ビルの壁面を走りながら弥堂は博士を乗せたヘリを追う。
左手から伸びる魔力糸はヘリの足に巻き付いており、ヘリに引っ張られる力を利用して身体を横向きにしながら壁を走るという人間離れした現象を実現している。
ここは深夜のビル街。
オフィス街としてデザインされた区画であり、ホテルに庁舎や企業のオフィスの入ったビルなど、15Fから20Fほどの高さの建物が几帳面に並んでいる。
ここら一体は謎の停電に見舞われていたが、それはつい先程解決された。
まばらに灯った床の灯りを駆け抜けていく蒼銀の瞳が闇の中で妖しく光る。
右後方のその様子をヘリの中から見る人々は、口をあんぐりと開けて驚いていた。
「――な、なんだありゃあ……、気持ちワリィ……。あれがニンジャかよ……」
「も、もしかして忍者って実は魔術師のことだったんでしょうか……!」
「……ニンジャ=魔術師説――なくはねェな。神話とか伝承にある大昔の英雄も大体魔術師か
「眠てェ話してるバアイかよッ!」
少しズレたような会話をするアレックスと福市博士に、ビアンキが声を荒らげる。
“クソが……! オイ、もっと高度上げられねェのか⁉”
“ダメだ!”
ビアンキがパイロットに向けてそう訊くが、彼は短く答えて首を横に振った。
その先の説明をアレックスが受け持つ。
“アァ?”
「万が一その辺のビルの屋上に、ホテルにあったみたいな対空兵器を置かれてたら狙い撃ちにされる。ビルとビルの間を飛んでいけば連中はまず撃ってこれない」
「チッ! あのヤロウはワイヤーかなんか使ってやがるぞ。このまま港まで連れていく気かよ?」
「どうせもちやしねェよ」
不機嫌そうにビアンキがギロリとした目を向けてくるが、アレックスはあくまで楽観的に肩を竦めた。
しかし、ビアンキはどこか納得がいかない。
「だったらビルから離れるのは?」
「それもダメだ。この国の道は狭い。下手したら反対側にぶつかるぜ」
「だったら撃ち落としてやるよ……ッ!」
ビアンキはビルを走る弥堂を狙ってアサルトライフルの引き金を引いた。
だが――
「うぉッ⁉ な、なんだあのヤロウ……!」
「おぉ……、スゲェな。マジモンのニンジャだったのか」
弥堂は壁の上下へジグザグに走ることで射線から逃れる。
「ちくしょうッ! 弾切れだッ! そっちの銃を寄こせ!」
苛立たしげにビアンキが要求をするが、
「やめとけって。弾がもったいねェよ」
「ンだよクソがッ! “オイ! もっとスピード出せよ!”
アレックスには止められる。
ビアンキは癇癪でも起こしたようにまたパイロットへ怒鳴った。
“ムチャ言うな!”
“遅ェんだよ! 車と変わんねェじゃねァか!”
“この高さと狭さで150キロだの200キロだの出せるか!”
“やれよ! ヘタクソがッ!”
“アァッ⁉”
“オイオイ、オマエら落ち着けって”
怒鳴り合いを始めた二人をアレックスが嗜める。
そして、妙に苛立っているビアンキの様子を訝しんだ。
「ビアンキ。オマエどうした?」
「ア?」
「やけにアイツに拘るじゃねェか」
「ベツに……」
そう訊ねるとビアンキは声量を下げてそっぽを向く。
「オマエまさかビビってんのか?」
「ビビッてなんかねェよ! だが――」
「アァ?」
ギリっと歯を鳴らしてビアンキはアレックスを睨んだ。
「オマエもやりあえばわかる……。ビビってるわけじゃあねェが、あのヤロウは……、気持ちワリィんだ」
「気持ち悪い?」
その言葉にあまりピンとはこず、アレックスは眉を寄せる。
「不快だ……、不愉快なんだ……ッ。一度あの眼で見られて……、それでまたあの眼が追ってきてるかと思うと……ッ! 殺しておかねェと喉元がイライラしてしょうがねェんだよォ……ッ!」
「ふぅん……」
ビアンキの叫びを聞いてアレックスは少し考えを巡らせた。
「オレにはわかんねェが……、まぁいい。もうすぐ右に曲がる。そしたらビルに張り付いてなんかいられねェだろ……、出来ねェよな?」
「オレに聞かれても知らねェよ」
「それにビル街を抜けたら高度を上げて高速飛行だ。港までブラ下がっていらんねェだろ」
「そう願うね」
「任せろ。他にも手はある」
アレックスは表情を真剣なものに変え、ギラリと目を光らせる。
そして無線機に手を伸ばした。
一方で――
『――ユウキ! 歩が雑です! 歩みとは一歩一歩全てが打撃なのです!』
「わかんねえよ!」
弥堂は自身の横に姿を現して必死にレクチャーをしてくるお師匠さまに怒鳴り返していた。
『身体強化の魔術を解除しなさい! 力よりも精度の方が重要です』
「無茶言うな!」
一般人からすると目を剥くほどのビックリ芸だが、決して弥堂には余裕があるわけではなかった。
『肉体が接触するというのは打撃を打っているのと同じことです! それは世界との繋がり。“威”は、反発は、神が下さった恵なのです! それを――何度も言ったでしょう!』
「何度聞いてもわかんねえって言ってんだろ!」
『跳ぶのではなく歩いていると強く意識しなさい! 落ちるよりも速く走ればいいだけです!』
「今やってんだろうが!」
『射撃きます!』
「うるせえ!」
何から何までサポートしてくれる元カノに悪態をついて、弥堂はヘリからの狙撃を回避しようとする。
だが、真っ直ぐ走ろうとするだけで精一杯のところに走行コースを変えようとしたことで、大きくバランスを崩すことになった。
「クソが……っ!」
下に落下しかけた瞬間に【身体強化】を強化して大きなストライドで上へ駆け上がる。
高度を上げ過ぎないように意識すると今度は下り坂で止まれなくなったように駆け降りる羽目になる。
奇しくもそれでジグザグに走ることになり、運よく銃弾から逃れることに成功した。
「おい、エル。今日はツイてるぜ。このまま行けるんじゃねえのか?」
『行けるわけないでしょう! もっと真面目にやってください!』
自分自身思ってもいないことを嘯くとまたお師匠様に怒られてしまう。
弥堂は舌を打って左手の魔力糸に流す魔力を増やした。
糸はもう20m近く伸びてしまっている。
これより長くするともう維持が出来なくなるかもしれない。
つまり、これ以上ヘリに引き離されるわけにはいかないのだ。
『その糸、伸ばすことが出来るのなら逆に縮められないのですか? 縮めて“へり”まで飛んでいくとか……』
「急に言われて出来るか」
『なんで事前にもっと研鑽を積んでおかないのです!』
「事前に言えよ!」
またエルフィーネに怒鳴り返したところで、弥堂は思わず笑ってしまいそうになる。
そういえば彼女と組んで任務を熟していた時も、こうして叱られながら戦っていたなと思い出したのだ。
『では、糸を操作してみるのは?』
「操作?」
『はい。自分の身体を糸巻きに見立てて、糸を身体にクルクルとしながら“へり”に近付いていくという……』
「ふざけてんなら帰れ!」
『ふ、ふざけてなんかいませんっ!』
エルフィーネは普段は声を張り上げたりなどしない女性だった。
そんな彼女が弥堂のあまりに不出来な体たらくにヤキモキとして――
また、ちょっと目を離すとすぐに死んでしまいそうになる弥堂に慌てだし――
――戦闘中にはこうして“らしくない”振舞いをするのを、弥堂は少し面白いと思っていた。
そのことを思い出した。
彼女を揶揄って内心で笑っていると、エルフィーネは気を取り直して真面目な顔で言ってくる。
『かくなる上は、この場で【
【界越】
それは“零衝”の六番目。
手以外の身体の部位でも零衝を扱う技術だ。
人は常に大地に接して生き、世界と繋がっている。
つまり、その世界を越えるという意味だ。
エルフィーネはこれを使って、今弥堂がやっているように壁を走るのみならず、空気を踏んで空中を走るなんていう変態行為まで実現していた。
弥堂はそれをすごく変態だなと思っていた。
そして、当然ながら未熟な弥堂に至れる領域ではない。
「弐式すら出来たことねえのに、全部すっ飛ばして漆式なんか出来るわけがねえだろ!」
『出来るまでやれば出来ます! それに貴方は【魔討】はもう――』
「話しかけるな! 気が散る!」
八つ当たりがしたいわけではなかったのだが、気を抜くとすぐに重心を失ってしまいそうになるのも事実だ。
姿勢の制御にかなりのリソースをとられてしまう。
『聞いてください! 今でもう既に半分は“漆”に至ってるんです!』
「どこがだ! お前はこんなに不細工じゃなかっただろ! もっと綺麗だったろうが!」
『そ、そんな……、私なんて、全然キレイとかじゃ……』
「めんどくせえなこのメンヘラが!」
言葉の綾でうっかりホメてしまうと、自己肯定感の低いメイドさんはテレテレモジモジとしてしまった。
「なんだよ! 何が言いたい⁉」
立場が逆転だが、気にしている場合ではないので彼女に発言の続きを催促すると、メイドさんはハッとした。
エルフィーネは咳ばらいをして体裁を繕った。
『んんっ。つまり、偶然成立した状況ですが今が好機なのです』
「何も詰まってねえよ。どういう意味だ」
『いいですか? 今はあの“へり”に引っ張ってもらってるおかげで、貴方だけでは至るのが不可能だった【漆式・界越】の半分を出来ています』
「引っ張って、もらってる……?」
『こんな訓練方法思いつきませんでした。この機会に【界越】を身に着けるのです。そして出来ればあの“へり”を手に入れて反復訓練を……』
「こ、こいつ……っ」
弥堂は戦慄する。
そして思い出した。
この女も『ネジ穴が無い』女だったことを。
「もう引っ込めバカ女!」
『イヤです! ただでさえ貴方は私の言うことを全く聞かないで、ちっとも鍛練しないんです! これは神が与えてくださったチャンスです。この機に貴方の“零衝”を引き上げます!』
修行が大好きな彼女は弥堂を鍛えられる機会があると目の色が変わる。
てっきり心配を拗らせた“メンヘラモード”で出てきたのかと思ったらそうではなく、この機会に弟子を鍛えてやろうと“お師匠様モード”で現れたようだった。
『いいですか、ユウキ。聞いているのですか? 壁に横から足を付けると当然横方向の“威”を加えることになりますよね? すると戻ってくる反発も当然横方向のものになります。その反発の“威”を上方向へ変えるのです。自分を斜め上に打ち出すように、一歩ごとに“零衝”を足で打つのです。そうすれば横向きに歩くことが出来ます。わかりましたね? ユウキ? 聞いているのですか?』
「聞いてねえよ!」
最早彼女はアテにならないと弥堂は必死に足を回転させる。
しかし、彼女はまだ諦めていないようだった。
『ユウキ。身体強化を解除しなさい。あと、その糸も消しましょう。補助はもう充分です』
「お前はバカなのか」
悪い冗談だと弥堂は思ったが、エルフィの顏はあくまで真剣なものだ。
『真面目に言っています。貴方が自分のことを信じられないのはわかっています。ですが、それでも私は信じています。貴方にも出来る。貴方は師である私を超えていけると……』
「お前……」
『お願いします。自分を信じられないのなら、どうか私を信じてください』
「エルフィ……」
『ユウキ……。私を信じて、身体強化を……』
「…………」
弥堂は彼女の言葉を噛み締め、それから目を閉じた。
そしてすぐに瞼を開けると――
『えっ――?』
――弥堂は【身体強化】を全開にして走る速度を上げた。
『ユウキ……ッ!』
プンスカと怒るお師匠さまを背後に置いて、ビルの壁を走る。
(魔術を解いたらヘリに置いてかれるだろうが……っ!)
脳裏で毒づく。
しかし、そうしながらも、エルフィーネの使う【界越】の記憶を記録から再生させた。
それはつい最近夢に見たばかりの、洋館の壁を駆け上がった時の姿。
出来る限りそれに近付けるように身体を動かす。
だが、やはり重要となるのは外側から見える身体の動きよりも、その内側の動作だ。
彼女と同じようには出来ない。
それでも、弥堂はギリギリのところで壁走りの体を保っている。
【身体強化】の魔術により得られた膂力でビルを蹴り続けた。
走るというよりは連続で跳んでいるイメージに近い。
その回転をひたすら上げて時速5、60キロほどで飛行するヘリを追いかける。
弥堂が足裏を叩きつけたコンクリやガラスに罅が入り、或いは砕けて、走り抜けた後に粉塵を舞わせた。
ヘリはもう少しで大通りとの交差点に差し掛かる。
エルフィーネはもう何も言ってこない。
だが代わりに――
<――ちょっと! あんたなにやってんのよばかぁーっ!>
――別の煩いのが話しかけてきた。
<つか、前っ! 気をつけて! まだいる!>
「うるせえつってんだろ!」
『あ、あの今のは私では……』
危険行為の真っ最中に頭の中でワチャワチャと騒がれて、弥堂はクスリで膨張した血管が破裂しそうになる。
その様子をヘリの中から監視しているビアンキも苛立っていた。
「オイ! まだ着いてくるぞ!」
八つ当たり混じりで怒鳴り散らす。
だが――
「いや。ここで終わりだ――」
――アレックスは冷静に告げて、ニヤリと笑った。
直進を続けていたヘリが交差点で右に曲がる。
「――っ⁉」
ヘリに引かれる力を利用してバランスを保っていた弥堂は、急にその力の方向が変わったことで体制を崩しそうになる。
「……っ! クソが……っ!」
だが、反射的に魔力糸と【身体強化】を解除して足裏への意識を集中させ、どうにか補助輪なしでの【界越】を維持させた。
『そうです! ユウキ! それです!』
<うるせえ!>
<はっ⁉ なに⁉ つか、それより――>
どうにか行けるかと思いかけたその時――
<――そこの角! ヘリがもう1機!>
ウェアキャットの警告とほぼ同時に、博士を乗せたヘリが消えた角から入れ替わるように別の戦闘ヘリが現れた。
「――なんだと⁉」
そのヘリはアレックスが準備させていたもう1機のヘリだ。
ヘリの機銃はビルを走る弥堂へ向いている。
この場所とタイミングでは逃げ場はどこにもない――
――わけではない。
逃げ場はある。
空中に。
しかしそれをすれば地面に落下して死ぬことになる。
どちらを選んでも、もう詰みだ。
「ち……、ここまでか……」
それを悟って、弥堂が瞼を閉じようとした時――
<――あきらめんなっ!>
――頭の中に響いた強いその声に、反射的に身体の底で蒼い炎が湧き立ち弥堂の眼が開く。
その一瞬後に、背後からもの凄い速度で何かが弥堂を追い抜いていった。
「なんだ――?」
それは一筋の閃光。
直射状の細い光の矢が超速度で弥堂の横を通り過ぎ、そして待ち受けるヘリのすぐ手前のビルの角に着弾する。
光が弾けて、破壊されたコンクリとガラスを派手に撒き散らした。
“レ、レーザー砲の狙撃……ッ⁉”
ヘリのパイロットは驚き、射撃を中止して崩れた機体のバランス制御に努める。
ガクッと、ヘリは大きく高度を下げた。
「――っ!」
考えるよりも先に、弥堂はビルの壁を蹴って宙へ身を踊らせた。
ヘリの真上に身体を持っていった。
『受け流しなさい――!』
「わかってる――!」
エルフィーネの指示よりも先に姿勢を変えて、頭から落ちていくようにする。
その先にあるのは、高速で回転するヘリのプロペラだ。
弥堂は素早く黒鉄のナイフを抜きながら、【身体強化】と魔眼にありったけの魔力を注ぎ込んだ。
蒼銀に光る瞳に、高速で回転するハネが映る。
『ユウくんイケるのだ! それ扇風機よりも遅いのだ! せいぜい毎秒2、3回しか――』
「――うるせえ!」
ネットで得た知識をひけらかしてきた聖女さまを怒鳴り付け、弥堂は魔眼を最大集中させた。
それは視覚か、錯覚か――
高速で回転する4枚のローターブレードがスローモーションになりハッキリと別れて視える。
弥堂は顔の前にナイフを構える。
片手で柄を逆手に握り、もう片方の手を刃の背に添えた。
ブレードとブレードの隙間に頭から落ちる。
そして――
「――っ!」
――ナイフでブレードを受け止めた。
『今――っ!』
エルフィーネの声に反応して回転するプロペラの“威”を殺す。
身体を丸めるようにしながら、ナイフでブレードの横回転に乗ってほんの1秒か、2秒か――プロペラと一緒に回る。
そして、すり抜けるように転がり落ちてヘリの上に着地をした。
“な、なんだ――ッ⁉”
ドンッと――
天井の上に何かが落ちてきたような衝撃を受けて、ヘリのパイロットは驚く。
センサーに反応しない狙撃、それから今の衝撃――理解が追いつかないことばかりで彼は混乱をしていた。
思わず頭を下げて一瞬目を閉じてしまっていた彼は慌てて顔を上げる。
そんな彼の目の前――
コックピットのフロントガラスには男が居た。
“ジョ、ジョークはよせよ……ッ”
夜闇を背景に――
黒い服、黒い髪――
そして揺れる前髪の隙間から覗く蒼銀の焔を宿した冷たい眼――
其処にいるはずのない存在――
――その姿はまるで死神のように、パイロットの目には映った。
“あっ……、なっ……⁉”
50mほどの高度で飛行中のヘリの上に飛び乗ってきた恐ろしい男――
その冷徹な視線にパイロットは射竦められた。
『ユウキ、今のは素晴らしいです。ほぼ完璧な“零衝”です。ですが完璧ではありません。今の感触を忘れない内に反復して訓練を――』
何やらブツブツと言っている師の言葉を無視して、弥堂は拳を振り上げる。
三半規管が狂って倒れそうになる。
あちこちに魔力糸を絡みつけて自分の身体を無理矢理固定した。
“ハハッ……、悪い夢だ……っ。こんなことあるわけ……、なんでこんな……っ”
ガラスの向こうでパイロットも唇を動かして何かをブツブツと言っている。
その声は聴こえないし、聴こえたところでどうせ言語がわからない。
こちらの言葉もどうせ聴こえはしないだろう。
だから適当に言い慣れた意味の無い言葉を言っておく。
「運がなかったのさ――」
拳を落とし“零衝”を放つと、ド派手な破砕音とともにヘリのフロントガラスが砕け散った。
カシャァーンっと、乾いた音が木霊する。
「――わわわ……っ⁉」
ここは美景台総合病院の入院患者用の病棟。
深夜の見回りをしていたギャルナースさんことリンカさんは、慌てて床に落とした懐中電灯を拾う。
消灯時間を過ぎた後も廊下には歩くには足りる光源があるのだが、不安を埋めるために懐中電灯も持ち歩いていた。
「うぅ……っ、もう数年働いてるのに、こればっかりは慣れないなぁ……」
愚痴を溢しながら彼女はまた歩き出す。
特段彼女はホラーに弱いわけでもなく、またこの病棟も比較的新しめの建物なのだが、やはり夜の病院というものにはどこか不気味さを感じてしまう。
「だからってやらないわけにはいかないしねぇ……」
大半の患者さんは消灯時間を守って部屋で大人しく寝ていてくれるのだが、稀にそうではない者がいることも否定できない。
特に現在は、入院中のあのヤクザ者のオッサンのように、油断をしたら入院中の女性患者の部屋へ押しかけていきかねないような不届き者もいるのだ。
「少しは愛苗ちゃんを見習って“いい子”にしてくれたらいいのに……、って、え?」
そんな風にぼやいていると、前方の暗がりに人影が見える。
何やら廊下で座り込んでゴソゴソと動いている。
「言ってる傍から……、もう……」
リンカさんは溜息を吐いてそちらへ近付いていく。
人影の輪郭がハッキリとしてくる。
体格的に男性だろうか。
それでも例のヤクザのオッサンほどは大きくはない。
こちらへ背を向けて床に風呂敷のような布を広げて何かをしているように見えた。
(てゆーか、泥棒じゃないわよね……?)
相手はまだこちらに気が付いていないようだ。
照明と照明のちょうど中間となる場所で暗く、こちらからもまだ相手がよく見えない。
リンカさんは気持ち足音を忍ばせた。
(えっ……? 裸……?)
もう少し近づいた時、その人物が何も服を着ていないことがわかった。
いくらなんでも裸で盗みに入る者などいないだろうし、おそらく患者だろうと判断した。
(うわぁ……、イヤだけどシゴトだしなぁ……)
少し距離を空けて立ち止まり、溜息を吐いて意を決してから彼女は人影に懐中電灯を当てた。
「ちょっとぉー? 消灯時間過ぎてますよー? どこの部屋の患者さんですかぁー?」
ゴネられると面倒なので、腰に手を当てながら少しだけ不機嫌で威圧的な声で呼びかける。
しゃがんでゴソゴソとしていた男はピクっと肩を揺らすと、ゆっくりと立ち上がった。
「パジャマどこやっちゃったんですかぁ? とりあえず先に一緒にお部屋に帰りましょうか――」
どうやら素直に応じてくれそうだったので、少しだけ安心してリンカさんはさらに近寄っていく。
だが、もう何歩か進んだところですぐにその足が止まった。
気が付いたのだ。
男は何も身に着けていない。
服も。
肌も。
「え――っ?」
懐中電灯に照らされる男の身体は筋線維が剥き出しになっていた。
驚きに硬直する彼女の前で、男はまたゆっくりと動いてこちらへ振り返った。
「あ……、あぁ……っ」
震える声で意味のない言葉が、彼女の口から漏れる。
男の身体の前面もやはり肌は無く、筋肉の束がぼんやりとした光の中に浮かぶ。
しかし、こちらはそれだけでもなかった。
男の腹。
そこには肉も無く。
ぽっかりとした空洞の中に詰まる内臓が丸見えになっていた。
トク、トクと、心臓が脈を打ち――
他の内臓が闇の中で蠢く。
その男の顔は――
目に入らない。
彼女は男のその腹の中身に視線を釘付けにされてしまった。
ヒタっと――
温度の無い足音が鳴る。
こちらへ近付いてくる。
「ひ――っ」
寝静まった夜の病院に、無力な女性の悲鳴が響いた。