ピタ――っと。
10歩も進まない内に、
そして、ぐりんっと勢いよく爪先を支点に身体を180度回した。
振り返った彼女に、数瞬前のようなテレテレの表情は欠片もなく。
その力強い眼力には険しさを滾らせている。
肩を怒らせながら彼女は乱暴な歩調で逆走してきた。
「おや?」と、周囲の生徒たちはその様子を見守る。
そんな中、希咲は先程まで立っていた場所とほぼ同じ位置まで戻ってきて、そこで足を止めた。
希咲の視線は自分をぽへーっと見上げる水無瀬の方ではなく。
その反対側の生徒へと向いている。
腕組みをしながら見下ろし、声をかけた。
「ちょっと、弥堂――?」
シュバババッと――
俊敏な動作で周囲の生徒さんたちは教壇の方を向いた。
それはまるで訓練でもされたかのような動きで――
誰もが本心から関わりたくないとそう思っている。
だがそうしながらも、幾人かは教科書やノートで顔を覆い隠しつつ、聞き耳をたて覗き見をしていた。
「なんだ? 希咲」
自席で彼なりの『予習』作業をしていた弥堂は、希咲の方へ顔も向けずに答える。
そのぞんざいな態度に、希咲の形のよい唇と眉の端が僅かに引き攣った。
「あっ…… 、あんたねぇ……っ! それよ! そういうあんたの態度よ。なんなわけ? 浮いちゃってるって自分でもわかってんでしょ? 少しは愛想よくできないわけ? それ、よくないと思うわよ 」
「そうか」
口調は強いものの。どうにか怒りを飲み込みながら努めて冷静に。
多くの者が彼に対して思っているであろうことを希咲は指摘する。
それにも弥堂はやはり顔を向けることすらしない。
にべもなく短く返答すると、それで彼女に関心を失くしたようで、また『予習』に戻った。
数秒――教室内は完全に無言になった。
やがて希咲はプルプルと震え出す。
そして、踏み抜くような勢いで靴底を床に叩きつけながら、今度は弥堂の正面へと周った。
「そうか――じゃねえのよっ! ぜっんぜんっ! わかってっ! ないじゃっ! ないのよっ!」
希咲は『!』に合わせて弥堂の机を両手でバンバンと叩く。
そうして自身の怒りを強烈に示唆しながら――
「――少しはあたしに興味をもてっ!」
ビシっ――と。
腕を振りかぶってから勢いよく弥堂の眼前にその細長い人差し指を突きつけた。
剣呑な雰囲気に周囲の生徒さんたちは怯える。
廊下からは殴りあうような音が響いてきた。
机を叩かれたことで、弥堂は作業の中断を余儀なくされる。
止むを得ず『予習』は諦め、筆記用具を置く。
それから顔を上げて、弥堂はようやく希咲の顔へと眼を向けた。
「ゔっ――⁉」と、希咲はたじろぐ。
弥堂の眼が昆虫めいた無機質な瞳のようで、ちょっと恐かったのだ。
しかし希咲はすぐに気を取り直すように、自身の胸にそ手を当てて数回深呼吸をする。
綺麗に伸びた指が胸の動きに合わせて上下した。
そうして気合を入れ直し。
希咲は再び弥堂の机に両手をバンっと叩き付ける。
至近で彼と目を合わせ、自身の眼差しに力を込めた。
「あんたねぇ。せっかく毎日毎日
「マシとは?」
弥堂は身じろぎもしない。
「さっき言ったでしょ? 愛想よ愛想。『少し』だけでいいから、他の人を相手にするより愛想よくしなさい」
「しているつもりだが?」
「足りないから努力をしなさい。そう言ってるのよ」
「断る、と言ったら?」
「断らせるとでも思ってるの?」
「…………」
くすんだ鈍い金属のような弥堂の瞳と――
強烈な意思がそのまま絢爛となった虹を内包したかのような希咲の瞳――
お互い相手の瞳に映った自分の瞳がはっきり見える距離で、二人はしばし無言で見つめ合う。
両者の視線がぶつかり、物理的な干渉を起こしているとさえ錯覚させるようなプレッシャーを周囲に撒き散らした。
隣では水無瀬が――
「あわわ……ななみちゃん……」と――
緩く握った左手を口元に当て、右手を頼りなく伸ばす乙女チックな仕草をした。
二つ前の席では元空手部の仁村君が――
数ヶ月前の一年生時に「粛清だ」と言って練習場に乗り込んできた弥堂一人に、素行は悪いものの空手部史上最高の黄金世代と謳われた当時三年生の先輩達がまとめてなすすべもなく制圧されていくのを、用具入れの中で三角座りで親指の爪を噛みガタガタと震えながら隠れ、僅かに開いた扉の隙間から見ていることしか出来なかった時のトラウマ光景をフラッシュバックさせ――
「ひぅ……」と――
暴漢に恫喝され怯える乙女のように己の身体を掻き抱いた。
二つ右隣の席では自称『元中NO.1のモテ男』の雰囲気イケメンである小鳥遊君が――
これまた一年生時に「俺が付き合ってやるよ」と超絶上から目線で希咲に告白したところ、「は?」と強烈な眼力で睨め付けられながら、あんたのこことこことここがダメと、服装、髪型、性格、話し方、立ち振る舞いなどのあらゆる箇所を、衆人環視の中で一つ一つ丁寧にダメ出しをされた挙句、「え? フツーにムリ」とフラれた時のトラウマ光景をフラッシュバックさせ――
「いやっ……いやっ……」と――
彼氏に突然別れ話を切り出されて現実を受け入れられない時の乙女のように、お顔を両手で覆って首を左右に振った。
教室内の緊張は際限なく高まっていき一触即発かと誰もが思ったその時――
ふぅ、と短く息を吐き出される。
「……いいだろう。善処しよう」
弥堂が折れた。
面倒になったのだ。
「ん。よろしく」
こちらも意外とあっさりと納得をし、それだけ言って希咲は姿勢を戻した。
教室中から安堵のため息が漏れ、視えない重圧のようなものが和らぐ。
廊下からは、親友なのに時代に流され敵にならざるを得なかった男同士の最終決戦のような台詞を叫び合う声が聞こえた気がした。
これで用は済んだと。
希咲は水無瀬がいる側とは反対側の通路を通り抜けようとして――
弥堂の脇に来た所で足を止める。
彼の右肩に手を置き。
耳元に顔を寄せると――弥堂だけに聞こえるように囁く。
「特に、今日は、お願い。優しくしてあげて? ……お願いよ」
気の強い彼女にしては珍しく、本当に心から願うような切実な声音に聴こえた。
目線だけを横に向けた弥堂の右目と――
水無瀬からは見えないように、彼の顔で自分の顔を隠すように覗きこむ希咲の右目が――
再び視線を交わらせる。
ややあって――
「――善処しよう」
弥堂は先と同じようにそれだけ答えた。
「――ん。お願い」
希咲は先と似たようにそれだけ請うた。
今度こそ用事は済んだと――希咲は立ち去っていく。
二人の距離が開くに連れ、謎の重圧から開放されていく他の生徒たちにも騒めきが戻っていった。
「美人の怒り顔はこえぇってあれマジだったのな?」
「希咲こえぇよ……、目力ぱねぇよ…………、興奮しちまった……」
「ふえぇぇ……、絶対七海ちゃんの匂い嗅いでたよぅ。きっと今夜思い出してさん――」
「ちょ、ちょっと!? 最近アンタの妄想の方がやばいんじゃないかって思えてきたんだけど⁉ 弥堂めっちゃ無表情だったじゃん!」
また多数の囁き声があがっていく。
その中で「キスの距離」、「キスの距離」、「キスの距離」……と。
同じ単語が輪唱されていった。
希咲はまた聞こえないふりをしながら、廊下側の列の一番後ろにある自席へと戻る。
片側だけ露出した彼女の左の耳輪は、しっかり朱に染まっていた。
やがて授業開始の放送のチャイムが鳴る前に――
ガラっ――と。
大きな音をたてて戸が開く。
一限目の数学の担当教師である権藤が入室してきた。
権藤は、その数学教師とは思えない競輪選手の太もものような逞しい左右の腕で、それぞれ一人ずつ生徒の首根っこを摑まえている。
先程揉み合って廊下に出て行き、ずっと争っていた二人である。
新クラスが始まって僅か1週間弱で、足フェチであることが白日の元となった鮫島くんと――
新クラスが始まってほんの10日足らずで、女性の魅力は乳か尻の二つに一つという過激な二元論者であることが露呈した須藤くんだ。
鮫島くんと須藤くんは青褪めた表情で頬を抑えながら大人しく席に着く。
五十音順で彼らの席は真ん中の列で縦に並んでいる。
その二人の後ろの席には、未だ頭を抱えたまま机に突っ伏す雰囲気イケメンの小鳥遊くんの姿があった。
教壇に立った権藤教諭は、その数学教師らしからぬ屈強な軍人のような出で立ちで教室内を睥睨する。
教壇の目の前から鮫島、須藤、小鳥遊と、順にその筋の方のような鋭い眼光で見遣り――
次いで視線を右にずらせば、凛とした姿勢で座る
その列の手前最前列では、爪を噛み虚ろな目でブツブツと何やら呟いている仁村の姿があった。
権藤は目を伏せ溜息を吐いた。
新学年になり、たったの10日ほどでこの惨状となった――『問題児を一か所に纏めて放り込んだのでは?』と職員の間で噂されるこのクラスのことと――
こんな掃き溜めを押し付けられた、教職に就いてまだ2年目の未熟な後輩教師のことを憂いたのである。
割り切って授業開始の声を上げようとしたところで、午前9時の一限目の開始を知らせるチャイム音がスピーカーから鳴った。
出鼻を挫かれ、権藤先生は盛大に舌打ちをする。
ややあってチャイムが鳴り止むと、学級委員の野崎さんの号令がかかる。
こうして本日の2年B組の一日が開始された。