戦えない私がキヴォトス中の生徒に執着されるまで   作:Zuzuiikb

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第10話 戻らない救護係

 

 

 レナちゃんから、返事が来ない。

 

 端末の画面には、さっき送った文章がそのまま残っていた。

 

『今日はありがとうございました。また来てくださいね』

 

 たったそれだけの文章。

 

 送った時は、何も怖くなかった。補習授業部の教室を出ていくレナちゃんの背中に、もう一度手を振る代わりみたいな、普通の挨拶のつもりだった。

 

 けれど、既読のつかない画面を見ていると、その普通さだけが妙に浮いて見える。

 

 忙しいだけ。

 

 救護騎士団に戻って、ミネ団長に報告して、端末を見る時間がないだけ。

 

 そう思うたびに、胸の奥で小さく別の声がした。

 

 でも、レナちゃんは。

 

 ヒフミは端末を伏せようとして、できなかった。

 

 教室の片付けは、もう終わりかけている。机の上に残ったプリントは揃えられ、先生の資料も教卓の端にまとめられていた。黒板には、先生が書いた説明の跡と、コハルちゃんが勢いで書いた大きな文字がまだ残っている。

 

 次は絶対合格。

 

 さっきまでなら、見ただけで少し笑えた。

 

 今は、その文字の白さまで落ち着かない。

 

「……ヒフミ?」

 

 コハルちゃんに呼ばれて、ヒフミは顔を上げた。

 

 コハルちゃんは帰り支度をしているふりをしていた。鞄の口はもう閉じているのに、同じプリントを出して、入れて、また出している。

 

「何、端末ばっか見てるのよ」

 

「あ……いえ」

 

「レナ?」

 

 名前が出た瞬間、指先が少しだけ強く画面を押した。

 

 ヒフミが答えるより先に、コハルちゃんは自分で気づいたように目を逸らす。

 

「いや、別に、私も気にしてるとかじゃないけど」

 

「まだ何も言ってません」

 

「顔が言ってた!」

 

 いつもなら、もう少し強く返ってくる声。

 

 けれど最後の方が、少しだけ細かった。

 

 コハルちゃんも気にしている。

 

 そのことが、安心ではなく、不安を増やした。

 

「レナちゃんに送ったメッセージが、まだ既読になっていなくて」

 

「さっき別れたばっかりでしょ。救護騎士団に戻るって言ってたし、ミネ団長のところで報告とか、いろいろあるんじゃないの?」

 

「はい……そうですよね」

 

 そうですよね、と言ったのに、胸は納得しなかった。

 

 コハルちゃんも、言い終わってから口を結んだ。自分で言った言葉が、自分をあまり落ち着かせなかったのだと思う。

 

 窓際にいたハナコさんが、こちらを見た。

 

 いつものように微笑んではいる。

 

 でも、何か変なことを言って場をかき回す気配がなかった。笑みの形だけ残して、目はずっと廊下の方を見ている。

 

「先生」

 

 アズサちゃんの声が、教室の空気を切った。

 

 大きな声ではない。

 

 ただ、迷いがない。

 

「レナは、救護騎士団へ戻ったのか」

 

 先生の手が止まった。

 

 資料の紙が、一枚だけ少しずれて、机の上で小さく音を立てる。

 

 その音が、妙にはっきり聞こえた。

 

「まだ、こっちでは確認できてない」

 

 先生は端末を見た。

 

 画面の光が、先生の指先を白く照らす。

 

「確認した方がいい」

 

 アズサちゃんは、同じ声で言った。

 

 コハルちゃんが眉を寄せる。

 

「ちょ、ちょっと待って。まだ戻ってないって決まったわけじゃないでしょ? レナだって、たまには……寄り道とか、するかもしれないし」

 

 言いながら、コハルちゃん自身がそれを信じきれていないのが分かった。

 

 レナちゃんは寄り道をするかもしれない。

 

 でも、連絡しない子ではない。

 

 ヒフミはそう思ってしまって、すぐに目を伏せた。考えたくないのに、頭が勝手にそこへ行く。

 

「中央廊下ではないかもしれない」

 

 アズサちゃんが言った。

 

「人が多い時間だった。救護バッグを持っていた。混んでいる道は避ける可能性がある」

 

「古い校舎側の通路?」

 

 先生が言う。

 

 アズサちゃんは頷いた。

 

「可能性はある」

 

「可能性、可能性って……」

 

 コハルちゃんが小さく呟いた。

 

 怒りたいのに、怒る場所がないみたいな声だった。

 

 ハナコさんがゆっくりと窓際から離れる。

 

「先生。レナさんは、予定より遅れる時に何も言わない方ですか?」

 

 声は柔らかい。

 

 けれど、いつものように言葉の端で遊んでいない。

 

 ヒフミは、ハナコさんがそういう聞き方をしたことに、少しだけ怖くなった。

 

 先生は一瞬黙った。

 

「遅れる時に連絡しない子ではないと思う」

 

 その返事で、教室の温度が下がった気がした。

 

 しない子ではない。

 

 それは、今の沈黙が少しおかしいということだった。

 

 先生は端末を操作する。

 

「救護騎士団に確認する」

 

 通話が繋がるまでの数秒が長い。

 

 コハルちゃんは鞄の紐を握りしめていた。アズサちゃんはもう扉の方へ半分体を向けている。ハナコさんは先生の手元ではなく、先生の顔を見ていた。

 

 ヒフミは端末を握ったまま、呼吸を浅くした。

 

「ミネ、今大丈夫?」

 

 先生の声は落ち着いていた。

 

 落ち着いて聞こえるようにしている声だった。

 

「レナ、そっちに戻ってる?」

 

 返事は聞こえない。

 

 でも、先生の表情が少しだけ変わった。

 

 ほんの少し。

 

 それだけで、ヒフミには分かってしまった。

 

 戻っていない。

 

 端末を握る指が、冷たくなる。

 

「……分かった。最後にこっちを出たのは補習後。時間は――」

 

 先生が時計を見る。

 

 ヒフミもつられて見てしまった。

 

 思っていたより、ずっと時間が経っている。

 

 どうして今まで気づかなかったのだろう。

 

 どうして、普通に片付けをしていたのだろう。

 

 レナちゃんは「また来ます」と言っていたのに。

 

「中央廊下とは限らない。古い校舎側の通路を使った可能性がある。……うん。こっちでも確認する。生徒は単独で動かさない」

 

 通話が切れる。

 

 先生は、ほんの一呼吸置いてから全員を見た。

 

「レナが救護騎士団に戻っていない」

 

 言葉が、教室の真ん中に落ちた。

 

 誰もすぐには動かなかった。

 

 コハルちゃんが唇を開く。

 

「戻ってないって……じゃあ、どこにいるのよ」

 

 声が少し震えていた。

 

 それが悔しかったのか、コハルちゃんはすぐに眉を吊り上げる。

 

「探すんでしょ?」

 

「探す」

 

 先生は頷いた。

 

「ただし、勝手には動かない」

 

「私も行く」

 

 アズサちゃんが言った。

 

 先生がすぐに見る。

 

「アズサ」

 

「古い通路を確認する。私は足が速い」

 

「一人では行かせない」

 

「分かっている。先生と行く」

 

 言葉が短い。

 

 けれど、そこには焦りがあった。

 

 アズサちゃんは焦りを声に乗せない。けれど、扉に向いた体の角度が、もう待つつもりがないことを言っていた。

 

「私も行く!」

 

 コハルちゃんが鞄を掴む。

 

「コハルちゃん」

 

 ヒフミが呼ぶと、コハルちゃんは振り返った。

 

「何よ。止めるの?」

 

「止めません」

 

 自分の声が思ったより小さかった。

 

 それでも、ヒフミは続けた。

 

「私も行きます」

 

 言った瞬間、少しだけ足元が頼りなくなった。

 

 怖い。

 

 でも、ここで待つ方がもっと怖い。

 

 ハナコさんは、何も言わずに鞄を持った。

 

 コハルちゃんが見る。

 

「ハナコも?」

 

「レナさんが迷子になっているだけなら、見つけた時に皆さんで叱って差し上げましょう」

 

 いつものハナコさんに似た言い方だった。

 

 けれど、語尾に残る余裕が足りない。

 

「迷子って……レナじゃあるまいし」

 

 コハルちゃんはそこまで言って、言葉を飲み込んだ。

 

 違う。

 

 今、それを冗談にするのは違う。

 

 ヒフミにも、それが分かった。

 

 先生は全員を見回す。

 

「探す。ただし、勝手に走らない。何か見つけても、必ず先生かミネに連絡する。いい?」

 

「はい」

 

 ヒフミが答える。

 

 コハルちゃんは少し遅れて、強く頷いた。

 

「分かったわよ」

 

 教室を出る時、ヒフミは黒板を振り返った。

 

 次は絶対合格。

 

 さっきまでただの落書きみたいだった文字が、急に置き去りにされた約束みたいに見えた。

 

 レナちゃん、次も来ますよね。

 

 そう思った瞬間、胸の奥がぎゅっと狭くなる。

 

「ヒフミ」

 

 コハルちゃんの声。

 

 振り返ると、コハルちゃんは扉の前で待っていた。

 

「行くわよ」

 

「……はい」

 

 廊下に出る。

 

 白い壁は、夕方の色を失い始めていた。日中のざわめきはもう薄く、遠くで誰かの笑い声がして、それもすぐに消える。

 

 さっきまで普通の学校だったはずの廊下が、急に広くて冷たい場所に見えた。

 

 先生が先頭を歩く。

 

 アズサちゃんは少し前に出すぎない位置で周囲を見ている。コハルちゃんはヒフミの隣で、何度も端末を握り直していた。ハナコさんは後ろにいる。足音が静かだった。

 

「ただのすれ違いよね」

 

 コハルちゃんが小さく言った。

 

 誰かに聞かせるというより、自分の中の怖い考えを押し返すための声だった。

 

「レナって変なところで遠慮するし、怪我人とかいたらすぐ止まるし……どっかで誰かに捕まって、断れなくて、話が長くなってるだけよ。そういうの、ありそうじゃない」

 

 その通りだと思った。

 

 レナちゃんは、困っている人に弱い。

 

 怪我をした人がいたら、きっと足を止める。

 

 それはレナちゃんの良いところで、ヒフミも何度も安心させられてきたところだった。

 

 なのに今は、その優しさが怖い。

 

「そうだと、いいです」

 

 ヒフミが言うと、コハルちゃんは少しだけ眉を上げた。

 

「いいです、じゃなくて、そうなの」

 

「……はい」

 

「そうじゃないと困るの」

 

 最後の声は、小さかった。

 

 ハナコさんが後ろからそっと言う。

 

「コハルちゃん」

 

「何よ」

 

「歩幅が少し大きくなっています」

 

 ハナコさんは静かに続けた。

 

「転んだらレナさんに怒られますよ。たぶん、とても困った顔で」

 

 コハルちゃんは何か言い返しかけて、やめた。

 

 歩幅が、ほんの少しだけ落ち着く。

 

 ヒフミはその横顔を見て、端末を握る手に力を入れた。

 

 コハルちゃんは怒っている。

 

 でも、本当は怖いのだ。

 

 そして自分も同じなのだと、ヒフミは思った。

 

 古い校舎側へ入ると、空気が変わった。

 

 窓枠は古く、床の石も少し色が違う。中央廊下より人が少ない。静かで、歩きやすくて、少しだけ遠回り。

 

 レナちゃんが使いそうな道だった。

 

 そのことに気づいた瞬間、胸の奥の嫌な予感が、初めてはっきり形を持った。

 

 ここを通ったかもしれない。

 

 レナちゃんが、一人で。

 

「先生」

 

 アズサちゃんが短く言った。

 

 廊下の奥を指している。

 

 先生が近づく。ヒフミたちも続いた。

 

 床に、小さな白いものが落ちていた。

 

 消毒綿の包装。

 

 救護バッグに入っている、よくあるもの。ヒフミでも見覚えがある。白くて、薄くて、開けたらすぐに捨てられてしまうもの。

 

 でも、こんな場所に落ちているのはおかしい。

 

 先生はすぐに触らなかった。端末で写真を撮る。角度を変えて、もう一枚。ミネ団長へ送るためだと、言われなくても分かった。

 

「これ……」

 

 コハルちゃんの声が掠れた。

 

「レナの?」

 

「救護騎士団の備品だと思う」

 

 先生は答えた。

 

「まだレナのものとは断定できない」

 

 まだ。

 

 その言い方が怖かった。

 

 断定できないと言われているのに、ヒフミの中ではもう、レナちゃんがここにしゃがんでいる姿が見えてしまっていた。

 

 誰かの足元を見るレナちゃん。

 

 怖がらせないように、少し困った顔で声をかけるレナちゃん。

 

 救護バッグから消毒綿を取り出すレナちゃん。

 

 見たことがあるようで、見たことのない光景。

 

 なのに、あまりにも想像できてしまう。

 

「レナちゃん……」

 

 呼んでも、返事はない。

 

 アズサちゃんが床を見ていた。

 

 包装の少し先。石の継ぎ目のあたりに、擦れた跡がある。誰かが足を引きずったような、あるいは靴底が強く滑ったような跡。

 

 先生が問う。

 

「アズサ、何か分かる?」

 

「足をかばった跡に見える」

 

 アズサちゃんは言った。

 

 声は落ち着いている。

 

 けれど、目は廊下の奥から離れない。

 

「一人ではない」

 

 コハルちゃんが息を飲んだ。

 

「どういう意味」

 

「足をかばった人間の跡と、別の足跡がある。数は……分からない。でも、一人ではない」

 

「それって……」

 

 コハルちゃんは言葉を続けられなかった。

 

 ハナコさんが壁際へ視線を移す。

 

「大きく暴れたような跡は、強くありませんね」

 

 静かな声だった。

 

 先生が顔を上げる。

 

「分かる?」

 

「専門ではありません。ただ、ひどく乱れた様子には見えません。誰かが大声を出して暴れたというより……」

 

 ハナコさんは、そこで一度言葉を止めた。

 

 止めた間に、ヒフミは息を詰めた。

 

「動けない理由があったのかもしれません」

 

 動けない理由。

 

 その言葉が、白い廊下にひどく冷たく響いた。

 

 ヒフミは考えたくなかった。

 

 でも、考えないようにすればするほど、手首を掴まれたレナちゃんや、声を飲み込んだレナちゃんが頭の中に浮かんでしまう。

 

「やめて」

 

 声には出ていなかったと思う。

 

 でも、胸の奥では確かにそう言っていた。

 

 先生はミネ団長へ連絡を入れた。

 

「ミネ。古い校舎側の通路で救護備品の包装を見つけた。足をかばったような跡もある。複数人の痕跡の可能性。……うん。生徒を連れている。これ以上奥へは不用意に進まない」

 

 ミネ団長の返事を聞く先生の顔が、少しだけ変わった。

 

 険しくなるのではない。

 

 余計な表情が消える。

 

 ヒフミは、それが一番怖かった。

 

「先生……?」

 

「ミネが救護騎士団を動かす。こっちはここで待つ」

 

「待つの!?」

 

 コハルちゃんが声を上げた。

 

「奥に行った方が早いでしょ! そこに何かあるかもしれないのに!」

 

「コハル」

 

 先生の声は優しかった。

 

 でも、動かなかった。

 

「今は待つ。何かあったなら、全員で闇雲に進む方が危ない」

 

「でも!」

 

「レナを探すためにも、君たちを危険に入れないためにも、ここで待つ」

 

 コハルちゃんは唇を噛んだ。

 

 拳を握って、開いて、また握る。

 

「……ずるい」

 

 小さな声だった。

 

「そういう言い方されたら、何も言えないじゃん」

 

「うん」

 

「先生、そういう時だけ大人みたいなこと言う」

 

「そうしなきゃいけない時がある」

 

 コハルちゃんは何も言えなくなった。

 

 ヒフミは、そっとコハルちゃんの袖を掴んだ。

 

 コハルちゃんは振り払わなかった。

 

 袖越しに、コハルちゃんの腕が少しだけ震えているのが分かった。

 

 その時、先生の端末が鳴った。

 

 ミネ団長からではなかったらしい。

 

 画面を見た先生の眉が、一瞬だけ動く。

 

「ナギサ?」

 

 その名前で、全員が少しだけ反応した。

 

 先生は、まだ床の包装を見ながら話す。

 

「補習授業部の救護補助に入っていたレナと連絡が取れない。救護騎士団にも戻っていない。今、古い校舎側の通路で救護備品らしきものを見つけた」

 

 端末の向こうは聞こえない。

 

 けれど、先生の声は静かだった。

 

「まだ断定はできない。でも、普通の遅れではないと思う」

 

 普通の遅れではない。

 

 その言葉が、廊下に落ちた。

 

 ヒフミはもう一度、端末を見る。

 

 既読は、ない。

 

『今日はありがとうございました。また来てくださいね』

 

 その文章が、急に遠い場所へ送ってしまった手紙みたいに見えた。

 

 廊下の奥から、足音が聞こえてきた。

 

 複数人。

 

 急いでいる。けれど、乱れてはいない。

 

 先頭にいたミネ団長は、白い制服の裾を揺らして近づいてきた。いつものまっすぐな姿勢。けれど、その目はいつもより少しだけ鋭い。

 

 ヒフミたちを見ると、ミネ団長は一度だけ頷いた。

 

「ここから先は救護騎士団が確認します」

 

「ミネ」

 

 先生が言う。

 

「レナは」

 

「まだ確認できていません」

 

 ミネ団長は答えた。

 

 その声は落ち着いていた。

 

 落ち着きすぎていて、ヒフミは胸が痛くなった。

 

「ただし、現場を見る限り救護備品が使用された痕跡があります。怪我人が存在した可能性が高い」

 

「レナちゃんが、処置を……?」

 

 気づいた時には、聞いていた。

 

 ミネ団長の視線が、ヒフミへ向く。

 

 厳しい目ではなかった。

 

「可能性です。断定はしません」

 

 それから、少しだけ声を柔らかくした。

 

「ですが、レナなら、そうするでしょう」

 

 その一言で、ヒフミの喉が詰まった。

 

 やっぱり。

 

 やっぱり、そうなのだ。

 

 誰かが怪我をしていたら、レナちゃんは止まる。

 知らない人でも、怖くても、たぶん止まる。

 それがレナちゃんだから。

 

 そのことが、今はどうしようもなく怖かった。

 

 ミネ団長は救護騎士団の生徒たちへ短く指示を出す。通路の確保、痕跡の保全、周辺確認、外部への連絡制限。声は淡々としている。でも、指示の速度が速い。

 

 レナちゃんの師匠としてではなく、救護騎士団長として動いている。

 

 でも、その手が一瞬だけ救護バッグの紐を握ったのを、ヒフミは見た。

 

 先生はミネ団長と短く言葉を交わしてから、補習授業部の方へ向き直った。

 

「今日はここまで。みんなは寮へ戻って」

 

「嫌です」

 

 コハルちゃんがすぐに言った。

 

 先生は、少しだけ目を伏せた。

 

「コハル」

 

「嫌です。戻っても、何もできないし、寝られるわけないし」

 

「それでも、ここには置けない」

 

「なんで」

 

「危ないから」

 

「レナは危ないかもしれないところにいるんでしょ!」

 

 コハルちゃんの声が廊下に響いた。

 

 言ってから、自分で驚いたように口を閉じる。

 

 先生は怒らなかった。

 

 代わりに、膝を少し曲げて、コハルちゃんと目線を近づけた。

 

「だから、君たちまで危ない場所へ入れない」

 

 コハルちゃんの目が揺れた。

 

 ハナコさんが静かに言う。

 

「戻りましょう、コハルちゃん」

 

「ハナコまで……」

 

「先生たちの邪魔にならない場所へ、です」

 

 いつもの柔らかい声だった。

 

 でも、ふざけてはいなかった。

 

「戻るだけです。待つのをやめるわけではありません」

 

 コハルちゃんは何か言い返そうとして、できなかった。

 

 アズサちゃんが先生を見る。

 

「何かあれば、知らせてほしい」

 

「必ず」

 

 先生は言った。

 

 アズサちゃんは一度だけ頷く。

 

 ヒフミたちは廊下を戻り始めた。

 

 足取りは重い。

 

 誰も、冗談を言わなかった。

 

 曲がり角の前で、ヒフミはもう一度振り返った。

 

 古い校舎側の通路。

 白い包装。

 床の擦れた跡。

 ミネ団長と先生の背中。

 

 そこに、レナちゃんの姿だけがない。

 

 画面は暗い。

 

 それでもヒフミは端末を握ったまま、指を離せなかった。

 

 返事が来るかもしれない。

 

 今、既読がつくかもしれない。

 

 レナちゃんが、すみません、少し遅れました、と送ってくるかもしれない。

 

 そう思って、何度も画面を見てしまう。

 

 けれど、何も変わらない。

 

 その夜、補習授業部の教室には誰も戻らなかった。

 

 黒板には、コハルちゃんの文字が残ったままだった。

 

 次は絶対合格。

 

 その白い粉の跡の下に、レナちゃんの笑い声だけが、もうどこにも残っていなかった。

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