戦えない私がキヴォトス中の生徒に執着されるまで 作:Zuzuiikb
隠れ家の中は、外よりも冷えていた。
地下に近いせいなのか、壁の奥に湿気が残っている。古い棚の木の匂いと、鉄の匂いと、薄く乾いた布の匂いが混じっている。トリニティの校舎の中にいるはずなのに、ここだけ切り取られて、知らない場所へ沈められたみたいだった。
私は床に座らされていた。
手首は後ろで拘束されたまま。
救護バッグは、部屋の端。
端末はミサキさんの手元。
少し離れたところで、ヒヨリさんが足を伸ばして座っている。巻き直した包帯はさっきよりずれにくくなっているはずだけど、歩けばまた少し痛むと思う。腫れが強くなる前に、ちゃんと冷やして、固定して、しばらく負荷を減らした方がいい。
そこまで考えて、息を止める。
今の私が考えても、できることは少ない。
それでも、見てしまう。
「ミサキ、端末は」
「電源は落とした。通信は切ってる」
ミサキさんは短く答えて、私の端末を古い箱の上に置いた。黒い髪が頬にかかって、目元が少し隠れる。その手首に巻かれた白い包帯が、灯りに浮いた。
見ない方がいい。
そう思った時には、もう見ていた。
包帯の端が少しずれている。肌に当たる部分が古くなって、何度も巻き直したように端が毛羽立っている。その奥に、薄い線のような痕が重なって見えた。事故でできた傷には見えなかった。
喉が詰まる。
聞いてはいけない。
今ここで、聞ける立場じゃない。
それに、聞かれたい傷にも見えなかった。
ミサキさんの目がこちらを向いた。
「何」
「……いえ」
ミサキさんは何も続けなかった。包帯を隠すでもなく、こちらへ見せるでもなく、ただ興味を失ったみたいに視線を外す。
その仕草の方が、胸に残った。
サオリさんは扉の近くで外の気配を確認していた。アツコさんは灯りのそばに座っている。ヒヨリさんは何度も自分の足を見て、でも触らずにいる。
誰も大きな声を出さない。
補習授業部の教室とは、音の数が違った。
「装備を下ろす」
サオリさんが言った。
ミサキさんが小さく頷く。ヒヨリさんも慌てて体を起こしかけて、足の痛みで少しだけ顔を歪めた。
「ヒヨリは座っていろ」
「で、でも」
「足を使わせないために座らせている」
「……はい」
サオリさんの声は厳しい。
でも、理由がある。
ヒヨリさんはそれ以上言わなかった。
サオリさんが肩にかけていた装備を外す。金具が鈍い音を立てた。続けて、汚れた上着を脱ぐ。濡れているわけではないけれど、埃と土がついていて、ところどころ布が擦り切れていた。
見ないようにしようと思った。
捕虜がじろじろ見るものじゃない。
またミサキさんに言われる。
サオリさんの銃は近くにある。
でも、見えてしまった。
肩口から上腕にかけて、布の下に隠れていた傷があった。新しい擦過傷。少し深い切り傷も混じっている。血は止まっているけれど、当てられていた布はずれていて、乾いた血と汚れが周りに残っていた。
止血はしてある。
でも、それだけ。
消毒が足りない。布も替えた方がいい。肩を動かすたびに傷の端が引っ張られて、また開くかもしれない。こんなの、処置じゃない。ただ、動けるように塞いだだけだ。
心臓が、嫌な速さで鳴る。
ヒヨリさんの足とは違う。
今、目の前で見えている。
このまま放っておけば悪くなると分かる。
分かってしまった。
私は膝を動かしていた。
立ち上がったつもりはなかった。
ただ、近づかなければと思った。
次の瞬間、肩に強い力がかかった。
床が近くなる。
手首の拘束が後ろで引かれて、息が詰まった。膝が石の床に当たる。痛みより先に、体が固まる。
「動くな」
サオリさんの声。
低くて、近い。
ミサキさんが私の肩を押さえていた。いつの間に動いたのか分からなかった。上から体重をかけられているわけではないのに、起き上がれない。手首は後ろ。肩は押さえられている。顔を上げる角度も限られている。
息が浅くなる。
やめて。
その言葉が喉まで来て、出なかった。
この人たちは知らない。
私が何を思い出すかなんて、知らない。
急に動いた捕虜を止めただけ。
当たり前のことをしただけ。
だから、余計に何も言えなかった。
「命令なしに立つな」
サオリさんが言う。
「次はもっと強く止める」
声は荒くなかった。
だから怖かった。
私は床の冷たさを膝で感じながら、何とか息を吸った。
怖い。
怖いのに、まだ見えている。
サオリさんの肩口。
汚れた布。
乾いた血の端。
動くたびに引きつる傷。
「……その傷」
声が震えた。
ミサキさんの手が、少しだけ動いた。
「何」
「布を、替えないと」
部屋が静かになった。
自分でも、どうして最初にそれが出たのか分からなかった。
怖い。
押さえつけられている。
動けない。
でも、傷が見える。
「今それ言う?」
ミサキさんの声は冷たかった。
私は床を見たまま、続けた。
「汚れが残ってます。動くたびに開くかもしれません。消毒して、固定の仕方を変えた方がいいです」
「捕虜に言われる筋合いない」
「分かってます」
言ってから、喉が詰まる。
分かっている。
分かっているけど。
「でも、そのままは駄目です」
言い切った瞬間、ミサキさんの手に少し力が入った。
息が止まりかける。
サオリさんがこちらを見下ろしていた。
青みを帯びた髪の下の目は、変わらず鋭い。怒っているというより、測っている目だった。私が何をしようとしているのか。危険なのか。使えるのか。邪魔なのか。
そういう目。
「ミサキ」
サオリさんが言った。
ミサキさんの手はまだ私の肩にある。
「離すな。起こせ」
「ん」
肩を押さえられたまま、体を起こされる。
床から離れた瞬間、膝の力が抜けそうになった。情けないくらい、体が震えている。怖いのがばれたと思う。たぶん、ばれている。
でも、サオリさんの傷はまだ見えていた。
「手は使わせない」
サオリさんが言う。
「指示だけしろ」
許可ではなかった。
命令だった。
それでも、息が少しだけ通る。
「……はい」
声が小さくなった。
ミサキさんは私の後ろに立ったまま。逃げればすぐ押さえられる距離だった。サオリさんは古い箱の上に腰を下ろし、傷のある肩をこちらへ向ける。嫌そうな顔はしない。ただ、時間を使うこと自体が無駄だと言いたげだった。
ヒヨリさんは青い顔でこちらを見ていた。
「サオリ、私の足はもう」
「黙って座っていろ」
「でも……」
「お前の足も後で見る。今は動かすな」
ヒヨリさんは口を閉じる。
その横で、アツコさんが静かに包帯の束を取った。何も言わずに、ミサキさんへ渡す。ミサキさんは受け取り、消毒液と清潔な布を並べた。
慣れている。
たぶん、こういう処置を何度もしてきた。
でも、それがちゃんとした処置だったとは限らない。
「まず、古い布を外してください」
ミサキさんが私を見る。
「誰に言ってる?」
「……ミサキさんに」
「サオリの傷でしょ」
「私の手が使えないので」
ミサキさんは少しだけ目を細めた。
それ以上は言わず、サオリさんの肩口の布を外す。
布が剥がれる時、サオリさんの指がわずかに動いた。
顔は変わらない。
でも、痛くないわけがない。
傷口が見える。
思ったより深い。裂けたようなものではないけれど、表面が広く擦れて、端に砂のような汚れが残っている。周りの皮膚が赤くなっている。ちゃんと洗えていない。
私は奥歯を噛んだ。
怒ってはいけない。
ここで怒っても、何も変わらない。
「水はありますか。清潔なもの」
アツコさんが立ち上がり、棚の下から容器を出した。
サオリさんが少しだけ視線を動かす。
「姫」
「これ」
「重いものは持つな」
「重くない」
アツコさんはそう言って、容器をミサキさんの近くに置いた。
短いやり取りだった。
でも、サオリさんの声がほんの少しだけ違った。命令ではある。けれど、私に向けたものとは温度が違う。
ミサキさんが布を濡らす。
「拭けばいいの」
「こすらないでください。汚れを浮かせる感じで。傷の中に押し込まないように」
「注文多い」
「治療とはそういうものです」
ミサキさんの手が止まった。
少しだけ、こちらを見る。
私は目を逸らしそうになって、やめた。
「必要なので」
ミサキさんは何も言わず、布を動かした。
サオリさんは黙っている。肩の筋肉が少しだけ強張る。青みの髪が頬に落ちても、払わない。
痛いはずなのに。
たぶん、痛い顔をすることに意味がない場所で生きてきた人の顔だ。
「そこ、もう少し」
言いかけて、止まる。
ミサキさんの手首が見えた。
袖口から包帯が少しずれて、下の痕がさっきよりはっきり見えた。細い線がいくつも重なっている。古いものも、新しいものも混じっているように見える。
息が止まる。
言ってはいけない。
でも、見てしまった。
ミサキさんが気づいた。
「今度は何」
「……」
「言えば」
声は平らだった。
言えば、というより、言ってみれば、に近かった。
私は一度、サオリさんの傷へ視線を戻した。
「今は、サオリさんの傷です」
ミサキさんは少しだけ黙った。
それから、小さく息を吐く。
「変なの」
その言葉に、何も返せなかった。
処置は続いた。
汚れを落とし、傷の周囲を拭き、清潔な布を当てる。固定は肩の動きでずれないように、でも締めすぎないように。ミサキさんは文句を言いながらも、指示を聞いた。サオリさんは最後まで一度も声を上げなかった。
ヒヨリさんはずっと落ち着かなさそうにしている。
「ヒヨリさん」
呼ぶと、彼女はびくっとした。
「は、はい……」
「足、痛み強くなってませんか」
「だ、大丈夫です」
サオリさんがヒヨリさんを見る。
ヒヨリさんはすぐに目を伏せた。
「……少しだけ」
「最初からそう言え」
「すみません……」
「謝るな。足を出せ」
サオリさんは自分の処置が終わったばかりなのに、もう立とうとした。
「動かないでください」
言ってしまった。
部屋の空気がまた止まる。
サオリさんの目が、こちらへ向く。
怖い。
でも、今のは言わないと駄目だった。
「肩、今処置したばかりです。動かすなら、せめて布がずれないようにしてください」
サオリさんは黙っていた。
ミサキさんが少しだけ笑ったように見えた。笑ったというより、息が漏れただけかもしれない。
でも、サオリさんは立たなかった。
その代わり、ミサキさんに指示を出す。
「ヒヨリを見ていろ」
「見てる」
ミサキさんはヒヨリさんの足元へ移動した。
アツコさんがまた、必要なものを静かに渡す。包帯、布、水。言われる前に出てくる。それを受け取るミサキさんも、特に礼は言わない。
でも、流れは途切れない。
この人たちは、こうやってずっと繋いできたのだと思った。
きれいな言葉はない。
優しい声も少ない。
でも、誰かが怪我をすれば、誰かが道具を取る。誰かが支える。誰かが周囲を見る。
それが当たり前みたいにある。
私には怖い人たちなのに。
そこだけは、目を逸らせなかった。
ヒヨリさんの足の処置が終わる頃には、部屋の灯りが少し暗く感じられた。
時間が経ったのか、私が疲れただけなのか分からない。
手首はまだ後ろ。肩には、さっき押さえられた感触が残っている。床に膝をついた時の冷たさも、まだ消えていない。
怖かった。
今も怖い。
でも、サオリさんの傷は清潔な布で覆われた。
ヒヨリさんの足も、さっきよりはましになった。
ミサキさんの手首は、まだそのまま。
そこだけが、胸に残る。
ミサキさんが救護道具をまとめようとした時、私は小さく息を吸った。
「ミサキさん」
黒髪の生徒がこちらを見た。
「何」
短い声。
怖い。
でも、呼んでしまった。
「その包帯も、替えた方がいいです」
ミサキさんの目が少しだけ細くなる。
サオリさんもこちらを見た。
ヒヨリさんが息を詰める。
アツコさんは、何も言わずに灯りのそばでこちらを見ている。
「見なかったことにすればよかったのに」
ミサキさんが言った。
その声には怒りがなかった。
怒りがないのが、かえって苦しい。
私は手首を動かしかけて、拘束が鳴る音で止まった。
「できませんでした」
「救護騎士団って面倒だね」
「……私も、そう思います」
ミサキさんは少しだけ黙った。
そして、視線を逸らした。
「後で」
それだけ。
拒絶ではない。
許可でもない。
でも、完全に閉じられたわけではなかった。
私はそれ以上言わなかった。
言えなかった。
手は使えない。
救護バッグも返されない。
私はまだ捕虜で、この人たちは私を信用していない。
それでも、サオリさんの傷に清潔な布が当てられて、ヒヨリさんの包帯が巻き直されて、ミサキさんが一度だけ「後で」と言った。
その小さな変化だけで、息をつなぐ。
怖い。
帰りたい。
でも、見てしまった傷を、何もなかったことにはできなかった。