戦えない私がキヴォトス中の生徒に執着されるまで   作:Zuzuiikb

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第2話 ティーパーティとの邂逅

 

 

 ティーパーティーの建物へ向かう道は、やけに白かった。

 

 石畳も、柱も、窓枠も、どこか整いすぎている。

 ミレニアムの廊下みたいに誰かの足音や機械音が重なってくることもなく、アビドスみたいに砂が靴の裏へ残ることもない。

 

 きれいで、静かで。

 

 少し、息がしづらい。

 

 レナは救護騎士団の袖を、指先でつまんだ。

 

「レナ」

 

 先生に呼ばれて、顔を上げる。

 

「はい」

 

「歩くの遅くなってる」

 

「……そうですか」

 

「そうだね」

 

「先生、こういう時だけ見逃してくれないですよね」

 

「こういう時は見逃さない方がいいかなって」

 

 レナは言い返そうとして、やめた。

 

 先生はそれ以上聞かなかった。

 その沈黙が少しありがたくて、少し困る。

 

 ナギサ様と話したい。

 

 さっきミネに言った言葉が、まだ胸の奥に残っていた。

 

 話したい。

 でも、何を。

 

 無事に帰ってきました。

 ミレニアムで、待ってくれる人が増えました。

 だから、寂しくないです。

 

 違う。

 

 守ろうとしてくれているのは分かっています。

 でも、遠ざけられると少し苦しいです。

 

 それも、違う。

 

 言葉にすると、急に形が悪くなる。

 丸く包もうとすると、嘘に近づく。

 まっすぐ言おうとすると、相手を傷つける。

 

 レナは、袖をつまむ指に少しだけ力を込めた。

 

 扉の前で先生が足を止める。

 

 ノックの音が、白い廊下に響いた。

 

「お入りください」

 

 静かな声。

 

 胸の奥が、一拍だけ遅れた。

 

 先生が扉を開ける。

 

 レナは半歩後ろを歩いた。

 

 部屋の中は、以前と同じように整えられていた。

 

 白いテーブルクロス。

 銀のティーセット。

 湯気の立つ紅茶。

 花瓶の花は、こちらを向く角度まで決められているようだった。

 

 その中央に、桐藤ナギサがいた。

 

 そして、少し横。

 

「あ」

 

 明るい声がした。

 

「レナちゃん」

 

 聖園ミカ。

 

 いつもの声。

 いつもの笑顔。

 

 けれど、レナはすぐには返事ができなかった。

 

 ミカは近づいてこなかった。

 

 それだけのことなのに、少し落ち着かない。

 

「……ミカ先輩」

 

「おかえり」

 

 軽い声。

 

 でも、目は一瞬だけレナの足元を見た。

 それから肩、顔、指先。

 

 見られている。

 

 レナは袖から指を離した。

 

「ただいま、です」

 

「うん」

 

 ミカは笑う。

 

「ちゃんと帰ってきた」

 

 何気ない一言だった。

 

 レナは、少しだけ首を傾ける。

 

「帰ってきました」

 

「知ってる」

 

「じゃあ、なんで確認したんですか」

 

「したかったから」

 

 ミカはいつもの調子で言った。

 

 それ以上聞けない言い方だった。

 

「ミカさん」

 

 ナギサの声が入る。

 

 ミカは肩をすくめた。

 

「はいはい。邪魔しないよ」

 

「最初からそのつもりでいてください」

 

「ナギちゃん、今日ちょっと厳しくない?」

 

「今日だけではありません」

 

「たしかに」

 

 ミカは笑った。

 

 ナギサは先生へ視線を向ける。

 

「先生。急な呼び出しに応じていただき、ありがとうございます」

 

「大丈夫。エデン条約の件?」

 

「ええ。いくつか、事前に確認しておきたいことがあります」

 

 ナギサの声はいつも通りだった。

 

 丁寧で、静かで、隙がない。

 

 レナは、テーブルの上に置かれた書類を見た。

 何枚も重ねられた紙の端が、きれいに揃っている。

 

 ナギサの手が、その一番上に触れた。

 

「レナさん」

 

 名前を呼ばれた。

 

 レナは背筋を伸ばす。

 

「はい」

 

「帰還直後に同席をお願いする形になり、申し訳ありません」

 

「いえ」

 

 反射で言いかけた「大丈夫です」を、口の中で止めた。

 

 ナギサの目が、ほんの少しだけ動く。

 

 レナは唇を一度結んでから、言い直した。

 

「確かに少し疲れてるかもしれません。でも、来たかったので」

 

 先生が横で小さく息を吐いた。

 笑ったのか、安心したのかは分からない。

 

 ナギサはすぐには答えなかった。

 

 ほんの短い間。

 

「……分かりました」

 

 それだけ言って、ナギサは資料を一枚先生へ差し出した。

 

「現在、エデン条約の締結に向けて、各委員会との連携確認を進めています。警備、救護、連絡経路。いずれも通常より慎重な調整が必要です」

 

 先生が資料を見る。

 

 レナは内容まで覗き込まなかった。

 ただ、ナギサの指先が紙の端を押さえるのを見ていた。

 

 指先はきれいに動いている。

 けれど、一度だけ、ほんの少しだけ止まった。

 

 疲れているのだと思った。

 

 口には出さなかった。

 

「救護騎士団との連携は、ミネとも話してる?」

 

「はい。蒼森団長には既に協力を依頼しています」

 

 先生の問いに、ナギサは迷いなく答える。

 

「ただし、補習授業部については、先生に直接お願いしたいことがあります」

 

「補習授業部」

 

 レナが小さく繰り返す。

 

 ナギサの視線がこちらへ来た。

 

「ええ。成績不振者への補習を目的とした、臨時の部活動です」

 

 そこで言葉が一度切れる。

 

 レナは続きを待った。

 

 ナギサは紅茶へ手を伸ばしかけて、やめた。

 

「ただし、通常の補習とは異なります」

 

 その声は、少しだけ硬かった。

 

 ミカが窓の方を見た。

 

 レナはそれも見た。

 

 けれど、何も言わない。

 

「先生には、彼女たちの補習指導をお願いしたいのです」

 

「彼女たち?」

 

「対象は四名です」

 

 ナギサは書類をめくる。

 

「阿慈谷ヒフミさん。下江コハルさん。浦和ハナコさん」

 

 ひとつひとつ、名前が置かれていく。

 

 そして。

 

「白洲アズサさん」

 

 ミカの指が、カップの縁で止まった。

 

 ほんの一瞬。

 

 カップは音を立てなかった。

 ミカも何も言わない。

 

 レナは視線を下げた。

 

 見なかったふりをしたわけではない。

 でも、ここで見るべきではないと思った。

 

「……四名ですね」

 

 先生が言う。

 

「ええ」

 

「補習だけじゃないんだね」

 

 ナギサはすぐには答えなかった。

 

 沈黙が落ちる。

 

 ミカが、窓の外を見たまま小さく笑った。

 

「先生、そういうところ鋭いよね」

 

「ミカさん」

 

「言わないよ」

 

 ミカは両手を軽く上げる。

 

「言わないってば」

 

 ナギサはミカを見た。

 ミカは笑っている。

 

 けれど、さっきの名前が出た後から、部屋の温度が少し変わっていた。

 

「補習授業部には、確認すべき点があります」

 

 ナギサは言った。

 

「詳細は、先生に一任します」

 

 レナは何か聞こうとして、やめた。

 

 口を開きかけたのを、ナギサが見た。

 

「レナさん」

 

「はい」

 

「あなたには、補習授業部の活動中、必要に応じて救護面の補助をお願いする可能性があります」

 

「……私が、ですか」

 

「ええ」

 

 ナギサの返事は短い。

 

「もちろん、あなたの状態を見た上で判断します。ミレニアムでの一件もありますから」

 

 ミレニアム。

 

 その言葉が出た瞬間、ミカの視線がこちらへ戻った。

 

 先生も、何も言わない。

 

 レナは膝の上で指を少し丸めた。

 

 映像のことは、ここでは話さない。

 話さなくていい。

 

 そう思っているのに、言葉だけで少し呼吸が浅くなる。

 

「……はい」

 

 返事はできた。

 

 ナギサは、すぐに次の説明へ移らなかった。

 

 少しだけこちらを見ていた。

 

 心配してくれているのだと思う。

 

 それは分かる。

 

 分かるから、何も言えない。

 

「レナさん」

 

「はい」

 

「無理はしないように」

 

 その言葉は、正しい。

 

 とても正しい。

 

 レナは頷いた。

 

「気をつけます」

 

 それしか言えなかった。

 

 ミカが少しだけ目を細める。

 

 ナギサは資料へ視線を落とした。

 

 会議は続いた。

 

 補習授業部の活動範囲。

 先生の裁量。

 ティーパーティーへの報告頻度。

 救護騎士団との連絡経路。

 

 レナは、必要な時だけ答えた。

 

 ナギサは丁寧だった。

 先生も落ち着いていた。

 ミカは何度か口を開きかけて、その半分くらいを飲み込んだ。

 

 そのたびに、部屋のどこかに小さな空白が残った。

 

 レナはそれを拾わないようにした。

 

 拾ったら、たぶん手がいっぱいになる。

 

 会議が終わりかけた頃、ナギサが最後の紙を閉じた。

 

「初回は明日です」

 

「早いね」

 

 先生が言う。

 

「時間がありません」

 

 ナギサの声は静かだった。

 

 時間がない。

 

 何に。

 

 レナは聞かなかった。

 

 聞いたら、ナギサは答えない。

 ミカは笑う。

 先生は少し困る。

 

 そうなる気がした。

 

「レナさん」

 

「はい」

 

「明日は先生の指示に従ってください。あなた個人の判断で動くことは避けるように」

 

 ナギサの目は、まっすぐだった。

 

 レナは頷く。

 

「はい、分かりました」

 

 ナギサの指先が書類の上で止まる。

 

 その返事を信じたいのか、信じきれないのか。

 どちらにも見えた。

 

 レナは少しだけ視線を逸らした。

 

「……努力します、って言うと怒られそうなので、言いません」

 

 先生が小さく笑った。

 

 ナギサは一瞬だけ目を瞬かせる。

 

「では、何と言うのですか」

 

「先生の近くにいます」

 

「それだけですか」

 

「あと、勝手に走らない」

 

「他には?」

 

「……怪我人を見つけた時は、相談します」

 

 言ってから、少しだけ目を伏せた。

 

 相談する前に手が動く可能性は、ある。

 それをナギサも分かっている気がした。

 

 ナギサは何も言わなかった。

 

 代わりに、紅茶へ手を伸ばす。

 今度はちゃんとカップを持った。

 

「それで構いません」

 

 少しだけ、間があった。

 

「まずは」

 

 レナはその「まずは」を聞いた。

 

 ナギサも、言ったことに気づいていた。

 

 ミカが口元を押さえる。

 

「ナギちゃん、今のちょっとお姉さんっぽい」

 

 レナの心臓が、嫌な跳ね方をした。

 

 ナギサの手が止まる。

 

 ほんの一瞬。

 

 ミカは笑っている。

 たぶん、いつもの軽口。

 

 でも、部屋の空気は軽くならなかった。

 

「ミカさん」

 

 ナギサの声が少しだけ低くなる。

 

「冗談だよ」

 

「場を選んでください」

 

「ごめん」

 

 ミカはすぐに謝った。

 

 それが、かえって不自然だった。

 

 レナは何も言えなかった。

 

 お姉さん。

 

 たったそれだけの言葉が、胸の奥へ落ちていく。

 

 言えない言葉がある。

 

 呼べない名前がある。

 

 ナギサはカップを置いた。

 

「……他に確認事項はありません。先生、よろしくお願いいたします」

 

「うん。任せて」

 

 先生が頷く。

 

 それで会議は終わった。

 

 先生がナギサと短く最後の確認をしている間、レナは窓際に立った。

 

 庭が見える。

 

 手入れされた花壇。

 白い道。

 遠くの鐘楼。

 

 きれいだった。

 

 きれいすぎて、少しだけ現実感が薄い。

 

「レナちゃん」

 

 隣にミカが来た。

 

 今度は足音がした。

 わざと、聞こえるようにしたのかもしれない。

 

「はい」

 

「ミレニアム、楽しかった?」

 

 レナは窓の外を見たまま答えた。

 

「楽しかったです」

 

「そっか」

 

「でも、楽しいだけじゃなかったです」

 

「うん」

 

 ミカはそれ以上聞かなかった。

 

 そのことに、少し驚く。

 

 いつものミカなら、もっと近づいてきたかもしれない。

 もっと笑って、レナちゃんは顔に出るね、と言ったかもしれない。

 

 今日は、それをしない。

 

「レナちゃん」

 

「はい」

 

「補習授業部、たぶん大変だよ」

 

「……はい」

 

「行くんだ」

 

「はい」

 

「そっか」

 

 ミカは小さく笑った。

 

「レナちゃんだね」

 

 それがどういう意味なのか、聞かなかった。

 

 聞くと、ミカがまた笑う気がした。

 そして今は、その笑顔を見るのが少し怖い。

 

 沈黙が落ちる。

 

 庭の方で、鳥が一羽飛び立った。

 

「ミカ先輩」

 

「ん?」

 

「明日、アズサさんに会います」

 

 言ってから、レナは自分でも少し驚いた。

 

 質問ではない。

 確認でもない。

 

 ただ、言った。

 

 ミカは、窓の外を見たまま笑う。

 

「うん」

 

 短い返事。

 

 それだけ。

 

 レナはミカの横顔を見た。

 

 ミカは何も言わない。

 レナも、それ以上聞かなかった。

 

 聞かないまま、覚えておく。

 

 そういうことも、あるのだと思った。

 

「レナちゃん」

 

「はい」

 

「明日、帰ってきたら」

 

 ミカはそこで一度言葉を切った。

 

 何かを言い換えるように、少しだけ口元を緩める。

 

「紅茶、飲もっか」

 

「……ミカ先輩が淹れるんですか?」

 

「失礼だなぁ。私だって紅茶くらい淹れられるよ」

 

「ナギサ様のお茶を飲み慣れてると、判定が厳しくなりそうです」

 

「あ、今ちょっと意地悪言った?」

 

「少し」

 

「うわ、認めた」

 

 ミカが笑った。

 

 ようやく少し、いつもの声に近かった。

 

 レナも小さく笑う。

 

「でも、飲みます」

 

 ミカの笑みが止まる。

 

「……そっか」

 

「はい」

 

「じゃあ、ちゃんと帰ってきてね」

 

 レナは返事をしようとして、少しだけ遅れた。

 

 ちゃんと帰ってきて。

 

 さっきも似たようなことを言われた気がする。

 でも今は、ただの軽い約束に聞こえなかった。

 

「……はい」

 

 ミカはそれで満足したように頷いた。

 

 先生が戻ってくる。

 

「レナ、行こうか」

 

「あ、はい」

 

 部屋を出る前、レナは一度だけナギサを見た。

 

 ナギサもこちらを見ていた。

 

 何か言うかと思った。

 

 でも、言わない。

 

 その代わりに、静かに頷いた。

 

 レナも頭を下げる。

 

 それだけだった。

 

 扉が閉まる。

 

 白い廊下に出た瞬間、レナは小さく息を吐いた。

 

「疲れた?」

 

 先生が聞く。

 

 レナは少し考えてから頷いた。

 

「疲れました」

 

「言えたね」

 

「今それ言われると、ちょっと悔しいです」

 

「じゃあ言わない」

 

「もう言いました」

 

「たしかに」

 

 先生が笑う。

 

 レナも少しだけ笑った。

 

 でも、歩き出してすぐに振り返った。

 

 閉じた扉。

 

 その向こうに、ナギサとミカがいる。

 

 話したかった。

 少しだけ話せた。

 

 でも、言わなかったことの方が多い。

 

 レナは袖の端を握り直して、先生の隣を歩いた。

 

 明日、補習授業部が始まる。

 

 その先に何があるのかは、まだ分からない。

 

 分からないままで、白い廊下を進んだ。

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