戦えない私がキヴォトス中の生徒に執着されるまで 作:Zuzuiikb
夜明け前、同じ部屋で
部屋の明かりは落とされていた。
暗い、というほどではない。端末の光も、サーバーの小さなランプも、紅茶の湯気を拾う淡い照明もある。
けれど、誰もその光の中にちゃんと座れていなかった。
ハレはソファの端で端末を見ていた。
同じログ。
外部アクセスなし。隔離領域に異常なし。新規再生要求なし。
変わらない。
変わらないなら、もう見なくていい。
そう分かっているのに、指が更新キーから離れなかった。
目を閉じると、ログではなく、別のものが来る気がする。
それが嫌だった。
「……まだ見てるの?」
マキが床から言った。
スケッチブックを膝に置いて、色鉛筆を握ったまま、何も描けていない。
「見てるんじゃなくて、確認してる」
「さっきも言ってた」
「じゃあ、言い分に一貫性がある」
「それ、褒めるとこ?」
「たぶん」
マキは笑おうとして、やめた。
紙の上は白い。
レナの色を描こうとした。
今のレナを描こうとした。
でも、明るい色を選ぶと嘘みたいで、暗い色を選ぶとあの映像の方へ引っ張られる。
どの色も違う。
その「違う」が、ずっと胸に残っていた。
コタマはヘッドホンをしていた。
両耳を塞ぐほどではない。片耳だけ少しずらして、部屋の音を拾い、また戻す。
聞きたいのか、聞きたくないのか、自分でも分からない。
ノイズを流せば楽になると思った。
でも、ノイズの下に、違う音が沈んでいる気がする。
レナの声。
映像の中の、切られた声。
それを聞かないようにしていたら、今のレナの声まで遠くなってしまう気がした。
ネルは壁際にいた。
腕を組んで、拳を握ったまま。
誰かが名前を出せば、走り出せる。
誰かが場所を言えば、今すぐ行ける。
なのに、誰もまだ言わない。
それが腹立たしかった。
相手がいない怒りは、行き場がなくて、手の中で固まっていく。
アスナは座ったまま、膝を抱えていた。
レナが来たら笑おうと思っていた。
いつもみたいに、ぱっと顔を明るくして、抱きついて、名前を呼んで。
でも、それを想像した瞬間、胸の奥が止まった。
笑ったら、レナは安心するかもしれない。
でも、自分が安心したいだけかもしれない。
それが分からなくて、笑えなかった。
カリンは静かに立っていた。
視線は落ち着いている。姿勢も崩れていない。
けれど内側では、何度も同じことを考えていた。
見えていた。
映像だから、見えていた。
でも、撃てなかった。
距離があるなら撃てる。
障害物があるなら計算する。
角度が悪いなら補正する。
でも、時間がずれているものには、弾が届かない。
それが、どうしようもなく腹立たしかった。
アカネは紅茶を淹れていた。
カップを並べ、湯を注ぎ、香りを確かめる。
いつもの手順。
落ち着くための手順。
手順があれば、震えている理由を隠せる。
紅茶を淹れるために手を動かしているのだと、自分に言い聞かせられる。
カップをソーサーへ置いた時、小さく音が鳴った。
「……すみません」
アカネが言った。
ネルが視線だけ向ける。
「カップだろ。音くらい鳴る」
「はい」
アカネは頷いた。
その言い方が、少しだけ優しいことに気づいてしまって、余計に喉が詰まった。
その時、扉が開いた。
全員が見た。
レナが立っていた。
救護騎士団の制服。白い羽根。少し疲れた顔。
でも、泣きそうではなかった。
壊れそうでもなかった。
レナは、部屋の空気を見て、ほんの少しだけ目を伏せた。
「あの……入っても、大丈夫ですか?」
「もう入ってる」
ハレが言った。
レナは少しだけ笑った。
「そうでした」
その声で、コタマの指がヘッドホンに触れた。
今の声。
ちゃんと今の声だった。
アスナが立ち上がりかける。
「レナちゃん」
いつもなら駆け寄っていた。
でも、足が止まった。
レナはそれを見て、無理に近づかなかった。
「はい。います」
短い返事だった。
それだけなのに、アスナの目が潤んだ。
「……いるね」
「います」
「ちゃんと?」
「ちゃんと」
レナは少し困ったように笑った。
その笑い方があまりに普通で、アスナは泣きそうになった。
レナは部屋の真ん中には座らなかった。
ソファの端に腰を下ろす。ハレの近くで、でも邪魔にならない距離。全員を見下ろさない位置。
アカネが紅茶を差し出した。
「レナさん、紅茶を」
「ありがとうございます」
レナはカップを両手で受け取った。
指先が少し触れた。
アカネは、その温度に驚いた。
温かい。
当たり前なのに、ひどくほっとしてしまった。
「温かいです」
レナが言った。
「はい」
「手、ちょっと落ち着きます」
アカネは返事をしようとして、できなかった。
落ち着きたいのは、自分の方だ。
レナはそれを責めなかった。見抜いたような顔もしなかった。ただ、カップを包んでいた。
「アカネさんも、よかったら座りませんか」
「いえ、私は――」
「無理にじゃないです。……でも、隣にいてくれたら、少し安心します」
アカネの手が止まった。
給仕している間は、自分を保てる。
でも、隣にいるだけでは、何も隠せない。
それでも、レナは「隣に」と言った。
「……では、少しだけ」
アカネはレナの隣に座った。
カップを持つ手は、まだ少し震えていた。
けれど、レナはそこをじっと見なかった。
それが、ありがたかった。
マキがスケッチブックを抱える。
「見ないでね」
言ってから、自分で困った顔をした。
「いや、まだ何も描いてないんだけど」
「じゃあ、見ても白いですか?」
「そう。白いだけ。めちゃくちゃ白い。逆にすごい白い」
「逆に?」
「逆に」
マキはそう言って、少しだけ笑いかけて、すぐに俯いた。
「……描こうとしたんだよ」
「はい」
「今のレナさん。あの映像じゃなくて、今ここにいるレナさんの色」
握った色鉛筆が、かすかに揺れる。
「でも、分かんなくて。明るい色にすると嘘みたいで、暗い色にすると嫌で。私、こんなに色で迷ったことなかったのに」
レナはすぐに答えなかった。
少しだけ、スケッチブックの白い余白を見る。
「今すぐ決めなくても、いいと思います」
「いいの?」
「はい。私も、自分の色が一つだけだとは思ってないので」
マキが顔を上げる。
レナは少し照れたようにカップを持ち直した。
「大丈夫なところもあります。ちょっと困ってるところもあります。みなさんのことが心配で、落ち着かないところもあります」
「心配されてるの、こっちなんだけど」
「私もします」
「ずるいよ、それ」
「ずるいですか?」
「うん。救護される側なのに、こっちを救護しに来るの、ずるい」
レナは困ったように笑った。
「……じゃあ、今日はずるいままでいます」
マキは、鉛筆を握ったまま目を伏せた。
明るいだけじゃなくていい。
暗いだけでもなくていい。
今のレナを一色にしなくていい。
それだけで、白い紙が少しだけ怖くなくなった。
ハレがログを更新する音がした。
レナはそちらを見る。
ハレは目を合わせなかった。
「寝ろって言うなら、聞かない」
「まだ何も言ってないです」
「言いそうだった」
「……言いそうには、なりました」
「正直」
「すみません」
ハレは画面を見たまま、少しだけ息を吐いた。
「眠くないわけじゃない」
「はい」
「でも、目を閉じるとさ」
そこで止まった。
言わない方がいい。
言ったら、画面の外に出してしまう。
出したら、戻せなくなる気がした。
レナは待っていた。
急かさない。
「……来そうで」
ハレは小さく言った。
「何が、とは言わないけど」
「はい」
「ログ見てると、少なくとも画面はこっちにある。閉じたら、こっちの中に来そうで」
レナは立ち上がらなかった。
ただ、ソファの上で手を差し出した。
握って、とは言わない。
でも、そこに置いていい形だった。
「目を閉じたくなったら、ここにいます」
ハレはその手を見る。
「それで寝られると思う?」
「分からないです」
「分からないんだ」
「はい。でも、いなくなるよりは、いいかなって」
ハレは少し笑った。
「雑」
「……ごめんなさい」
「悪くない」
ハレは端末を閉じなかった。
けれど、更新キーから指を離した。
そして、レナの手のひらに自分の指先を置いた。
ほんの少し。
でも、触れた。
「少しだけ」
「はい」
「寝られなかったら、起きる」
「はい」
「怒らないで」
「怒りません」
ハレは目を伏せた。
その横で、コタマがヘッドホンを外しかけて、止まった。
「今の声、聞こえました」
小さな声だった。
レナがそちらを見る。
「ハレさんに言った声です。近かったです」
「近い、ですか」
「はい。映像の音より、ずっと近いです」
言った瞬間、コタマの喉が詰まった。
言ってしまった。
部屋の空気が止まる。
コタマは慌ててヘッドホンを戻そうとした。
でも、レナは首を横に振らなかった。止めもしなかった。
「戻しても、大丈夫です」
コタマの手が止まる。
「……いいんですか」
「はい。でも、外したいなら、外してもいいです」
「どっちでも?」
「コタマさんが選んでいいです」
コタマはしばらく動かなかった。
選んでいい。
その言葉が、変に響いた。
聞かないために塞ぐのも、聞くために外すのも、自分で決めていい。
コタマはゆっくりヘッドホンを外した。
部屋の音が入ってくる。
サーバー音。紅茶の匂いに混じる小さな息遣い。アスナの衣擦れ。ネルが拳を握り直す音。
そして、レナの声。
「コタマさん」
名前を呼ばれただけで、胸が苦しくなった。
怖い声ではない。
切られた声でもない。
今、自分に届くための声だった。
「聞こえますか」
「……聞こえます」
「よかった」
レナは、少しだけほっとしたように笑った。
「今日は、それだけでいいです」
「もっと、何か言わないんですか」
「言いたいことはあります。でも、今は……ちゃんと届いたのが嬉しいです」
コタマはヘッドホンを膝に置いた。
両耳が開いている。
怖い。
でも、怖さの中にレナの声がある。
「……もう一回」
自分で言ってから、コタマは目を見開いた。
言うつもりはなかった。
けれど、レナは頷いた。
「コタマさん」
もう一度。
コタマは目を閉じた。
音を消すためではなく、今の声だけを残すために。
ネルが壁から離れた。
空気が一気に変わる。
「で」
低い声。
「誰だ」
誰も答えない。
「誰がやった」
拳が固まる。
「どこにいる」
レナはすぐには止めなかった。
ネルの怒りは、間違っていない。
怒っていい。
壊したくなるほど怒っていい。
でも、その拳は痛そうだった。
レナはネルの前まで行く。
「止めんなよ」
「止めません」
「じゃあ何だよ」
「……触ってもいいですか」
ネルが眉を寄せる。
「拳に?」
「はい。開かせるんじゃなくて、少しだけ持ちます」
「何だそれ」
「私も、よく分かりません」
「分かんねぇのかよ」
「でも、痛そうなので」
ネルは何か言おうとして、言えなかった。
レナの声が柔らかかったから。
優しいのに、逃げない声だったから。
「……勝手にしろ」
レナは両手でネルの拳を包んだ。
熱い。
固い。
今すぐ何かを壊しに行ける形をしている。
ネルは歯を食いしばった。
この手が守られる側だなんて、誰が決めた。
今、自分の拳を包んでいるレナの手は、どう見ても守る側だった。
「その手、今ここで壊さないでください」
「壊すのは相手だ」
「ネルさんの手も壊れます」
「知るか」
「私は知ります」
ネルはレナを見た。
レナは少し怖そうだった。
でも、手を離さなかった。
「必要な時に、私を守るために残しておいてほしいです」
ネルの顔が歪む。
「……そういう言い方すんな」
「すみません」
「謝んな。余計に効く」
ネルは拳を開かなかった。
でも、少しだけ力が抜けた。
レナは待った。
無理に開かせず、ただ包んだ。
ネルはゆっくりと指をほどいた。
レナの手の中で。
「……後で呼べ」
「はい」
「殴る必要がある時は」
「必要な時なら」
「そこは止めろよ」
「必要じゃない時は止めます」
ネルは呆れた顔をして、それからほんの少しだけ笑った。
「変なとこ強ぇな、お前」
「最近、よく言われます」
「だろうな」
その様子を見ていたアスナが、レナの袖をそっと掴んだ。
「レナちゃん」
「はい」
「私も、ぎゅーってしていい?」
いつもなら聞かなかった。
でも今日は、聞いた。
自分がレナを安心させたいのか。
自分が安心したいのか。
まだ分からない。
レナはすぐに腕を少し開いた。
「はい。来てください」
アスナは近づいた。
勢いよくではない。
一歩ずつ、確かめるように。
そして、レナを抱きしめた。
レナはその背中に手を回す。
アスナの体が少し震えていた。
「笑えなかった」
「はい」
「レナちゃんが来たら、笑おうと思ったのに」
「はい」
「でも、笑ったら、私が助かりたいだけみたいで」
レナはアスナの背をゆっくり撫でた。
「助かりたいなら、助かっていいと思います」
アスナの腕に力が入る。
「ほんと?」
「はい」
「笑えなくても、ここにいていい?」
「もちろんです」
「じゃあ、もうちょっとだけ」
「はい」
アスナは泣いた。
声は小さかった。
でも、隠しきれなかった。
カリンはそれを見ていた。
見ていることしかできない自分に、まだ少し腹が立っていた。
レナはアスナを抱きしめたまま、カリンへ視線を向ける。
「カリンさん」
「はい」
返事は早かった。
早すぎた。
カリン自身も、それに気づいている。
崩れないために、返事だけを整えている。
「ずっと、遠くを見てるみたいでした」
レナはそう言った。
責める言い方ではなかった。
カリンは少しだけ目を伏せる。
「遠くを見るのは、慣れています」
「はい」
「見えていれば、できることがあると思っていました。距離があっても、角度が悪くても、対象を確認できれば」
そこで、言葉が止まる。
見えていた。
でも撃てなかった。
その事実が、喉の奥に残っている。
「今は、撃たなくていいです」
レナが言った。
カリンの目が揺れる。
「ただ、見ていてくれたら嬉しいです」
「何を、ですか」
「今の私を」
カリンはレナを見た。
映像ではない。
今、アスナを抱きしめて、ネルの拳を包んで、コタマの名前を呼んだレナ。
守られるだけではない。
ここにいるレナ。
「……はい」
カリンは小さく答えた。
「見ています」
撃たなくていい。
そう言われて安心する日が来るとは思わなかった。
アカネは冷めかけた紅茶を見ていた。
淹れ直すべきだと思う。
温かいものを出すべきだと思う。
そうすれば、何かできている気がする。
でも、レナは言った。
「アカネさん」
「はい」
「紅茶、淹れ直さなくても大丈夫です」
アカネは少しだけ苦笑した。
「見抜かれていましたか」
「少しだけ」
「困りましたね」
「困りましたか?」
「はい」
アカネはカップを両手で包む。
「淹れ直している間は、手が震えていても言い訳できます。温度が、香りが、手順が、と。けれど、こうして座っているだけだと……隠すものがありません」
レナは、アカネの手元を見た。
震えている。
でも、カップを落としてはいない。
「隠さなくても、大丈夫です」
「簡単に言いますね」
「簡単じゃないです」
レナは少し困ったように笑った。
「でも、今は……アカネさんが隣にいてくれる方が嬉しいです」
アカネの表情が、わずかに崩れた。
「……では、今日はこのままで」
「はい」
「冷めていますけど」
「そのままで」
アカネは紅茶を飲んだ。
少し冷めた味がした。
整っていない味。
それでも、今はそれでいい気がした。
レナは部屋を見回した。
ハレは指先だけを預けている。
マキは白い紙の端に、ようやく薄い色を置いた。
コタマはヘッドホンを膝に置いている。
ネルの拳は開いた。
アスナはレナを抱きしめている。
カリンは撃たずに見ている。
アカネは冷めた紅茶を飲んでいる。
誰も完全には戻っていない。
でも、少しだけ映像の外に出ていた。
レナは息を吸う。
ここだけは、遠回りしなかった。
「みなさん」
全員がレナを見る。
「忘れてほしいわけじゃ、ないです」
声は柔らかかった。
「見なかったことにしてほしいわけでも、ありません」
レナは自分の胸元に手を置いた。
「でも……あの映像だけを、私にしないでほしいです」
マキの手が止まる。
ハレが目を開ける。
コタマが息を呑む。
ネルが顔を上げる。
アスナの腕に力が入る。
カリンは視線を逸らさない。
アカネはカップを置いた。
「あれも、たしかに私です。でも、今ここにいる私も、ちゃんと私です」
レナは少しだけ笑った。
「怒ってくれて、泣いてくれて、苦しくなってくれて……ありがとう、ございます」
誰も、何も言わなかった。
「でも、そこに一人でいないでほしいです」
レナは一人ずつ見る。
「ログの前にも、白い紙の前にも、ノイズの中にも、拳の中にも、笑えない場所にも、撃てない距離にも、冷めた紅茶の前にも」
声が、少しだけ震えた。
でも、弱くはなかった。
「私、行きます。時間はかかるかもしれないけど、ちゃんと行きます」
アスナが、レナの肩に顔を寄せたまま言う。
「全員のところ?」
「はい」
「忙しいよ?」
「……頑張ります」
「救護騎士団だから?」
「それも、あります」
「それだけ?」
アスナの問いは、柔らかいのに鋭かった。
レナは頬を赤くした。
すぐには答えられなかった。
でも、逃げなかった。
「それだけじゃ、ないです」
部屋の空気が、少し変わった。
救護だけじゃない。
任務だけじゃない。
それだけじゃないから、レナはここに来た。
レナは恥ずかしそうに視線を落として、それからもう一度顔を上げた。
「だから、今の私も、見てくれたら嬉しいです」
ハレが端末を伏せた。
「……少し寝る」
マキが顔を上げる。
「ここで?」
「ここで」
「床じゃん」
「ソファ使う」
ハレはレナの指先を離さずに、ソファへ体を預けた。
「起きたら、まだいる?」
「います」
「じゃあ寝る」
ハレは目を閉じた。
少し怖かった。
でも、レナの指があった。
マキは紙の端に、二色目を置いた。
「まだレナさんの色じゃないかも」
「はい」
「でも、あとでちゃんと見せる」
「見たいです」
「約束ね」
「はい」
コタマはヘッドホンを首に下ろした。
「今の声、覚えます」
「はい」
「記録じゃなくて」
「はい」
「私の中に」
ネルは開いた拳を見下ろす。
「必要な時は呼べ」
「はい」
「今度は止めんな」
「必要な時なら」
「……ほんと変なとこ強ぇな」
アスナはレナを抱きしめたまま、少しだけ笑った。
「笑えた」
「はい」
「でも、まだぎゅーってしてる」
「はい」
「いい?」
「いいです」
カリンは静かに言う。
「私は、見ています」
「はい」
「今のレナさんを」
「ありがとうございます」
アカネは冷めた紅茶を飲み終えた。
「淹れ直すのは、後にします」
「はい」
「今は、隣にいます」
レナは、少しだけ肩の力を抜いた。
全部が終わったわけではない。
でも、少しだけ前を向いた。
それで今は十分だった。
――そのあと、誰が言い出したのかは分からなかった。
たぶん、最初はアスナだった。
「今日さ」
まだレナの袖を握ったまま、アスナが言う。
「みんなで寝たら、だめ?」
ハレが片目を開ける。
「ここで?」
「ここで」
「雑魚寝?」
「うん」
「床、硬い」
「クッションあるよ」
「それは解決策として弱い」
マキが顔を上げた。
「でも、ありかも」
言ってから、自分で驚いた。
一人で部屋に戻ることを想像した瞬間、スケッチブックの白がまた怖くなったから。
「私、まだ描きたいし。寝るっていうか、描きながら寝落ちするかもだけど」
「それは寝落ちです」
コタマが言う。
「でも、音が多い方が……今は、いいかもしれません」
ネルが眉を寄せる。
「ガキかよ」
そう言いながら、否定はしなかった。
一人にしたくない。
一人になりたくない。
そのどちらも、今は言葉にしづらかった。
カリンが静かに周囲を見る。
「ソファ、ブランケット、クッションを使えば、全員分の場所は作れます」
「カリン、もう配置考えてるじゃん」
ネルが言う。
「必要なことです」
「はいはい」
アカネが立ち上がる。
「毛布を用意します」
レナが慌てて顔を上げた。
「あ、アカネさん」
「はい」
「一人で全部しなくていいです。私も――」
「レナさんは座っていてください」
アカネの声は柔らかかった。
でも、少しだけ強かった。
「今度は、私たちが整えます」
レナは言葉に詰まる。
ネルが壁から離れた。
「ほら、どけ。重いのはこっちで運ぶ」
「ネルが毛布運ぶの?」
「悪いか」
「似合わない」
「マキ、後で覚えとけ」
「えっ、なんで私だけ!?」
ハレが目を閉じたまま呟く。
「声大きい」
「寝るの早くない?」
「寝ようとしてるだけ」
「じゃあ静かにする」
「マキ、それ毎回三秒で破る」
「破らないし!」
「破った」
コタマが小さく笑った。
自分でも、笑ったことに少し驚く。
アスナはレナの腕にくっついたまま、嬉しそうに言った。
「レナちゃん、ここ」
「え?」
「ここで寝よ」
「えっと……私は端で」
「だめ。真ん中」
アスナが即答する。
レナは赤くなる。
「真ん中は、ちょっと」
ネルが毛布を投げながら言った。
「逃げんな。どうせ全員お前見てねぇと落ち着かねぇんだよ」
言ってから、ネルは少しだけ顔を逸らした。
自分も含めて言ったことに気づいたから。
カリンが淡々と毛布を広げる。
「では、レナさんは中央付近で。左右に余裕を持たせます」
「カリンさんまで」
「合理的です」
アカネがクッションを置く。
「レナさんが無理でなければ、ですが」
全員の視線が、レナに集まった。
押しつけるつもりはない。
でも、そばにいてほしい。
その気持ちが、部屋の中に静かに積もっていた。
レナは少しだけ困ったように笑った。
でも、嫌ではなかった。
むしろ、胸の奥が温かくなって、少し苦しかった。
「……じゃあ、少しだけ」
「少しだけって、寝るのに?」
マキが言う。
「朝までです」
レナが小さく言い直す。
アスナがぱっと顔を明るくした。
「朝まで!」
ハレが目を閉じたまま言う。
「声」
「あ、ごめん」
それから、みんなで部屋を整えた。
完璧ではなかった。
クッションは少しずれて、毛布は足りなくなりかけて、ネルとマキが小声で言い合い、アカネが整えようとして、レナに手伝われて少し困った顔をした。
でも、その不完全さがよかった。
やがて、部屋の床に毛布が敷かれた。
レナは中央より少し端に座ったつもりだったが、気づけば周りにみんながいた。
アスナは遠慮なくレナの腕にくっついた。
ハレは近くのソファから手だけ伸ばし、レナの袖を掴んだ。
マキはスケッチブックを抱えたまま、レナの足元近くに丸まった。
コタマはヘッドホンを外したまま、レナの声が届く距離に座った。
ネルは少し離れて壁際を選んだが、入口が見える位置だった。
カリンはその隣で静かに腰を下ろした。レナを見るためではなく、部屋全体を見守るために。
アカネは最後まで毛布の乱れを直していたが、レナに「もう大丈夫です」と言われて、ようやく座った。
「……おやすみ、でいいのかな」
マキが小さく言った。
「まだ寝ない人もいそうですけど」
レナが答える。
「じゃあ、仮おやすみ」
「何ですか、それ」
「今考えた」
「マキさんらしいです」
コタマが小さく呟く。
「今の声、少し眠そうです」
「記録すんなよ」
ネルが言う。
「していません」
「ほんとか?」
「今は」
「だからその今はって何だよ」
小さな笑いが起きた。
今度は、少しだけ本物だった。
レナはその笑いを聞いて、目を伏せた。
よかった。
全部は解決していない。
誰も完全には眠れないかもしれない。
でも、今夜は一人じゃない。
アスナが腕に頬を寄せる。
「レナちゃん」
「はい」
「朝、起きてもいる?」
「います」
「約束?」
「はい。約束です」
ハレが眠そうに言う。
「私も聞いた」
「はい」
「じゃあ、証人」
「ハレさんが?」
「うん。寝るけど」
マキが笑う。
「寝る証人って何」
「有効」
「ほんとに?」
「たぶん」
アカネが照明をさらに落とした。
部屋が少し暗くなる。
怖い暗さではなかった。
誰かの呼吸がある。
布のこすれる音がある。
レナの袖を掴む指がある。
近くで眠ろうとする気配がある。
コタマは、ヘッドホンを握らずに目を閉じた。
音がある。
でも、今は怖い音だけではなかった。
ハレは、レナの袖を掴んだまま眠りに落ちかけていた。
マキはスケッチブックの端に、最後に一色だけ足してから目を閉じた。
ネルは眠るつもりなどない顔をしていたが、肩の力は少し抜けていた。
カリンは静かに目を閉じた。撃つためではなく、休むために。
アカネは冷めた紅茶のカップを片づけず、そのまま置いておいた。
アスナはレナの腕を抱いたまま、ようやく少し笑った。
レナは、その全員の気配の真ん中で、ゆっくり息を吐いた。
「……おやすみなさい」
小さな声だった。
でも、部屋の中にちゃんと届いた。
返事はばらばらだった。
眠そうな声。
短い返事。
聞こえないくらい小さな頷き。
手の力だけの返事。
それでも、全部が返事だった。
夜明け前。
映像の外で、みんな同じ部屋にいた。
すいません。遅れました。。理由はいっぱいあるんですけど、1番はいろんな小説書いてたんですよね。まぁなかなか納得いくのができなかったんですけどまぁ1つ新しいのを書いてみたのでぜひ暇だったら呼んでみてください。