俺は普通の高校生なので、   作:雨ノ千雨

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2章11 Bitterness supplements ⑧

 

 名前の無いバーのバーテンは、皮肉げに口髭を歪める。

 

 

「話の前に注文くらいしたらどうだ?」

 

「セコい時間稼ぎをするな。もう頼んだだろ」

 

 

 弥堂は自身の前にある“牛乳の水割り”を示唆する。

 

 トーマスはつまらなさそうに鼻を鳴らした。

 

 

「ウチは酒場だぜ」

 

「チッ、仕方ねえな。じゃあ――」

 

 

 苛立たしげに弥堂が注文を口にしようとすると、スッと横から伸びてきた手が弥堂の目の前にピンク色の液体の入ったグラスを置いた。

 

 ゲロモンの前足と美景汁だ。

 

 

 弥堂がそちらへ胡乱な瞳を向けると、ゲロモンはペコペコと卑屈に頭を下げてくる。

 

 もう一発殴ってやろうかと席を立ちかけるが、腕を振る前にゲロモンはピューっと走って逃げて行った。

 

 見かけによらず俊敏な動作だ。

 

 

 ゲロモンは自席に戻ると背筋を伸ばして椅子に座り、膝に手を置いてお行儀よくした。

 

 その姿を視ながら、もしかして媚びてきているのではなくてバカにされているのではないかと弥堂は疑いを持つ。

 

 

「オイ、やめとけよ」

 

「……これアルコール入ってんのか?」

 

「んなわけねェだろ」

 

 

 何かをする前に釘を刺されてしまったので、弥堂はさりげない動作でピンク色のグラスをトーマスの前に移動させる。

 

 トーマスはそれをシームレスにカウンターの端へ滑らせた。

 

 

 カウンターテーブルの上を奔って行ったグラスはドレス姿の女の前で止まる。

 

 女は爪の長い手でそれをハシッと掴まえた。

 

 

「こちらの紳士からです。レディ」

 

 

 弥堂を指しながらトーマスが慇懃に告げると女は嬉しそうにヘラっと笑う。

 

 そしてガパっと開いた口でグラスを咥えるように口をつけると、途端に「じゅぽぽぽぽぽぉっ……!」と汚い音を立てて中身を啜った。

 

 

 すると、すぐに「ゴポォッ⁉」と咽る。

 

 ピンク色の液体を撒き散らしながらテーブルに突っ伏し、女は大人しくなった。

 

 

「ビールを――」

 

 

 弥堂は見なかったことにして注文を入れる。

 

 バーテンも見なかったことにしてすぐに用意をした。

 

 

「オラよ」

 

 

 コトリと、ジョッキに入ったビールが弥堂の前に置かれる。

 

 弥堂はそれに口も付けずに横に遣った。

 

 自分の座る席の隣の椅子――誰も居ない席にジョッキを置く。

 

 

「――煙草。一本くれよ」

 

「あぁ」

 

 

 その行動に何も言わず、トーマスは煙草を一本寄こす。

 

 弥堂がそれを咥えると火を点けてやった。

 

 

 一口だけ煙草を吸い込み、煙を吐き出す。

 

 トーマスはスッと灰皿を――弥堂の隣の席のビールジョッキの横に置いた。

 

 

 弥堂はその灰皿に煙草を置いて、バーテンを見る。

 

 零れた泡がジョッキを伝ってテーブルを濡らした頃、二人は話を再開させた。

 

 

 

「狂犬。テメェ今度は何しやがった」

 

「別に。なにも」

 

 

 弥堂が肩を竦めるとバーテンのトーマスは「ハッ」と鼻で嘲笑った。

 

 

「そうかい。じゃあ、せいぜい気を付けな」

 

「…………」

 

 

 心にも無さそうな口調で言い切ってトーマスはそれっきり黙る。

 

 弥堂も無言のまま、トーマスがカウンターに置いたワイングラスにもう一本一万円札を立てた。

 

 そのグラスの下には赤い色のコースターが敷かれている。

 

 

 トーマスはジロリとそのグラスを見下ろすと、煙草を吸い込んだ。

 

 ジジッと紙の燃える音がする。

 

 

「……ヤツら結構マジだぞ。身内が殺られた時と同じ気迫を感じる」

 

「そうか」

 

「ヤクの件か?」

 

「ちょっとわからないな」

 

「…………」

 

 

 曖昧な会話を数度交わすとトーマスの咥えていた煙草が燃え尽きる。

 

 トーマスはジロリと弥堂が見下すが、彼は黙って自分の前の水割りを見つめている。

 

 

「フン」と鼻を鳴らし、トーマスは新しいワイングラスと布巾を手に持つ。

 

 グラスを磨くためにその布巾を近付けようとすると――

 

 

――スッと、取り出したばかりの新しいグラスに一万円札を入れられた。

 

 

「…………」

 

 

 トーマスは既に二万円の入ったグラスの隣に、手に持つグラスを置く。

 

 弥堂は2つ目のグラスの下に敷かれた黄色いコースターをジッと見た。

 

 トーマスは新しい煙草を咥えて火を点ける。

 

 

「オマエ、“WIZ”に手を出したろ?」

 

「俺はやってない」

 

「そういう意味じゃあねェ。わかってんだろ」

 

 

 弥堂は答えずに肩を竦め、黄色いコースターのグラスにもう一万円を追加した。

 

 

「手を引け。ありゃあ相当にデカイ事件(ヤマ)になる」

 

「ガキのオモチャじゃ済まねえって?」

 

「あぁ。それどころか皐月組と半グレ――というか外人街か。そこの揉め事でも収まらねえぞ。いくつか他所の国とそこのマフィアが絡んでる。そのうち出てくるだろう」

 

「それは怖いな」

 

「群れから外れた野良犬がたった一匹で残飯を漁れるようなシノギじゃあねェ。身の程弁えな」

 

「肝に銘じておくよ」

 

 

 弥堂は赤いコースターのグラスに一万円を入れた。

 

 

「港の監視カメラだ」

 

「…………」

 

「こないだの騒ぎの当日、あそこにオマエが映ってた。重要参考人として追われている」

 

「そうか。どうやら酷い誤解を受けているようだ」

 

「フン。とっととズラかった方がいいんじゃねェのか」

 

 

 そこで二本目の煙草が燃え尽きる。

 

 弥堂は赤いコースターのグラスにもう一万円を挿した。

 

 トーマスは次の煙草に火を点ける。

 

 

「……サツの対応が普通とはちょっと違う」

 

「へぇ?」

 

「通常だったらオマエはとっくにパクられてる。やけに警戒されてるぜ?」

 

「か弱い一般市民を相手に随分と物々しい話だな」

 

「狂犬。港のアレは“WIZ”の絡みか?」

 

「…………」

 

 

 弥堂は一つ間を置いて答える。

 

 

「別件だ」

 

「そうか」

 

 

 トーマスは赤いコースターのグラスに挿さった万券を一枚抜いて弥堂の前に戻す。

 

 弥堂はその金を黄色いコースターのグラスに挿した。

 

 

「ヨソのマフィアと言ったが、それだけじゃあねェ。軍も裏で動いている」

 

「戦争でもするのか?」

 

「いや。だが、このヤマの結果次第じゃあそうなってもおかしくねェ」

 

「それはいつだってそうだろ?」

 

「ヘッ、違えねェな」

 

 

 弥堂はもう一万円、黄色いコースターのグラスに足す。

 

 

「……美景の中だけの話で言うなら、割と最近出来た新興宗教なんだが、外人街や半グレとの関係が見えてきてる」

 

「そうか」

 

「どの程度の繋がりかはわからねェが、ありゃあ間違いなくカルトだ。あんなモン使って何やってやがんのか知らねェが、ロクでもねェことは確かだろう。だから――」

 

「――なるほどな」

 

「あぁ。“WIZ”はやめとけ」

 

 

 トーマスは咥えている煙草の火種を指で磨り潰し、吸殻を黄色いコースターのグラスの中に捨てた。

 

 弥堂は黄色いコースターだけを引き抜き、グラスの隣に裏返して置く。

 

 

 すると、トーマスはそのグラスから金を全部抜いて、壁に投げつけて処分した。

 

 そして弥堂が赤いコースターのグラスに新たに金を追加すると、トーマスはまた煙草を取り出して火を点ける。

 

 

「普通なら所轄で捜査するはずなんだが公安が出張ってきた。それも普段は表に出て来ねえような部署の連中だ」

 

「へぇ」

 

「その指揮系統の変更と構成員の入れ替えで出足が遅れたってのもあるが、随分と入念に準備しているようだ。あまり聞かねえ対応だな」

 

「そうか」

 

「狂犬。テメェは“そっち側”なのか?」

 

「“そっち”がどっちなのかも俺にはわからない」

 

「…………」

 

 

 トーマスはギロリと弥堂を睨む。

 

 それから赤いコースターのグラスから2枚金を抜いて、弥堂の前に戻した。

 

 

「少なくとも、“そっち側”と呼ばれる業界や組織などに属していたことは一度もない」

 

「……そうか」

 

 

 弥堂は戻された金の内の1枚を再びグラスに挿す。

 

 

「捜査が遅れてる理由のもう一つは外部からの圧力だ」

 

「ふぅん」

 

 

 気の無い返事をしながらもう1枚金を入れる。

 

 

郭宮(くるわみや)、御影、紅月からだ。まぁ、郭宮と御影はほぼ同一だが。オマエ、紅月とも関係があるのか?」

 

「無い。全く。ちなみに、御影にそうするように頼んだ覚えもない」

 

「なるほどな……」

 

 

 トーマスは一万円札を一枚弥堂に戻す。

 

 そして、そこで彼の咥えている煙草が燃え尽きた。

 

 

「…………」

 

「…………」

 

 

 お互いに目を合わせないまま数秒が過ぎ、やがてトーマスは真っ新なグラスと布巾を手に持つ。

 

 すると、弥堂は金をその新しいグラスへと挿しこんだ。

 

 

「…………」

 

 

 トーマスは新しい煙草に火を点けながら少し視線を宙空へ彷徨わせ話題を探す。

 

 そして、青いコースターを敷いてその上に手に持つグラスを置いた。

 

 フゥーっと煙を吐いて、幾分か軽くなった声音で喋る。

 

 

「ヤバイ連中が街に入ってくる」

 

「アンタが言うんなら相当ヤバそうだな」

 

「多国籍の外人傭兵団、それからカルト」

 

「カルト?」

 

「あぁ、さっきの新興宗教とは全くの別モンだ。普段はテロとかやってる連中だよ」

 

「そうか。俺には縁がなさそうな話だな」

 

「そう願うぜ」

 

 

 トーマスは冗談とも思えない口調で肩を竦める。

 

 

「で? 誰とケンカするんだ?」

 

 

 質問を重ねながら弥堂は青いコースターのグラスに金を足す。

 

 

「おそらくアメリカだ。オフレコで軍艦が日本の近海に来ている。日本政府の了承の元」

 

「きな臭いな」

 

 

 弥堂がもう一本金を入れると、トーマスは嫌そうな顔で舌打ちをした。

 

 

「なんだよ?」

 

「あんまりオマエにこの件に興味を持たれたくねェんだよ」

 

「興味はない」

 

「そうかよ。信じるぜ」

 

 

 吐き捨てるように言いながら煙草の煙を吐き出した。

 

 

「オレがクセェなと思ったのは、傭兵部隊とカルトだ」

 

「そいつらが手を組んでアメリカとやり合うって話じゃないのか?」

 

「そうなんだと思うんだが、コイツら自身も普段仲がいいわけじゃあねェんだよ」

 

「あ?」

 

「サービスだ」

 

 

 弥堂が不可解そうに眉を寄せると、トーマスは燃え尽きた煙草を横に放り捨てて新しい物に変える。

 

 

「このカルトは中東あたりで暴れてる連中でそこから派遣されてる。傭兵団の連中は主にヨーロッパの人種で構成されている」

 

「門外漢すぎてあまりイメージがつかないな」

 

「じゃあ、覚えとけ。コイツらはどっちかってーと普段戦場で顔を合わしたらやり合ってる関係なんだ」

 

「へぇ」

 

「傭兵団の方はたまにテロ側の手伝いもするが、基本はテロや内乱の鎮圧に参加することが多い。カルトの方は……わかるだろ?」

 

「なんとなくは」

 

「んで、だ。このカルトの連中に支援してるのは、中国やロシアの筋のはずなんだ」

 

「共産主義と宗教は仲が悪いって聞いていたが」

 

「ビジネスは別なんだよ。それに今の世の中、なんもかんも宗教みてェなモンだ」

 

「そういうものか。勉強になる」

 

 

 弥堂は青いコースターのグラスに万券を2本入れた。

 

 

「だから外人街の筋でカルトを迎え入れたって話ならわかるんだが、どうもそういう気配はねェ。だからってコイツらがタッグを組んで、わざわざ日本でアメリカとやり合うのも意味がわからねェ」

 

「今回直接の指示や依頼がなかったとしても、外人街と全く繋がっていないってことは?」

 

「ありえねェな。そう考える理由はねェ」

 

「そうか。わかった」

 

 

 弥堂は一旦話題を打ち切って赤いグラスに金を追加する。

 

 

「国道沿いの廃病院で死体があがった。多分この容疑で身柄を持ってかれる」

 

「そんなことがあったのか。怖いな」

 

「普通は逆だ。港の不法侵入でガラ攫って後から殺人で再逮捕するのが通常の流れだ。つまり、港の方が表に出せねえヤマってわけだ」

 

「難しい話だな」

 

 

 興味なさそうに生返事をしつつ赤いコースターのグラスにさらに金を入れる。

 

 

「ガイシャはホームレスの男だ。だが、ただのホームレスじゃあねェ」

 

「それは普通に働いてる人なんじゃないのか?」

 

「ウルセェよ。コイツは外人街の草だ」

 

「スパイだなんて怖いな」

 

「それだけでもねェ。コイツはクソ野郎でな。多重スパイといえば聴こえはいいが、あっちこっちにベラベラと謳ってやがった。ってことはだ……」

 

「なるほど。身内、ね……」

 

「何故殺した?」

 

「…………」

 

 

 ギロリと睨めつけるトーマスの視線に弥堂は表情を動かさない。

 

 

「わからないな」

 

「…………」

 

 

 トーマスは赤いグラスから金を2枚抜いて弥堂の前に置いた。

 

 

「ツラが気に入らなかったんだ。不細工なツラで俺の前に出やがったからなんとなくぶっ殺してやった」

 

「へェ……」

 

 

 カタカタとテーブルの足が鳴る音が店奥から聴こえる。

 

 そちらを視ると壁際の席のゲロモンが震えていた。

 

 

「…………」

 

 

 弥堂がジッとゲロモンを視ている間に、トーマスは赤いコースターのグラスの金を半分抜いて弥堂に戻す。

 

 

「皐月組の依頼だ。盗難車の輸出の件で、金の運び役を外人街に売りやがったらしい」

 

「それだけか?」

 

「あぁ」

 

「……まぁいい。一回パクられれば何があっても絶対にこの件は有罪にされる。例えオマエがやっていなくても。港のことに関与していなくても、だ。ヤツらはそれくらい本気だ」

 

「酷い冤罪だぜ」

 

「……狂犬。オマエ、最近美景台総合病院によく出入りしてるらしいな?」

 

「…………」

 

 

 弥堂は黙って視線を動かす。

 

 

 その瞬間店内の空気が変わった。

 

 もわっとしていた空気は一気にヒリついたものとなり、温度は下がったように感じるのに重量感が増す。

 

 

 ガタガタガタと、奥のテーブルの震えが強くなった。

 

 

 だが、蒼銀の瞳に映った髭面のバーテンの表情は揺るがない。

 

 

「無駄だ。ウチで調べた情報じゃない。既に売られている情報だ」

 

「…………」

 

「俺を殺しても既に買われたものは消えない。調べてるヤツらは変わらず調べるし、売るヤツはこれからも売るだろう」

 

「…………」

 

「チッ、狂犬ヤロウが……」

 

 

 弥堂が殺意を引っ込めるとトーマスは唾を吐くように毒づいた。

 

 

 弥堂は何も答えず、戻された金を全部赤いグラスに突っこむ。

 

 

「ネタ元は言えねェ。そういうルールだろ?」

 

「…………」

 

「ガキのする目つきじゃあねェんだよ。だが、そうだな……」

 

 

 トーマスは赤いコースターのグラスから金を一本抜き、青いコースターの方へ移す。

 

 

「『ホームレス』『言えねえ』」

 

「チッ、そういうことか……」

 

「オマエはもう少し機械やネットの知識をつけた方がいい。長生きしたかったらな」

 

「勉強になるよ」

 

 

 ようやく完全に空気が和らぐと、トーマスは咥えていた煙草を揉み消して、赤いコースターのグラスの中に捨てた。

 

 弥堂は青いコースターのグラスに次の金を入れる。

 

 

 先程と同様に、トーマスは話の終わったグラスの金を抜き取って壁に投げ捨てる。

 

 彼が次の煙草に火を点ける合間に、弥堂は赤いコースターを裏返した。

 

 

「アメリカの連中だが――」

 

 

 濃い口髭の隙間からフゥーっと煙を吐いてトーマスは喋る。

 

 

「海軍の船に乗っているそうだが、真っ当な軍人じゃあねェようだ」

 

「そんなヤツがアメリカの軍船に乗れるのか?」

 

「真っ当じゃあねェと言ってもアウトローじゃあねェ。さっき言った公安の連中。アレと似たようなモン。つまり、“そっち”だ」

 

「…………」

 

 

 弥堂はさらに金を追加する。

 

 

「どうもな、何かお宝を載せているらしい」

 

「へぇ」

 

「傭兵とカルト。コイツらは今ゴタゴタの後で外からの出入りが多くなっている美景港から入ってくるだろう。復興の物資を運ぶ船に紛れて」

 

「なるほど」

 

 

 もう一万円、グラスに突っこむ。

 

 

「例のアメリカの船は横須賀に入る予定だそうだが、そいつらの接待をするのは何故か美景の役人だそうだ」

 

「ほぉ。それは不思議だな」

 

 

 さらに一本。

 

 

「ホームレスの殺人を追っているヤツらを指揮してるヤツ。公安の“清祓課(せいばつか)”って言うんだが、どうも人手が足りていないらしい。だから兼任するそうだ」

 

「大丈夫なのか? この国」

 

「なにせ“そっち側”に関わる話となると途端に対応できる人材が限られちまう。元々の土地柄、この美景はまだマシな方だ」

 

「そうか」

 

 

 もう一本。

 

 

「相当忙しいだろうな。殺人犯を挙げたくてもアメリカ様が来ちまったら放ってはおけねェ」

 

「戦争に敗けるってのは辛いな」

 

「全くだ。だから、状況の移り変わり次第じゃあ、チンケな殺しや不法侵入なんてどうでもよくなっちまうかもなァ……」

 

「それはよくないな」

 

 

 一本。

 

 

「……二日後。5月3日だ」

 

「あ?」

 

「オマエのバイト先。“上客”が来るらしいぜ」

 

「へぇ」

 

「昼過ぎ。遅くても夕方前だろうな」

 

「わかった」

 

 

 トーマスはそこで煙草を握り潰して、最後のグラスの中に捨てる。

 

 弥堂が青いコースターを裏返すと、そのグラスから金を抜いて壁に叩きつけた。

 

 

「悪いことは言わねェ。街を出る方がお奨めだ」

 

「…………」

 

 

 ポツリと漏らすように言って、トーマスはワインボトルに口を付けて喉を潤す。

 

 

「出来れば楽なんだけどな」

 

「そっちの方が遥かに成功率が高い」

 

 

 ジロリと目を向けられると、弥堂は肩を竦めた。

 

 

「違う場所で違う自分に――聴こえはいいけどな。だが、同じミスは繰り返せないんだ」

 

「そうかよ」

 

 

 どうでもよさそうに話を切って、トーマスはまたグラスを磨き始めた。

 

 

「世話になった」

 

「あぁ。用件はそれだけか?」

 

「いや、もう一つある」

 

「アン? こっちはもう品切れだぜ」

 

 

 面倒そうな顔をするトーマスに、弥堂は首を横に振ってみせた。

 

 

「そうじゃない。コーヒーをくれ」

 

「ア? 飲むのか?」

 

「違う。いつもの豆だ」

 

「豆って……。オマエ先週持ってったばかりだろ」

 

「もうなくなった」

 

「なんだ? ガブ飲みするようになったのか? ストレス溜まってそうなツラしてるもんな」

 

「そんなんじゃない」

 

「ちょっと待ってろ」

 

 

 トーマスは弥堂に背を向けて戸棚を開ける。

 

 そしてゴソゴソと中を探りだした。

 

 

「…………」

 

 

 弥堂はバーテンの背中をジッと視る。

 

 

 殺そうと思えば今殺せる――そんな背中を。

 

 

 だが――

 

 

『――そいつぁ流儀じゃあねェぜ。クソガキ』

 

 

 ふと、隣から声が聴こえた。

 

 

 横へ眼を動かすと、そこに居るのはルビア=レッドルーツ――

 

 

 泡のなくなったビールジョッキの前に彼女の幻影が座っていた。

 

 

 弥堂は目線を逸らさずにそのまま彼女をジッと視る。

 

 すると、ルビアは悪戯げに瞼を細めた。

 

 こちらへ身を乗り出すようにしてカウンターテーブルに凭れ肘をつく。

 

 組んだ両手の甲に顎を乗せて少し首を傾けた。

 

 

『わざと無防備な背中を晒すことで、敵意はねェって言ってんのさ』

 

「…………」

 

『此処はあくまで情報を売り買いするだけの場所。そして酒を呑む場所だ』

 

「…………」

 

『わかってねェなァ。ユキちゃんはよォ』

 

 

 酒の前で機嫌をよさそうにしながら、ルビアは色気のある目で見上げてくる。

 

 弥堂はスッと目線をバーテンの背中へ戻した。

 

 そして――

 

 

「――わかってるよ」

 

 

 口の中でだけ、小さくそう呟いた。

 

 

『ハッ――だったらそろそろ酒の一杯でも呑めるようになれよ。男だろ』

 

 自分で自分の正気を失わせるものを摂取する理由がない――

 

 

――そう反論をしようとして、止めた。

 

 彼女には通用しないだろう。

 

 

 だから何も答えず、黙って自分の前のグラスに眼を落とす。

 

 薄まった白の向こうで『世界』が濁っている。

 

 

 背の高い彼女がこうして座ると、その時だけ自分の方が目線が高くなる時があった。

 

 彼女は行儀が悪く姿勢も悪くガラも悪いから。

 

 こうして並んで座った時だけ。

 

 

 外の世界を閉ざした店の中。

 

 古くてボロくて黴臭い酒場。

 

 そんな空間でこうして彼女と並んでいると。

 

 

 少しだけ、あの頃に戻ったような気がした。

 

 

 だけど、それは気のせいだ。

 

 

 今の自分はもう、彼女と並んで立っても彼女を見上げることは出来なくなってしまったから。

 

 

『ンなこと気にしてる内はいつまでたってもガキだってんだよ』

 

「…………」

 

 

 上機嫌な彼女の声と、この空気に。

 

 あと何秒かだけ魂を浸した。

 

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