戦えない私がキヴォトス中の生徒に執着されるまで   作:Zuzuiikb

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第9話 捕虜の夜

 

 

 サオリさんの肩に当てた布は、最初に巻かれていたものよりはずっと清潔だった。

 

 でも、応急処置であることに変わりはない。

 

 水も、道具も、場所も足りない。明かりも弱い。床は冷えていて、空気は湿っている。救護騎士団の処置室なら当たり前にあるものが、ここにはほとんどなかった。

 

 それでも、さっきよりはましになった。

 

 そのことだけを、私は何度も頭の中で確かめていた。

 

 サオリさんは、肩の布を一度だけ指で押さえた。痛みを確かめるような動きだったけれど、顔は変わらない。

 

「ずれるか」

 

 私に聞いているのだと気づくまで、少し遅れた。

 

「……激しく動けば、ずれます」

 

「普通に動く分には」

 

「しばらくは大丈夫だと思います。でも、汗をかいたり、布が汚れたりしたら替えてください。傷の周りも、もう一度確認した方がいいです」

 

「分かった」

 

 それだけ。

 

 ありがとう、とは言わない。

 

 言ってほしいわけではなかった。むしろ言われたら、どう返せばいいか分からない。私は捕虜で、サオリさんは私を連れてきた人で、さっきまで銃口を向けられていた。

 

 でも、処置について聞かれた。

 

 それだけで、床に座ったまま少し呼吸が戻った。

 

「ヒヨリ」

 

 サオリさんが呼ぶ。

 

 ヒヨリさんはすぐ顔を上げた。

 

「は、はい」

 

「足を下ろすな。腫れが強くなる」

 

「……はい」

 

「眠るなら壁側に寄れ。足だけ冷やせ。体は冷やすな」

 

 言い方は硬い。

 

 でも、命令の中身は全部ヒヨリさんの足のことだった。

 

 ヒヨリさんは包帯の巻かれた足を少しだけ持ち上げて、壁際に畳まれた布の上へ置く。動くたびに申し訳なさそうにするのを、サオリさんは見ていたけれど、何も言わなかった。

 

 慰めない。

 

 でも、見ていないわけでもない。

 

 アツコさんが、棚の奥から薄い布を一枚取って、ヒヨリさんの近くに置いた。

 

「これ」

 

「あ、ありがとうございます、姫……」

 

「足、冷やさない方がいいんでしょ」

 

 アツコさんの視線がこちらへ向く。

 

 一瞬、返事を求められているのか分からなかった。

 

「……はい。冷やすなら患部だけで、体は冷やさない方がいいです」

 

「そう」

 

 アツコさんは頷いた。

 

 それだけで、また灯りの近くへ戻る。

 

 静かな人だった。

 

 敵意があるのか、ないのか。私をどう見ているのか。まだ全然分からない。

 

 でも、ヒヨリさんの足を見る目だけは、ちゃんとそこに止まっていた。

 

 ミサキさんは、救護道具をまとめ直していた。

 

 私の救護バッグから出されたもの。包帯、消毒液、布、簡易固定具。全部、私の手の届かない場所に置かれている。

 

 私のものだったはずなのに、もうそうではない。

 

 そう思った時、手首の拘束が少し鳴った。

 

 後ろで縛られたままの手首。長く同じ姿勢でいるせいで、肩が痛くなってきていた。痛いというより、奥の方が重く痺れるような感じだ。

 

 それでも、何も言わないでいた。

 

 言ったところで、外されるとは思えない。

 

 サオリさんがこちらを見た。

 

「手を前に回す」

 

 短く言われて、体が少し強張る。

 

「……え?」

 

「後ろのままだと、転んだ時に音が出る。処置にも使いにくい」

 

 優しさではない。

 

 理由は全部、任務と管理のためだった。

 

 でも、後ろの拘束が外される。

 

 サオリさんはミサキさんへ視線を向けた。

 

「ミサキ」

 

「ん」

 

 ミサキさんが近づいてくる。

 

 黒い髪が灯りを遮って、影が落ちた。手首に触れられる。冷たい指。慣れた手つき。結び目が解かれる間、私は息を止めていた。

 

 拘束が外れた瞬間、手が自分のものに戻ってくるような気がした。

 

 でも、すぐに前で縛り直される。

 

 逃げられるわけではない。

 

 それでも、前にあるだけで呼吸が違った。

 

 指先を少し動かす。

 

 痛い。

 でも動く。

 

「騒ぐな。必要があれば後ろに戻す」

 

 サオリさんが言う。

 

「逃走と判断される動きもするな」

 

 私は頷いた。

 

「……分かりました」

 

「食べられるか」

 

 急に聞かれて、顔を上げる。

 

「え?」

 

「食べられるかと聞いた」

 

 サオリさんの声は変わらない。

 

 私は少しだけ迷った。

 

 食べられるか、と聞かれれば、たぶん食べられる。お腹は空いていないと思っていたけれど、今日の補習授業部でお菓子を少し食べただけだったことを思い出すと、胃の奥が小さく縮んだ。

 

「……少しなら」

 

「姫」

 

 サオリさんが呼ぶ前に、アツコさんはもう棚へ手を伸ばしていた。

 

 小さな包みと、水の入った容器が私の前に置かれる。

 

 捕虜に食事。

 

 変な感じだった。

 

 ありがたい、と思うより先に、怖いと思った。何か入っているかもしれない、という怖さではなく、こういう最低限の扱いをされることで、自分がしばらくここに置かれるのだと分かってしまう怖さ。

 

 今だけではない。

 

 この夜だけでも、ないのかもしれない。

 

 包みを見つめたまま動けないでいると、ミサキさんが言った。

 

「食べないなら、しまう」

 

 声には本当に興味がなかった。

 

「食べます」

 

「そう」

 

 その言い方は冷たい。

 

 でも、片付けられる前に言ってくれた、とも思った。

 

 水を飲む。

 

 喉が、思ったより乾いていた。

 

 一口飲んだ瞬間、体の奥が少しだけ震えた。怖さで固まっていたものが、ほんの少し緩んだのだと思う。そうなると、余計に怖くなる。緩んだところから、今の状況が入り込んでくる。

 

 誰にも連絡できない。

 ここがどこかも分からない。

 補習授業部には戻れない。

 

 パンのようなものを小さく千切る。

 

 手首が前にあるだけで、食べられる。

 

 当たり前なのに、少し悔しかった。

 

「サオリ」

 

 ミサキさんが救護道具を片付けながら言う。

 

「端末、確認する?」

 

「後だ。今は通信を戻させなければいい」

 

「分かった」

 

 ミサキさんはそう言って、私の端末を箱の中へ入れた。蓋が閉まる音がする。

 

 小さな音だった。

 

 でも、思ったより胸に響いた。

 

 先生。

 

 ミネ団長。

 

 ヒフミさん、コハル。

 

 名前だけが浮かぶ。

 

 声は出なかった。

 

 ヒヨリさんが、こちらを見ていた。

 

 目が合うと、彼女はすぐに目を伏せる。

 

「……すみません」

 

 小さな声だった。

 

 サオリさんは何も言わなかった。ミサキさんは包帯を片付ける手を止めない。アツコさんは灯りのそばで静かに座っている。

 

 私に向けた謝罪なのだと、遅れて分かった。

 

「ヒヨリさんのせいではないです」

 

 言った瞬間、ヒヨリさんの肩が揺れた。

 

「でも……私が見つからなければ」

 

 声がだんだん小さくなる。

 

「私がちゃんと戻れていたら、あなたは……」

 

 そこで言葉が切れる。

 

 ヒヨリさんは何を言えばいいか分からない顔をしていた。謝りたい。でも、謝って済むことではない。たぶん、それも分かっている。

 

 私はパンの欠片を手元に置いた。

 

「怪我をしている人を見たら、たぶん同じことをしました」

 

「……でも」

 

「たぶん、じゃないです。同じことをします」

 

 ヒヨリさんが顔を上げる。

 

 泣きそうな顔だった。

 

 私は、言いながら自分でも怖くなった。

 

 同じことをする。

 

 そう言える自分が、少し怖い。

 

 だって、その結果がこれだ。

 

 手首は前で縛られている。端末は取られている。銃を持った人たちの中で、知らない夜を過ごそうとしている。

 

 それでも、あの通路に戻って、ヒヨリさんが足をかばっていたら。

 

 私はたぶん、声をかける。

 

 そういう自分を、もう否定できなかった。

 

「だから、ヒヨリさんのせいではないです」

 

 ヒヨリさんは何か言おうとして、言えなかった。

 

 代わりに、足元の包帯を見た。

 

「……変な人です」

 

 とても小さな声だった。

 

 責めているようには聞こえなかった。

 

 ミサキさんがそこで、少しだけこちらを見た。

 

「変なのは、そう」

 

 静かな声だった。

 

 からかう感じはない。ただ、見たものをそのまま言っただけみたいに。

 

「ミサキさんに言われると、少し複雑です」

 

 言ってから、しまったと思った。

 

 でもミサキさんは怒らなかった。

 

 黒い髪の隙間から、こちらを見る。

 

「怖いのに、まだそういうこと言うんだ」

 

 平らな声だった。

 

 言い返せなかった。

 

 怖いのは、本当だった。

 

 サオリさんが短く言う。

 

「ミサキ」

 

「分かってる」

 

 ミサキさんは視線を外した。

 

 サオリさんはそれ以上言わなかった。ただ、ミサキさんの手首へ一度だけ目を向ける。

 

 さっき私が言った包帯。

 

 ミサキさん自身は、まだ替えていない。

 

「ミサキ。その包帯を替えろ」

 

 サオリさんが言った。

 

 ミサキさんは、救護道具をまとめる手を止めなかった。

 

「後でいい」

 

「今だ。動きに支障が出る」

 

「出ない」

 

「私が判断する」

 

 ミサキさんは、少しだけ目を伏せた。

 

「……面倒」

 

「分かっている」

 

 サオリさんはそれだけ言って、私の方を見る。

 

「手を外す。処置の間だけだ」

 

 心臓が跳ねた。

 

 手。

 

 外す。

 

 さっき前に回されたばかりの手首に、意識が集まる。

 

「終われば戻す。必要なものだけ取れ。余計な動きはするな」

 

「……はい」

 

「ミサキ、横につけ」

 

「ん」

 

 ミサキさんが私の横に座る。

 

 近い。

 

 でも、こちらを見ていない。

 

 サオリさんが拘束を解いた。

 

 両手が自由になる。

 

 たったそれだけで、肩の奥に溜まっていた息が抜けた。指を開く。少し痛い。震えている。

 

 サオリさんはそれを見たけれど、何も言わなかった。

 

「道具は必要なものだけ取れ」

 

「はい」

 

 救護バッグに手を伸ばす。

 

 自分のバッグなのに、借り物みたいだった。

 

 包帯。清潔な布。消毒液。

 

 ミサキさんは袖を少し上げた。

 

 古い包帯が見える。端がずれて、肌に食い込んだ跡が残っていた。その下に、薄い線のような痕が重なっている。

 

 息が詰まる。

 

 でも、ここで止まったら、きっともう見せてもらえない。

 

「触ります」

 

 ミサキさんは視線だけをこちらへ向けた。

 

「言わなくていい」

 

「言います」

 

「……好きにすれば」

 

 古い包帯を外す。

 

 肌が赤くなっている。擦れているところもある。傷そのものより、放っておかれた時間の方が苦しかった。

 

「痛かったら、言ってください」

 

「意味ない」

 

「手を緩められます」

 

「痛いのは変わらない」

 

「変わります」

 

 ミサキさんは黙った。

 

 怒ったようには見えない。

 

 ただ、何かを諦めた人の目だった。

 

「……そういうの、よく分からない」

 

 小さな声だった。

 

「何がですか」

 

「痛いのを少なくすること」

 

 私は手を止めそうになって、止めなかった。

 

 止めたら、この人は手を引く気がした。

 

「少なくできるなら、少ない方がいいです」

 

「そう」

 

 ミサキさんは短く返した。

 

 それだけ。

 

 でも、その「そう」は、拒絶ではなかった。

 

 私は布を当てて、汚れを拭いた。きつく巻かれていた跡を避けて、新しい包帯を重ねる。締めすぎないように、でもずれないように。

 

 サオリさんは黙って見ていた。

 

 ヒヨリさんは足を上げたまま、時々こちらを見て、すぐに視線を落とす。アツコさんは灯りのそばで、必要なものがあればすぐ渡せる位置にいた。

 

「痛い方がいい時もある」

 

 ミサキさんが、小さく言った。

 

 部屋の中が静かになる。

 

 私は、布を持つ指に力が入りそうになって、慌てて緩めた。

 

 怒ってはいけない。

 

 でも、怒らないのも違う。

 

「……そういう言い方、悲しいです」

 

 声が震えた。

 

 ミサキさんがこちらを見る。

 

「嫌なんだ」

 

「はい」

 

「じゃあ、どう言えばいいの」

 

「分かりません」

 

「なら同じ」

 

「同じじゃないです」

 

 今度は、すぐに出た。

 

 ミサキさんの目が少しだけ動く。

 

 私も、自分で少し驚いた。

 

「同じじゃないです。痛いのがあることと、痛くていいって言うことは、同じじゃない」

 

 言い終えてから、息が詰まった。

 

 言いすぎた。

 

 捕虜なのに。

 何も知らないのに。

 私はこの人たちの何を知っているわけでもないのに。

 

 ミサキさんは黙っていた。

 

 サオリさんも、何も言わない。

 

 ヒヨリさんは俯いている。

 アツコさんは灯りのそばで、じっとこちらを見ていた。

 

 長い沈黙のあと、ミサキさんが言った。

 

「……怖いのに、うるさい」

 

 責めているというより、ただ不思議そうだった。

 

「すみません」

 

「謝るところじゃない」

 

 ミサキさんは視線を落とす。

 

「たぶん」

 

 その「たぶん」は、とても小さかった。

 

 私はそれ以上踏み込まなかった。

 

 包帯を巻く。

 

 きつすぎないように。

 緩すぎないように。

 古い痕に重ねすぎないように。

 

 できることだけをする。

 

「終わりました」

 

 ミサキさんは新しい包帯を見た。

 

「きれい」

 

 ぽつりと言う。

 

 皮肉かと思った。

 

 でも、少し違った。

 

「布が汚れたり、締め付けが変わったら替えてください」

 

「替えるものがあれば」

 

「なくなる前に言ってください」

 

「言ってどうするの」

 

「探します」

 

「捕虜なのに?」

 

「捕虜でも、見たので」

 

 ミサキさんは少しだけ黙った。

 

「……変なの」

 

 今度の声は、さっきより小さかった。

 

 サオリさんが近づいてきて、私の手首をもう一度拘束する。

 

 今度は、前で。

 

「処置中の発言は必要な範囲に限れ」

 

「はい」

 

「だが、支障が出るものを見つけたなら言え」

 

 私は顔を上げた。

 

 サオリさんは、もうこちらを見ていなかった。

 

「使える情報は使う」

 

「……はい」

 

 優しさではない。

 

 でも、完全に閉じられたわけでもなかった。

 

「サオリ」

 

 ミサキさんが言う。

 

「少し甘い」

 

「甘くしていない」

 

「そう」

 

「お前の包帯がまともになった。ヒヨリの足も動かせる。私の肩も塞いだ。使えるものを使っただけだ」

 

「そういうことにしておく」

 

「そういうことだ」

 

 サオリさんの声は硬い。

 

 でも、少しだけ疲れていた。

 

 私は前で縛られた手を膝の上に置いた。

 

 逃げられない。

 

 でも、さっきより少しだけ息がしやすい。

 

 ミサキさんは新しい包帯を袖の下へ隠した。

 

 隠したというより、元の場所に戻しただけかもしれない。

 

 でも私は、見てしまった。

 

 痛いのを少なくすることがよく分からない、という声も。

 痛い方がいい時もある、と言った顔も。

 そのあと、小さく落ちた「たぶん」も。

 

 見なかったことには、できなかった。

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