまで広まり――
“結果として”学園中で周知されるような悪評となるのも自明の理であった。
現状、この美景台学園の全運動部の生徒や担当教職員達の中では、『弥堂 優輝』『
当然悪名だ。
同じく『サバイバル部』と『風紀委員会』もまた、激しい憎悪と畏怖の対象となっていた。
弥堂が他の生徒たちから冷遇される理由の一つ目が“それ”であり、そして二つ目は――
――この新2年B組の生徒達が初めて顔を会わせた日、新学期初日に行われたクラス内の自己紹介での件だろう。
名前、所属する部活や委員会、趣味に特技、1年間の抱負など――
教壇に生徒が一人一人順番に立ち、そんなお決まりとも謂える題目を、これからの1年間学友として共に過ごす者達に向かって聞かせる。
この季節での学び舎では風物詩ともいえるイベントだ。
第一印象は大事だ。
現代社会での人間関係は希薄である。
ともすれば、ファーストコンタクト以降は特に深く関わることもないまま時間だけが経ち、そのまま関係が確定してしまうことも多いという。
過日に視聴したニュース番組で、専門家を名乗る男がそのようにコメントしていた。
確か――
『ある小学校から女生徒の縦笛が多数紛失した。盗難の線で捜査をしていた所、近所に住む一人暮らしの大学生の男の部屋からこれらが発見され、盗難の容疑者としてその男は当局に身柄を拘束された』
――といった事件であったろうか。
後日犯行を認めた男は――
『女子児童の唾液がどうしても欲しかった。ずっと耐えていた。しかし我慢ができなくなった。女児の唾液の染み込んだ笛の吹き口を削り出し、粉末状にしたそれを練り込んで差し歯として自身の歯と入れ替えれば、自分は神に会えると確信していた』
――などと供述したという。男には将来を誓い合った同年代の恋人もいたらしい。
現場から中継をしていたレポーターの女が、近隣住民から容疑者の男の為人とその印象を聞いたところ――
『好青年風で人当りがよく、明るく挨拶をしてくれた。但し挨拶以上の接点はなく、まさかこのようなことをする人間だとは思わなかった……』
――などと、口を揃えて同じような解答をしたという。
ちなみにこれは美景市内で起きた事件であった。
専門家とやらは――
『このように人には見えざる一面があり、それは初見でわかるものばかりではない。継続して関係を持ち共に時間を重ねていくことで、希薄になってしまった現代の人と人との繋がりを深めることに繋がり、そしてそれが社会的弱者への救済へと……』
――などとつらつらと語った。
恐らくこれがこの話の肝なのだろうがしかし、弥堂は逆に受け取った。
『継続した関係さえ持たなければ第一印象しか残らない』
つまり、第一印象でこちらの望むままの印象を与えておけば、その後の工程は全て省くことが出来る。
それは他人との関係を深める予定のない弥堂にとって大変都合がよかった。
酷く効率がいい。
そう考えた。
その考えを実践したのが先日、このクラスでの新学期初日に行われたHRでの自己紹介の時である。
『普通』に一般的な生活を送っていれば、小学校から数えて誰もが何回も行ってきているこの自己紹介という通過儀礼には辟易としている生徒も多い。
だからこのクラスでの自己紹介においても、明らかに気が進まない者、適当に当たり障りのないことを話してやり過ごしている者、それが殆どのようであった。
しかし弥堂は、ここは手を抜くべき箇所ではない。
そう判断した。
この学園では出席番号は男女交互に割り振られる。
男子が奇数番号で、女子が偶数番号だ。
『あ』行最初の男子生徒が1番、女子が2番、と数えていく。
弥堂に割り振られた番号は21番だ。
自己紹介は出席番号順に行われているので彼の手番は後半となる。
考える時間は十分にあった。
不要な馴れ合いを求められたり私事を探られたりしない間合いを作り。
且つ必要以上に軽んじられないように。
それでいて必要以上の興味も持たれない――
そのような印象を与える。
そのために必要なプロフィールを組み立てていった。
やがて弥堂の順番になると、教壇へ向かうべく席を立つ。
歩いていく傍ら――
不意に脳裏に浮かんだのは、以前一時的に世話になっていたかつての自分の保護者のような立場にいた女だった。
赤より熱い黄色混じりの緋色の女。
そんな熱量を持った炎のような女で強い女であった。
鮮烈で熱烈で周囲全てを獲り込み巻き込み燃え上がらせる――
そんな荒々しく獰猛で情熱的な女だった。
そして『世界』の中で右も左も失った優輝に、生きる術を仕込んだ。
彼にとっては篝火のような女でもあった。
その女は言った――
『いいかァ? クソガキ。世の中ナメられたらオシマイだ。どこに行っても、誰が相手でもだ。まずは見下ろせ。んで睨みつけろ。んで、ハッタリでもなんでもいいから一発カマしてやんな。そんでも反抗的な態度とる奴ァぶん殴っちまえ……、アァン? ンだぁ? そのツラはよォ? ハッ――女の子みたいに小っちゃくて細っこいかわいいかわいいユキちゃんにゃァ、アタシみたいにゃァできねェってかァ? アァン?」
そう言ってその女は――ルビア=レッドルーツは獰猛に嗤った。
それから、『じゃあよォ、テメェはこう言ってやんな……』と――
『ルビア』という彼女の生まれ育った地方では男性名になるらしい名前を名乗り。
優輝をユキと呼び、何かと少女のように扱ったその女は――
ガシガシと優輝の頭を乱暴に撫でながら言葉を続けた。
柄が悪くがさつな女であった。
彼女はその時何と言っただろうか。
記憶の中から記録を取り出しながら弥堂は教壇に立つ――
――そうして首尾よく。
自己紹介にて彼女に教わった通りに弥堂は一発カマしてやった。
驚愕や畏れや奇異に教室が騒めくのを満足気に見下ろして。
それから自席に戻って行く中で、ふとその後の彼女の言葉も思い出した。
『――だがよォユキ。テメェは弱っちィからなァ。もしよォ、喧嘩になって負けちまいそうだったらよ。オマエはとりあえず逃げてこいよ。何をしてもいい。どんなに無様にションベン垂らしながら逃げようが。みっともなく這いつくばって命乞いをしようが。生きてさえいりゃあそりゃあ負けじゃァねェよ。どうにかして逃げ帰ってよ、そん時ゃこのアタシに言いつけな。相手が誰であろうと、このお姉さんがバチっとシメてやっからよォ。アタシは強ェからな。知ってんだろ?』
酒が波々と注がれたジョッキを片手に、緋い女はそう言って鮮烈に笑った。
(知ってるよ。だけどさ。俺もちゃんとやれてるだろ? ルヴィ)
胸中でいつかのその女に、彼女の嫌がる本名で喚びかけた弥堂は笑わなかった。
とはいえ――
ちゃんとやれていないからこそのこの現状な訳なのだが。
弥堂自身は予定通りに事が運んだと認識していた。
しかし、廻夜部長に言わせれば『やらかした』ようだし。
担任教師の木ノ下には件の自己紹介のHR後に呼び出され、とんでもない失言だと厳しく咎められた。
教職に就いてまだ2年目だという――今期初担任を任されたその若い女性の教師に、随分と顔を真っ赤にしながら叱責をされたので。
もしかしたら失策だったのかもしれない。
だが、それでも。
何が悪かったというのかという点に関して、弥堂は全く理解出来ていなかった。