戦えない私がキヴォトス中の生徒に執着されるまで 作:Zuzuiikb
補習授業部の教室を出たあとも、コハルの声が少しだけ耳に残っていた。
「次は絶対もっと取るから!」
そのあと、ハナコが何かを言って、コハルがまた怒った。
ヒフミが笑って、先生が止める。
騒がしい教室だった。
でも、嫌ではなかった。
廊下に出ると、夕方の光が白い壁に伸びていた。
「レナさん」
ヒフミに呼ばれて、振り返る。
「次も、来ますよね?」
「許可が出れば」
「出るといいですね」
「はい」
ヒフミは、それだけで少し安心したように笑った。
コハルは横で鞄を抱え直す。
「別に、絶対来いってわけじゃないけど」
「はい」
「でも、来るなら遅れないでよ」
「気をつけます」
「あと、ハナコと変な会話しすぎないで」
「それはハナコさんにも言ってください」
「もう言っても無駄なの!」
少し離れたところで、ハナコが口元に手を当てた。
「あら。信頼されていますね」
「されてない!」
コハルの声が廊下に響く。
少し笑ってしまった。
ヒフミとコハルは寮の方へ。
ハナコは「少し寄り道を」とだけ言って、別の廊下へ。
アズサは先生と短く話してから、先に教室を出ていた。
私は救護騎士団へ戻るため、反対側の通路へ向かった。
救護バッグの紐が、肩に少し食い込む。
今日は出番がなかった。
それでよかった。
中央廊下は生徒で少し混んでいた。
いつもの癖で、一本奥の古い通路へ入る。
窓枠が古く、床の石もところどころ色が違う。
人通りは少ない。
歩きながら、頭の中で報告内容を並べた。
補習授業部初回。
大きな怪我なし。
軽微な擦り傷一件、処置済み。
参加生徒の様子。
コハルは騒がしい。
ヒフミはよく見ている。
ハナコは――。
そこで考えるのをやめた。
報告書に書くことではない。
アズサのことも。
指先の傷。
答案を折らずにしまった手。
甘いものを食べた時の、ほんの短い間。
書かない。
まだ、書けない。
その時だった。
廊下の奥で、小さな音がした。
硬いものが床に当たる音。
足が止まる。
古い校舎側のさらに奥。
倉庫と、裏庭へ続く細い通路がある。
もう一度、音。
今度は、靴底が石を擦ったような音だった。
「……誰かいますか?」
返事はない。
風で何かが倒れたのかもしれない。
そう思った。
そう思ったのに、足はそちらへ向いていた。
曲がり角をひとつ曲がる。
廊下の明るさが少し落ちた。
古い窓の向こうに、夕方の裏庭が見える。植え込みの影が長く伸びている。
その影の端に、誰かがいた。
小柄な生徒だった。
見慣れない制服。
トリニティのものではない。
フードのようなものを深く被り、壁に片手をついている。足元が少し崩れていた。
立っている。
けれど、右足をかばっている。
救護バッグの紐を握った。
「あの」
声をかけた瞬間、その子の肩が跳ねた。
振り向いた顔は、真っ青だった。
「ひっ……!」
短い悲鳴。
彼女は一歩下がろうとして、失敗した。
右足に体重が乗った瞬間、膝が少し折れる。
「待って」
一歩だけ近づく。
彼女は壁に背をぶつけるようにして、首を横に振った。
「こ、来ないでください……!」
止まる。
両手を少し上げた。
「行きません」
「来てます……!」
「ここで止まります」
彼女は泣きそうな顔で、私の救護バッグを見た。
それから、足元に視線を落とす。
右足首。
靴の縁のあたりが汚れている。細い擦り傷と、軽い腫れ。
歩けないほどではない。
でも、走れば悪化する。
その程度の怪我。
その程度だから、隠される怪我。
「足、痛めてますよね」
「痛めてません」
早かった。
少し黙ってから、彼女を見る。
「じゃあ、どうして壁に手をついてるんですか」
「……休んでただけです」
「こんなところで?」
「そういう日もあります……」
声が震えていた。
救護バッグを床に置く。
金具が小さく鳴った。
彼女の肩がまた跳ねる。
「トリニティの救護騎士団です」
言った瞬間、彼女の顔からさらに血の気が引いた。
しまった。
安心させるつもりだった。
逆だった。
「救護……騎士団……」
「はい」
「トリニティの……」
彼女の目が、廊下の奥へ一瞬だけ動いた。
見た。
でも、そちらは見なかった。
「座れますか」
「座れません」
「立ってる方がつらいです」
「つらくないです」
「じゃあ、少しだけ見せてください」
「む、無理です……!」
彼女は首を横に振る。
怖がらせたいわけではない。
でも、このまま歩かせるのも嫌だった。
「名前は」
彼女は答えない。
「……今はいいです」
しゃがむ。
「触ります。嫌なら言ってください」
「嫌です」
「じゃあ、すごく嫌なら」
「すごく嫌です……!」
「……ごめん。でも見ます」
「ひどいですぅ……」
泣きそうな声だった。
足首に触れる。
軽い腫れ。
擦り傷に土がついている。
「しみます」
「言わないでください……!」
「言わない方が怖いので」
「言っても怖いです……!」
「それは、ごめん」
消毒綿を当てる。
彼女の肩が跳ねた。
声は出さない。
私は手を止めなかった。
包帯を取り出して、軽く固定する。
「ちゃんとした処置は後で。今は歩けるようにします」
「後で……?」
その言葉に、彼女が反応した。
包帯を巻きながら、少しだけ顔を上げる。
「誰か待ってますか」
彼女は答えない。
ただ、また廊下の奥を見る。
今度は、私もそちらを見そうになった。
その時。
「ヒヨリ」
低い声がした。
空気が変わった。
手が止まる。
廊下の奥に、二人いた。
一人は、銃を構えている。
青みを帯びた髪が、夕方の薄い光の中で冷たく見えた。
鋭い目。無駄のない立ち方。肩にも腕にも、余分な力が入っていない。
なのに、銃口だけが正確に私を捉えていた。
迷っていない。
撃つかどうかを考えている人ではない。
必要なら撃つと、もう決めている人の構えだった。
もう一人は、少し後ろにいた。
黒い髪が頬にかかっている。
顔色は白く、目はひどく静かだった。
首元と手首に、厚い包帯が見えた。
見てしまった。
救護騎士団なら、見過ごせない白。
でも、銃口が近すぎた。
声をかけるどころか、息を吸う場所まで狭くなる。
「何があった」
銃を構えた少女は、私ではなく、ヒヨリを見た。
銃口は私に向いたまま。
ヒヨリが小さく息を飲む。
「す、すみません……足を、少し……」
「立てるか」
「立てます……」
「ならいい。後で見る」
短い。
優しくはない。
でも、切り捨てる声ではなかった。
ヒヨリの視線が少しだけ下がる。
「ごめんなさい、私が……」
「謝罪は後だ。今は黙って呼吸を整えろ」
その声で、ヒヨリは口を閉じた。
怒られたというより、指示を受けた顔だった。
サオリ。
そう呼ばれた青みの髪の生徒は、銃口を下げない。
「動くな」
今度は私に向けられた声だった。
静かな声。
怒鳴っていない。
だから、余計に動けなかった。
包帯の端を持ったまま固まる。
「両手を見せろ」
ゆっくり、包帯から手を離した。
ヒヨリの足首には、まだ巻きかけの包帯が残っている。
私は口を開きかけた。
この子の足が。
そう言いたかった。
でも、銃口が少しだけ上がった。
言葉が消えた。
「手」
二度目。
両手を上げる。
手のひらが少し震えている。
サオリと呼ばれた生徒は、それを見た。
何の反応もない。
「所属」
「……トリニティ、救護騎士団です」
青い髪の奥の目が、細くなる。
後ろの黒髪の生徒が、小さく息を吐いた。
「最悪」
短い声。
それだけ。
サオリと呼ばれた生徒は、私を見たまま言った。
「通信端末を出せ。全てだ」
逆らうという考えが、浮かばなかった。
震える手でポケットから端末を取り出す。
「投げるな。置け」
床にそっと置いた。
「足でこちらへ」
言われた通り、端末を足先で押す。
カツ、と小さな音を立てて、端末が廊下を滑った。
「ミサキ」
サオリと呼ばれた生徒が言う。
黒髪の生徒が、床に滑った端末を拾った。
ミサキ。
そう呼ばれた生徒は、画面を確認して、すぐに電源を落とした。
その手首に、包帯が巻かれている。
また、見てしまった。
白い包帯。
袖口から少しだけ覗く、何重にも巻かれた白。
見ない方がいい。
今は、見ても何もできない。
それでも、目が勝手に拾ってしまう。
黒髪の生徒がこちらを見た。
「目、下げて」
低い声だった。
私は視線を落とした。
言い返せなかった。
銃口がある。
ヒヨリの足首には、まだ包帯が途中までしか巻かれていない。
「救護バッグから離れろ」
サオリと呼ばれた生徒の声。
私は少しだけ、足元のバッグを見た。
包帯。
消毒液。
固定具。
全部、そこにある。
でも、手を伸ばしたら撃たれる。
そう思った。
思ってしまった。
ゆっくり、バッグから離れる。
サオリと呼ばれた生徒が一歩近づいた。
青みの髪が揺れる。
それだけで、廊下が狭くなった気がした。
「次に命令より手元を優先したら、敵対行動とみなす」
息が止まる。
頷くことしかできなかった。
ヒヨリが小さく声を漏らす。
「サオリ……その、包帯が……」
「分かっている」
サオリと呼ばれた生徒は、私から目を離さないまま言った。
「ミサキ、バッグ。使えるものだけ持て」
「ん」
ミサキと呼ばれた黒髪の生徒が、救護バッグを拾った。
中身を確認する手つきは雑ではない。
ただ、遠慮もない。
包帯。
消毒液。
固定具。
ひとつずつ見て、使えそうなものを抜き取る。
「固定はこっちでやる」
黒髪の生徒が、ヒヨリに向かって言った。
ヒヨリは小さく頷いた。
「すみません……」
「足、出して」
「は、はい……」
短いやり取りだった。
冷たいのに、慣れている。
仲間の怪我を扱うことに、迷いがない。
私は黙って見ていた。
見ていることしかできなかった。
「名前」
サオリと呼ばれた生徒が言った。
「……レナ」
「姓は」
一瞬だけ止まった。
本当に、一瞬だけ。
銃口がわずかに上がる。
「遅い」
その言葉だけで、背中が冷えた。
「……レナ、です」
「姓を聞いている」
廊下が静かになる。
ヒヨリの呼吸だけが、少し速い。
唇を結ぶ。
サオリと呼ばれた生徒は待たなかった。
「ミサキ」
「後でも端末見れば分かる」
ミサキと呼ばれた生徒が、端末を軽く振った。
電源は落ちている。
でも、押収された。
もう戻らない。
自分の指先を見る。
震えている。
「救護騎士団員。トリニティ生徒。こちらの存在を確認。ヒヨリの名を聞いた」
サオリと呼ばれた生徒は淡々と言った。
まるで、項目を読み上げるように。
「解放はできない」
その言葉が落ちた。
息を止める。
誘拐。
言葉は浮かんだ。
でも、口には出なかった。
出したところで、何も変わらない。
「両手を後ろに」
動けなかった。
銃口が上がる。
「二度は言わない」
ゆっくり両手を後ろへ回した。
ヒヨリが小さく震えている。
ミサキと呼ばれた生徒が、背後へ回った。
近づいた時、黒髪の隙間から包帯の白が見えた。
首元。
手首。
袖の奥。
見過ごしてはいけないもの。
でも、今はその白に触れられない。
手首を拘束される。
きつすぎるほどではない。
でも、抜けられない。
冷たい感触が肌に当たった。
息を飲む。
それだけだった。
痛いかどうかなんて、聞かれない。
この人たちにとって、私は保護する相手ではない。
目撃者。
捕まえた相手。
それだけだ。
「移動する」
サオリと呼ばれた生徒が言った。
ヒヨリが壁に手をついて立とうとする。
右足に力が入らず、少しよろめく。
体が反射で動きかけた。
手首の拘束が鳴る。
「止まれ」
サオリと呼ばれた生徒の声。
私の体が止まる。
ミサキと呼ばれた黒髪の生徒が、ヒヨリの腕を掴んだ。
「肩、使って」
「でも……」
「いいから」
ヒヨリは、少しだけ迷ってから、ミサキの肩に手をかけた。
「すみません……」
「歩ければいい」
ミサキの声は冷たい。
でも、肩は貸していた。
サオリと呼ばれた生徒は、廊下の奥を確認してから、私の横に立つ。
銃口は下がった。
けれど、安心できる距離ではない。
「前を見ろ」
前を向いた。
夕方の光が、廊下の端に残っている。
さっきまで補習授業部の教室にいた。
コハルが叫んでいた。
ヒフミが笑っていた。
ハナコが変なことを言っていた。
アズサが答案を折らずにしまっていた。
その全部が、急に遠くなる。
「歩け」
サオリと呼ばれた生徒が言った。
一歩踏み出す。
救護バッグはミサキと呼ばれた生徒の手にある。
端末もない。
手首は後ろで動かない。
ヒヨリの足首には、巻きかけの包帯が残っている。
それだけが、やけに目に残った。
白い校舎の外れで、私はアリウススクワッドに連れて行かれた。