戦えない私がキヴォトス中の生徒に執着されるまで 作:Zuzuiikb
朝ごはんが終わっても、誰もすぐには立ち上がらなかった。
パンの袋は空になって、スープのカップもほとんど片づいている。アカネさんが淹れてくれた紅茶は、最後の一杯だけポットに残っていた。
マキさんはスケッチブックを膝に置いたまま、端の方に色を足している。ハレさんは半分眠そうな顔でカップを持っていて、コタマさんはヘッドホンを首にかけたまま、みんなの声を聞いている。
アスナさんは、まだ私の袖を掴んでいた。
「アスナさん」
「うん?」
「そろそろ、袖が伸びます」
「伸びたら、アスナが直す」
「直せるんですか?」
「たぶん!」
「たぶん……」
カリンさんが静かに言った。
「アスナ、裁縫は得意ではありません」
「カリン、そこは言わなくていいよ」
「事実です」
ネルさんが鼻で笑う。
「なら離せ」
「やだ」
「即答すんな」
アスナさんは、私の袖を掴んだまま少し笑った。
昨日の夜より、ちゃんと笑えていた。
それが少し嬉しくて、私は何も言えなくなった。
その時、先生が端末を見た。
表情が少しだけ変わる。
大きな変化じゃない。でも、私は見逃せなかった。
「先生?」
「うん」
先生は少し迷って、それから私を見る。
「レナ。そろそろ、トリニティに戻る話をしよう」
部屋の空気が、一拍だけ止まった。
アスナさんの指が、袖を握り直す。
マキさんの鉛筆が止まる。
ハレさんが目を開ける。
ネルさんは何も言わなかったけれど、入口の方に向けていた視線をこちらへ戻した。
「あ……」
私は、思ったよりすぐに返事ができなかった。
帰る。
当たり前だ。
私はトリニティの生徒で、救護騎士団の団員で、報告もしなきゃいけない。団長にも経過観察を受ける約束をしている。
帰らない理由はない。
ない、はずなのに。
「……もう、帰っちゃうの?」
アスナさんが言った。
声は明るくしようとしていた。
でも、少しだけ失敗していた。
「帰らないと、団長に怒られます」
「ミネさん、怒る?」
「怒るというか……すごく真面目に経過観察されます」
「それ、怒るより怖くない?」
マキさんが言う。
「少しだけ」
私が答えると、ハレさんが眠そうに頷いた。
「救護騎士団式の怖さ」
「ハレさんまで……」
「でも、行くなら行った方がいい」
ハレさんはカップを置いた。
その声はだるそうなのに、ちゃんとこちらを見ていた。
「ここにいる理由が増えたのと、帰る理由がなくなったのは違うし」
私は少し驚いた。
ハレさんは視線を逸らす。
「……何」
「いえ。今の、すごくちゃんとしてました」
「普段もちゃんとしてる」
「はい」
「その返事、信じてない」
「信じてます」
「半分くらい?」
「……七割くらい」
「増えたから許す」
少し笑いが起きた。
コタマさんが、小さく息を吐く。
「帰る時の足音は、少し寂しい音がします」
「コタマさん」
「でも」
コタマさんはヘッドホンに触れず、私を見た。
「昨日より、聞いていて嫌ではありません。帰る音は、また来る音の前にあるので」
私は胸の奥が温かくなった。
「……また来ます」
「はい」
コタマさんは頷いた。
「その時は、最初に呼んでください。聞き逃したくないので」
マキさんがスケッチブックを抱える。
「私はまだ描けてないからね」
「今の私の色ですか?」
「うん。ちょっと近づいたけど、まだ足りない。朝のレナさん、昨日の夜と違うし。あと、帰るって言われた時の顔も違う」
「そんなに見てたんですか」
「見てた」
マキさんは即答してから、自分で少し赤くなった。
「だって、描くから」
「じゃあ、次に来た時も見てください」
「見る」
その言い方があまりに真っ直ぐで、私は少し照れた。
ネルさんが立ち上がる。
「で、誰が送るんだよ」
「え?」
「帰るんだろ。なら入口まで送る」
「大丈夫です。先生もいますし」
「そういう話じゃねぇ」
ネルさんは顔を逸らした。
「ここから出るまで、うちの範囲だ」
それは少し乱暴な言い方だった。
でも、優しい言い方でもあった。
カリンさんが静かに頷く。
「道中の安全確認は済ませておきます」
「カリンさんまで」
「昨日、皆で同じ部屋に泊まりましたから」
「はい」
「それなら、朝に送り出すところまで含めて自然です」
真面目な顔で言われると、何も言えなくなる。
アカネさんが最後の紅茶をカップに注いだ。
「レナさん」
「はい」
「次に来る時は、冷める前に飲める紅茶を用意します」
昨日、冷めた紅茶をそのまま飲んだアカネさんを思い出す。
私は頷いた。
「楽しみにしています」
「はい。お待ちしています」
お待ちしています。
その言葉が、胸に残った。
ミレニアムにも、待ってくれる人がいる。
そう思ったら、帰るのが少しだけ難しくなった。
――
少しして、セミナーへ向かった。
先生が話を通してくれていて、ユウカさんとノアさんはもう待っていた。
ユウカさんは端末を持っていた。
でも、画面を見ていなかった。
私が入ると、すぐこちらを見た。
「レナさん」
「はい」
「……ちゃんと寝た?」
「少しは」
「少しは、じゃなくて」
ユウカさんは眉を寄せる。
いつもの注意の顔。
でも、声は少しだけ違った。
怒っているというより、置いていかれそうなものを両手で押さえているみたいな声だった。
「帰る前に無理をするのは禁止。トリニティに戻ってからも、当面は予定を詰めすぎないこと。救護騎士団の業務も、ミネさんと相談して調整して」
「はい」
「返事が早い時ほど怪しいのよ、あなたは」
「うっ」
ユウカさんは小さく息を吐いた。
それから、端末を持つ手を少し下げる。
「……本当は、もう少し休んでいってほしい」
その言葉は、予定でも管理でもなかった。
ただの本音だった。
私は胸が詰まった。
「ユウカさん」
「でも、帰らないといけないのも分かってる。トリニティの生徒だもの。あなたには、向こうにも待ってる人がいる」
ユウカさんは少しだけ目を伏せた。
「それが分かるから、引き止められないのよ」
何も言えなかった。
ユウカさんが一歩近づく。
「次に来る時は、連絡して」
「はい」
「突然でもいい。でも、できれば連絡して」
「どっちですか?」
「……突然来られても困るけど、来ないよりはいいって意味」
声が小さくなった。
私は少しだけ笑った。
「じゃあ、来ます」
「軽く言わないで」
「軽くはないです」
ユウカさんの目が、私を見た。
あの夜の資料室を思い出す。
予定表にない共犯。
指先に触れた唇。
その記憶が、まだユウカさんの中にもあるのだと、目を見れば分かった。
「……なら、いいわ」
ユウカさんは私の手を取った。
人前だから、短く。
でも、指先だけを確認するように。
「ちゃんと帰って。ちゃんと休んで。ちゃんと、また来て」
「はい」
「三つともよ」
「はい。三つとも」
ユウカさんは手を離した。
離す直前、少しだけ力が入った。
ノアさんは、その横で静かに見ていた。
いつものように笑っている。
でも、今日はその笑みが少しだけ深い。
「ノアさん」
「はい」
「……何か言わないんですか?」
「言ってほしいですか?」
返し方がずるい。
私は少し困った。
「言ってほしいというか、ノアさんが静かだと少し怖いです」
「ふふ。では、怖がらせないようにしましょう」
ノアさんは一歩近づいた。
近すぎない。
でも、声がちゃんと届く距離。
「レナさん」
「はい」
「帰る場所があるのは、良いことです」
「はい」
「でも、帰る場所が増えると、見送る側も増えます」
ノアさんは柔らかく言った。
「そのことは、少しだけ覚えておいてください」
記録、とは言わなかった。
でも、その言葉は記録よりずっと重かった。
「……ノアさんも、見送る側ですか?」
「今日は」
ノアさんは微笑む。
「次は、迎える側になりたいですね」
私は息を詰めた。
ユウカさんが横でわずかに反応する。
「ノア」
「何でしょう、ユウカちゃん」
「そういう言い方」
「素直な希望です」
「素直すぎるのよ」
ノアさんは楽しそうに笑った。
でも、その目は私から離れない。
「忘れませんよ、レナさん」
やっぱり、その言葉は出た。
けれど、いつもの癖みたいには聞こえなかった。
「でも、忘れないことと、寂しくないことは別です」
私は目を伏せた。
「……はい」
「だから、また来てください」
ノアさんが言う。
「私が覚えているだけでは足りないくらい、何度でも」
ユウカさんが小さく息を吐いた。
「あなた、本当に今日は遠慮しないわね」
「帰ってしまう前なので」
「理由になってるようで、なってないわ」
「ユウカちゃんも同じ気持ちでしょう?」
「……否定は、しないけど」
ユウカさんの声が小さくなる。
二人の間に、少しだけ温度の高い沈黙が落ちた。
私は困って、でも逃げられなくて、結局小さく頷いた。
「また来ます」
ノアさんが満足そうに目を細める。
「はい」
ユウカさんも、少しだけ表情を緩めた。
「待ってるわ」
その後、ヒマリさんとチヒロさんにも会った。
ヒマリさんはいつもの調子で椅子に座り、こちらを見上げた。
「お帰りですか、レナさん。全知の超天才清楚系病弱美少女としては、あなたの滞在時間が想定より短いことに異議があります」
「長いです、肩書き」
「大切なことなので」
ヒマリさんは少しだけ得意げに笑う。
でも、その指先は膝の上で落ち着きなく動いていた。
「……戻ったら、休んでくださいね」
急に普通の声になった。
私は頷く。
「はい」
「天才の忠告です」
「はい」
「あと、私の弱点が勝手に遠くへ行くのは、少々困ります」
「ヒマリさん」
「事実ですので」
その言い方があまりにまっすぐで、私は少し赤くなった。
チヒロさんは壁に寄りかかっていた。
「帰るんだ」
「はい」
「そっか」
それだけだった。
でも、その短さがチヒロさんらしかった。
私は少しだけ近づく。
「チヒロさん」
「何?」
「また来ます」
「うん」
「箱の前に一人で残らないように」
チヒロさんは一瞬だけ目を細めた。
それから、ふっと笑う。
「それ、こっちが言われる側なんだ」
「はい」
「強くなったね、レナさん」
「なれてますか?」
「たまに。危ない方向にも」
「それは困ります」
「うん。だから、また来て」
チヒロさんは軽い調子で言った。
でも、目は笑っていなかった。
「顔見せて。ちゃんと今の方」
「はい」
「約束」
「約束です」
それで十分だった。
最後に、ゲーム開発部の部室へ寄った。
扉を開けた瞬間、モモイちゃんの声が飛んでくる。
「レナお姉ちゃん帰るって本当!?」
「声が大きいです、モモイちゃん」
「だって!」
ミドリちゃんが隣でため息をつく。
「モモイ、まず座って」
「座ってる場合じゃないよ!」
「立ってても帰る時間は変わらないよ」
「ミドリ冷静!」
ユズちゃんはロッカーの近くから小さく顔を出した。
「……また、来ますか?」
「はい」
私が答えると、ユズちゃんの肩が少しだけ下がった。
安心したみたいだった。
アリスちゃんは私の前に立つ。
「レナお姉ちゃん」
「はい」
「これは、パーティー離脱イベントですか?」
「えっと……一時離脱、でしょうか」
「一時」
アリスちゃんはその言葉を大切そうに繰り返した。
「では、再加入イベントがあります」
「あります」
「パンパカパーンです」
「はい。パンパカパーンです」
モモイちゃんが横から言う。
「絶対だよ! 次来たら新しいゲームやるから!」
「はい」
「あと、お菓子も持ってきて!」
「それはモモイちゃんが食べたいだけでしょ」
ミドリちゃんが突っ込む。
「みんなで食べるんだよ!」
「じゃあ、少しだけ」
私が答えると、モモイちゃんは満足そうに頷いた。
部室は散らかっていた。
壊れたテレビはまだ少し存在感があるし、特別賞の通知も貼られたままだ。昨日まで重かったものが、ここでは少し違う形で見える。
ゲーム開発部は、まだ明るい。
この明るさが、今は少しだけ眩しい。
でも、嫌ではなかった。
「レナお姉ちゃん」
アリスちゃんが言った。
「帰る場所が増えると、マップが広がります」
「はい」
「でも、迷子になったら、セーブポイントに戻ってください」
私は笑った。
「私がセーブポイントなんじゃなかったですか?」
「レナお姉ちゃんも、セーブポイントを使っていいです」
その言葉に、胸が少しだけ詰まった。
「……はい」
私は頷いた。
「使います」
ミレニアムの門まで、何人も見送りに来てくれた。
全員ではない。
でも、十分すぎるくらい多かった。
ユウカさんは少し離れたところで腕を組んでいる。ノアさんはその隣で、穏やかに笑っている。アスナさんは手を振りすぎてカリンさんに軽く止められていた。ネルさんは「さっさと行け」と言いながら、最後までこちらを見ていた。
私は一度だけ振り返る。
帰る場所が増えた。
その分、離れる時の胸の重さも増えた。
でも、それは嫌な重さではなかった。
「また来ます」
私が言うと、いろんな返事が返ってきた。
「待ってるわ」
「お待ちしています」
「絶対だからね!」
「無理しないでください」
「何かあったら呼べ」
「次は寝不足じゃない時に来て」
「レナさん」
最後に、ユウカさんが私を呼んだ。
私は足を止める。
ユウカさんは少しだけ迷って、それから言った。
「……帰ってからも、ちゃんと自分を予定に入れて」
私は少し笑った。
「はい」
ノアさんが隣で静かに続ける。
「そして、私たちのことも少しだけ」
ユウカさんが横を見る。
「ノア」
「少しだけです」
「少しだけで済ませる気、ないでしょ」
「ふふ」
私は笑ってしまった。
「入れます。ちゃんと」
今度は、二人とも何も言わなかった。
ただ、少しだけ嬉しそうに見えた。
先生と並んで、私はミレニアムを出る。
少し歩いてから、先生が聞いた。
「寂しい?」
「……はい」
私は正直に頷いた。
「でも、嬉しいです」
「そっか」
「帰る場所が増えるのって、少し忙しいですね」
「うん」
「でも、悪くないです」
先生は笑った。
「トリニティ、少し慌ただしくなってるみたいだよ」
「エデン条約、ですか?」
「うん。戻ったら、いろいろ話を聞くことになると思う」
私は前を見る。
トリニティに帰る。
ミカ先輩がいる。
ヒフミさんがいる。
ミネ団長がいる。
救護騎士団がある。
それに、まだ私の知らない騒がしさも、きっと待っている。
「……ちゃんと帰らないとですね」
「うん」
「でも」
私は一度だけ、ミレニアムの方を振り返った。
もう門は少し遠い。
それでも、誰かがまだ手を振っている気がした。
「また来ます」
先生は何も言わなかった。
ただ、隣で頷いてくれた。
帰る場所は、ひとつじゃなくなった。
だから私は、また来るために。
トリニティに帰った。
とりあえずミレニアム編これで終わります。次はエデン条約機構行きます。