戦えない私がキヴォトス中の生徒に執着されるまで 作:Zuzuiikb
手首を後ろで拘束されると、歩き方が少し分からなくなった。
ただ前へ進むだけのはずなのに、腕が使えないだけで体の重心が変わる。足元を確かめようとしても、肩が先に強張って、少しでも躓けばそのまま前へ倒れてしまいそうだった。
転んだら、手が出ない。
そんな当たり前のことが、怖かった。
「足音を抑えろ」
前を歩くサオリさんが言った。
振り返らない。
青みを帯びた髪が、夕方の廊下の影を受けて少し暗く見える。銃は下げている。けれど、下げているだけで、しまってはいない。
いつでも向けられる。
それが分かる距離だった。
「……はい」
返事をすると、喉が少しだけ掠れた。
サオリさんは何も言わない。
それでいい、ということなのか、返事に価値がないということなのか、分からなかった。
少し前を、ヒヨリさんが歩いている。
右足をかばっていた。本人はできるだけ普通に歩こうとしているけれど、三歩に一度、肩がほんの少し沈む。巻きかけだった包帯はミサキさんが上から固定し直していたけれど、応急処置でしかない。
ちゃんと座らせて、足首の動きを見たい。
腫れの範囲も、熱感も、歩いた時の痛み方も。
考えてしまう。
今、自分の手首が縛られていることより先に、そちらを見てしまう。
「ヒヨリ」
サオリさんが短く呼んだ。
「は、はい……」
「足」
「歩けます……」
「歩けるかは見れば分かる。走れるかを聞いている」
ヒヨリさんは一瞬だけ黙った。
それから、声を小さくした。
「……無理です」
「なら走らない経路を使う。最初からそう言え」
「すみません……」
「謝罪は後だ。今は遅れるな」
厳しい。
でも、切り捨てる言い方ではなかった。
サオリさんは速度を落とした。ほんの少しだけ。見ていなければ気づかないくらい、自然に。
それでもヒヨリさんは気づいたのか、唇を噛んで下を向いた。
ミサキさんは、私の少し後ろを歩いている。
気配が近い。
振り向かなくても分かる。足音が小さくて、でも消えてはいない。こちらが少し遅れると、同じだけ近づく。急かすでもなく、助けるでもなく、ただ逃げ道の位置を塞ぐように。
「前」
後ろから声がした。
「……すみません」
「謝らなくていい。意味ないから」
低い声。
怒っているわけではない。興味がないようにも聞こえる。でも、無視されているわけではなかった。こちらがどこを見て、どこで足を止めかけて、何を考えたかまでは分からなくても、見張るべき動きだけは拾われている。
怖い。
それは、銃口を向けられた時とは違う怖さだった。
サオリさんは前から場を押さえる。
ミサキさんは後ろから逃げ道を消す。
その間を歩かされていると、白い校舎の廊下なのに、もうトリニティの中にいる気がしなかった。
少し前まで、同じ白い壁の向こうに補習授業部の教室があった。
コハルが赤点の答案を握って叫んでいた。
ヒフミさんが困ったように笑っていた。
ハナコさんがわざと変なことを言って、先生が咳払いしていた。
アズサさんは答案を折らずにしまっていた。
その全部が、廊下の曲がり角をひとつ越えるたびに遠くなる。
戻れる距離のはずなのに。
戻れない。
「止まれ」
サオリさんの声で、全員の足が止まった。
前方の廊下を、生徒が二人歩いている。こちらには気づいていない。笑いながら、中央校舎の方へ曲がっていった。
息を止めていたことに、遅れて気づいた。
サオリさんは少しだけ待ち、足音が完全に消えてから、別の扉へ向かった。
古い倉庫の扉に見える。
鍵はかかっているはずだった。
でも、サオリさんが何か小さな道具を差し込むと、扉はほとんど音を立てずに開いた。
そこから先は、使われていない連絡通路だった。
床の石は少し湿っていて、壁には古い配管がむき出しになっている。照明は一部しか生きておらず、ところどころ薄暗い。トリニティの白さが、ここでは灰色に沈んでいた。
こんな場所があったことを、私は知らなかった。
救護騎士団の避難経路資料にも、たぶん載っていない。
載っていたとしても、今の私は確認できない。
端末はない。
救護バッグもない。
手も使えない。
その事実が、じわじわと体の奥へ入ってくる。
「ヒヨリ、壁側」
「はい……」
「ミサキ、後ろ」
「いる」
「捕虜は中央」
捕虜。
その言葉で、背中が冷えた。
分かっていた。
でも、名前を付けられると違う。
私は捕虜になった。
トリニティの校舎の中で。
救護バッグを持っていたはずの帰り道で。
言葉が出なかった。
サオリさんは、こちらを見ないまま続ける。
「逃げようとするな。大声を出すな。通路を覚えようとするな」
通路を覚えようとしていたわけではない。
でも、言われた瞬間、見ていた壁の割れ目や配管の位置が急に意味を持ってしまって、私は視線を落とした。
床。
濡れた石。
ヒヨリさんの足。
そちらを見てしまう。
ヒヨリさんの歩き方は、少しずつ悪くなっていた。最初よりも右足を置く時間が短い。かばっているせいで左足にも余計な力が入っている。走らせない経路に変えたからといって、歩けば痛む。
言いたい。
でも、今の私が言えば、余計な口出しになる。
ミサキさんが近くにいる。
黒髪の隙間から、首元の包帯が見えた。
白い包帯。
ヒヨリさんの足と同じくらい、目がそこに引っかかる。
「また見てる」
背後から声が落ちた。
私はすぐに視線を戻した。
「……すみません」
「救護騎士団って、そういう目をするんだ」
何も答えられなかった。
そういう目。
どんな目だったのだろう。
見つけた、と思った目。
放っておけない、と思った目。
触れたい、と思った目。
どれも言えない。
「やめた方がいいよ」
ミサキさんの声は、平らだった。
「何を、ですか」
聞いてから、すぐに後悔した。
ミサキさんは少しだけ間を置く。
「私たちを助けられると思うこと」
返事ができなかった。
その言葉は、銃口より静かに入ってきた。
助けられると思うこと。
思っている。
たぶん、私はまだ思っている。
ヒヨリさんの足。
ミサキさんの包帯。
サオリさんの、迷いのない銃の構え。
見てしまう。
考えてしまう。
でも、今の私の手首は後ろで縛られている。
助けるどころか、転んだら自分の顔すら庇えない。
通路の奥に、小さな階段があった。
サオリさんが先に降りる。
ヒヨリさんが続こうとして、少しだけ止まった。
言葉が出そうになる。
段差は危ない。
右足を先に出したら痛む。
でも、私が言う前に、ミサキさんが動いた。
「肩」
「だ、大丈夫です……」
「いいから」
短く言って、ミサキさんは自分の肩をヒヨリさんの方へ出した。
ヒヨリさんは一瞬迷って、それから小さく手を置いた。
「すみません……」
「今それ何回目」
「すみませ……あ」
「言わなくていい」
冷たいような声だった。
けれど、ミサキさんはヒヨリさんの歩幅に合わせて階段を降りた。急かさない。手を引くわけでもない。ただ、崩れた時に支えられる位置にいる。
私はその後ろを降りる。
手が使えない階段は、思ったより怖かった。足元を見ると前の二人が見えなくなる。前を見ると段差を踏み外しそうになる。肩に入った力が、首の奥まで固まっていく。
「遅い」
サオリさんの声。
私は息を飲む。
「……すみません」
「転ぶな。音が出る」
それだけ。
心配ではない。
でも、落ちたら困るとは思われている。
それが妙に、現実的で怖かった。
階段を降りきると、空気がさらに冷えた。
地下に近い場所なのか、壁が湿っている。外の夕方の光はもう届かない。古い照明が、細く白い光を落としているだけだった。
サオリさんが一度、後ろを確認する。
「あと少しだ」
誰に向けた言葉なのか分からなかった。
ヒヨリさんは小さく頷いた。
ミサキさんは返事をしない。
私は、ただ歩く。
あと少し。
どこへ。
誰にも聞けなかった。
最後の扉は、外から見ればただの物置だった。
サオリさんが合図をする。中から、かすかに金属が動く音がして、扉が開いた。
暗い部屋だった。
倉庫を改造したような場所。古い棚、畳まれた布、壁際に積まれた箱。中央には小さな灯りがひとつだけ置かれている。
その灯りの奥に、もう一人いた。
座っていた。
こちらを見ているのに、逃げるでも構えるでもない。サオリさんたちとは違う静けさだった。ヒヨリさんのように怯えてもいない。ミサキさんのように冷たく突き放しているわけでもない。
ただ、そこにいる。
そのこと自体が、少し不思議だった。
「姫……」
ヒヨリさんが小さく言った。
姫。
その呼び方だけが、暗い部屋の中で少し浮いて聞こえた。
奥にいた子は、ヒヨリさんの足を見た。
視線が、ほんの少しだけ下がる。
それだけ。
「怪我?」
静かな声だった。
「軽い。移動はできる」
サオリさんが答える。
「捕まえたの?」
「目撃者だ。救護騎士団員。しばらく拘束する」
しばらく。
胸の奥が冷える。
いつまで、とは言わなかった。
姫と呼ばれた子は、私を見た。
顔の半分を覆うような布の奥から、静かな目だけがこちらを見ている。感情が読めない。けれど、何も考えていない目ではなかった。
「そう」
それだけ言って、彼女は少し横へずれた。
場所を空けたのだと、少し遅れて分かった。
サオリさんが私を部屋の中央へ立たせる。
「座れ」
床に座るしかなかった。
手首は後ろのまま。腰を下ろす時、バランスを崩しかける。膝をついて、何とか座った。
情けない。
でも、今はそれどころではなかった。
ミサキさんが救護バッグから抜き取った包帯と固定具を床に置いた。
「ヒヨリ、足」
「は、はい……」
ヒヨリさんは壁際に座る。
ミサキさんがその前にしゃがむ。サオリさんは扉の近くで外の気配を見ていた。姫と呼ばれた子は、灯りの横に座ったまま、黙って見ている。
手際は悪くない。
ミサキさんは、怪我を見慣れている。
でも、足首の固定は少し甘かった。歩く分には今より良くなるかもしれない。けれど、長く歩けばずれる。腫れが進めば、巻き直しが必要になる。
言わない方がいい。
そう思った。
捕虜が口を出すことじゃない。
今は黙っていた方がいい。
それに、ミサキさんの手つきは乱暴ではない。最低限は分かっている。
でも。
ヒヨリさんが、包帯が締まった瞬間、ほんの少しだけ息を詰めた。
声は出さなかった。
私は口を開いていた。
「……そこ」
部屋の空気が止まった。
ミサキさんの手が止まる。
サオリさんがこちらを見る。
姫と呼ばれた子も、静かにこちらを見た。
私は喉の奥が詰まるのを感じた。
言った。
言ってしまった。
「何」
ミサキさんの声。
責めているわけではない。けれど、許している声でもない。
「そのままだと、歩いた時にずれます」
自分の声が少し震えていた。
ミサキさんは包帯を見た。
サオリさんは黙っている。
灯りの小さな音だけが聞こえた。
「続けろ」
サオリさんが言った。
命令だった。
許可ではない。
でも、言える。
私は座ったまま、ヒヨリさんの足元を見た。
「足首の外側をもう少し押さえてください。そこが動くと、また痛みが出ます。強く締めすぎると腫れた時に悪くなるので、指が一本入るくらいで」
ミサキさんは無言で巻き直した。
手つきが少しだけ変わる。
見ている。
聞いている。
それが分かる。
「固定具は、内側じゃなくて外側に。今の傷はたぶん外に倒した時のものなので」
「たぶん?」
「歩き方と腫れ方です」
「見ただけで?」
ミサキさんの目がこちらへ向く。
怖い。
でも、これは答えられる。
「救護騎士団なので」
ミサキさんは何も言わなかった。
サオリさんも。
ヒヨリさんが、小さくこちらを見た。
「……すみません」
今度は、私に向けられていた。
返事をしようとして、やめた。
大丈夫です、と言いそうになった。
でも、今それを言うのは少し違う気がした。
「足、動かさないでください」
代わりにそう言った。
ヒヨリさんは、少し驚いたように瞬きをして、それから小さく頷いた。
「はい……」
処置が終わると、ミサキさんは余った包帯をまとめた。
救護バッグは部屋の端に置かれる。私の手の届かない場所。
サオリさんが近づいてきた。
銃は下げている。けれど、やっぱり安心はできない。
「今後、許可なく口を出すな」
「……はい」
「必要なら聞く」
それだけ言って、サオリさんは少し離れた。
必要なら。
私は、その言葉を胸の中で繰り返した。
信頼ではない。
利用できる知識がある、というだけ。
でも、ヒヨリさんの包帯は、さっきよりずれにくくなっている。
それだけで、少しだけ息ができた。
姫と呼ばれた子が、いつの間にか少し近くにいた。
近づいた音がしなかった。
私は肩を揺らす。
彼女はしゃがまない。
少し離れた位置から、こちらを見下ろしている。
「怖い?」
静かな声だった。
からかっている感じはしなかった。
慰めている感じもなかった。
ただ、聞いただけ。
だから余計に、すぐ答えられなかった。
怖い。
もちろん怖い。
手首は拘束されている。端末は取られた。救護バッグもない。目の前には銃を持った人たちがいて、私はここがどこなのかも分からない。
でも、怖いです、と素直に言うのも違った。
私は顔を上げた。
「……怖くないと思いますか」
声は小さかった。
でも、消えなかった。
姫と呼ばれた子は、少しだけ瞬きをした。
サオリさんがこちらを見た気配がした。
ミサキさんも、たぶん聞いていた。
ヒヨリさんは包帯の巻かれた足を見たまま、息を詰めている。
「思わない」
姫と呼ばれた子が言った。
「なら、聞かないでください」
言ってから、胸が強く鳴った。
言いすぎたかもしれない。
でも、謝らなかった。
怖い。
怖いけれど、怖いから何もかも小さくなるわけじゃない。
私の手は縛られている。
銃口を向けられたら動けない。
サオリさんにも、ミサキさんにも、たぶん力では勝てない。
それでも。
怖くないと思いますか。
そのくらいは、言えた。
姫と呼ばれた子は、怒らなかった。
「そう」
ただ、それだけ。
そして少しだけ視線を下げる。
「アツコ」
「え?」
「名前」
短い説明。
私は一拍遅れて頷いた。
「……アツコさん」
そう呼ぶと、アツコさんは何も言わなかった。
嫌がっているようには見えない。
でも、喜んでいるようにも見えない。
サオリさんが低く言った。
「姫、近づきすぎるな」
「うん」
アツコさんは素直に一歩下がった。
そのやり取りだけで、この人がただ守られているだけではないことと、それでもサオリさんたちが特別に扱っていることが少し分かった。
姫。
アツコさん。
どちらの呼び方も、この部屋では同じ人に向けられている。
でも、同じ意味には聞こえなかった。
サオリさんは扉の方へ戻り、ミサキさんは押収した端末を確認している。ヒヨリさんは足を伸ばしたまま、まだ少し落ち着かない顔をしていた。アツコさんは灯りの横に戻り、こちらを見るでもなく、見ていないでもなく、静かに座っている。
私は床に座ったまま、後ろで縛られた手首を少しだけ動かした。
抜けない。
当然だった。
誰にも連絡できない。
先生にも。
ミネ団長にも。
ヒフミさんにも、コハルにも。
補習授業部にも。
そう思った瞬間、胸の奥が冷たくなった。
けれど、目の前ではヒヨリさんの足首に新しい包帯が巻かれていて、ミサキさんの手首にも白い包帯が見えていた。
見ない方がいい。
今は、見ても何もできない。
それでも私は、目を逸らせなかった。