5月5日 火曜日。
今日は重要な仕事の日だ。
昼過ぎ頃の時間、
その事務所の所長である
<――ユウくん。視界共有は良好よ>
探偵事務所の近くへ差し掛かったあたりで、エアリスから念話での報告が届く。
<そろそろ通信をスマホの通話に切り替えてちょうだい>
<わかった>
<手順はY'sからのメールの通りに――>
念話が切れて弥堂はスマホを手に取る。
そのタイミングで届いたメールを開き、内容に眼を通していく。
だが――
「なんだと……?」
その眼はすぐに不可解そうに細められた。
「……スマホと新しいイヤホンをBluetoothでペアリングして繋ぎ、それから通話を発信……?」
足を止めてその内容を読み上げ、それから弥堂は『殺すぞ』と返信をして素早くそのアドレスを着拒した。
意味がわからなくてムカついたのだ。
だが困ったことにもなった。
これを使えるようにしないと、仕事の間ずっと耳にスマホを当てておかねばならない。そんなことをしていたら通話をしていることがバレバレだし、なにより邪魔だ。
どうしたものかと頭を悩ませようとすると、ちょうど人が通りがかる。
弥堂より少し年上くらいの女性だ。
「すみません、少々よろしいですか?」
「え……? な、なんでしょうか……」
弥堂はその女性に丁寧に話しかけた。
しかし本日も殺し屋フォームがバッチリとキマっていたので、声をかけられた女性は早くも怯え気味だ。
「実はこのイヤホンをスマホで使えるようにしたいのですが……」
「はぁ……」
相手のそんな心情にはお構いなしに、弥堂はすぐに自分の聞きたいことを尋ねる。
質問をしながらY'sからのメールの文面を女性に見せる。
想像して構えていたような内容ではなかったので、女性は拍子抜けしたように緊張していた身体の力を少し抜いた。
「えっと……、もしかしてこのイヤホン買ったばかりとかで初めて使うのかな?」
「えぇ。そうです」
「あ、そういうことね。そしたらね、このイヤホンとキミのスマホをペアにする登録みたいなのをしなきゃなのね?」
「はぁ……」
「……よかったらやってあげようか?」
どうも親切な人のようで、女性は説明を聞く弥堂の生返事具合からそう申し出てくれる。
時間もないことだし、弥堂は頼むことにした。
「じゃあペアリングだけしとくから、必要があったら後から名前変えたりしてね?」
「わかった」
弥堂は女性の手元と画面をジッと監視する。
女性は弥堂のその仕草を、やり方を見て一生懸命覚えようとしているのだと好意的に受け取めてくれた。
彼女はクスリと笑ってから手早く作業を済ませる。
「はい、どうぞ」
「これでもうイヤホンから聴こえる状態になっているのか?」
「うん。ここのアイコンに色がついてるでしょ? スピーカーに戻したい時はこのアイコンをタップすればいいから……」
「なるほど、感謝する」
「いえいえ。これくらいなんでもないから。じゃあ、もう大丈夫かな?」
「あぁ、待て」
いいことをしたと、女性は笑顔で立ち去ろうとする。
弥堂はそれを呼び止めた。
不思議そうに首を傾げる彼女の前で、弥堂は殺し屋スーツのポケットをゴソゴソと探る。
そして――
「――これは謝礼だ。受け取れ」
「え――⁉」
――いつものように一万円札を複数差し出す。
パッと見で10万円ほどもありそうなその金を見て、女性はギョッとした。
「い、いやいや、こんなの受け取れないから……っ」
「む? 金を受け取れないだと? 怪しいな」
「なにが⁉」
その支払いを固辞しようとすると、今までに見たことのない判断基準で弥堂から疑いを向けられてしまい、女性はますます混乱していく。
「わかっているだろうが、これには口止めも入っている。それを受け取らない? それはそういう意味だと解釈していいのか?」
「どういう意味⁉ ていうか、口止めってなんのこと……⁉」
「当然今日ここで俺と出会ったこと、貴様がさっき見たスマホの内容、全てだ」
「そ、そんなに恥ずかしがらなくても……。私こんな大金を受け取るようなことはしてないし……」
きっと育ちがいいのだろう、あくまで親切をしただけだと金を受け取ることを女性は拒む。
弥堂はイラっとした。
「うるさい黙れ。俺は忙しいんだ。無理にでも受け取ってもらう」
「な、なにを……、きゃあぁぁーーっ⁉」
そして例によって、弥堂は女性の胸元の服を掴んで引っ張ると、出来た隙間に金を捻じ込んだ。
「――ち、痴漢よぉーーーっ! 誰か……っ!」
女性は悲鳴を上げながら走って逃げて行く。
「ふん」
弥堂はその後ろ姿を視ながらつまらなさそうに鼻を鳴らす。
そして通話を発信したスマホを仕舞い、目的地へと向かった。
御影探偵事務所――
「――おやぁ?」
ビルの2Fにある応接室の扉を、弥堂はやはりノックもなしで開ける。
すると、中にはもう“清祓課”の係長である佐藤 一郎と、おそらく彼のボディガードである犬耳カチューシャの女児がソファに座っていた。
チラリと、壁の時計を確認する。
時刻はまだ約束の集合時間の30分前だ。
「おはよう、狂犬君」
「あぁ」
佐藤はわざわざ立ち上がってにこやかに挨拶をしてくる。
弥堂は無愛想に頷くだけだ。
佐藤に手で勧められて彼の対面のソファに弥堂も座る。
「お、おはようございます、弥堂君……」
「あ? なんだ。お前も居たのか」
部屋に入った時には気付いていたのだが、わざと相手が傷つくような言葉を選ぶ。
その言葉に「うっ……」と呻いたのは、この事務所の所長である
彼女は実際の仕事の現場には参加しないが、その開始の場面に立ち会うためにここに居る。
「
「わざわざ称賛されるほどのことじゃないだろ」
「ボクたちの世代はさ、5分前・10分前の行動を心掛けろって厳しく躾けられたんだよ。でも、それを今の子たちにそのまま言っちゃうと、すーぐパワハラだの老害だのって言われちゃうじゃない? だからオジさん感心しちゃってさ」
「重要な仕事だ。手前に特別な用事がなければ入念に備えて万全で控えるべきだ。それが出来ないヤツはつまり、その仕事をナメているということだ。そんなグズは開始前に始末した方がいい。いらん時にだけ口が達者でも、現場では足を引っ張るだけだ」
「キョウケン、オマエ、わかってル」
弥堂の回答に佐藤は笑うのみで明言を避けたが、その隣の
ここに居る者たちには与り知らぬことだが、今の弥堂の発言をクラスメイトの希咲さんが聞いたらきっと大激怒することだろう。
「それにしても、いいスーツだね? 一日で仕立てられるモノじゃないから元々持っていたのかい?」
「いや、知り合いが用立ててくれた」
「へぇ。それは感謝した方がいい。オーダーメイドだよ、それ」
「見てわかるものなのか?」
特にそれで問題があるわけではないが、一目で見破られる情報が後々どんな破綻に繋がるかわからないので、弥堂は佐藤の話に興味を持った。
若者に質問を返してもらったオジさんは上機嫌に頷く。
「まぁ、オジさんもスーツを着る仕事が長いからね。腕と肩を見るといいよ。体型通りのカーブは既製品じゃ中々キレイには作られないからね。でも、それで言うとほんの少し大きめに作っているのかな? キミは若いし、成長分も込みで」
「いや。詳細に寸法をとったわけじゃないからだろう。大体で作ってくれたらしい。合わないところがあったら直すから言えと言われた」
「あぁ、それならお言葉に甘えて遠慮なく言った方がいいよ。一流ではなくても一端の男として一着は専用の仕事着が欲しいよね」
「これをくれたヤツも同じようなことを言っていたな。俺にはわからない価値観だ」
「まぁ、キミもオジさんくらいの歳になればわかるよ。でも、よく似合ってるよ。ねぇ? 都紀子さま?」
「えっ……⁉」
突然話を振られた御影所長は驚く。
反射的に弥堂をジッと見て、それから目線をキョドキョドとさせた。
「その……、似合ってはいる……、と思います。似合い過ぎると言いますか……」
「カッコいいですよねえ」
「えっと……、それは……、その……」
顔をニヤケさせながら佐藤はさらに質問を重ねる。
明らかに彼女を困らせて楽しんでいた。
人のいい所長はそんなことにも気付かずに言葉を詰まらせる。
弥堂は嘆息して助け舟を出してやることにした。
「別に無理して褒める必要などないぞ」
「あっ――いえ、違うんです……っ!」
すると、所長は慌ててフォローをしてくる。
「あの、カッコいいとは思うんです。本当に。よくお似合いですし。ただ……」
「なんだ?」
しかし肝心な部分で彼女はまた口ごもってしまった。
弥堂にとって服とは、着替える為に脱いだら高確率でロストする消耗品程度の物だ。
だからそんな物が似合っているかどうかなど彼にとっては心底どうでもいい。
さっさとこの話題を終わらせて肝心の仕事の話に移りたい弥堂が、煮え切らない所長についに苛立ちを露わにした時――
「――う~い、ちょっとお邪魔しますよォ……」
ノックとほぼ同時に応接室のドアが開かれて、2名の男が入ってくる。
「ん? アンタは……」
「ア?」
弥堂にはその男たちに見覚えがあった。
「山さん? 何故こんなところに」
「アァ? 狂犬だとォ……?」
この場に現れたのはポンコツ警官コンビの山元巡査長と、その部下である青芝巡査であった。
もう5月だというのにトレンチコートを着込んだ山さんは、弥堂を見て表情を疑惑に歪める。
そして――
「……おい、青芝ァ」
「はいっ、山さんっ!」
山元巡査長が顎を振ると青芝巡査は元気いっぱいに返事をして、それからタッタッタッと駆け足で弥堂の前まで来た。
「――あ……?」
カチャリと――弥堂の手首に手錠が嵌められる。
「ひとふたさんごー、逮捕……っ!」
「「「えぇーーーっ⁉」」」
警官と弥堂以外の人たちはビックリ仰天する。
「…………」
心当たりがありすぎる弥堂は慎重に山元巡査長をジロリと睨んだ。
「どういうつもりだ?」
「ウルセエんだよ。このクソッタレの犯罪者が……ッ」
「犯罪? 証拠はあるんだろうな? なかったらただでは済まんぞ、この木っ端警官が」
「黙れやカス。証拠だァ? ンなモンいらねェよ。現行犯じゃボケェ~」
「現行犯……?」
どうやら弥堂の思い浮かべていた類いの容疑ではないようだ。
しかし、そうすると何のことだかわからないので、弥堂は眉を顰めた。
「とうとうオドレも年貢の納め時じゃのォ~? アァ? 狂犬よォ~?」
「どういう意味だ?」
「フン、この人を見てもそんな態度でいられるかァ? 入って下さい、お嬢さん」
部屋の出口を塞ぐように立っていた山さんは身体をずらして、ドアを開ける。
そして廊下へ呼び掛けて、一人の人物を中に招き入れた。
その人物は――
「どうです? この中に居ませんか? 犯人が」
「えっと……、あっ――」
――部屋に入り、少しだけ中を見回して、そしてすぐに弥堂を指差した。
「――この人です! この人、痴漢です……っ!」
それは先程表の通りで、親切にもスマホの使い方を教えてやったのに弥堂に胸を触られてしまった不運な女性だった。
被害者の通報を受けた山さんは弥堂へニヤリと嗤う。
「そういうことじゃあ狂犬。なにか言いたいことはあるかァ? えぇ?」
「…………」
今後の転機となるような重要な仕事の直前で――
『痴漢の現行犯逮捕』という大きな危機が弥堂の身に訪れようとしていた。