戦えない私がキヴォトス中の生徒に執着されるまで   作:Zuzuiikb

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第5話 放課後の赤点会議

 

「二点……」

 

 コハルが、机の上に置かれた答案を見ていた。

 

 自分の答案ではない。

 

 ハナコの答案だった。

 

 赤い数字で、はっきりと二点。

 

 コハルはそれを見てから、自分の答案を見た。

 

 十一点。

 

 もう一度、ハナコの答案を見る。

 

 二点。

 

 そして、また自分の答案を見る。

 

「……勝ってる」

 

「おめでとうございます、コハルちゃん」

 

 ハナコが上品に拍手した。

 

 コハルはすぐに顔を赤くした。

 

「こ、こんなので勝っても嬉しくないわよ! というか、あんた何なの!? 二点って何!? 逆にどうやって取るの!?」

 

「なかなか狙って取れる点数ではありませんね」

 

「狙ったの!?」

 

「まあ。私はまだ何も」

 

「その言い方、だいたい何かした人の言い方なの!」

 

 ハナコは口元に手を当てて微笑んでいる。

 

 答案は机の上に置かれたまま。

 空欄が多い。

 けれど、全部が分からなかった答案には見えなかった。

 

 レナはそれをちらっと見て、すぐに視線を外した。

 

 聞かない方がいい気がした。

 

 ヒフミは自分の答案を両手で持ったまま、少し困った顔をしている。

 

「えっと……私は、どうしたら」

 

「ヒフミさんは堂々としていていいと思います」

 

 レナが言うと、ヒフミは首を横に振った。

 

「で、でも、私だけ合格で……」

 

 そこまで言って、ヒフミは口を閉じた。

 

 答案の端を、指先で少しだけなぞる。

 

 七十二点。

 

 先生が言った通り、合格ラインは六十点。

 ヒフミだけが合格だった。

 

 ヒフミは嬉しそうではある。

 でも、その嬉しさを机の上に出しきれずに、両手でそっと押さえているように見えた。

 

「ヒフミ先生」

 

 アズサが言った。

 

 ヒフミの肩が跳ねた。

 

「ア、アズサちゃん!?」

 

「合格している。教える側に回れる」

 

「そ、それはちょっと早くないですか……?」

 

「早いのか」

 

「早いです。たぶん。まだ一回目ですし」

 

「でも、一番点が高い」

 

「うっ……」

 

 ヒフミは答案を抱え込む。

 

 コハルが机に突っ伏したまま、片手だけ上げた。

 

「ヒフミ……」

 

「は、はい」

 

「私を見捨てないで……」

 

「見捨てません!」

 

「じゃあ、この十一点を人間の点数にして……」

 

「人間の点数ではありますよ!?」

 

 ヒフミが慌てる。

 

 ハナコがそっと首を傾けた。

 

「では、私の二点は?」

 

 コハルがばっと顔を上げる。

 

「ハナコは自分でどうにかして!」

 

「冷たいですね」

 

「自業自得でしょ!」

 

「二点の私を置いていくのですか」

 

「その言い方やめて! なんか私が悪いみたいになる!」

 

 先生は黒板の前で採点済みの答案を整理しながら、少し笑っていた。

 

「じゃあ、今日はこのまま少しだけ復習しようか」

 

「今から!?」

 

 コハルの声が裏返る。

 

「十五分くらい」

 

「十五分って言って三十分になるやつでしょ」

 

「なるかも」

 

「否定して!」

 

「できるだけ十五分」

 

「信用できない!」

 

 コハルが机に額を置く。

 

 でも、答案をしまおうとはしなかった。

 

 レナはそれを見てから、コハルの隣の席へ鞄を置いた。

 

「コハル」

 

「何よ……」

 

「敵情視察、続けますか」

 

「誰が敵情視察って……」

 

 コハルは言いかけて、答案を見た。

 

 赤い丸よりも、赤い斜線の方が多い。

 

 しばらく黙る。

 

「……少しだけ」

 

「はい」

 

「少しだけだから」

 

「はい」

 

「あと、別に教えてほしいってわけじゃないから」

 

「はい」

 

「でも、救護係って、困ってる生徒を見たら助けるんでしょ」

 

「そうですね」

 

「じゃあ、これは救護対象」

 

 コハルは答案を指差した。

 

「答案が?」

 

「私が!」

 

「自分で言えましたね」

 

「うるさい!」

 

 レナは笑わないようにした。

 

 完全には成功しなかった。

 

「何笑ってるのよ」

 

「少しだけです」

 

「笑ってるじゃん!」

 

「じゃあ、問題見ます」

 

「ごまかした!」

 

 コハルは文句を言いながら、答案をレナの方へ寄せた。

 

 最初の問題は、基礎の用語を問うものだった。

 

 コハルの答えは、惜しいところまでは行っている。

 ただ、最後の言葉が違う。

 

「ここ、途中まで合ってます」

 

「ほんと?」

 

「はい。だから全部分からなかったわけじゃないです」

 

 コハルの顔が少しだけ明るくなる。

 

 すぐに腕を組んだ。

 

「ま、まあ当然よね。私は正義実現委員会だし」

 

「そこは関係あるんですか」

 

「ある! 正義には知識も必要なの!」

 

「良いこと言ってます」

 

「でしょ」

 

「じゃあ、覚えましょう」

 

「うっ」

 

 コハルはプリントを睨んだ。

 

 レナはノートの端に、簡単な図を書いた。

 

「この問題は、言葉を丸暗記するより、こっちとこっちの違いを見た方が早いです」

 

「違い……」

 

「はい。こっちは目的、こっちは方法」

 

「目的と方法」

 

「そうです。正義実現委員会っぽく言うなら、目的が正義で、方法が……」

 

「方法も正義!」

 

「コハル、それだと全部正義になります」

 

「だめなの!?」

 

「たぶん答案ではだめです」

 

「融通が利かない!」

 

「問題文はそういうところあります」

 

 コハルは悔しそうに唇を尖らせた。

 

 でも、レナが書いた図を消そうとはしない。

 

 むしろ、じっと見ている。

 

「……もう一回」

 

「はい」

 

「今の、もう一回だけ説明して」

 

 声は小さい。

 

 レナは頷いた。

 

 もう一度、ゆっくり説明する。

 

 コハルは途中で何度も口を挟んだ。

 それは違う、問題文が悪い、今の単語は聞いたことがある、でも意味は知らない。

 

 騒がしい。

 

 でも、逃げてはいない。

 

 ヒフミが隣の席から、そっとノートを差し出した。

 

「コハルちゃん、ここに似た問題を書いておきました」

 

「ヒフミ……」

 

「答えはまだ書いていません。一緒にやりましょう」

 

「……うん」

 

 コハルは素直に頷きかけて、途中で慌てた。

 

「べ、別に頼んだわけじゃないけど!」

 

「はい」

 

 ヒフミはにこにこしている。

 

「でも、やりますよね?」

 

「やる!」

 

 コハルは勢いよく鉛筆を握った。

 

 その勢いのまま、一問目の漢字を間違えた。

 

「コハルちゃん、そこは……」

 

「言わないで! 分かってる! 今分かった!」

 

「今、私も見ました」

 

「レナも見ないで!」

 

「同じ机なので」

 

「机が悪い!」

 

 ハナコがくすくす笑う。

 

「机にも罪が」

 

「ない!」

 

 コハルの声が教室に響いた。

 

 その横で、アズサは答案を見直していた。

 

 三十二点。

 

 コハルやハナコほど騒がない。

 ヒフミのように喜ぶこともない。

 

 ただ、間違えた問題の横に小さく印をつけている。

 

 まっすぐな線。

 無駄のない印。

 

 先生が近づく。

 

「アズサ、分からないところある?」

 

「ある」

 

 アズサは即答した。

 

「ここだ」

 

 先生は少しだけ驚いた顔をしてから、隣に座る。

 

「うん。ここは、最初に条件を整理するといい」

 

「条件」

 

「そう。この問題は、聞かれていることが途中で変わってる。だから最初の情報をそのまま使うとずれる」

 

 アズサは先生の説明を聞いている。

 

 目が真剣だった。

 

 戦闘の説明を聞いているみたいに。

 いや、レナはアズサの戦闘を知らない。

 なのに、そう思った。

 

 アズサは鉛筆を動かす。

 

「つまり、先に分ける」

 

「うん」

 

「一度に処理しない」

 

「そう」

 

「分かった。もう一度やる」

 

 先生が頷く。

 

 アズサはすぐに同じ問題へ戻った。

 

 消しゴムを使う音が小さく響く。

 

 レナはその音を聞いていた。

 

 途中で、ヒフミがそっとアズサのノートを覗いた。

 

「あ、アズサちゃん。ここ、私も間違えそうになりました」

 

「そうなのか」

 

「はい。先生に聞く前に、ここの線を引いたら少し分かりやすくて」

 

「線」

 

「この文です」

 

 ヒフミは控えめに指を差した。

 

 アズサはしばらく見てから、同じところに線を引く。

 

「見やすい」

 

「よかったです」

 

「ヒフミ先生」

 

「だから、それは恥ずかしいです……!」

 

 ヒフミの声が小さくなる。

 

 コハルが横から顔を上げた。

 

「でもヒフミ、実際先生っぽいわよ」

 

「コハルちゃんまで……」

 

「だって教えるの上手いし。私にもさっき、分かりやすかったし」

 

 ヒフミは完全に固まった。

 

 褒められると思っていなかった顔だった。

 

 コハルは言ってから、自分でも少し照れたのか、すぐに答案へ視線を落とした。

 

「ま、まあ、今日だけね。今日だけ」

 

「はい。今日だけでも、嬉しいです」

 

 ヒフミは小さく笑った。

 

 レナは、その横顔を見ていた。

 

 ヒフミは、誰かの隣に座るのが上手い。

 

 先に立つわけでも、後ろから押すわけでもなく、同じ机の角に手を置くみたいに。

 

 レナは少しだけ、自分のノートを開いた。

 

「レナさんもやりますか?」

 

 ヒフミが聞く。

 

「私は救護係なので」

 

「でも、さっき少し逃げようとしてましたよね?」

 

「……見てました?」

 

「はい」

 

 ヒフミはにこりと笑った。

 

 柔らかい。

 

 逃げづらい。

 

「では、一問だけ」

 

 レナは観念して、プリントの空いている問題を一つ選んだ。

 

 解けると思った。

 

 思ったより迷った。

 

「……」

 

「レナさん?」

 

「今、救護バッグの中身を数えたくなっています」

 

「逃げ方が具体的ですね」

 

「慣れているので」

 

「慣れないでください」

 

 ヒフミに言われると、妙に効いた。

 

 レナは鉛筆を持ち直す。

 

 コハルが横から覗き込んだ。

 

「レナも分かんないの?」

 

「分からない時もあります」

 

「なんか安心した」

 

「安心されました」

 

「ち、違うわよ! 変な意味じゃなくて!」

 

「はい」

 

「その返事、分かってる顔!」

 

「分かってます」

 

「やっぱり!」

 

 コハルがまた騒ぐ。

 

 ハナコはそこへ、音もなく椅子を寄せてきた。

 

「では、私も拝見してよろしいでしょうか」

 

「ハナコさん、勉強する気あります?」

 

「もちろんです。レナさんの答案を眺めることも、広義では学びかと」

 

「広すぎます」

 

「まあ。知識とは広いものですから」

 

 レナは問題文に視線を戻す。

 

 ハナコは、すぐ隣に座った。

 

 近い。

 

 けれど、触れてはいない。

 

「レナさんは、問題を見る時も真剣ですね」

 

「問題を見ているので」

 

「そういう近さで隣に座られると、勘違いしてしまう方もいらっしゃるかもしれません」

 

 コハルが反応する前に、レナは鉛筆を置いた。

 

「ハナコさんになら、少しくらい勘違いされても大丈夫です」

 

 空気が、一瞬止まった。

 

 コハルが真っ赤になった。

 

「なっ……何言ってるのよ!? 補習中! ここ、補習中だから!」

 

 ヒフミは目を丸くして、鉛筆を落としかけた。

 

 アズサは真面目に顔を上げる。

 

「勘違いとは」

 

「アズサは今いいから!」

 

 コハルが叫んだ。

 

 ハナコは、一拍だけ遅れて笑った。

 

「……まあ。レナさんは、時々こちらの予定表にない答えを出されますね」

 

「問題文にありませんでしたか」

 

「これは応用問題ですね」

 

「なら、部分点はありますか」

 

「満点にしてしまうと、私が困ります」

 

「じゃあ、半分で」

 

「ふふ。では、後ほど採点を」

 

「採点しなくていいから!」

 

 コハルが机を叩く。

 

「ハナコもレナも、そういうのはダメ! 死刑! 補習授業部で死刑!」

 

「コハルちゃん、部活動の規則が少し過激では?」

 

「ハナコが言わせてるんでしょ!」

 

「私はただ、勉学に励む皆さんを見守っていただけです」

 

「どの口が!」

 

 先生が黒板の前で咳払いした。

 

「えー、勉強会に戻ろうか」

 

「先生! 今の見てましたよね!」

 

「見てたけど、止めるタイミングを失った」

 

「止めて!」

 

「次から頑張る」

 

「先生まで!」

 

 教室がまた騒がしくなる。

 

 レナは少しだけ頬が熱かった。

 でも、ハナコが一瞬だけ黙ったのを見ていた。

 

 ほんの一瞬。

 

 それだけで十分だった。

 

 ハナコはもういつもの笑顔に戻っている。

 レナも、それ以上は追わなかった。

 

 勉強会は、ゆっくり進んだ。

 

 ヒフミが説明する。

 コハルが途中で叫ぶ。

 アズサが短く確認する。

 ハナコがわざと話を斜めにずらす。

 先生が時々戻す。

 レナがつられて問題を解く。

 

 十五分のはずだった復習は、案の定三十分を超えた。

 

「ほら! やっぱり三十分になった!」

 

 コハルが黒板の時計を指差す。

 

「集中してたね」

 

 先生が言う。

 

「してない!」

 

「コハルちゃん、最後の問題は集中していましたよ」

 

 ヒフミが言う。

 

「してないってば!」

 

「鉛筆、ずっと動いていました」

 

「見ないでよ!」

 

「見守っていました」

 

「言い方が優しいから怒りづらい……」

 

 コハルは机に突っ伏した。

 

 でも、さっきより答案の赤い数字を見なくなっていた。

 

 代わりに、ノートの端に小さく書いた図を見ている。

 

 レナが書いたものだ。

 

 少し歪んだ丸と矢印。

 正義、と書きかけて消した跡もある。

 

 コハルはそれを指でなぞって、すぐに手を引っ込めた。

 

 誰も何も言わなかった。

 

 ヒフミはノートを閉じながら、先生を見る。

 

「次も、この形で勉強してもいいですか?」

 

「もちろん。むしろ、その方がいいと思う」

 

「よかった……」

 

 ヒフミはほっとしたように笑った。

 

 アズサが答案を鞄に入れる。

 

 折らない。

 丸めない。

 そのまま、きれいに入れる。

 

「次は、もう少し取る」

 

 ぽつりと言った。

 

 点数の話だと、すぐに分かった。

 

 レナは頷く。

 

「はい」

 

 アズサはレナを見る。

 

「なぜレナが返事をする」

 

「聞こえたので」

 

「そうか」

 

 それで終わった。

 

 短いやり取りだった。

 

 でも、アズサはそれ以上否定しなかった。

 

 ハナコが答案をひらひらと揺らす。

 

「では、私も次は三点を目指しましょうか」

 

「低すぎる!」

 

 コハルが即座に起き上がる。

 

「せめて二桁目指しなさいよ!」

 

「コハルちゃんとお揃いですね」

 

「今のは私に刺さる!」

 

「では、二十点で」

 

「低い!」

 

「三十点」

 

「まだ低い!」

 

「まあ。コハルちゃんは私に高みを求めてくださるのですね」

 

「そういう話じゃない!」

 

 ハナコは笑っている。

 

 けれど、答案はすぐに鞄へしまわなかった。

 机の上に置いたまま、赤い二点を指先で軽く押さえている。

 

 その仕草は、誰かに見せるためのものか、自分のためのものか分からなかった。

 

 レナは見た。

 

 でも、何も言わなかった。

 

 先生が手を叩く。

 

「今日はここまでにしよう。次回までに、間違えた問題を一つだけ解き直してくること」

 

「一つだけ?」

 

 コハルが顔を上げる。

 

「一つだけ。全部やろうとすると大変だから、まず一つ」

 

「……それなら」

 

「できそう?」

 

「できるわよ! 一つくらい!」

 

 コハルは勢いよく言った。

 

 その後、小さくヒフミを見る。

 

「……どれがいいと思う?」

 

「一緒に選びましょう」

 

「うん」

 

 素直だった。

 

 ほんの一瞬だけ。

 

 ハナコが何か言いかけたが、今回は言わなかった。

 代わりに、紙コップの紅茶をゆっくり飲む。

 

 アズサは、既に一問選んでいた。

 

「私はこれをやる」

 

「早いですね」

 

 レナが言う。

 

「間違えた中で、一番理由が分からなかった」

 

「じゃあ、それがいいと思います」

 

「そうか」

 

 アズサは小さく頷いた。

 

 帰り支度が始まる。

 

 椅子が引かれる音。

 ノートを閉じる音。

 お菓子の包み紙をまとめる音。

 

 ヒフミが余ったクッキーを小さな袋に入れて、机の中央に置いた。

 

「次回用に残しておきますね」

 

「ヒフミさん、管理が丁寧」

 

「えへへ……こういうの、あると少し楽しみになるかなって」

 

「なる」

 

 コハルが即答した。

 

 言ってから、赤くなる。

 

「いや、別にお菓子目当てじゃないけど!」

 

「はい」

 

 ヒフミは笑った。

 

「でも、楽しみがあるのはいいことです」

 

「……まあ、そうね」

 

 レナは鞄を持ち上げた。

 

 救護バッグも、肩にかける。

 

 今日は出番がなかった。

 

 それでよかった。

 

「レナさん」

 

 ヒフミに呼ばれる。

 

「はい」

 

「次も、来ますか?」

 

 レナは少しだけ考えた。

 

 ナギサの許可。

 ミネの経過観察。

 先生の予定。

 

 いくつかの顔が浮かぶ。

 

 でも、返事は先に出た。

 

「来ます」

 

「許可は?」

 

 コハルが横から言う。

 

「取ります」

 

「取ってから言いなさいよ」

 

「先に言った方が、来る理由になるので」

 

 コハルは何か言い返そうとして、口を閉じた。

 

 答案を鞄に入れる。

 

「……じゃあ、来れば」

 

「はい」

 

「別に待ってるわけじゃないけど」

 

「はい」

 

「その返事、分かっててしてるでしょ」

 

「少し」

 

「やっぱり!」

 

 コハルがまた声を上げる。

 

 ヒフミが笑う。

 ハナコも、アズサも、それぞれの距離でその場にいた。

 

 レナは教室を見た。

 

 机を寄せただけの場所。

 答案とノートと、食べかけのお菓子。

 黒板に残った、先生の字とコハルの「絶対合格」。

 

 補習授業部。

 

 変な部活だと思った。

 

 今もそう思う。

 

 でも、少しだけ。

 

 次にここへ来ることを、楽しみにしている自分がいた。

 

 教室を出る時、アズサが後ろから言った。

 

「レナ」

 

「はい」

 

「次の勉強会では、救護バッグは必要なのか」

 

 レナは少し考えた。

 

「ない方がいいです」

 

「そうか」

 

「でも、持ってきます」

 

「なぜ」

 

「癖です」

 

 アズサは、それで納得したのか分からない顔をした。

 

「分かった」

 

 短く答える。

 

 それだけだった。

 

 廊下に出ると、夕方の光が白い壁に伸びていた。

 

 ヒフミとコハルが前を歩く。

 ハナコは少し後ろで、わざとゆっくり歩いている。

 アズサは窓の外を一度見てから、静かに扉を閉めた。

 

 レナはその音を聞いて、少しだけ振り返った。

 

 明るい教室。

 赤点の答案。

 お菓子の包み紙。

 笑い声。

 

 まだ、そこに残っている。

 

 この時のレナは、まだ知らなかった。

 

 次に白い校舎の外れで聞く足音が、こんなに穏やかなものではないことを。

 

 その足音を追った先で、別の傷を見つけてしまうことを。

 

 まだ、知らなかった。

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