幻影を振り払うように頭を軽く振って――現実に視界を切り替える
聞き覚えだけはよくある声がした自身の左隣へと、
いつも通り視線を遣ることで以って返事としようとしたのだが。
声の主である彼女――
その様子も同時に視界に入った。
弥堂は嘆息混じりに相手の名前を呼ぶ。
「なんだ、水無瀬」
名前を呼ばれる。
ただ、それだけのことがまるで特別なことのように、彼女は嬉しそうに目を輝かせた。
彼女にしては珍しく俊敏な動作でシュバっと右手を上げ――
「はいっ、水無瀬 愛苗ですっ!」
「知ってんだよ」
元気いっぱいにお返事をする水無瀬が理解不能すぎて、つい無駄な口をきいてしまった。
そのことを弥堂は強く悔いた。
用件を言うように視線で水無瀬を促したが、目が合った彼女はふにゃりと相好を崩して「えへへー」と笑うばかりで。
埒があかないと判断し、弥堂は親猫の方へと視線を移した。
「あによ」
親猫――もとい
どうやら子猫の代弁をしてくれるつもりはないようだ。
ふむ、と――弥堂は顎に手を当てて考える。
彼女が――希咲が水無瀬の席まで来ているということは。
廻夜の冗長で矢継ぎ早な台詞を頭の中で復唱している間に、昼休みが始まってから少し時間が経過していたのだろう。
周囲を見渡してみれば、教室で食事をとる生徒以外はもう学食などへ向かったようだ。
教室内の人数はだいぶ少なくなっていたいる。
視線を戻して再び水無瀬と希咲を見遣る。
この二人はいつも昼休みを共に過ごしている。
教室でだったり、校舎屋上でだったり、中庭でだったり。
これまでのパターンだとそのいずれかの場所で食事を共にするはずだ。
なのに、このタイミングで自分に声をかけてきた。
ということは、その場合――用件と為り得るものの選択肢はそういくつもない。
弥堂は素早く眼球を動かし脱出経路を探った。
間違いない。厄介事だ。
最有力は『一緒に食事をとろう』だ。
一年生時は何かにつけ『弥堂くん一緒にごはんたべよ!』と水無瀬に絡まれたものだ。
だが二年生に進級してからは、彼女と行動を共にする希咲が自分を嫌ってくれているおかげでその頻度は大分減った。
――が、ゼロではない。ゼロにはならないのだ。
弥堂は自分が油断をしていたと素直にミスを認める。
そうしながら周囲の状況確認を終え。
頭の中に広げた校内MAPの中でセーフポイントまでの逃走経路を組み上げていく。
――が、
「お昼やすみですっ、弥堂くんっ!」
再びシュバっと手を上げて、水無瀬が手遅れだと伝えてくる。
ニコニコと随分と楽しそうな様子だ。
その隣に目を遣れば――
『逃走する素振りを見せれば即座に噛み殺す』――と。
そう言わんばかりの眼光で睨みつけてくる希咲もいる。
そんな時――
腕組みをして目つきを険しくした希咲を、手を上げたポーズのままで水無瀬がじーっと見上げた。
希咲の態度を咎めたわけでも疑問に思ったわけでもない。
ただ弥堂の目線の動きに釣られて見ただけなのだろう。
何を思うでも含みを持たせるでもなく。
ただ自分をじーっと見つめてくる純真な眼差しに――
希咲は「ゔっ――⁉」と怯んだように呻く。
それから、やや逡巡しつつ――
「お、お昼休みよっ!」
シュバっと片手を上げて、水無瀬と同じポーズをとった。
そのお耳は真っ赤だ。
水無瀬さんはニッコリした。
周囲の生徒さん達もニッコリした。
弥堂はこれまでのデータにはない行動をとった実験動物を注意深く観察するように慎重に希咲を視た。
希咲はその大きな猫目をグルグルと回しながらしばしそのままのポーズでいたが、段々と押し寄せる羞恥に耐えられなくなっていく。
「うぅっ」と情けない声を漏らしてからヘナヘナと萎れるように脱力をし――
七海ちゃんはその場にしゃがみこんで膝を抱えてしまった。
それでも弥堂に背を向けて窓側の壁を向く。
決して安易に男の子に下着は見せないという意志だけは健在だった。
水無瀬はそんな親友の挙動をじっと見守って――
「お昼やすみだよっ、弥堂くん!」と繰り返した。
使い物にならなくなった相棒は捨て置いて、自らの目的を遂げることにしたようだ。
弥堂はそんな彼女の精神性とその強度を視て――水無瀬 愛苗に関する評価と危険度を脳内で一つ上方修正した。
同時に希咲 七海の評価は一つ下げる。
そんなことよりも、先程より若干気安くなった水無瀬の口調に脳内で警報が鳴り響いた。
「あ、あのね……?」
弥堂の内心など露知らず。
水無瀬は今度は突然胸の前で両手の指を絡ませて視線を俯けると、モジモジと身を捩り始めた。
挙動不審な水無瀬の様子に、弥堂は警戒心をより一層高める。
彼女が目線を外した隙に悟られぬよう軽く椅子を引き、僅かに腰を浮かした。
慎重に様子を見ながらも重心をつま先へと移し、いつでも席を立てるよう準備をする。
水無瀬は言葉を探すようにしばし自分の絡ませた指の動きを見つめ。
やがて意を決したように口を開いた。
「あの、ね? 弥堂くん。今日は学食の予定だったり、するのかな……?」
「…………」
弥堂は即答はせずに、上目遣いでこちらを見つめる水無瀬の様子を注意深く観察する。
いつものようにただ無視をしたわけではない。
だが、彼女の真意が掴めないため、受け答えは慎重にするべきだと判断した。
わずかなヒントも見逃さないよう、油断なく水無瀬の全身を視界に収める。
そうしながら出来るだけ多くの情報を集め、脳内で整理していく。
(――どういうつもりだ? 学食だったら何だと言うのか。学食でなかったら何だと言うのか。どちらにせよ、いつも通り目的は食事を共にすることか?)
今までの傾向から言っても、昼休みにこうして声をかけられる時の用件は2つだ。
1つはくだらない世間話。
もう1つは前述した食事を共にすること。
世間話を求められる時は希咲と合流する前に仕掛けられることが多い。
よって、今日の様子から見ると後者である可能性が高い。
もしくはそのどちらでもない特殊なパターンだろうか。
抜本的な問題に目を向ける――
(何故俺に干渉する? こいつは、一体何が目的だ…… )
二年生となってからは頻度は減ったとはいえ――
彼女から食事に誘われることは、彼女と出会ってから今までに幾度もあった。
そしてその誘いにこちらが乗ったことは一度もない。
いや、正確には一度だけあった。
声をかけられ始めた一年生の時分で。
席が元々隣同士なこともあり、自席で食事を摂るならば同じことだと了承をしたことがあった。
だが、それはその一度だけで。
その後はすべての誘いを断っている。
それは普段の挨拶や雑談に関しても同様だ。
最初は話しかけられても無視をしていた。
事務的な受け答えはするが、必要のない馴れ合いには付き合わない。
それが弥堂 優輝が全ての他人に対して引いている『線』であった。
そしてそれは正しく機能している。
この目の前の水無瀬 愛苗以外の人間には。
通常――『普通』に考えて。
それが弥堂でなかったとしてもだ。
他人に冷たくされたり興味を持たれなければ、それでその人物とは距離を置くはずだ。
水無瀬のように友好的に接触をしてきたのに、そういった気のない対応ばかりをされれば、それはよりその公算を大とするであろう。
逆に反感・怒りなどの悪感情を抱いたとしてもおかしくはない。
(――だがこの女は、水無瀬 愛苗は違う)
どれだけ冷たくされようとも、無視をされたとしても変わらない。
何も変わらない友愛のように見える感情でその大きな丸い瞳を輝かせたまま、何も変わらず呼び掛けてくる。
それは――
それはとても『異常』なことだ。
水無瀬 愛苗の『異常性』を思い、弥堂は彼女の肘周辺へと目を向ける。
紺色の制服のブレザーを着用しているため、その下に隠された肌は見えない。
(夏服の時に確認はしたが薬物の注射痕などはなかった。が――)
視線を彼女の顔に移す。
(――顔面はやや紅潮をし眼球は多少潤んではいる。だが、瞳孔の動きなどは正常の範囲。暴徒や狂信者のような正気を失っている者特有の瞳の色はない。そのようには視える……)
しばし水無瀬の瞳孔の動きを観察する為に視線を合わせていると、彼女は内腿を擦り合わせるように身動ぎをした。
(――む、なんだ? 今の動作は? 何故重心を不安定に揺らす必要がある? 何かの予備動作か……?)
弥堂は不審の目を強めた。
彼以外の人間が見れば、満場一致で恥じらう乙女の仕草にしか見えない。
そんな様子の水無瀬の体勢から繰り出せる有効的な攻撃行動の予測を立てていく。
弥堂はチラっと、水無瀬の右隣へ視線を送った。
そこには未だこちらに背を向けて蹲ったままの希咲が居る。
(この女の運動能力は厄介だが、この盤面からならば先手をとれる)
自分が決定的に不利ではないことの確認をとりながら次は水無瀬の左側へと眼を遣った。
水無瀬の背後の窓は全て閉ざされている。
(まずは希咲へ向けて机を倒す。その後水無瀬の左側面へと周り、運動神経皆無のこの女を希咲への盾としながら、そのまま背後の窓をぶち破り階下へと降りる。着地後すぐに1階の窓を破壊し再び校舎内へと入れば死角は作れる。向かう先は事務棟だ――)
学園の風紀を守るべき立場である風紀委員会所属のその男子生徒は、学園の備品である窓ガラスを破壊した後に、二階から飛び降りるという危険行為を行った挙句、あろうことかご休憩中の先生方のいらっしゃる職員室を避難場所とすることを即座に決断した。
机の上に置いていた腕を弥堂はさりげなく移動させ、天板の端を掴む。
頭に浮かべたプランを実行すべく机を持ち――
「――あ、あのねっ、お弁当作ってきたのっ!」
――弥堂は浮かしかけていた机を静かに下ろした。
(またこちらの行動の頭を抑えられた。偶然か……? 呼吸を読まれたとでもいうのか……?)
水無瀬は後ろを向き、机の上に置いた自分の鞄の中から何かを取り出そうとしている。
それに合わせてかどうかは不明だが――
自分の中で何かしらの折り合いがついたのか。
希咲が緩慢な動作で立ち上がり、こちらに不機嫌そうな眼差しを向けてくる。
弥堂は内心で舌を打った。
事ここに至ってはもはや逃走は諦めるしかあるまい。
弥堂はゆっくり悟られぬよう机から手を離し、水無瀬の動向を見守った。
弁当を自作したからなんだというのかは不明だが、何れにせよ――
このまま厄介なこの二人組に付き合う他ないと覚悟を決める。
弥堂はチラリと腕時計に目を遣った。
昼休みに入ってから既にもう10分以上が経過していた。
(無駄な時間だ――)
胸中で一人ごち水無瀬を待つ。
ようやく振り返った彼女は弁当袋と思われる布の袋を二つ抱えていた。
何故二つ?と、弥堂は怪訝な眼を向ける。
「あのね? 今日もお弁当用意してたりとかしないよね? 弥堂くんいつも変なの食べてるから、ちゃんとしたごはん食べた方がいいってずっと思ってて。それで私……」
そういえば――と思い出す。
確かに一年生時から弥堂の食事メニューについて、水無瀬からそういった指摘を受けてはいた。
「変なの?」と、希咲が不思議そうに首を傾げている横で、水無瀬は言葉を探しながら続ける。
「……お母さんのね、お手伝いしながら教えてもらって……。おいしくないの食べさせちゃったらかわいそうだし、恥ずかしいし……。それでね? 私ずっと練習してて……」
いまいち要領を得ない言葉が錯綜し、結論まですぐに辿り着かない。
しかし、自作したというその弁当を大事そうに胸に抱いて。
視線だけは真摯にこちらへしっかりと合わせ、何かを必死に伝えようとするそんな彼女を――
水無瀬 愛苗を見て弥堂 優輝のその心は――
「……あのね? だから。このお弁当、たべてくださいっ!」
ギュッと目を瞑り二つ持った内の片方の包みを差し出してくる。
そんな水無瀬 愛苗の姿に――
――弥堂 優輝の精神は芯まで冷え渡った。
キンっ――と。
鞘から刃を抜き放ったかのような冷たい音が脳内に響き、思考が静まる。
今朝の希咲とのやり取りを思い出した。
なるほど、どうやら彼女らは『共犯者』だったようだ。
水無瀬への対応を改善しろとは、これの為だったのだろう。
「あたし昨日同じの作ってもらって毒見――もとい味見してるから。メニューと味は保証したげるわよ」
軽い口調とは裏腹に。
希咲のその眼差しは「受け取らないなんて選択は許さない」と、そう言っている。
そんな希咲と――
彼女に向かって「毒見はひどいよぉ」などと言っている水無瀬を見て――
(くだらない茶番だ)
――弥堂 優輝はそう思った。
心の底からそう思った。
そして、酷く面倒になった。
弥堂は席から立ち上がる。
それを見て「お?」と目を軽く見開く希咲と。
彼女の目が丸くなった様子に気付いてこちらに向き直る水無瀬の元へと。
弥堂は一歩踏み出す。
期待するような視線を送ってくる希咲。
再び緊張したような面持ちになって、差し出す弁当袋を持つ手に力を込める水無瀬。
二人の少女を見下ろした。
『このお弁当、たべてくださいっ!』
『特に、今日は、お願い。優しくしてあげて? ……お願いよ』
真摯で必死で切実な二つの声。
きっと――
きっと、たかだか、こんな、くだらないことが――
彼女たちには重要で、『特別』なことなのだろう。
彼女たちは何かしらの充足感を得て。
いつかの未来で顔を会わせて。
今日という日が『楽しかった』とそう声を合わせて、笑い合い。
お互いの青春が、人生が、豊かだったと、口裏を合わせてそういうことにする――
――そんな『共犯関係』なのだろう。
それならば、自分は――
廻夜の言葉の続きを再び思い出しながら弥堂は眼を細め。
水無瀬と希咲を視て。
弁当袋を視て――
その包みを受け取った。
瞳を輝かせ、何やら姦しく喜び合う少女二人を視て弥堂は思う。
絶対にありえないことだが。
仮にいつかの未来とやらが訪れたとして――
――これで自分はどちらの少女の『共犯者』となったのだろうか。