戦えない私がキヴォトス中の生徒に執着されるまで   作:Zuzuiikb

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箱の外で

 

 

 ヴェリタスの部室は、いつもより暗かった。

 

 明かりが消えているわけではない。端末の光はある。サーバーの小さな稼働音もする。机の上にはケーブルが走り、いくつかの画面にはログと監視用の数字が並んでいる。

 

 それでも、部屋の空気は静かすぎた。

 

 マキも、ハレも、コタマもいない。

 

 奥の作業机に、チヒロだけがいた。

 

 椅子に座り、片肘を机につき、片手でキーボードに触れている。画面には映像は映っていなかった。そこにあるのは、暗号化済みのファイル名、隔離環境の状態、外部アクセス遮断のログ、そして見慣れない小さなウィンドウ。

 

 黒い箱のようなアイコン。

 

 その横に、いくつもの認証項目が並んでいた。

 

 レナが部室の入口で足を止めると、チヒロは振り返らずに言った。

 

「入っていいよ。……いや、もう入ってるか」

 

「すみません。ノック、聞こえませんでしたか?」

 

「聞こえた。返事する前に、どの画面を閉じるか迷ってた」

 

 チヒロはそこでようやく振り返った。

 

 いつものように落ち着いた顔だった。眠そうにも見えるし、少しだけ面倒くさそうにも見える。けれど、目元の疲れは隠しきれていなかった。

 

 レナは、その顔を見た。

 

 それから、画面ではなく、チヒロの手元を見た。

 

 閉じるかどうか迷っていた指が、キーボードの上で止まっている。すぐにでも何かを隠せる位置。けれど、隠したら隠したで、その手だけが残ってしまうような位置だった。

 

「閉じたいなら、閉じてもいいです」

 

 レナはそう言った。

 

 チヒロが少し眉を上げる。

 

「いいの?」

 

「はい。でも」

 

「でも?」

 

「閉じた後も、チヒロさんがその画面の前に残るなら……私、たぶん分かります」

 

 チヒロはしばらく黙った。

 

 それから、薄く笑った。

 

「最近、みんなレナさんに言い負かされてない?」

 

「そうなんですか?」

 

「そうだよ。たぶん。少なくとも今、私は少し嫌な予感がしてる」

 

 チヒロはそう言って、画面を閉じようとした。

 

 レナは近づいた。

 

 けれど、すぐ横に立って覗き込むようなことはしなかった。机の少し手前で止まり、チヒロの顔ではなく、手元を見る。

 

「チヒロさん」

 

「これは見せない」

 

 声は荒くない。

 

 でも、はっきり拒否だった。

 

「レナさんに見せるものじゃない」

 

「はい」

 

 レナは頷いた。

 

「でも、チヒロさんが一人で見続けるものでもない気がします」

 

 チヒロの指が止まった。

 

 それは、問い詰める言葉ではなかった。

 

 だから余計に、チヒロはすぐ返せなかった。

 

「……どうして、そう思うの」

 

「さっきから、画面じゃなくて、閉じた後の手元ばかり気にしてるみたいだったので」

 

 レナは少しだけ言葉を探すように間を置いた。

 

「消したいものを見ているっていうより、消せないものの前から動けなくなっている顔に見えました」

 

 チヒロは、短く息を吐いた。

 

「……そういうところだよ」

 

「すみません」

 

「謝らなくていい。効いただけ」

 

 チヒロは椅子の背に体を預けた。数秒だけ天井を見る。それから、諦めたように画面を戻す。

 

 黒い箱のアイコン。

 

 そして別ウィンドウに表示された、いくつかのテストファイル。

 

 レナは目を細めた。

 

 映像ではない。

 

 けれど、ファイル名とタグの並びで、何を作ろうとしているのか少しだけ分かった。

 

「これは……本物じゃないですよね」

 

「本物は使ってない。使うわけがない」

 

 チヒロの声が少しだけ硬くなる。

 

「本物は封印してる。複製も作ってない。これは外部から再接触があった時に反応を見るための偽装ファイル。ブラックマーケット側か、黒幕側か、どちらでもいい。食いついたら経路を追える」

 

 チヒロは淡々と説明した。

 

 淡々としようとしていた。

 

「もちろん、中身は空。映像データとしては成立しない。外側だけ似せてる。ファイルサイズ、メタ情報、偽装されたタグ、流通側が拾う特徴。それだけ」

 

「……それだけ、にしたかったんですね」

 

 チヒロの指が、また止まった。

 

 レナはチヒロを見ていた。

 

 責める目ではない。

 

 ただ、もう分かってしまった目だった。

 

 チヒロは少しだけ顔を逸らす。

 

「うん。それだけにしたかった」

 

 声が、少し低くなる。

 

「でも、それだけじゃ食いつかない可能性がある。向こうは多分、ただのファイル名だけじゃ動かない。ある程度“それらしい特徴”が必要になる。だから、偽物を作るにしても、何を似せるか考えなきゃいけない」

 

 レナは何も言わなかった。

 

「音声の波形は使わない。画像特徴も使わない。レナさん本人に結びつく情報は、できるだけ排除する。それでも、向こうが反応する程度には似せる。……矛盾してるよね」

 

 チヒロの指が、キーボードの上で止まったままになる。

 

「守るために作ってる。理屈としては必要かもしれない。でも作ってる間、ずっと気持ち悪かった」

 

「気持ち悪い……」

 

「本物じゃない。中身もない。レナさんの映像も声も使ってない。それでも、“あれに似せる”って考えた瞬間、私はまたレナさんをファイルの形にしてる気がした」

 

 レナは少しだけ目を伏せた。

 

 それは、レナにとって耐えられないほどの痛みではなかった。

 

 あの映像に残された出来事は、もうレナの中では過去だった。怖くなかったわけではない。見られて平気だったわけでもない。でも、そこに自分が閉じ込められているとは、もう思っていない。

 

 だからこそ、余計に見えた。

 

 チヒロさんが、まだそこにいる。

 

 画面には映っていないのに。

 

 箱は閉じられているのに。

 

 チヒロの目は、まだその前に残っている。

 

「封印した箱もある」

 

 チヒロは画面の黒いアイコンを指した。

 

「本物はそこ。正確には、そこからさらに分離した隔離領域。普通の手順じゃ開かない。ログも残る。開けるには私の権限が要る。先生の承認も要る。複数段階の確認も入れてる」

 

「はい」

 

「でも、私の権限が入ってる」

 

 チヒロの声が、少しだけ低くなった。

 

「そこが嫌だった」

 

 レナは、チヒロの横顔を見る。

 

「私が開けられる側にいる。必要なら、私はその箱に触れる。開かないように守ってるつもりで、実際にはレナさんをそこに閉じ込めてるみたいだった」

 

「閉じ込める……」

 

「そう見えるんだよ。少なくとも、私には」

 

 チヒロは自嘲するように笑った。

 

「消したかった。でも消せない。証拠として必要だから。実行犯にも、黒幕にも、辿るためには残さなきゃいけない。でも残すってことは、レナさんの“見ないで”を、私は保管し続けるってことだ」

 

 レナの指先が、ほんの少しだけ動いた。

 

 チヒロはそれに気づいた。

 

「ごめん」

 

 レナはすぐには返さなかった。

 

 謝らないでください、と言えば簡単だった。

 

 でも今それを言えば、チヒロはきっと、その言葉を使ってまた自分の方へ罰を向ける。謝る側に戻って、レナから少し離れる。そういう逃げ方を、チヒロはたぶん選べてしまう。

 

 だからレナは、少しだけ違う言葉を選んだ。

 

「チヒロさんが、それを一人で言わないでいてくれてよかったです」

 

 チヒロが目を上げる。

 

「何それ」

 

「謝るより先に、今のことを聞けてよかったです」

 

「……レナさん」

 

「私、謝ってほしくないわけじゃないです。でも、チヒロさんが謝るだけで終わろうとするなら、少し困ります」

 

 チヒロは黙った。

 

 当たっていた。

 

 謝れば、自分を責める側に戻れる。自分が加害者の端にいるみたいに振る舞えば、レナに近づかずに済む。ファイルを管理する人間として、傷を持つ本人から距離を取れる。

 

 レナはその逃げ道を、ゆっくり塞いでいた。

 

「チヒロさん」

 

「……何」

 

「それが本物じゃないって分かっていても、私に似せたものが誰かを誘うために傷ついたふりをするのは……少し、落ち着きません」

 

 チヒロの顔が固まった。

 

 怖いです、とは言わなかった。

 

 言えないほど怖いわけではないから。

 

 でも、何も感じないわけでもなかった。

 

 レナは、そのちょうど真ん中にある感覚を、丁寧に手のひらに置くように言った。

 

「私を守るために作ったものだって、分かっています。でも、チヒロさんがそれを作っている間、ずっと私の痛かったところを見ていたなら……それは、チヒロさんも傷ついてます」

 

 チヒロは画面から目を逸らした。

 

「レナさんはさ」

 

「はい」

 

「そういうこと、普通に言うよね」

 

「普通じゃないです。けっこう頑張って言ってます」

 

「……そっか」

 

 チヒロは力なく笑った。

 

「じゃあ、ちゃんと効いてる」

 

 部室の空気が少しだけ変わった。

 

 レナは机の上の黒い箱のアイコンを見る。

 

 映像ではない。

 

 けれど、それは確かに、レナの過去と繋がっている。

 

 ただ、その箱の中に、今の自分はいない。

 

 今の私は、ここにいる。

 

 チヒロさんの隣にいる。

 

 レナは黒い箱ではなく、チヒロの手を見た。

 

 その手は、ずっと近くにあった。

 

 箱の上ではなく、鍵の近くに。

 

「チヒロさん」

 

「何」

 

 レナは少しだけ迷った。

 

 ここは、遠回りでは届かない気がした。

 

 だから、まっすぐ言った。

 

「私はもう、その箱の中にはいません」

 

 チヒロの息が止まった。

 

 レナは続ける。

 

「だから、チヒロさんもそこに残らないでください」

 

 チヒロは何も言わなかった。

 

 黒い箱のアイコンだけが、静かに光っている。

 

 レナはその画面を見ずに、チヒロを見た。

 

「鍵を持つなら、閉じ込めるためじゃなくて、二度と勝手に使わせないために持ってください」

 

「……レナさん」

 

「私一人で持つのも、たぶん違います。チヒロさん一人で持つのも、違う気がします」

 

 レナは一歩近づいた。

 

「だから、二人で持てる形にしてください」

 

 チヒロの目が細くなる。

 

 怒っているわけではない。

 

 けれど、今の言葉がどれだけ重いか、チヒロは即座に理解した。

 

「それ、かなり重いことを言ってるよ」

 

「はい」

 

「鍵を分けるっていうのは、ただ権限を共有するって意味じゃない。何かあった時、私はそれを開けられる側に立つ。レナさんの過去に、私が正式に関わるってことになる」

 

「はい」

 

「即答しないで。こっちは今、結構真面目に怖がってる」

 

 レナは少しだけ目を伏せた。

 

 今、すぐに「分かってます」と言うのは簡単だった。

 

 でも、その簡単さがチヒロを遠ざける気がした。

 

 だから、ほんの少し考えた。

 

「……怖いのは、分かってます」

 

 レナは小さく言った。

 

「でも、チヒロさんが一人でその箱を見てる方が、私は落ち着きません」

 

 チヒロの呼吸が、わずかに揺れる。

 

「外から見張る人じゃなくて」

 

 少しだけ、声が震えた。

 

「一緒に守ってくれる人として、鍵を持ってほしいです」

 

 チヒロは何も言わなかった。

 

 言えなかった。

 

 画面のログも、封印処理も、暗号鍵も、全部自分の領域だった。自分が管理するもの。自分が責任を持つもの。そうしていれば、苦しくてもまだ形があった。

 

 でも、レナはそこに入ってきた。

 

 箱を奪うのではなく。

 

 消せと言うのでもなく。

 

 一緒に守ってほしいと言った。

 

「……ずるいこと言うね、レナさん」

 

 チヒロの声は、少し掠れていた。

 

「ずるいですか」

 

「ずるいよ」

 

 チヒロは眼鏡を外し、片手で目元を押さえる。

 

「そんな言い方されたら、断れない」

 

「断りたいですか」

 

「断りたくないから困ってる」

 

 レナの頬が赤くなった。

 

 チヒロはそれを見て、かすかに笑う。

 

「そこ照れるんだ」

 

「照れます」

 

「こっちの方が照れてるよ」

 

「チヒロさんも?」

 

「かなり」

 

 チヒロは眼鏡を戻す。

 

 目元は少し赤かった。

 

 けれど、もう画面の方だけを見てはいなかった。

 

「やるなら、仕組みを変える」

 

「はい」

 

「私一人では開けない。先生の承認は当然必要。さらにレナさん本人の認証を加える。私の認証だけでも、レナさんの認証だけでも開かない。必要な時だけ、ちゃんと二人で鍵を持つ」

 

「お願いします」

 

「……本当にいいんだね」

 

 レナは頷いた。

 

「はい」

 

 チヒロは新しい設定画面を開いた。

 

 そこには、複数認証の追加項目が表示される。

 

 チヒロは指を動かしかけて、止めた。

 

「レナさん」

 

「はい」

 

「怖くなったら、やめていい」

 

「はい」

 

「途中で嫌になったら、やめていい」

 

「はい」

 

「私が怖いことをしてるように見えたら、言って」

 

「はい」

 

「……返事ばっかりだね」

 

「聞いてます」

 

「それは分かってる」

 

 チヒロは少しだけ息を吐いた。

 

「じゃあ、手を」

 

 認証パネルが机の端に出てくる。

 

 チヒロの手が、その上に置かれる。

 

 レナは、その手の隣へ自分の手を置こうとして、少しだけ止まった。

 

 チヒロは気づく。

 

「無理しなくていい」

 

「無理じゃないです」

 

「震えてる」

 

「はい」

 

 レナは、震えていることを否定しなかった。

 

「でも、置きます」

 

 レナの手が、チヒロの手の隣に置かれる。

 

 近い。

 

 触れてはいない。

 

 けれど、指先がほんの少し動けば触れてしまう距離だった。

 

 画面に、認証待機の表示が出る。

 

 チヒロはレナの手を見た。

 

 この手が、箱を一緒に守ると言っている。

 

 この手が、チヒロを箱の前に一人で残さないと言っている。

 

 そして、チヒロの手は、その隣にある。

 

「本当に怖いよ」

 

 チヒロが小さく言った。

 

「はい」

 

「私は、たぶん忘れない」

 

「はい」

 

「この箱のことも。今日、レナさんが手を置いたことも」

 

「はい」

 

「それでも?」

 

 レナは、すぐには答えなかった。

 

 代わりに、チヒロの手に自分の指をそっと重ねた。

 

 認証パネルの上で、二人の手が触れる。

 

 レナの過去に触れるためではない。

 

 レナがもうそこにいないと、チヒロに伝えるために。

 

 それでも、勝手に誰かが触ることは許さないために。

 

 レナは、その温度を確かめてから言った。

 

「それでも、一緒がいいです」

 

 チヒロは、そこで完全に黙った。

 

 画面が認証を受け付ける。

 

 新しい鍵が作られる。

 

 二人でしか開けられない箱。

 

 レナ一人でも、チヒロ一人でも開けられない。必要な時、必要な理由がある時、先生の承認と二人の手でしか触れられない場所。

 

 黒い箱のアイコンに、新しい表示が加わった。

 

 共有封印。

 

 チヒロはそれを見て、目を閉じた。

 

 肩の力が、ほんの少し抜ける。

 

「……少し、違って見える」

 

「よかったです」

 

「閉じ込めてる箱じゃなくなった」

 

「はい」

 

「でも、増えたものもある」

 

「何がですか」

 

「レナさんの手の感触」

 

 レナが赤くなる。

 

「チヒロさん」

 

「残った。たぶん、しばらく消えない」

 

「それは……困りますか」

 

「困る」

 

 チヒロは即答した。

 

 でも、手は離さなかった。

 

「困るけど、嫌じゃない」

 

 レナの指が、少しだけ動く。

 

 チヒロはそれを見て、息を吐く。

 

「レナさん」

 

「はい」

 

「今の、かなり危ないよ」

 

「鍵の話ですか?」

 

「違う。君の話」

 

 チヒロはレナの手を握り返した。

 

 強くはない。

 

 けれど、確かに離さない力だった。

 

「一緒に持つ、って言った。私の手を置かせた。怖いものを閉じる場所に、今の自分から触れにきた。そういうの、普通は簡単に言わない」

 

「簡単に言ってません」

 

「うん。だから余計に効く」

 

 レナは言葉に詰まった。

 

 チヒロは少しだけ笑う。

 

「レナさんって、たまにすごく危ない」

 

「最近、よく言われます」

 

「だろうね」

 

 チヒロはレナの手を見る。

 

 その手を、ゆっくりと持ち上げた。

 

 レナは少し驚いた顔をしたが、引かなかった。

 

「チヒロさん?」

 

「今、触っていい?」

 

 レナが瞬きする。

 

 チヒロは、まっすぐレナを見ていた。

 

「今のレナさんを。箱とか、ファイルとか、認証とかじゃなくて」

 

 レナの顔が、さらに赤くなる。

 

 けれど、小さく頷いた。

 

「はい」

 

 チヒロの手が、レナの頬に触れた。

 

 画面の中ではない。

 

 ハッシュ値でもない。

 

 ログでもない。

 

 箱に封じたものでもない。

 

 今ここにいるレナの頬。

 

 温かい。

 

 少し緊張している。

 

 それでも、逃げない。

 

「……温かいね」

 

「はい」

 

「当たり前のことなのに、ちょっと安心した」

 

「私、ここにいます」

 

「うん」

 

 チヒロの声が、ほんの少し揺れた。

 

「いるね」

 

 レナは、その手に自分の手を重ねた。

 

「チヒロさん」

 

「何」

 

 ここで初めて、レナはまっすぐ言った。

 

 さっきまで選んで、遠回りして、観察して、少しずつ近づいてきた言葉を、ここでだけ真ん中へ置いた。

 

「チヒロさんの中で、あのファイルだけが私みたいになっているなら、それは嫌です」

 

「うん」

 

「だから、今の私を見てください」

 

 チヒロは息を止めた。

 

「私が笑ったり、怒ったり、無茶を言ったり、こうしてチヒロさんの手に触れたりするところも」

 

 レナの声は、少し恥ずかしそうだった。

 

 でも、逃げない。

 

「箱の前じゃなくて、ここで」

 

 チヒロは目を閉じた。

 

「……本当に、ずるい」

 

「すみません」

 

「謝らないで。今のは、責めてない」

 

 チヒロの手が、レナの頬からゆっくり離れた。

 

 けれど、すぐにレナがその手を取った。

 

 今度は、レナの方から。

 

「この手」

 

 レナが言う。

 

「箱の前に残るための手じゃないです」

 

 チヒロの指が震える。

 

「残して、守ってくれた手です」

 

「レナさん」

 

「だから」

 

 レナは、チヒロの手のひらをそっと開かせた。

 

 キーボードを叩き、封印を作り、箱を守り、今レナの頬に触れた手。

 

 レナはその手のひらに、ほんの短く唇を当てた。

 

 チヒロの呼吸が止まった。

 

 静かな口づけだった。

 

 ユウカの時のように、触れた手を赦すためでもある。

 

 でも、少し違った。

 

 これは、チヒロの手を箱の前から連れ戻すための口づけだった。

 

 ファイルを管理する手ではなく、レナを一緒に守る手として、そこに置き直すための。

 

 レナは顔を上げる。

 

 頬が赤い。

 

「……効きましたか」

 

 チヒロはしばらく何も言えなかった。

 

 それから、眼鏡を外し、空いた手で目元を覆う。

 

「効きすぎ」

 

「よかったです」

 

「よくない。いや、よくないことはないけど、よくない」

 

「どっちですか」

 

「分からない」

 

 チヒロの声が、少しだけ崩れた。

 

「今、何も分からない」

 

 レナはその手を離さない。

 

 チヒロは目元を覆ったまま、かすかに笑った。

 

「ひどい顔してると思う」

 

「じゃあ、私だけ見ます」

 

「……そういうの、さらっと言うな」

 

「さらっとじゃないです」

 

 レナは小さく言った。

 

「けっこう頑張って言ってます」

 

 チヒロは、そこで負けたように息を吐いた。

 

 目元を覆っていた手を下ろす。

 

 涙が少しだけ滲んでいた。

 

 チヒロはレナを見た。

 

「レナさん」

 

「はい」

 

「消さない」

 

「はい」

 

「あれは消せない。消さないといけない気持ちは、たぶんずっとある。でも、消さない」

 

「はい」

 

「その代わり、そこに一人で残らない」

 

 チヒロの声が、少しずつ強くなる。

 

「レナさんが今みたいに無茶を言うところも、こっちが困るくらい踏み込んでくるところも、もうそこにはいないって、ちゃんと私に言いに来るところも、ちゃんと見る」

 

 レナは静かに聞いていた。

 

「だから」

 

 チヒロはレナの手を握り直した。

 

「更新しに来な」

 

 レナが瞬きする。

 

「更新、ですか」

 

「そう。今のレナさんを。私が箱の前に戻りすぎないように、何度でも」

 

「たまに、ですか?」

 

 チヒロは一瞬黙った。

 

 それから、視線を少し逸らす。

 

「……できれば、頻繁に」

 

 レナの頬が赤くなる。

 

 チヒロも少しだけ耳が赤かった。

 

「分かりました」

 

 レナは笑った。

 

「更新しに来ます」

 

「約束」

 

「はい。約束です」

 

 チヒロは、レナの手を強く握った。

 

 その手はまだ少し冷たい。

 

 けれど、さっきよりはずっと温かかった。

 

 机の上では、黒い箱のアイコンが静かに表示されている。

 

 それはもう、レナを閉じ込める箱ではなかった。

 

 勝手に触らせないための箱。

 

 二人でしか開けられない箱。

 

 そして、チヒロが一人でその前に残らなくていい箱だった。

 

 レナは画面を見て、それからチヒロを見る。

 

「チヒロさん」

 

「何」

 

「囮ファイルは」

 

「あれは作り直す」

 

 チヒロは即答した。

 

「レナさんに似せる必要がある作り方はやめる。別のルートを使う。精度は落ちるけど、私が嫌だし、レナさんも落ち着かないって言ったから」

 

「ありがとうございます」

 

「礼を言うところじゃない」

 

「でも、言います」

 

「……ほんと、強いね」

 

 チヒロは小さく笑った。

 

「たぶん、これから私はかなり面倒になるよ」

 

「面倒?」

 

「レナさん関連の更新を要求する頻度が、たぶん高い」

 

 レナが赤くなる。

 

「それは、救護ですか?」

 

「うん」

 

 チヒロは少しだけ口元を緩めた。

 

 まだ涙の残る目で、いつものように少しドライに。

 

 けれど、その奥に、もう隠しきれない熱を持って。

 

「救護ってことにしておいて」

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