戦えない私がキヴォトス中の生徒に執着されるまで 作:Zuzuiikb
浴室へ向かうまでの間、ヒマリは驚くほど静かだった。
レナがもう一度抱き上げても、今度は茶化さなかった。さっきのように「大胆な救護ですね」とも、「全知の超天才美少女としては」とも言わなかった。ただ、レナの肩口に手を添えて、落ちないようにしている。
その沈黙が、妙にヒマリらしくなかった。
けれど、レナは何も言わなかった。
ヒマリさんが喋らないでいられるなら、今はそれでいい。
そう思った。
ヒマリの部屋に隣接した浴室は、バリアフリー用に広く作られていた。手すりがあり、移乗用の椅子もある。湯はすでに張られていて、白い湯気がゆっくりと天井へ昇っていた。
レナは手順を一つずつ確認しながら、ヒマリを浴室の椅子へ移した。タオルを渡し、必要なところは背を向ける。触れる時は必ず声をかける。ヒマリも、普段ならもっと器用に言葉で場を整えるだろうに、今は小さく「お願いします」とだけ言った。
湯気が白く満ちていく。
浴室の輪郭が、少しずつ柔らかくなる。
レナもタオルを身につけ、湯に入った。細かな体の描写は、湯気が全部隠してくれた。残るのは、肩まで届く温度と、濡れた髪から落ちる水音と、すぐ近くにいる相手の呼吸だけだった。
ヒマリが湯に入った瞬間、ほんの少しだけ息を吐いた。
それは、本人が思っていたよりも深い息だったのだろう。
ヒマリ自身が、その音に驚いたような顔をした。
「……思ったより、冷えていたようです」
「はい」
「ここで医学的に言えば、末梢血管の拡張と副交感神経の――」
「ヒマリさん」
レナが止める。
ヒマリは口を閉じた。
「今の説明、いりません」
「……はい」
「気持ちいいなら、気持ちいいって言ってください。つらいなら、つらいって言ってください。難しい言葉にしないでください」
ヒマリは、湯気の向こうでレナを見た。
白く霞んだ視界の中で、レナの顔も少しぼやけている。けれど、逃げていないことだけは分かった。
ヒマリは目を伏せた。
「……気持ちいいです」
「はい」
「でも」
そこで一度、声が止まる。
レナは待った。
湯の音だけが、小さく揺れた。
「つらいです」
その言葉は、ヒマリの口から落ちたというより、ほどけて出てきたみたいだった。
レナは小さく頷く。
「はい」
それ以上は聞かなかった。
なぜつらいのか。何が悔しかったのか。どこで傷ついたのか。ヒマリなら、求められればいくらでも言葉を組み立てられる。整った説明にして、因果を並べて、聞く側が納得しやすい形にして差し出せる。
でも、それをさせたくなかった。
レナは少しずつ近づいた。
湯が揺れる。
「ヒマリさん」
「はい」
「今は、説明しなくていいです」
ヒマリが顔を上げる。
「レナさん?」
「つらいって言えたので、今はそれでいいです」
ヒマリの目が揺れた。
その言葉は、慰めというより、許可だった。
天才として詳しく説明しなくていい。
正しく整理しなくていい。
言葉にして証明しなくていい。
ただ、つらいと言うだけでいい。
それが、ヒマリには一番難しかった。
「……本当に」
ヒマリは小さく息を吐いた。
「今日は、私を甘やかすのではなく、逃がさない日なのですね」
「両方です」
「両方」
「逃がさないで、甘やかします」
ヒマリは笑おうとした。
けれど、笑いきれなかった。
レナが近くにいる。
湯気の向こうで、白い羽根が湿気を含んで少し重たげに揺れている。さっきベッドの上で自分を包んだ羽根。映像の中で奪われたものではなく、レナが自分の意志で広げた羽根。
その持ち主が、今ここにいる。
ヒマリのために。
「ヒマリさん」
「はい」
「泣いてもいいです」
「……湯気で、見えないでしょう」
「見えます」
「では、湯気の意味がありませんね」
「あります」
レナは、ヒマリの前まで来た。
近い。
さっきベッドの羽根の中とは違う近さだった。湯気がある。直接見えすぎない。けれど、声も、呼吸も、手の震えも、隠しきれない。
「隠れながらでも、泣けます」
ヒマリの目が揺れた。
その言葉は、優しかった。
逃げるな、と言いながら、逃げ道を全部奪うわけではない。見せてください、と言いながら、全部を晒せとは言わない。隠れながらでもいいから、泣いていい。
それが、ヒマリには一番ずるかった。
「……私は」
声が震える。
「あなたに、見つけてほしかったのかもしれません」
レナは瞬きした。
ヒマリは自分でも驚いたように、唇を引き結ぶ。
けれど、もう戻れなかった。
「平気ではないことを。言葉を並べているだけだということを。全知の超天才美少女という言葉で、あなたから逃げようとしていることを」
「あなたに、見つけてほしかった」
レナは息を止めた。
「ヒマリさん」
「はい」
「見つけました」
ヒマリは、レナを見る。
レナは、ゆっくり手を伸ばした。
濡れた前髪が、ヒマリの目元にかかっている。レナはそれをそっと払った。指先が額の近くに触れる。ヒマリの睫毛が震える。
「いました」
「何が、ですか」
「天才じゃないヒマリさん」
ヒマリの顔が、崩れた。
その瞬間、もう何も飾れなかった。
全知の超天才美少女でも、黒幕への対策を組む解析者でもない。
レナを見て傷ついて、怖くなって、それでもいつもの言葉で隠そうとして、けれど本当は見つけてほしかったヒマリが、そこにいた。
レナは、もう一歩近づいた。
「ヒマリさん」
「……はい」
「今の私を見てください」
ヒマリは、揺れる視界の中でレナを見た。
映像の中ではない。
切り取られたレナではない。
今、湯気の向こうで、真っ赤になりながらも逃げないレナ。
「私は、ここにいます」
レナは、ヒマリの手を取った。
湯で少し温まった手。
それでも、まだ震えている手。
「さっき、言いましたよね」
「……何をでしょう」
「私が、ヒマリさんの弱点になりたいって」
ヒマリの顔が赤くなる。
涙と湯気と熱のせいだけではなかった。
「覚えています」
「じゃあ、もう一回言います」
レナの方が、明らかに恥ずかしそうだった。
けれど、言う。
「ヒマリさんが全部一人で考えようとするなら、私が止めます。ヒマリさんが天才の顔で泣かないなら、私が見つけます。ヒマリさんが私のことで苦しくなるなら……私で戻ってきてください」
ヒマリの指が、レナの手を握り返す。
「それは、依存を許す言葉ですよ」
「今は許します」
「今だけで済むと思っているのですか」
レナは少し困ったように眉を下げた。
でも、逃げなかった。
「済まなかったら、また救護します」
ヒマリは笑った。
完全に負けた顔だった。
「レナさん」
「はい」
「あなたは、時々とても危険です」
「今日は、危険でもいいです」
「私が、本当にあなたを弱点にしてしまっても?」
「してください」
即答だった。
レナはヒマリの手を両手で包む。
「でも、弱点って、ただ壊される場所じゃないと思います」
「……ええ」
「大事だから、守りたくなる場所でもあると思うんです」
ヒマリの瞳が、湯気の中で揺れる。
「だから、これからは守ってください」
レナは、少し息を吸った。
「私も、守ります」
ヒマリは何も言えなかった。
守る。
守られる。
どちらか一方ではなく、互いに手を伸ばす約束。
レナは、自分を弱点にしていいと言った。
けれど、それは壊されるためではない。守り合うためだと、言った。
ヒマリは目を閉じた。
「……私は、黒幕には次に勝ちます」
「はい」
「映像の悪意にも、二度と同じ形では屈しません」
「はい」
「ですが」
ヒマリは、レナの手を握り返す。
「今日あなたに負けたことは、取り返したくありません」
レナの頬が赤くなる。
「負けたままでいいんですか」
「ええ」
ヒマリの声は、まだ少し震えていた。
けれど、そこにほんの少し、いつものヒマリが戻ってくる。
ただし、天才としてではなく。
レナに見つけられた、ヒマリとして。
「天才ではないヒマリさんは、どうやらこのまま甘やかされたいようです」
レナは目を伏せた。
でも、笑った。
「じゃあ、もう少しだけ」
「もう少し、では足りませんよ」
レナが言葉に詰まる。
ヒマリは、涙の残る顔で少しだけ微笑む。
「なにしろ私は、欲張りな超天才ですから」
「今日は、超天才禁止です」
「……では」
ヒマリは、レナの手に額を寄せるように、ほんの少し俯いた。
「欲張りなヒマリさん、ということで」
レナはその言葉に、もう何も言えなくなった。
代わりに、ヒマリの濡れた前髪をもう一度そっと払う。
そして、考え続けて、逃げ続けて、ようやく止まったその場所――こめかみに、湯気越しの短い口づけを落とした。
ヒマリの呼吸が止まった。
「ここ、今日は休んでください」
レナが小さく言う。
ヒマリは、しばらく何も言えなかった。
それから、震える息で笑う。
「……レナさん」
「はい」
「そこに触れられると、本当に思考が止まります」
「止めに来ました」
「ええ」
ヒマリは目を閉じる。
今度は、逃げるためではなかった。
「効きました」
その声は、悔しそうで、甘かった。
「悔しいほどに」
レナはほっとしたように笑った。
湯気の中で、ヒマリはようやく泣いた。
レナはその涙を、急いで拭わなかった。
今は、流れていいものだった。
天才じゃないヒマリさんが、ようやく泣けたのだから。