戦えない私がキヴォトス中の生徒に執着されるまで   作:Zuzuiikb

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第8話 包帯の白

 

 

 隠れ家の中は、外よりも冷えていた。

 

 地下に近いせいなのか、壁の奥に湿気が残っている。古い棚の木の匂いと、鉄の匂いと、薄く乾いた布の匂いが混じっている。トリニティの校舎の中にいるはずなのに、ここだけ切り取られて、知らない場所へ沈められたみたいだった。

 

 私は床に座らされていた。

 

 手首は後ろで拘束されたまま。

 救護バッグは、部屋の端。

 端末はミサキさんの手元。

 

 少し離れたところで、ヒヨリさんが足を伸ばして座っている。巻き直した包帯はさっきよりずれにくくなっているはずだけど、歩けばまた少し痛むと思う。腫れが強くなる前に、ちゃんと冷やして、固定して、しばらく負荷を減らした方がいい。

 

 そこまで考えて、息を止める。

 

 今の私が考えても、できることは少ない。

 

 それでも、見てしまう。

 

「ミサキ、端末は」

 

「電源は落とした。通信は切ってる」

 

 ミサキさんは短く答えて、私の端末を古い箱の上に置いた。黒い髪が頬にかかって、目元が少し隠れる。その手首に巻かれた白い包帯が、灯りに浮いた。

 

 見ない方がいい。

 

 そう思った時には、もう見ていた。

 

 包帯の端が少しずれている。肌に当たる部分が古くなって、何度も巻き直したように端が毛羽立っている。その奥に、薄い線のような痕が重なって見えた。事故でできた傷には見えなかった。

 

 喉が詰まる。

 

 聞いてはいけない。

 

 今ここで、聞ける立場じゃない。

 それに、聞かれたい傷にも見えなかった。

 

 ミサキさんの目がこちらを向いた。

 

「何」

 

「……いえ」

 

 ミサキさんは何も続けなかった。包帯を隠すでもなく、こちらへ見せるでもなく、ただ興味を失ったみたいに視線を外す。

 

 その仕草の方が、胸に残った。

 

 サオリさんは扉の近くで外の気配を確認していた。アツコさんは灯りのそばに座っている。ヒヨリさんは何度も自分の足を見て、でも触らずにいる。

 

 誰も大きな声を出さない。

 

 補習授業部の教室とは、音の数が違った。

 

「装備を下ろす」

 

 サオリさんが言った。

 

 ミサキさんが小さく頷く。ヒヨリさんも慌てて体を起こしかけて、足の痛みで少しだけ顔を歪めた。

 

「ヒヨリは座っていろ」

 

「で、でも」

 

「足を使わせないために座らせている」

 

「……はい」

 

 サオリさんの声は厳しい。

 でも、理由がある。

 

 ヒヨリさんはそれ以上言わなかった。

 

 サオリさんが肩にかけていた装備を外す。金具が鈍い音を立てた。続けて、汚れた上着を脱ぐ。濡れているわけではないけれど、埃と土がついていて、ところどころ布が擦り切れていた。

 

 見ないようにしようと思った。

 

 捕虜がじろじろ見るものじゃない。

 またミサキさんに言われる。

 サオリさんの銃は近くにある。

 

 でも、見えてしまった。

 

 肩口から上腕にかけて、布の下に隠れていた傷があった。新しい擦過傷。少し深い切り傷も混じっている。血は止まっているけれど、当てられていた布はずれていて、乾いた血と汚れが周りに残っていた。

 

 止血はしてある。

 

 でも、それだけ。

 

 消毒が足りない。布も替えた方がいい。肩を動かすたびに傷の端が引っ張られて、また開くかもしれない。こんなの、処置じゃない。ただ、動けるように塞いだだけだ。

 

 心臓が、嫌な速さで鳴る。

 

 ヒヨリさんの足とは違う。

 

 今、目の前で見えている。

 このまま放っておけば悪くなると分かる。

 分かってしまった。

 

 私は膝を動かしていた。

 

 立ち上がったつもりはなかった。

 

 ただ、近づかなければと思った。

 

 次の瞬間、肩に強い力がかかった。

 

 床が近くなる。

 

 手首の拘束が後ろで引かれて、息が詰まった。膝が石の床に当たる。痛みより先に、体が固まる。

 

「動くな」

 

 サオリさんの声。

 

 低くて、近い。

 

 ミサキさんが私の肩を押さえていた。いつの間に動いたのか分からなかった。上から体重をかけられているわけではないのに、起き上がれない。手首は後ろ。肩は押さえられている。顔を上げる角度も限られている。

 

 息が浅くなる。

 

 やめて。

 

 その言葉が喉まで来て、出なかった。

 

 この人たちは知らない。

 

 私が何を思い出すかなんて、知らない。

 急に動いた捕虜を止めただけ。

 当たり前のことをしただけ。

 

 だから、余計に何も言えなかった。

 

「命令なしに立つな」

 

 サオリさんが言う。

 

「次はもっと強く止める」

 

 声は荒くなかった。

 

 だから怖かった。

 

 私は床の冷たさを膝で感じながら、何とか息を吸った。

 

 怖い。

 

 怖いのに、まだ見えている。

 

 サオリさんの肩口。

 汚れた布。

 乾いた血の端。

 動くたびに引きつる傷。

 

「……その傷」

 

 声が震えた。

 

 ミサキさんの手が、少しだけ動いた。

 

「何」

 

「布を、替えないと」

 

 部屋が静かになった。

 

 自分でも、どうして最初にそれが出たのか分からなかった。

 

 怖い。

 押さえつけられている。

 動けない。

 

 でも、傷が見える。

 

「今それ言う?」

 

 ミサキさんの声は冷たかった。

 

 私は床を見たまま、続けた。

 

「汚れが残ってます。動くたびに開くかもしれません。消毒して、固定の仕方を変えた方がいいです」

 

「捕虜に言われる筋合いない」

 

「分かってます」

 

 言ってから、喉が詰まる。

 

 分かっている。

 分かっているけど。

 

「でも、そのままは駄目です」

 

 言い切った瞬間、ミサキさんの手に少し力が入った。

 

 息が止まりかける。

 

 サオリさんがこちらを見下ろしていた。

 

 青みを帯びた髪の下の目は、変わらず鋭い。怒っているというより、測っている目だった。私が何をしようとしているのか。危険なのか。使えるのか。邪魔なのか。

 

 そういう目。

 

「ミサキ」

 

 サオリさんが言った。

 

 ミサキさんの手はまだ私の肩にある。

 

「離すな。起こせ」

 

「ん」

 

 肩を押さえられたまま、体を起こされる。

 

 床から離れた瞬間、膝の力が抜けそうになった。情けないくらい、体が震えている。怖いのがばれたと思う。たぶん、ばれている。

 

 でも、サオリさんの傷はまだ見えていた。

 

「手は使わせない」

 

 サオリさんが言う。

 

「指示だけしろ」

 

 許可ではなかった。

 

 命令だった。

 

 それでも、息が少しだけ通る。

 

「……はい」

 

 声が小さくなった。

 

 ミサキさんは私の後ろに立ったまま。逃げればすぐ押さえられる距離だった。サオリさんは古い箱の上に腰を下ろし、傷のある肩をこちらへ向ける。嫌そうな顔はしない。ただ、時間を使うこと自体が無駄だと言いたげだった。

 

 ヒヨリさんは青い顔でこちらを見ていた。

 

「サオリ、私の足はもう」

 

「黙って座っていろ」

 

「でも……」

 

「お前の足も後で見る。今は動かすな」

 

 ヒヨリさんは口を閉じる。

 

 その横で、アツコさんが静かに包帯の束を取った。何も言わずに、ミサキさんへ渡す。ミサキさんは受け取り、消毒液と清潔な布を並べた。

 

 慣れている。

 

 たぶん、こういう処置を何度もしてきた。

 でも、それがちゃんとした処置だったとは限らない。

 

「まず、古い布を外してください」

 

 ミサキさんが私を見る。

 

「誰に言ってる?」

 

「……ミサキさんに」

 

「サオリの傷でしょ」

 

「私の手が使えないので」

 

 ミサキさんは少しだけ目を細めた。

 

 それ以上は言わず、サオリさんの肩口の布を外す。

 

 布が剥がれる時、サオリさんの指がわずかに動いた。

 

 顔は変わらない。

 

 でも、痛くないわけがない。

 

 傷口が見える。

 

 思ったより深い。裂けたようなものではないけれど、表面が広く擦れて、端に砂のような汚れが残っている。周りの皮膚が赤くなっている。ちゃんと洗えていない。

 

 私は奥歯を噛んだ。

 

 怒ってはいけない。

 ここで怒っても、何も変わらない。

 

「水はありますか。清潔なもの」

 

 アツコさんが立ち上がり、棚の下から容器を出した。

 

 サオリさんが少しだけ視線を動かす。

 

「姫」

 

「これ」

 

「重いものは持つな」

 

「重くない」

 

 アツコさんはそう言って、容器をミサキさんの近くに置いた。

 

 短いやり取りだった。

 

 でも、サオリさんの声がほんの少しだけ違った。命令ではある。けれど、私に向けたものとは温度が違う。

 

 ミサキさんが布を濡らす。

 

「拭けばいいの」

 

「こすらないでください。汚れを浮かせる感じで。傷の中に押し込まないように」

 

「注文多い」

 

「治療とはそういうものです」

 

 ミサキさんの手が止まった。

 

 少しだけ、こちらを見る。

 

 私は目を逸らしそうになって、やめた。

 

「必要なので」

 

 ミサキさんは何も言わず、布を動かした。

 

 サオリさんは黙っている。肩の筋肉が少しだけ強張る。青みの髪が頬に落ちても、払わない。

 

 痛いはずなのに。

 

 たぶん、痛い顔をすることに意味がない場所で生きてきた人の顔だ。

 

「そこ、もう少し」

 

 言いかけて、止まる。

 

 ミサキさんの手首が見えた。

 

 袖口から包帯が少しずれて、下の痕がさっきよりはっきり見えた。細い線がいくつも重なっている。古いものも、新しいものも混じっているように見える。

 

 息が止まる。

 

 言ってはいけない。

 

 でも、見てしまった。

 

 ミサキさんが気づいた。

 

「今度は何」

 

「……」

 

「言えば」

 

 声は平らだった。

 

 言えば、というより、言ってみれば、に近かった。

 

 私は一度、サオリさんの傷へ視線を戻した。

 

「今は、サオリさんの傷です」

 

 ミサキさんは少しだけ黙った。

 

 それから、小さく息を吐く。

 

「変なの」

 

 その言葉に、何も返せなかった。

 

 処置は続いた。

 

 汚れを落とし、傷の周囲を拭き、清潔な布を当てる。固定は肩の動きでずれないように、でも締めすぎないように。ミサキさんは文句を言いながらも、指示を聞いた。サオリさんは最後まで一度も声を上げなかった。

 

 ヒヨリさんはずっと落ち着かなさそうにしている。

 

「ヒヨリさん」

 

 呼ぶと、彼女はびくっとした。

 

「は、はい……」

 

「足、痛み強くなってませんか」

 

「だ、大丈夫です」

 

 サオリさんがヒヨリさんを見る。

 

 ヒヨリさんはすぐに目を伏せた。

 

「……少しだけ」

 

「最初からそう言え」

 

「すみません……」

 

「謝るな。足を出せ」

 

 サオリさんは自分の処置が終わったばかりなのに、もう立とうとした。

 

「動かないでください」

 

 言ってしまった。

 

 部屋の空気がまた止まる。

 

 サオリさんの目が、こちらへ向く。

 

 怖い。

 

 でも、今のは言わないと駄目だった。

 

「肩、今処置したばかりです。動かすなら、せめて布がずれないようにしてください」

 

 サオリさんは黙っていた。

 

 ミサキさんが少しだけ笑ったように見えた。笑ったというより、息が漏れただけかもしれない。

 

 でも、サオリさんは立たなかった。

 

 その代わり、ミサキさんに指示を出す。

 

「ヒヨリを見ていろ」

 

「見てる」

 

 ミサキさんはヒヨリさんの足元へ移動した。

 

 アツコさんがまた、必要なものを静かに渡す。包帯、布、水。言われる前に出てくる。それを受け取るミサキさんも、特に礼は言わない。

 

 でも、流れは途切れない。

 

 この人たちは、こうやってずっと繋いできたのだと思った。

 

 きれいな言葉はない。

 優しい声も少ない。

 でも、誰かが怪我をすれば、誰かが道具を取る。誰かが支える。誰かが周囲を見る。

 

 それが当たり前みたいにある。

 

 私には怖い人たちなのに。

 

 そこだけは、目を逸らせなかった。

 

 ヒヨリさんの足の処置が終わる頃には、部屋の灯りが少し暗く感じられた。

 

 時間が経ったのか、私が疲れただけなのか分からない。

 

 手首はまだ後ろ。肩には、さっき押さえられた感触が残っている。床に膝をついた時の冷たさも、まだ消えていない。

 

 怖かった。

 

 今も怖い。

 

 でも、サオリさんの傷は清潔な布で覆われた。

 ヒヨリさんの足も、さっきよりはましになった。

 ミサキさんの手首は、まだそのまま。

 

 そこだけが、胸に残る。

 

 ミサキさんが救護道具をまとめようとした時、私は小さく息を吸った。

 

「ミサキさん」

 

 黒髪の生徒がこちらを見た。

 

「何」

 

 短い声。

 

 怖い。

 

 でも、呼んでしまった。

 

「その包帯も、替えた方がいいです」

 

 ミサキさんの目が少しだけ細くなる。

 

 サオリさんもこちらを見た。

 

 ヒヨリさんが息を詰める。

 

 アツコさんは、何も言わずに灯りのそばでこちらを見ている。

 

「見なかったことにすればよかったのに」

 

 ミサキさんが言った。

 

 その声には怒りがなかった。

 

 怒りがないのが、かえって苦しい。

 

 私は手首を動かしかけて、拘束が鳴る音で止まった。

 

「できませんでした」

 

「救護騎士団って面倒だね」

 

「……私も、そう思います」

 

 ミサキさんは少しだけ黙った。

 

 そして、視線を逸らした。

 

「後で」

 

 それだけ。

 

 拒絶ではない。

 許可でもない。

 

 でも、完全に閉じられたわけではなかった。

 

 私はそれ以上言わなかった。

 

 言えなかった。

 

 手は使えない。

 救護バッグも返されない。

 私はまだ捕虜で、この人たちは私を信用していない。

 

 それでも、サオリさんの傷に清潔な布が当てられて、ヒヨリさんの包帯が巻き直されて、ミサキさんが一度だけ「後で」と言った。

 

 その小さな変化だけで、息をつなぐ。

 

 怖い。

 帰りたい。

 

 でも、見てしまった傷を、何もなかったことにはできなかった。

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