戦えない私がキヴォトス中の生徒に執着されるまで 作:Zuzuiikb
第1話 名前を呼ばない人
トリニティの白い門が見えた時、レナは少しだけ歩幅を落とした。
白い石畳。高い尖塔。整えられた花壇。遠くから聞こえる鐘の音。
見慣れているはずだった。
ミレニアムみたいに機械の駆動音が混じるわけでもない。
アビドスみたいに、靴の裏に砂が残るわけでもない。
きれいで、静かで、正しい。
帰ってきた。
そう思った瞬間、胸の奥が少しだけ遅れた。
「レナ」
隣から先生に呼ばれて、レナは肩を揺らした。
「はい」
「門、通り過ぎる?」
「……通ります」
「立ち止まってたから」
「立ち止まってません。ちょっと、歩く速度を調整してただけです」
「便利な言い方だね」
「先生にだけは言われたくないです」
口にしてから、レナは少し目を瞬かせた。
思ったより、普通に返せた。
先生も同じことを思ったのか、少しだけ笑った。
「ミレニアムで鍛えられた?」
「鍛えられたというか……ツッコミを入れないと流される人が多かったので」
「心当たりが多い」
「先生もその中に入ってます」
「えっ」
「入ってます」
先生がわざとらしく傷ついた顔をした。
レナはそれを見て、少しだけ笑ってしまった。
笑ったら、胸の奥の遅れがほんの少し戻ってくる。
ミレニアムを出る時、たくさんの顔があった。
モモイは最後まで大きく手を振っていた。ミドリはそれを止めながら、でも自分も小さく手を振っていた。ユズはロッカーの端みたいな位置から顔を出して、また来てください、と言った。アリスは真剣な顔で、セーブポイントはいつでも使えます、と言った。
ユウカは、言いたいことをいくつも飲み込んだ顔で、最後に「ちゃんと連絡して」とだけ言った。
ノアは笑っていた。けれど、その笑顔は、忘れないだけでは足りない、と言っていた夜の声を少しだけ残していた。
ヒマリは遠隔越しに文句を言った。
短すぎます、と。
もっと滞在計画を練るべきでした、と。
そのあと少しだけ声を落として、戻ったら休みなさい、と言った。
チヒロは、顔見せて、と言った。
今の方の顔。
思い出すと、喉の奥に小さな塊ができる。
帰る場所が増えた。
それは嬉しい。
でも、増えた分だけ、離れる時に引っ張られる。
「また行けるよ」
先生が言った。
レナは目を瞬かせる。
「今、声に出してました?」
「出てない」
「じゃあどうして」
「顔」
「……私、そんなに顔に出ます?」
「うん」
「即答しないでください」
「でも、少し変わったね」
「え?」
「前は、寂しい顔をしてても、寂しいって言う前に大丈夫って言ってた」
レナは一瞬だけ黙った。
白い門の向こうを、生徒たちが歩いている。
誰かが笑って、誰かが急いで、誰かが本を抱えている。
普通の学園の景色。
「……寂しいって言うと、帰りたくなくなりそうだったので」
「うん」
「でも、言わないと、なかったことになりそうで」
自分で言って、少しだけ変な言い方だと思った。
先生は笑わなかった。
「そっか」
「はい」
レナは小さく息を吸って、白い門をくぐった。
その時。
「白い門の前で、帰還早々に立ち止まる救護騎士団員を確認しました」
聞き慣れた声がした。
レナの背筋が、勝手に伸びた。
前方。救護騎士団の制服。まっすぐな立ち姿。こちらを見る青い目。
蒼森ミネだった。
「団長」
「レナ。おかえりなさい」
最初の言葉は、思ったより柔らかかった。
レナは少しだけ息を詰まらせる。
「……ただいま戻りました」
「はい。では、帰還直後の経過観察を行います」
「今ですか」
「今です」
「おかえりなさいの余韻、短くないですか」
「余韻はありました」
「どこにですか」
「最初の一文です」
「短い……」
先生が横で笑いを噛み殺していた。
ミネは真顔のまま、レナの顔を見ている。
ただし、いつもの無機質な観察ではない。目元にほんの少し、安心したような色がある。
「顔色は、思ったより悪くありません」
「思ったより、なんですね」
「連絡記録と報告内容から、もう少し悪い可能性を想定していました」
「ミレニアムの報告、そんなにひどかったですか」
「複数名から、あなたを休ませるようにという要請が届いています」
「えっ」
「セミナー、ヴェリタス、ゲーム開発部、超現象特務部からそれぞれ」
「待ってください。多くないですか」
「多いです」
「なんで団長にまで……」
「あなたが自分の疲労を軽視する傾向を、皆さんよく理解しているようです」
レナは思わず先生を見た。
先生は目を逸らした。
「先生」
「僕は何も」
「何も?」
「……少しだけ共有したかも」
「先生」
声が少し低くなった。
ミネが小さく咳払いをする。
「安心してください。私からも返答しました」
「何をですか」
「責任を持って観察します、と」
「それ、安心するところですか?」
「少なくとも、あなたを放置するよりは安心です」
「放置されたいわけじゃないんですけど、観察って言葉がもう少し柔らかくならないかなって」
「では、見守ります」
「急に優しい」
「観察を柔らかく言い換えました」
「中身同じじゃないですか」
「必要な中身は変えません」
淡々としているのに、どこか少し楽しんでいるようにも見える。
レナは、ミネがこういう人だったことを思い出した。
厳しい。
でも、ただ厳しいだけじゃない。
こちらが文句を言える程度の余白を、ちゃんと残してくれる。
「歩行を確認します」
「え、ここで?」
「五歩で構いません」
「門の前で?」
「門の前で」
「他の生徒に見られます」
「転倒してから見られるよりは良いです」
「正論が強い……」
仕方なく、レナは五歩だけ歩いた。
一歩。二歩。三歩。四歩。五歩。
戻ってくる。
「どうですか」
「膝のかばいはありません。足首も問題なし。ただし、右肩に力が入っています」
「荷物のせいです」
「では、その荷物を先生に渡してください」
「えっ、いや、持てます」
「持てるかどうかは聞いていません」
「団長」
「渡してください」
「……先生」
「はい」
先生は自然にレナの荷物を受け取った。
軽くなった肩が、少しだけ情けないくらい楽になる。
ミネはそれを見逃さなかった。
「楽になりましたね」
「……なりました」
「正直でよろしい」
「褒められ方が小学生みたいです」
「小学生は、もう少し自分の限界に素直な場合があります」
「今、私、小学生以下って言われました?」
「そこまでは言っていません」
「近いところまでは行きましたよね」
先生が今度ははっきり笑った。
レナは少しだけ頬を膨らませる。
「笑わないでください」
「ごめん。元気そうで安心した」
その言葉に、レナは少しだけ黙る。
先生も、ミネも、同じようにこちらを見ていた。
心配されていたのだと、遅れて分かる。
ミレニアムでの一件は、もう終わった。
映像は止まった。
みんなと朝ご飯を食べて、手を振って、帰ってきた。
それでも、見ていた人たちはまだ傷を持っている。
レナ自身も、全部なかったことにはできない。
「……心配かけました」
レナは小さく言った。
ミネはすぐには返さなかった。
少しだけ間を置いてから、静かに言う。
「はい」
「そこは、いいえって言うところじゃないんですね」
「心配しましたから」
淡々としているのに、その言葉は妙にまっすぐ胸に入ってきた。
「レナ。あなたが無事に戻ったことは、喜ばしいことです」
「……はい」
「ですが、無事に戻ったことと、疲れていないことは同じではありません」
「はい」
「それから、皆に見送られて帰ってきたことと、寂しくないことも同じではありません」
レナは目を上げた。
ミネは少しだけ、困ったような顔をしていた。
ほんの少しだけ。
「団長」
「私も、言葉選びが得意な方ではありません」
「え」
「そのため、診断のような言い方になることがあります」
それは、ミネが自分から言うには少し意外な言葉だった。
「ですが、診断だけをしたいわけではありません」
レナの指が、袖の端を握る。
「……分かってます」
「本当に?」
「たぶん」
「たぶん、ですか」
「だって、分かってますって言い切ると、団長は絶対に追加質問するので」
「します」
「ほら」
ミネの口元が、ほんのわずかに緩んだ。
「よろしい。警戒心が戻っています」
「警戒される側なんですか、団長」
「時には」
「否定してほしかったです」
先生がまた笑った。
今度はミネも少しだけ目を細めた。
その空気で、レナはようやく肩の力を抜いた。
帰ってきた。
さっきより、少しだけそう思えた。
けれど、救護騎士団の建物の方では、生徒たちが慌ただしく出入りしていた。書類を抱えた子が走りかけて、ミネの視線に気づいて早歩きに直す。別の子は通信端末を耳に当てたまま、小さな声で何かを確認している。
普段より、空気が硬い。
レナはそちらを見た。
「……何か、ありました?」
ミネもそちらを見る。
ほんの一瞬、表情が戻った。
団長の顔。
「エデン条約に関する準備が進んでいます」
「...エデン条約機構」
知っている言葉だった。
エデン条約。
トリニティとゲヘナ。
長く続いた対立に、ひとつの区切りをつけるための大きな話。
もちろん、レナが政治の中心にいるわけではない。
けれど、トリニティの生徒なら、ここ最近でその名前を聞かない日はほとんどない。
「忙しくなるんですね」
「忙しくなります」
ミネは言い切った。
それから、少しだけ言葉を選ぶように続けた。
「ただ、忙しいだけで済めば、まだ良い方です」
背筋が少し冷えた。
「団長」
「今の言葉は、聞かなかったことにしてください」
「無理です」
即答だった。
ミネが瞬きをする。
先生も、あ、という顔をした。
レナは自分で言ってから、少し慌てた。
「……すみません。反射で」
「いいえ」
ミネは首を振った。
「今のは、聞かなかったことにできる方が不自然です」
「じゃあ、聞いてもいいですか」
「いいえ」
「そこはだめなんですね」
「はい」
「団長、今ちょっとずるいです」
「必要なずるさです」
「ずるさに必要とかあるんですか」
「あります。特に、心配性の救護騎士団員を休ませたい時には」
レナは言葉に詰まった。
「……私のことですか」
「他にいますか」
「いないです」
「自覚があって何よりです」
言い返したい。
でも、言い返せない。
エデン条約。
その名前を聞くと、トリニティ全体が少しだけ遠くなる。
自分の知らないところで、大きなものが動いているような感じがする。
ナギサ様も、きっとその中心にいる。
そう思った瞬間、胸の奥がまた遅れた。
先生の端末が短く震った。
先生が画面を見る。
その表情が少しだけ変わる。
レナは、それに気づいてしまった。
「先生?」
「ナギサから」
名前を聞いただけで、指先が丸まった。
「ティーパーティー、ですか」
「うん。来てほしいって」
先生は画面を確認しながら言った。
「それと……レナも、可能なら同席してほしいって」
「私も?」
声が上擦りそうになって、レナは慌てて口を閉じた。
ナギサ様が。
自分を。
同席。
ただの呼び出し。
救護騎士団の補助として、確認したいことがあるだけ。
そう考えればいい。
そう考えればいいのに、胸の奥が勝手に期待する。
話せるかもしれない。
ちゃんと、顔を見て。
ミネがレナを見た。
「行きたい顔をしています」
「……そんな顔してます?」
「しています」
「また顔……」
「ただし、疲労を考えれば、本来は休息を優先したいところです」
「でも」
レナは言いかけて、止まった。
行きたい。
その一言が、喉の奥で引っかかる。
救護騎士団として必要なら。
先生に同行するためなら。
エデン条約の準備の一環なら。
言い訳はいくつも思いつく。
でも、ミネはたぶん、そういう言い方を全部見抜く。
レナは小さく息を吸った。
「……行きたいです」
先生が少しだけ目を細めた。
ミネはすぐには答えなかった。
「理由を聞いても?」
「聞かれると思いました」
「では、答えを」
「ナギサ様と、話したいからです」
言ってしまった。
思ったより、声は震えなかった。
でも、言った後に胸の奥が熱くなった。
「救護のため、とかじゃなくて。たぶん、私が勝手にそう思ってるだけです」
「その自覚はありますか」
「あります」
「相手の事情を背負いすぎる危険は?」
「あります」
「無理に踏み込もうとする可能性は?」
「……あります」
「自分が傷つく可能性は?」
レナは少しだけ黙った。
それは、聞かれたくなかった。
「……あります」
ミネは頷いた。
「では、同行を許可します」
「えっ」
「驚くところですか」
「今の流れ、だめって言われると思いました」
「止めても行きたそうでした」
「それは……」
「そして、止められたまま行くよりは、条件をつけて行かせる方が安全です」
「団長、それ本人の前で言います?」
「言います。あなたには言った方が効果があります」
「ありますけど」
あるから困る。
レナは少しだけ唇を尖らせた。
ミネは、その顔を見て少しだけ柔らかく言った。
「レナ」
「はい」
「話したい相手がいるのは、悪いことではありません」
レナは顔を上げた。
「ただし、話せなかった時に、自分を責めないこと」
「……」
「相手が言葉を選べない時もあります。あなたが悪いとは限りません」
胸が、きゅっと縮む。
ナギサ様のことを、ミネがどこまで知っているのかは分からない。
でも、何かを察しているような言い方だった。
「団長」
「はい」
「それ、団長にしては優しすぎませんか」
「失礼ですね」
「すみません」
「ですが、少し安心しました」
「何がですか?」
「軽口が出る程度には、戻ってきています」
レナは返す言葉に迷って、結局小さく笑った。
「……行ってきます」
「行ってらっしゃい」
ミネはまっすぐにそう言った。
「終了後は、必ず戻ってください。経過観察の続きがあります」
「そこは忘れてくれないんですね」
「忘れません」
「ですよね」
先生が荷物を持ち直す。
「じゃあ、行こうか」
「はい」
ティーパーティーの建物へ向かう道は、白く整っていた。
昔から知っている場所なのに、近づくほど少し息が浅くなる。
レナは救護騎士団の袖を、指先でそっと握った。
話したい。
ただ、それだけなのに。
どうしてこんなに、足元が頼りなくなるのだろう。