戦えない私がキヴォトス中の生徒に執着されるまで   作:Zuzuiikb

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第3話 補習授業部の救護係

 

 

 補習授業部。

 

 その名前を聞いた時、レナは最初、もう少し穏やかなものを想像していた。

 

 補習。

 授業。

 部活。

 

 言葉だけなら、どれも学園らしい。

 

 机を並べて、先生が黒板の前に立って、生徒が少し眠そうにノートを取って。時々誰かが間違えて、誰かが笑って、先生が困った顔をする。

 

 そういうものなら、レナにも少し分かる。

 

 分かる、はずだった。

 

「場所、ここで合ってますよね……?」

 

 目の前の教室を見上げながら、レナは小さく呟いた。

 

 指定された教室は、校舎の端にあった。

 廊下の窓から入る光は明るいのに、なぜか空気が少しだけ浮いている。

 

 普通の補習教室にしては、人の気配が多いような、少ないような。

 

 先生は隣で資料を確認していた。

 

「うん。ここで合ってる」

 

「本当に?」

 

「疑うね」

 

「トリニティの案内は、信用しすぎると迷子になります」

 

「経験者の言葉だ」

 

「重みがあります」

 

 先生が笑う。

 

 レナは少しだけ唇を結んで、扉の前に立った。

 

 救護騎士団からは、補習授業部の活動中に必要があれば支援に入るように、と説明されていた。

 正式な部員ではない。

 授業を受ける側でもない。

 

 臨時の救護補助。

 

 そう言えば聞こえはいい。

 

 でも実際は、ナギサの言葉がまだ胸に残っている。

 

 無理をさせるつもりはありません。

 

 正しい言葉だった。

 優しい言葉だった。

 

 だから余計に、返事の仕方に困った。

 

「レナ?」

 

「……入りましょう」

 

 先生がノックする。

 

 中から、ばたばたと音がした。

 

「は、はいっ! どうぞ!」

 

 聞き覚えのある声。

 

 レナの肩から少し力が抜けた。

 

 扉が開く。

 

「あっ、先生! それに……レナさん!」

 

 阿慈谷ヒフミが、両手にプリントを抱えたまま目を丸くしていた。

 

 その後ろでは、下江コハルが机の上に広げられた資料を慌てて隠そうとしている。

 隠す必要があるものなのか、単に散らかっているのを見られたくないのかは、判断が難しい。

 

「こんにちは、ヒフミさん」

 

「こんにちは。レナちゃんも一緒なんですね」

 

「救護係みたいなものです。たぶん」

 

「たぶん?」

 

「まだ私も、自分の立ち位置がよく分からなくて」

 

「ちょ、ちょっと。救護係が最初から不安なこと言わないでよ」

 

 コハルが横から突っ込んできた。

 

 レナはそちらを見る。

 

「コハル」

 

「何よ」

 

「元気そう」

 

「第一声それ?」

 

「じゃあ、騒がしそう」

 

「悪化してるじゃない!」

 

 コハルは赤くなって、机の上の資料をさらにぐしゃっと隠した。

 

 レナはその手元を見た。

 

「何を隠したんですか」

 

「な、何でもない!」

 

「何でもないものは、そんなに速く隠さないと思います」

 

「これは、えっと、補習に関係ある資料で……!」

 

「関係あるなら隠さなくても」

 

「うるさい! 見ちゃダメ! 正義実現委員会として、これは没収……じゃなくて、保管!」

 

「自分の資料を?」

 

「うっ……!」

 

 ヒフミが慌てて二人の間に入ろうとして、抱えていたプリントを数枚落とした。

 

「あっ」

 

「ヒフミさん、プリント」

 

「す、すみません!」

 

「いや、今のは私とコハルが悪いかも」

 

「私も入ってるの!?」

 

「入ってる」

 

「なんでよ!」

 

 レナは落ちたプリントを拾いながら、小さく笑った。

 

 笑ったら、少しだけ教室が普通の場所に見えた。

 

 ヒフミは相変わらず柔らかい。

 コハルは相変わらず真面目で、慌ただしい。

 その二人がいるだけで、補習授業部という言葉が少しだけ学園らしくなる。

 

 けれど。

 

「先生。予定時刻より二分遅れている」

 

 奥の席から、静かな声がした。

 

 レナは顔を上げる。

 

 白洲アズサ。

 

 白い髪。まっすぐな目。

 姿勢に無駄がなく、机の上も必要なものだけが置かれている。

 

 補習を受けに来た生徒、というよりは、任務前の確認をしている人みたいだった。

 

 先生が苦笑する。

 

「ごめん。少し打ち合わせが長引いた」

 

「二分なら誤差だと思いますよ、アズサちゃん」

 

 ヒフミが言うと、アズサは少しだけ考えた。

 

「誤差」

 

「はい。たぶん誤差です」

 

「なら、問題ない」

 

 その言い方が、妙に真面目だった。

 

 レナは、アズサの手元を見た。

 

 指先に小さな擦り傷がある。

 たいした傷ではない。紙で切ったのか、どこかに引っかけたのか、その程度。

 

 でも、消毒された跡がない。

 

 声をかけかけて、やめた。

 

 今はまだ、ただ見ただけでいい。

 

 レナが黙ったままでいると、教室の窓際から別の声がした。

 

「まあ。救護係さんが来てくださるなら、倒れてしまっても安心ですね」

 

 浦和ハナコが、いつの間にかそこにいた。

 

 座っているだけなのに、なぜか場の温度が少し変わる。

 

 レナは一度瞬きをした。

 

「倒れる予定があるんですか?」

 

「予定はありません。ただ、予定外のことが起きるのが青春ですから」

 

「青春って、そんなに倒れるものなんですか」

 

「人によります」

 

「ハナコ! 変な言い方しないの!」

 

 コハルが即座に反応した。

 

 ハナコはきょとんとした顔を作る。

 

「あら。私はただ、学園生活における不測の事態について」

 

「その顔で言うと全部怪しいの!」

 

「顔にも罪があるのでしょうか」

 

「ある時はある!」

 

 コハルが言い切った。

 

 レナは思わず笑ってしまった。

 

「コハル、元気」

 

「だから、何回言うの!」

 

「今のは褒めた」

 

「絶対ちょっと面白がってる!」

 

「うん」

 

「認めた!」

 

 教室に小さな笑いが生まれる。

 

 アズサだけは、それを少し不思議そうに見ていた。

 

 笑わないわけではない。

 ただ、笑い方をまだ選んでいるような顔。

 

 レナは、それを見てから、すぐに目を戻した。

 

「さて」

 

 先生が手を叩いた。

 

「全員そろったし、改めて説明するね。ここは補習授業部。みんなには一定期間、補習課題に取り組んでもらう」

 

「はい!」

 

 ヒフミが真面目に返事をする。

 

「補習って、つまり勉強でしょ? ちゃんとやればいいんでしょ」

 

 コハルが腕を組む。

 

「ええ。コハルちゃんならきっと、正義の名にふさわしい答案を」

 

「ハナコ、今のどういう意味?」

 

「そのままの意味ですよ?」

 

「絶対そのままじゃないでしょ!」

 

「まあ。疑われてしまいました」

 

「普段の行いよ!」

 

 先生が苦笑しながら資料を配る。

 

 レナも横から手伝った。

 プリントを机に置いていく。

 

 ヒフミには「ありがとうございます」と言われた。

 コハルには「べ、別に自分で取れるし」と言われた。

 ハナコには「手つきが丁寧ですね」と言われて、なぜか少し警戒した。

 アズサは短く「助かる」とだけ言った。

 

 その時、レナはまたアズサの指先を見た。

 

 紙に触れた時、ほんの少しだけ動きが止まった。

 たぶん、傷に当たった。

 

 でも顔は変わらない。

 

 レナは、それを口にしなかった。

 

「レナちゃん?」

 

 ヒフミに呼ばれて、レナは顔を上げた。

 

「ごめんなさい。何でもないです」

 

「……そうですか?」

 

 ヒフミはそれ以上聞かなかった。

 

 その代わり、少しだけプリントの束をレナの方へ寄せる。

 

「こっち、まだ配っていない分です」

 

「あ、ありがとうございます」

 

「いえ」

 

 ヒフミは柔らかく笑った。

 

 逃げ道を塞がれたわけではない。

 ただ、そっと隣に立たれたような感じだった。

 

 ハナコが楽しそうに二人を見ている。

 

「まあ。お二人とも、朝からずいぶん睦まじいことで」

 

「む、むつ……!?」

 

 コハルが先に反応した。

 

「ハナコ! そういう言い方はダメ! 死刑!」

 

「死刑ですか。まだ何もしていないのに」

 

「未遂でもダメ!」

 

「では、未遂で止まった私を褒めていただいても?」

 

「なんでそうなるの!」

 

 レナはハナコを見た。

 

「ハナコさん」

 

「はい」

 

「コハルが忙しくなるので、今のは半分くらいでお願いします」

 

「半分とは、どのあたりまででしょう?」

 

「そこを聞くところから、たぶん半分を超えてます」

 

「まあ」

 

 ハナコは口元に手を当てた。

 

「レナさんは、意外と線引きがお上手ですね」

 

「ハナコさんが線を踏みに来るので」

 

「踏んだつもりはありませんよ?」

 

「つま先は出てました」

 

 コハルが目を丸くした。

 

「レナ、普通に返せるんだ……」

 

「意外ですか?」

 

「いや、意外じゃないかも……」

 

「どっち?」

 

「分かんない!」

 

 先生が笑いながら黒板へ向かう。

 

「じゃあ、その元気のまま始めよう」

 

 最初は簡単な確認問題だった。

 ヒフミは丁寧にノートを取る。

 コハルは最初こそ「こんなの簡単」と言っていたが、三問目で眉間にしわを寄せた。

 ハナコは分かっているのかいないのか分からない顔で微笑んでいる。

 アズサは問題文を一度読んで、すぐに答えを書いた。

 

 レナは後ろの席で待機していた。

 

 救護係なので、基本的には出番がない方がいい。

 

 けれど、出番がない時間ほど、人の癖が見える。

 

 ヒフミは分からない問題があると、まず自分で考えてから、こっそり先生を見る。

 コハルは分からない時ほど姿勢がよくなる。

 ハナコはあえて分からない顔をしている時がある気がする。

 アズサは、分からない問題を分からない顔で見ない。

 

 レナは膝の上で指を丸めた。

 

 それだけだった。

 

「先生」

 

 アズサが手を上げた。

 

「この問題は、解答例の条件が不足している」

 

「あ、本当だ。よく気づいたね」

 

「必要な条件がないと、答えが複数になる」

 

「そうだね。これはこっちのミス」

 

「なら、訂正が必要だ」

 

「うん。ありがとう」

 

 先生はすぐに黒板へ修正を書いた。

 

 アズサはそれを見て、静かに頷く。

 

 コハルが小声で言った。

 

「……なんか、補習受ける側って感じじゃないんだけど」

 

「コハル、聞こえている」

 

「聞こえるように言ってない!」

 

「なら、もっと小さく言うべきだ」

 

「正論で殴られた……」

 

 ヒフミが慌てて二人をなだめる。

 

「で、でもアズサちゃん、すごいですよね。私、全然気づきませんでした」

 

「たまたまだ」

 

「たまたまじゃないと思います」

 

「そうか」

 

 アズサはそれ以上広げなかった。

 

 褒められた言葉が、机の上に置きっぱなしになったみたいだった。

 

 レナは、少しだけ目を伏せる。

 

 授業が一段落した頃、先生が休憩を宣言した。

 

 コハルは机に突っ伏した。

 

「補習って、こんなに疲れるの……?」

 

「まだ一時間も経ってないですよ、コハルちゃん」

 

「ハナコは余裕そうな顔しないで」

 

「余裕というより、コハルちゃんを見ていると胸が弾みます」

 

「言い方!」

 

「お勉強への情熱で、という意味ですよ?」

 

「絶対今足したでしょ!」

 

 ヒフミが鞄から小さな包みを出した。

 

「あの、よかったらお菓子食べますか? 少しだけですけど」

 

「ヒフミさん、準備がいい」

 

「えへへ……こういう時、あると安心かなって」

 

「分かります」

 

 レナは素直に頷いた。

 

 コハルが包みを見て、少し目を輝かせた。

 

「べ、別に欲しいわけじゃないけど、余ってるなら」

 

「コハルちゃんの分もありますよ」

 

「最初からあるなら言ってよ!」

 

「言いましたよ?」

 

「今言った!」

 

 ハナコがくすくす笑う。

 

 アズサは、配られた小さなお菓子を手の中で見つめていた。

 

「アズサちゃん、甘いもの苦手でしたか?」

 

「いや」

 

「じゃあ、どうぞ」

 

「……こういう時、食べていいものなのか」

 

 教室が一瞬だけ静かになった。

 

 ヒフミが、ゆっくりと頷く。

 

「はい。食べていいです」

 

「そうか」

 

「それに、休憩時間ですから」

 

「休憩時間」

 

 アズサはその言葉を繰り返してから、包みを開けた。

 

 小さく一口食べる。

 

 表情は大きく変わらない。

 

「……甘い」

 

「甘いの苦手でしたか?」

 

「いや。甘い」

 

「感想がそのまま」

 

 コハルがぼそっと言った。

 

 アズサは真面目に返す。

 

「他に表現が必要か?」

 

「いや、別に必要ではないけど……」

 

「なら、甘い」

 

「押し切られた……」

 

 レナは口元に手を当てた。

 

 笑ってしまいそうだった。

 

 アズサがこちらを見る。

 

「何かおかしいか」

 

「いえ」

 

 レナは首を振った。

 

「そのままでいいと思います」

 

「そうか」

 

 アズサは、また一口食べた。

 

 休憩中、レナは救護バッグの中身を確認した。

 包帯、消毒液、簡易固定具、鎮痛用の備品。ミネに確認されたばかりなので、不備はない。

 

 コハルがそれを覗き込んだ。

 

「それ、いつも持ってるの?」

 

「今日は仕事なので」

 

「仕事って言うと急にちゃんとして見える」

 

「普段はちゃんとしてないみたいな言い方」

 

「してるような、してないような」

 

「コハルに言われると納得しづらい」

 

「なんでよ!」

 

 レナはバッグを閉じる。

 

「でも、今日はなるべく出番がない方がいいです」

 

「まあ、怪我人が出ない方がいいもんね」

 

「うん」

 

 頷いたところで、アズサの指先の傷がまた目に入った。

 

 小さな傷。

 

 出番と言うほどではない。

 

 でも気になる。

 

 レナは少し迷った。

 

 アズサは、こちらの視線に気づいた。

 

「何だ」

 

 逃げられなかった。

 

 レナは救護バッグを持ち直す。

 

「……手」

 

「手?」

 

「指、切れてます」

 

 アズサは自分の指を見た。

 

「問題ない」

 

 早かった。

 

 レナは少しだけ息を吐いた。

 

「その返事、準備してました?」

 

「していない」

 

「じゃあ、早いです」

 

「この程度なら支障はない」

 

「支障があるかどうかと、手当てするかどうかは別です」

 

 アズサは少しだけ首を傾けた。

 

 コハルが横から口を挟む。

 

「それくらいなら、まあ……」

 

 レナはコハルを見た。

 

「コハル」

 

「な、何」

 

「正義実現委員会的には、紙で切った傷は見逃し?」

 

「急にこっちに来ないでよ! いや、まあ、傷は傷だけど!」

 

「じゃあ手当てしていい?」

 

「私に許可取る流れなの!?」

 

「今、場の良心っぽかったので」

 

「良心っぽいって何よ! 私は正義実現委員会だけど、そういう便利枠じゃないから!」

 

 ヒフミが笑いを堪えている。

 ハナコは楽しそうに眺めている。

 

 アズサは少し困惑した顔で、レナを見た。

 

「本当に必要なのか」

 

「必要です」

 

「なぜ」

 

 レナは少しだけ言葉に迷った。

 

 理屈はいくつかあった。

 でも、どれも少し大きすぎた。

 

「……私が落ち着かないので」

 

 アズサは自分の指を見た。

 

 それから、素直に手を出した。

 

「いいんですか」

 

「落ち着かないのだろう」

 

「言いましたけど」

 

「なら、そうする」

 

 レナは消毒液を出した。

 

 アズサの指は冷たかった。

 小さな傷に消毒をして、小さな絆創膏を貼る。

 

 本当に、それだけ。

 

 でも、アズサはその間、じっとレナの手元を見ていた。

 

「手慣れている」

 

「救護騎士団なので」

 

「そうか」

 

「でも、私も最初から上手かったわけじゃないです」

 

「練習したのか」

 

「いっぱい怒られました」

 

「誰に」

 

「ミネ団長に」

 

「厳しいのか」

 

「厳しいです。優しいです。どっちも本当です」

 

 アズサは少しだけ黙った。

 

 レナは絆創膏の端を押さえた。

 

「はい。終わりです」

 

 アズサは指を見た。

 

 小さな絆創膏。

 

「……ありがとう」

 

 短い言葉だった。

 

 レナは少し笑った。

 

「どういたしまして」

 

 授業が再開する直前、ハナコが近づいてきた。

 

「レナさん」

 

「はい」

 

「手当ての時の目、とても真剣なんですね」

 

「そうですか?」

 

「ええ。あんなふうに見つめられたら、勘違いしてしまう方もいるかもしれません」

 

 コハルが息を吸った。

 

 たぶん叫ぶ準備だった。

 

 レナは先に、ハナコを見た。

 

「ハナコさんになら、少しくらい勘違いされても大丈夫です」

 

 教室が止まった。

 

 コハルが真っ赤になった。

 

「なっ、な、な……!」

 

 ヒフミがプリントを落としかける。

 

 アズサは真面目に首を傾げた。

 

「勘違いとは、何を」

 

「アズサは今聞かなくていい!」

 

 コハルが叫ぶ。

 

 ハナコは、一瞬だけ目を丸くした。

 

 ほんの一瞬。

 

 それから、いつもの笑みを戻す。

 

「……まあ。レナさんは、時々とても大胆なことをおっしゃるんですね」

 

「ハナコさんが先に言いました」

 

「私はただ、可能性について」

 

「私も可能性についてです」

 

「ふふ」

 

 ハナコは口元に手を当てた。

 

「これは、次から少し気をつけないといけませんね」

 

「本当に気をつける人の顔じゃないです」

 

「では、気をつけているように見える顔を練習しておきます」

 

「それはもう気をつけてないです」

 

 コハルが机を叩いた。

 

「二人ともやめなさい! 補習中! 健全な補習中だから!」

 

「コハルちゃんが一番不健全な想像を」

 

「ハナコ! 死刑!」

 

 先生が笑いをこらえながら咳払いした。

 

「はい、再開するよ」

 

 その日の補習は、大きな問題なく終わった。

 

 大きな問題は。

 

 小さな問題なら、いくつもあった。

 

 コハルは途中で先生に当てられて声が裏返った。

 ヒフミはそのたびに小さく応援していた。

 ハナコは一度、答えを言う直前に意味深に微笑んで、コハルに全力で警戒された。

 アズサは最後まで真面目に問題を解き、休憩時間に出されたお菓子の包み紙をきれいに畳んでいた。

 

 普通の部活みたいだった。

 

 少し変で、少し騒がしくて、少し不安で。

 

 でも、悪くない。

 

 そう思った。

 

 帰り際、ヒフミがレナの隣に来た。

 

「レナちゃん、今日はありがとうございます」

 

「私はほとんど何もしてないです」

 

「いてくれるだけでも、少し安心しました」

 

 レナは返事に迷った。

 

 ヒフミのこういう言葉は、柔らかいのにまっすぐ届く。

 

「……そう言われると、次も来たくなります」

 

「来てください」

 

「即答ですね」

 

「はい」

 

 ヒフミは少し照れたように笑った。

 

 その笑顔を見ると、レナも少し安心する。

 

 そこへコハルが鞄を持って近づいてくる。

 

「ほら、帰るなら一緒に行くわよ」

 

「コハルも一緒?」

 

「たまたま方向が同じだけ!」

 

「まだ何も言ってない」

 

「言いそうな顔してた!」

 

「コハルも顔で判断するようになったんですね」

 

「先生たちが言うから移ったの!」

 

「感染するんですか」

 

「しない!」

 

 レナは笑いながら、教室を出ようとした。

 

 その時、後ろからアズサの声がした。

 

「レナ」

 

 呼び捨てだった。

 

 少し驚いて振り返る。

 

 アズサは、貼られた絆創膏を見せるように指を少し上げた。

 

「これは、どのくらいで剥がせばいい」

 

「今日の夜には剥がして大丈夫です。濡れたら替えてください」

 

「分かった」

 

「あと、次からは自分で貼ってもいいです」

 

「必要ならそうする」

 

「必要じゃなくても、気になったら」

 

 アズサは少しだけ考えた。

 

「気になる、という判断は難しい」

 

 レナは、その言葉を少しだけ受け止めた。

 

「……じゃあ、迷ったら聞いてください」

 

「分かった」

 

 短く、それだけ。

 

 レナは頷いて、教室を出た。

 

 廊下に出ると、白い光が差し込んでいた。

 

 コハルが前を歩き、ヒフミが隣にいる。

 ハナコは少し後ろで、何か楽しそうに眺めている。

 教室の中には、まだアズサがいた。

 

 補習授業部。

 

 ただの補習ではない。

 

 それでも今日、レナが一番覚えているのは、小さな絆創膏だった。

 

 痛みに顔を変えない子の指に貼った、ほんの小さな白。

 

「レナちゃん?」

 

 ヒフミに呼ばれて、レナは顔を上げた。

 

「どうしました?」

 

「いえ」

 

 レナは少しだけ笑った。

 

「補習授業部、思ったより賑やかだなって」

 

「ふふ。そうですね」

 

「主にコハルが」

 

「聞こえてる!」

 

 前から声が飛んできた。

 

 レナとヒフミは顔を見合わせて、同時に笑った。

 

 その笑い声が、白い廊下に少しだけ響いた。

 

 その時のレナはまだ知らなかった。

 

 この数日後、自分がまったく別の場所で、まったく違う怪我人を見つけてしまうことを。

 

 その手を取った瞬間から、補習授業部の明るい声とは反対側の、暗く湿った道へ踏み込むことになることを。

 

 まだ、知らなかった。

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