戦えない私がキヴォトス中の生徒に執着されるまで 作:Zuzuiikb
「……委員長。再生前に、確認します」
アコは資料を手にしたまま言った。
声が少し硬い。
自分で分かった。
ヒナは責めない。
ただ、いつものように短く返す。
「うん」
「ゲヘナ側候補者三名は確保済み。端末も保全済みです。周辺二名は任意同行。ブラックマーケット側との接続記録も確認中。ここまでは、既存資料と一致しています」
「続けて」
「ただし、映像本体、被害者名、具体的な内容は、これまで共有範囲から外されていました」
「先生がそうしたんでしょう」
「はい。ミレニアム側の確認印もあります。情報不足ではありません。共有しないための整理です」
言いながら、アコは自分の指先を見た。
資料の端を、強く掴みすぎている。
落ち着きなさい。
そう思う。
けれど、落ち着くための材料が足りない。
何かがある。
伏せなければならないほどの何かが。
ヒナは黒い画面を見ている。
怒っている、とはまだ言えない。
でも、アコには分かる。
委員長が本当に怒る時は、先に静かになる。
「アコ」
「はい」
「無理に平気な顔をしなくていい」
「……委員長」
「仕事はして。無理はしないで」
その言い方が、いつものヒナだった。
厳しすぎるわけじゃない。
甘いわけでもない。
ただ、見ている。
アコは少し息を吸った。
「承知しました」
扉が開いた。
入ってきたのは先生と、トリニティの救護騎士団長。
蒼森ミネ。
アコは直接よく知っている相手ではない。
資料で名前は見た。現場対応者として、何度も。
だから、彼女の表情がいつも通りなのかは分からない。
ただ、姿勢がまっすぐすぎると思った。
まっすぐすぎて、少し怖い。
「先生」
ミネが言った。
「レナの許可は」
「取ってある。本人から直接」
レナ。
伏せられていた名前が、そこで初めて出た。
アコは、紙面の空白が急に意味を持った気がした。
レナ。
トリニティの救護騎士団員。ミレニアムにも関わりのある生徒。先生がとても慎重に扱っていた名前。
深い面識があるわけではない。
けれど、その子が、自分の映像を見せる許可を出した。
アコは唇を引き結ぶ。
「本人は別室に?」
ヒナが聞く。
「うん。再生中は入らない」
先生は端末に手を置いたまま、少しだけ言葉を探した。
「レナはこう言ってた。『必要なら見てください。私はもう、あの中にはいませんから』って」
アコは返事をしなかった。
できなかった。
そんな言い方をする子なのか、と思った。
強がっているのか。
本当にそうなのか。
それとも、その両方なのか。
ミネは静かに頷いた。
「良い判断です」
「ミネ」
「強がりが含まれていても、本人が選べているなら良い傾向です」
ミネの声は淡々としていた。
でも、冷たいわけではない。
「ただし、こちらが扱いを間違えれば、その判断を傷に変えます」
ヒナが小さく頷く。
「始めて」
先生が再生する。
映像が始まった。
暗い画面。
荒い音。
誰かの声。
床。手元。制服の端。ゲヘナの生徒だと分かる断片。
アコはペンを持った。
まずは照合。
誰がいる。
どの位置にいる。
誰が喋った。
誰が端末を持っている。
誰が笑った。
そこまで考えて、ペンが止まった。
違う。
違う、と思った。
ただの暴力映像ではない。
暴れたわけじゃない。
銃を撃ったわけじゃない。
爆破したわけでも、喧嘩したわけでもない。
なのに、ずっと気持ち悪い。
画面の中の誰かが、相手の反応を待っている。
怯むのを。
声が詰まるのを。
大丈夫と言おうとして、言えなくなるのを。
そこを見て、次の言葉を選んでいる。
アコの指に力が入った。
紙に、点ができる。
「……っ」
声が漏れそうになって、飲み込んだ。
委員長の隣にいる。
私は補佐官だ。
そう思った。
けれど、補佐官である前に、今これは、一人の女の子として吐き気がした。
ヒナは何も言わない。
何も言わないのに、部屋が静かになっていく。
先生も、アコも、ミネも、誰も余計な音を立てない。
画面の音だけが残る。
ヒナは画面を見ている。
大きく息を吸うこともない。
拳を握ることもない。
机を叩くこともない。
ただ、まばたきが少なくなった。
アコは、背筋が冷えた。
委員長が怒っている。
怒鳴る前ではない。
怒りを抑えているわけでもない。
もう、判断している。
誰をどう扱うか。
どこから切るか。
何を絶対に許さないか。
ヒナの怒りは、声より先に命令の形になる。
アコはそれを知っている。
ミネが静かに言った。
「先生」
「うん」
「一時停止を」
先生が止める。
画面が止まった。
ミネは画面を指差さない。
ただ、目線だけで一点を見る。
「ここです」
アコは思わず見る。
ミネの声は落ち着いている。
けれど、部屋の空気はさらに重くなった。
「レナの反応を見て、動きを変えています」
先生は黙っていた。
「痛みではありません。恐怖でもありません。反応です。相手がどこで言葉に詰まるか、どこで抵抗が弱まるか。それを見ています」
ミネの言葉は、診断みたいだった。
だから余計に逃げ場がない。
「現場の状態から、おおよそのことは把握していました。処置も、経過観察も、会話もしています。ですが」
ミネの目が、ほんの少しだけ細くなる。
「加害側の観察性を、低く見積もっていました」
自責ではない。
アコはそう感じた。
ミネは「救えなかった」と言っているのではない。
情報を更新している。
そして、その更新そのものが怒りだった。
「経過観察項目を増やします」
「今、言うことかしら」
ヒナが初めて口を挟んだ。
責めている声ではない。
確認だった。
ミネはまっすぐ返す。
「はい。今、言うことです」
迷いがなかった。
「レナ本人は前を向いています。映像の中に閉じ込められてはいません。だからこそ、周囲が過去の映像だけでレナを扱えば、回復を邪魔します」
アコはペンを握り直した。
「ただし、加害者はレナの反応を狙っていました。ならば、同種の接触刺激には注意が必要です。本人が『大丈夫です』と言った場合も、一度確認します」
先生が少しだけ目を伏せる。
「レナ、言いそうだね」
「言います」
ミネは即答した。
「それは良い点でもあり、危険な点でもあります」
ヒナは少しだけ息を吐いた。
「分かった。続けて」
再生が再開する。
長くはない。
けれど、アコには長かった。
終わってほしい。
でも、終わったらこの映像を見た事実だけが残る。
画面の中で、誰かが笑った。
アコの中で、何かが切れた。
大声は出さなかった。
でも、書きかけの分類表に目を落として、最初に「黙認」と書いた文字へ線を引いた。
違う。
これは黙認ではない。
見ている。
楽しんでいる。
止めないことで、その場を成立させている。
アコは、隣の欄に書き直した。
見物。
続いて「補助」にも線を引く。
補助ではない。
加担。
紙の上で言葉が変わる。
それだけで、少しだけ呼吸がしやすくなった。
軽い言葉で逃がさない。
これは、自分の怒りを仕事に変えるための線だった。
映像が終わる。
画面が暗くなる。
誰もすぐには喋らない。
アコはペンを置いた。
置いた、というより、やっと手から離れた。
ヒナが言った。
「アコ」
「はい」
「通常の違反者区分から外して」
「……はい」
返事はした。
けれど、確認しなければならない。
「逃走防止区分ですか」
「違う」
即答だった。
アコは顔を上げる。
ヒナはこちらを見ていた。
怒っている。
でも、怖いだけじゃない。
間違えないために怒っている目だった。
「接触禁止」
「被害者への、ですか」
「それだけじゃない」
ヒナの声は低くない。
むしろ、いつもと同じくらい静かだった。
だから、余計に聞き逃せなかった。
「誰にも」
アコは息を止める。
「この手の相手は、被害者から離せば終わりじゃない。次を探す。似た反応をする子、断れない子、周りに流される子。そういう子を探す」
ヒナは画面を一度だけ見た。
「だから、誰にも近づけない」
分かりやすい言葉だった。
難しい理屈ではない。
でも、その判断は重かった。
ヒナは続ける。
「候補者本人だけじゃない。周辺で笑った子、止めなかった子、データの行き先を知っていた子。接触の輪を切って」
「通信遮断、接近制限、個別隔離。ブラックマーケット接続者も範囲に含めます」
「うん」
「通常の反省聴取は」
「後」
ヒナの声が少しだけ硬くなる。
「先に離す」
アコは頷いた。
「承知しました、委員長」
委員長。
この呼び方が、自分の背骨を戻してくれる。
アコは資料を開き直した。
「分類も変更します。黙認ではなく見物。補助ではなく加担。関与不明は保留扱いにします。空白で逃がしません」
「お願い」
その一言で、アコは完全に動けるようになった。
ミネが口を開く。
「トリニティ側にも、その接触禁止範囲を共有してください」
「救護騎士団として、ですか」
アコが聞く。
ミネとは親しくない。
だから、余計な分かったふりはしない。
必要な確認だけをする。
「はい。救護に必要な範囲です」
ミネはまっすぐ言った。
「加害者を罰するためだけではありません。救護対象を増やさないためです」
ヒナが短く頷く。
「そちらは任せる」
「はい」
ミネはそこで、ほんの少しだけ表情を緩めた。
「良い判断です」
アコは少し驚いた。
ヒナは何も言わなかった。
ただ、わずかに目を伏せる。
その時、扉が叩かれた。
先生が「入って」と言う。
レナが入ってきた。
少し緊張している。
けれど、怯えてはいない。
アコは、さっき自分が書き直した紙を思い出した。
見物。
加担。
接触禁止。
その全部が、この子を特別扱いするためではない。
次の誰かを作らないためだ。
レナは三人の顔を見て、すぐに分かったようだった。
見たんですね、とは言わなかった。
同意したのはレナ自身だから。
代わりに、少しだけ目を伏せてから言った。
「見てくれて、ありがとうございます」
「……あなたが、それを言う必要はありません」
アコの声は少し強かった。
言ってから、しまったと思った。
けれど、撤回したくなかった。
「必要があるのは、こちらです。見て、確認して、動く。それをあなたに感謝されるのは……違います」
レナは少し困った顔をする。
「でも、私がお願いしたので」
「それでもです」
アコは引かなかった。
レナは小さく肩を縮める。
「……はい」
その返事が、妙に素直で。
アコはまた腹が立った。
犯人にではない。
この子が、すぐ自分を小さくすることに。
ヒナが言った。
「レナ」
「はい」
「ゲヘナ側は、私が対応する」
レナは頷く。
「はい」
「あなたに近づけない。あなた以外にも、近づけない」
レナの目が少し揺れた。
「私以外にも、ですか」
「うん」
ヒナは短く答える。
「こういう相手は、次を探す。だから止める」
レナは少し黙った。
そして、ゆっくり頷いた。
「……ありがとうございます」
「感謝はいらない」
ヒナはそこで、一拍置いた。
「でも、受け取っておく」
アコは横で少しだけ目を見開いた。
委員長にしては、柔らかい言い方だった。
レナも驚いたように瞬きして、それから小さく笑った。
「はい」
ミネがレナを見る。
「レナ」
「はい、団長」
「経過観察項目を増やします」
「……え」
レナの顔が分かりやすく固まった。
ミネは真顔だった。
「心配しなくて構いません。罰ではありません」
「でも、項目が増えるって、ちょっと怖い響きです……」
「救護に必要な範囲です」
「団長、それ便利に使ってませんか……?」
「適切に使っています」
レナは困ったように視線を逸らした。
ミネはそこで少しだけ声を柔らかくする。
「あなたがもう映像の中にいないことは分かっています」
レナの顔から、ふっと冗談の色が抜けた。
「ですが、相手があなたの反応を狙っていたことも分かりました。今後、似た刺激に触れる時は、あなたが大丈夫と言っても一度確認します」
「……はい」
「良い返事です」
「本当にそう思ってますか?」
「返事だけなら良いです」
「うっ」
「行動が伴えば、さらに良い」
先生が小さく笑いそうになって、堪えた。
レナは少しだけ頬を赤くする。
「が、頑張ります」
「努力目標ではなく、実施してください」
「はい……」
少しだけ、部屋の空気が緩んだ。
でも、怒りが消えたわけではない。
ヒナが端末を閉じる。
「アコ」
「はい、委員長」
「始める」
「接触禁止の通達、通信遮断、候補者の再分類。すぐに」
「うん」
アコは資料を抱え直した。
手はまだ少し熱い。
でも、もう震えてはいない。
「誰一人、軽い言葉で逃がしません」
ヒナは頷いた。
ミネも静かに言った。
「救護対象を増やさないために、こちらも動きます」
レナは胸元に手を置く。
自分のために怒ってくれている。
でも、自分だけのためではない。
そのことが、少しだけ救いだった。
「お願いします」
レナは柔らかく言った。
「次の誰かを、作らないために」
ヒナは短く答えた。
「分かってる」
そして、もう一度だけ暗くなった画面を見た。
声は荒げなかった。
でも、その一言で十分だった。