戦えない私がキヴォトス中の生徒に執着されるまで 作:Zuzuiikb
あの日から三日経っていた。たった三日しか経っていないのに、ずっと水の中にいるみたいだった。
朝、制服へ袖を通す。それだけで手が止まる。リボンを結ぼうとして、指先が動かなくなる。
「……っ」
息が詰まる。脳裏に浮かぶ。乱れた制服。押さえつけられた腕。笑い声。
私は慌てて首を振った。
違う。思い出すな。大丈夫。学校には行ける。ちゃんと歩ける。そう言い聞かせているのに、鏡の中の自分は全然大丈夫そうに見えなかった。
廊下へ出る。
人と肩が触れそうになった瞬間、体が勝手に跳ねた。
「っ、ご、ごめんなさい……!」
「え? あ、うん……?」
相手の生徒が戸惑った顔をする。最悪だ。別に何もされてない。ただ近づかれただけ。なのに。喉の奥がきゅっと縮む。
私は俯いたまま、その場を離れた。
最近ずっとこうだ。人が近いと駄目。背後に立たれるのも嫌。廊下の狭い場所を通る時、無意識に肩へ力が入る。でも、一番苦しいのは別だった。
ヒフミ先輩。
あの日から、一度もまともに顔を見れていない。
怖いわけじゃない。嫌いになったわけでもない。むしろ逆だ、だから駄目だった。
思い出す。泣きながら銃を撃っていた姿。震えていた声。“返して”って叫んだ声。それと同時に、自分の惨めな姿も思い出してしまう。
押さえつけられて。泣いて。抵抗も弱くなって。最後には助けられた。
「……っ」
胸の奥が重くなる。あんなところ、見られた。一番見られたくない人に。
教室の前まで来たところで、足が止まった。向こう側。窓際の席。
ヒフミ先輩がいた。
友達と話している。いつもの柔らかい笑顔。なのに、私はその姿を見た瞬間、息が浅くなった。
逃げたい。いや違う。合わせる顔がない。
その時だった。
「あっ、レナちゃん!」
視線が合う。ヒフミ先輩が立ち上がる。
私は反射的に一歩下がった。
「――っ」
しまった、と思った時には遅かった。ヒフミ先輩の動きが止まる。
「あ……」
空気が固まる。
怖かったわけじゃない。でも、体が勝手に。
「……ご、ごめんなさい」
なんで私が謝ってるんだろう。
分からない。でも口から出ていた。ヒフミ先輩が困った顔をする。
「えっ、あの、違っ……その……」
ヒフミ先輩まで焦り始める。それが余計に苦しかった。
やめて。
困らせたくない。私は慌てて笑おうとした。
「だ、大丈夫です、から」
失敗した。自分でも分かる。全然笑えてない。声も震えてる。
ヒフミ先輩が何か言いかける。
でも。その前に私は目を逸らした。
「……すみません、ちょっと」
逃げるみたいに廊下を歩く。背中へ視線を感じる。最悪で最低だ。助けてもらったのに。あんなに必死に助けてくれたのに。
なのに私は、ヒフミ先輩を避けてる。
階段の踊り場まで来たところで、ようやく息を吐いた。
「……っ、ぁ……」
うまく呼吸できない。
手すりを掴む。
指先が震えていた。
その時。
後ろから、小さな足音が止まる。
「……レナちゃん」
柔らかい声。
私は肩を強張らせた。
でも。
ヒフミ先輩は近づいてこなかった。
少し離れた場所で立ち止まったまま、静かに続ける。
「ごめんなさい」
私は目を見開いた。
「……え」
「その……私、怖がらせちゃいましたよね」
違う。違うのに。でも声が出ない。ヒフミ先輩は少し笑った。無理やりみたいな笑顔だった。
「私、あの時、ちょっと……ちゃんとできてなかったので」
その言葉で、胸がぎゅっと痛くなる。それも違う。ちゃんとしてなかったのは私だ。私は何もできなかった。負けた。助けられた。泣いた。なのに、ヒフミ先輩は、自分が悪いみたいに言う。
「……なんで」
気づけば声が漏れていた。
「なんで、先輩が謝るんですか……」
喉が熱い。ヒフミ先輩が少し困った顔をした。
「だって、レナちゃん、ずっと辛そうですし……」
その優しい声が、今は苦しかった。
私は俯く。
涙が落ちる前に隠したかった。
「……っ、私、」
声が掠れる。
「私、ほんとに……全然、駄目で……」
そこで言葉が止まった。
駄目だ。
これ以上喋ったら、多分泣く。
「私、ほんとに……全然、駄目で……」
そこで言葉が止まった。
喉が詰まる。
駄目だ。
これ以上喋ったら、多分泣く。
私は俯いたまま、ぎゅっとスカートを握った。震えてる。指先も、呼吸も、全部上手くいかない。
「……レナちゃん」
ヒフミ先輩の声がする。
近い。
でも。
近づいてこない。
私は少しだけ顔を上げた。
ヒフミ先輩は、階段の踊り場の少し離れた場所に立ったままだった。今すぐ抱きしめられるくらいの距離には来ない。ただ、困ったみたいな顔で私を見ている。
「……あの」
ヒフミ先輩が、小さく息を吸う。
「無理に、喋らなくていいですからね」
優しい声だった。
その優しさが、また胸を痛くする。
私は唇を噛んだ。
「でも、私……」
「はい」
「助けられて……っ」
そこで声が崩れた。あの日の光景が頭へ戻る。押さえつけられた腕。
乱れた制服。泣いてる自分。何もできなかった自分。それを全部、ヒフミ先輩に見られた。
「私、全然……っ、勝てなくて……」
涙が落ちる。
「抵抗、してたのに……っ、途中から、ちゃんと力も入らなくなって……」
言いながら、自分で苦しくなる。
情けない。
思い出したくない。
なのに口から止まらない。
「怖くて……っ、でも、それより、先輩に見られたのが、ほんとに嫌で……っ」
「……うん」
「なのに、助けてもらって……っ、私、ほんとに、みっともなくて……!」
最後はほとんど泣き声だった。私は俯いたまま肩を震わせる。ヒフミ先輩は何も悪くないのに。
でも、そんな私へ返ってきたのは、すごく静かな声だった。
「……みっともなくなんか、ないです」
私は目を見開く。
ヒフミ先輩は泣きそうな顔のまま、小さく笑った。
「だってレナちゃん、最後まで抵抗してたじゃないですか」
「っ……」
「私、見てました」
その言葉で、胸の奥が熱くなる。
「ちゃんと怖がってたのに、ずっと抵抗してました」
ヒフミ先輩がゆっくり座る。
でも。
まだ少し距離を空けたまま。
「だから、駄目なんかじゃないです」
私は何も言えなかった。
涙だけが落ちる。
ヒフミ先輩は少し困った顔をしたあと、制服のポケットを探り始めた。
「あっ」
取り出されたのは、小さなペロロ様のハンカチだった。
しかも微妙に顔が歪んでる。
「……それ」
「限定品です!」
ちょっとだけ強めの声。
でも次の瞬間、ヒフミ先輩自身が「あっ」って顔をして、慌てて小さくなる。
「ご、ごめんなさい……」
私は思わず、ふ、と息を漏らした。
笑った、というより。
張っていたものが少しだけ緩んだ感じだった。
ヒフミ先輩が、その変化に気づいて目を丸くする。
「……あ」
「……変な顔」
「ひどくないですか!?」
ちょっとだけ大きくなる声。
でもその直後、二人とも黙った。
静かな踊り場。
窓から夕方の光が差している。
私は涙を拭った。
ペロロ様の顔がちょっと濡れる。
「……ごめんなさい」
「だからなんで謝るんですかぁ……」
ヒフミ先輩が、本当に困ったみたいに眉を下げる。
それから少し迷う。
何か言おうとして、やめて。
また迷って。
やがて小さな声で、
「……あの」
「はい」
「その……嫌じゃ、なかったら」
ヒフミ先輩がそっと自分の手を見る。
「手、繋ぎます?」
私は息を呑んだ。
怖い。
一瞬、体が強張る。
触れられる。
その感覚を思い出しかけて、肩が少し震えた。
でも。
ヒフミ先輩は急かさなかった。じっと待っている。怖がらせないように。傷つけないように。まるで壊れ物を扱うみたいに。その優しさが、苦しかった。
でも。
嬉しかった。私はゆっくり、自分の手を伸ばす。少しだけ震えていた。
ヒフミ先輩の指先が、そっと触れる。
びく、と肩が揺れる。
でも。
怖くない。強く握らない。逃げられないようにも、押さえつけるようにもしてこない。ただ、そこにいる、それだけ。
「……大丈夫ですか」
小さい声。
私は俯いたまま、小さく頷いた。
その瞬間。
張り詰めていたものが、全部切れた。
「……っ、ぁ……」
涙が溢れる。
止まらない。
でも今度は、怖くて泣いてるんじゃなかった。
ヒフミ先輩が慌てる。
「え、えっ、ご、ごめんなさい!? 嫌でした!?」
「ちが……っ」
私は泣きながら首を振る。
「ちが、くて……っ」
上手く言葉にならない。
でも。
ヒフミ先輩の手は、最後まで優しかった。