戦えない私がキヴォトス中の生徒に執着されるまで 作:Zuzuiikb
レナちゃんから、返事が来ない。
端末の画面には、さっき送った文章がそのまま残っていた。
『今日はありがとうございました。また来てくださいね』
たったそれだけの文章。
送った時は、何も怖くなかった。補習授業部の教室を出ていくレナちゃんの背中に、もう一度手を振る代わりみたいな、普通の挨拶のつもりだった。
けれど、既読のつかない画面を見ていると、その普通さだけが妙に浮いて見える。
忙しいだけ。
救護騎士団に戻って、ミネ団長に報告して、端末を見る時間がないだけ。
そう思うたびに、胸の奥で小さく別の声がした。
でも、レナちゃんは。
ヒフミは端末を伏せようとして、できなかった。
教室の片付けは、もう終わりかけている。机の上に残ったプリントは揃えられ、先生の資料も教卓の端にまとめられていた。黒板には、先生が書いた説明の跡と、コハルちゃんが勢いで書いた大きな文字がまだ残っている。
次は絶対合格。
さっきまでなら、見ただけで少し笑えた。
今は、その文字の白さまで落ち着かない。
「……ヒフミ?」
コハルちゃんに呼ばれて、ヒフミは顔を上げた。
コハルちゃんは帰り支度をしているふりをしていた。鞄の口はもう閉じているのに、同じプリントを出して、入れて、また出している。
「何、端末ばっか見てるのよ」
「あ……いえ」
「レナ?」
名前が出た瞬間、指先が少しだけ強く画面を押した。
ヒフミが答えるより先に、コハルちゃんは自分で気づいたように目を逸らす。
「いや、別に、私も気にしてるとかじゃないけど」
「まだ何も言ってません」
「顔が言ってた!」
いつもなら、もう少し強く返ってくる声。
けれど最後の方が、少しだけ細かった。
コハルちゃんも気にしている。
そのことが、安心ではなく、不安を増やした。
「レナちゃんに送ったメッセージが、まだ既読になっていなくて」
「さっき別れたばっかりでしょ。救護騎士団に戻るって言ってたし、ミネ団長のところで報告とか、いろいろあるんじゃないの?」
「はい……そうですよね」
そうですよね、と言ったのに、胸は納得しなかった。
コハルちゃんも、言い終わってから口を結んだ。自分で言った言葉が、自分をあまり落ち着かせなかったのだと思う。
窓際にいたハナコさんが、こちらを見た。
いつものように微笑んではいる。
でも、何か変なことを言って場をかき回す気配がなかった。笑みの形だけ残して、目はずっと廊下の方を見ている。
「先生」
アズサちゃんの声が、教室の空気を切った。
大きな声ではない。
ただ、迷いがない。
「レナは、救護騎士団へ戻ったのか」
先生の手が止まった。
資料の紙が、一枚だけ少しずれて、机の上で小さく音を立てる。
その音が、妙にはっきり聞こえた。
「まだ、こっちでは確認できてない」
先生は端末を見た。
画面の光が、先生の指先を白く照らす。
「確認した方がいい」
アズサちゃんは、同じ声で言った。
コハルちゃんが眉を寄せる。
「ちょ、ちょっと待って。まだ戻ってないって決まったわけじゃないでしょ? レナだって、たまには……寄り道とか、するかもしれないし」
言いながら、コハルちゃん自身がそれを信じきれていないのが分かった。
レナちゃんは寄り道をするかもしれない。
でも、連絡しない子ではない。
ヒフミはそう思ってしまって、すぐに目を伏せた。考えたくないのに、頭が勝手にそこへ行く。
「中央廊下ではないかもしれない」
アズサちゃんが言った。
「人が多い時間だった。救護バッグを持っていた。混んでいる道は避ける可能性がある」
「古い校舎側の通路?」
先生が言う。
アズサちゃんは頷いた。
「可能性はある」
「可能性、可能性って……」
コハルちゃんが小さく呟いた。
怒りたいのに、怒る場所がないみたいな声だった。
ハナコさんがゆっくりと窓際から離れる。
「先生。レナさんは、予定より遅れる時に何も言わない方ですか?」
声は柔らかい。
けれど、いつものように言葉の端で遊んでいない。
ヒフミは、ハナコさんがそういう聞き方をしたことに、少しだけ怖くなった。
先生は一瞬黙った。
「遅れる時に連絡しない子ではないと思う」
その返事で、教室の温度が下がった気がした。
しない子ではない。
それは、今の沈黙が少しおかしいということだった。
先生は端末を操作する。
「救護騎士団に確認する」
通話が繋がるまでの数秒が長い。
コハルちゃんは鞄の紐を握りしめていた。アズサちゃんはもう扉の方へ半分体を向けている。ハナコさんは先生の手元ではなく、先生の顔を見ていた。
ヒフミは端末を握ったまま、呼吸を浅くした。
「ミネ、今大丈夫?」
先生の声は落ち着いていた。
落ち着いて聞こえるようにしている声だった。
「レナ、そっちに戻ってる?」
返事は聞こえない。
でも、先生の表情が少しだけ変わった。
ほんの少し。
それだけで、ヒフミには分かってしまった。
戻っていない。
端末を握る指が、冷たくなる。
「……分かった。最後にこっちを出たのは補習後。時間は――」
先生が時計を見る。
ヒフミもつられて見てしまった。
思っていたより、ずっと時間が経っている。
どうして今まで気づかなかったのだろう。
どうして、普通に片付けをしていたのだろう。
レナちゃんは「また来ます」と言っていたのに。
「中央廊下とは限らない。古い校舎側の通路を使った可能性がある。……うん。こっちでも確認する。生徒は単独で動かさない」
通話が切れる。
先生は、ほんの一呼吸置いてから全員を見た。
「レナが救護騎士団に戻っていない」
言葉が、教室の真ん中に落ちた。
誰もすぐには動かなかった。
コハルちゃんが唇を開く。
「戻ってないって……じゃあ、どこにいるのよ」
声が少し震えていた。
それが悔しかったのか、コハルちゃんはすぐに眉を吊り上げる。
「探すんでしょ?」
「探す」
先生は頷いた。
「ただし、勝手には動かない」
「私も行く」
アズサちゃんが言った。
先生がすぐに見る。
「アズサ」
「古い通路を確認する。私は足が速い」
「一人では行かせない」
「分かっている。先生と行く」
言葉が短い。
けれど、そこには焦りがあった。
アズサちゃんは焦りを声に乗せない。けれど、扉に向いた体の角度が、もう待つつもりがないことを言っていた。
「私も行く!」
コハルちゃんが鞄を掴む。
「コハルちゃん」
ヒフミが呼ぶと、コハルちゃんは振り返った。
「何よ。止めるの?」
「止めません」
自分の声が思ったより小さかった。
それでも、ヒフミは続けた。
「私も行きます」
言った瞬間、少しだけ足元が頼りなくなった。
怖い。
でも、ここで待つ方がもっと怖い。
ハナコさんは、何も言わずに鞄を持った。
コハルちゃんが見る。
「ハナコも?」
「レナさんが迷子になっているだけなら、見つけた時に皆さんで叱って差し上げましょう」
いつものハナコさんに似た言い方だった。
けれど、語尾に残る余裕が足りない。
「迷子って……レナじゃあるまいし」
コハルちゃんはそこまで言って、言葉を飲み込んだ。
違う。
今、それを冗談にするのは違う。
ヒフミにも、それが分かった。
先生は全員を見回す。
「探す。ただし、勝手に走らない。何か見つけても、必ず先生かミネに連絡する。いい?」
「はい」
ヒフミが答える。
コハルちゃんは少し遅れて、強く頷いた。
「分かったわよ」
教室を出る時、ヒフミは黒板を振り返った。
次は絶対合格。
さっきまでただの落書きみたいだった文字が、急に置き去りにされた約束みたいに見えた。
レナちゃん、次も来ますよね。
そう思った瞬間、胸の奥がぎゅっと狭くなる。
「ヒフミ」
コハルちゃんの声。
振り返ると、コハルちゃんは扉の前で待っていた。
「行くわよ」
「……はい」
廊下に出る。
白い壁は、夕方の色を失い始めていた。日中のざわめきはもう薄く、遠くで誰かの笑い声がして、それもすぐに消える。
さっきまで普通の学校だったはずの廊下が、急に広くて冷たい場所に見えた。
先生が先頭を歩く。
アズサちゃんは少し前に出すぎない位置で周囲を見ている。コハルちゃんはヒフミの隣で、何度も端末を握り直していた。ハナコさんは後ろにいる。足音が静かだった。
「ただのすれ違いよね」
コハルちゃんが小さく言った。
誰かに聞かせるというより、自分の中の怖い考えを押し返すための声だった。
「レナって変なところで遠慮するし、怪我人とかいたらすぐ止まるし……どっかで誰かに捕まって、断れなくて、話が長くなってるだけよ。そういうの、ありそうじゃない」
その通りだと思った。
レナちゃんは、困っている人に弱い。
怪我をした人がいたら、きっと足を止める。
それはレナちゃんの良いところで、ヒフミも何度も安心させられてきたところだった。
なのに今は、その優しさが怖い。
「そうだと、いいです」
ヒフミが言うと、コハルちゃんは少しだけ眉を上げた。
「いいです、じゃなくて、そうなの」
「……はい」
「そうじゃないと困るの」
最後の声は、小さかった。
ハナコさんが後ろからそっと言う。
「コハルちゃん」
「何よ」
「歩幅が少し大きくなっています」
ハナコさんは静かに続けた。
「転んだらレナさんに怒られますよ。たぶん、とても困った顔で」
コハルちゃんは何か言い返しかけて、やめた。
歩幅が、ほんの少しだけ落ち着く。
ヒフミはその横顔を見て、端末を握る手に力を入れた。
コハルちゃんは怒っている。
でも、本当は怖いのだ。
そして自分も同じなのだと、ヒフミは思った。
古い校舎側へ入ると、空気が変わった。
窓枠は古く、床の石も少し色が違う。中央廊下より人が少ない。静かで、歩きやすくて、少しだけ遠回り。
レナちゃんが使いそうな道だった。
そのことに気づいた瞬間、胸の奥の嫌な予感が、初めてはっきり形を持った。
ここを通ったかもしれない。
レナちゃんが、一人で。
「先生」
アズサちゃんが短く言った。
廊下の奥を指している。
先生が近づく。ヒフミたちも続いた。
床に、小さな白いものが落ちていた。
消毒綿の包装。
救護バッグに入っている、よくあるもの。ヒフミでも見覚えがある。白くて、薄くて、開けたらすぐに捨てられてしまうもの。
でも、こんな場所に落ちているのはおかしい。
先生はすぐに触らなかった。端末で写真を撮る。角度を変えて、もう一枚。ミネ団長へ送るためだと、言われなくても分かった。
「これ……」
コハルちゃんの声が掠れた。
「レナの?」
「救護騎士団の備品だと思う」
先生は答えた。
「まだレナのものとは断定できない」
まだ。
その言い方が怖かった。
断定できないと言われているのに、ヒフミの中ではもう、レナちゃんがここにしゃがんでいる姿が見えてしまっていた。
誰かの足元を見るレナちゃん。
怖がらせないように、少し困った顔で声をかけるレナちゃん。
救護バッグから消毒綿を取り出すレナちゃん。
見たことがあるようで、見たことのない光景。
なのに、あまりにも想像できてしまう。
「レナちゃん……」
呼んでも、返事はない。
アズサちゃんが床を見ていた。
包装の少し先。石の継ぎ目のあたりに、擦れた跡がある。誰かが足を引きずったような、あるいは靴底が強く滑ったような跡。
先生が問う。
「アズサ、何か分かる?」
「足をかばった跡に見える」
アズサちゃんは言った。
声は落ち着いている。
けれど、目は廊下の奥から離れない。
「一人ではない」
コハルちゃんが息を飲んだ。
「どういう意味」
「足をかばった人間の跡と、別の足跡がある。数は……分からない。でも、一人ではない」
「それって……」
コハルちゃんは言葉を続けられなかった。
ハナコさんが壁際へ視線を移す。
「大きく暴れたような跡は、強くありませんね」
静かな声だった。
先生が顔を上げる。
「分かる?」
「専門ではありません。ただ、ひどく乱れた様子には見えません。誰かが大声を出して暴れたというより……」
ハナコさんは、そこで一度言葉を止めた。
止めた間に、ヒフミは息を詰めた。
「動けない理由があったのかもしれません」
動けない理由。
その言葉が、白い廊下にひどく冷たく響いた。
ヒフミは考えたくなかった。
でも、考えないようにすればするほど、手首を掴まれたレナちゃんや、声を飲み込んだレナちゃんが頭の中に浮かんでしまう。
「やめて」
声には出ていなかったと思う。
でも、胸の奥では確かにそう言っていた。
先生はミネ団長へ連絡を入れた。
「ミネ。古い校舎側の通路で救護備品の包装を見つけた。足をかばったような跡もある。複数人の痕跡の可能性。……うん。生徒を連れている。これ以上奥へは不用意に進まない」
ミネ団長の返事を聞く先生の顔が、少しだけ変わった。
険しくなるのではない。
余計な表情が消える。
ヒフミは、それが一番怖かった。
「先生……?」
「ミネが救護騎士団を動かす。こっちはここで待つ」
「待つの!?」
コハルちゃんが声を上げた。
「奥に行った方が早いでしょ! そこに何かあるかもしれないのに!」
「コハル」
先生の声は優しかった。
でも、動かなかった。
「今は待つ。何かあったなら、全員で闇雲に進む方が危ない」
「でも!」
「レナを探すためにも、君たちを危険に入れないためにも、ここで待つ」
コハルちゃんは唇を噛んだ。
拳を握って、開いて、また握る。
「……ずるい」
小さな声だった。
「そういう言い方されたら、何も言えないじゃん」
「うん」
「先生、そういう時だけ大人みたいなこと言う」
「そうしなきゃいけない時がある」
コハルちゃんは何も言えなくなった。
ヒフミは、そっとコハルちゃんの袖を掴んだ。
コハルちゃんは振り払わなかった。
袖越しに、コハルちゃんの腕が少しだけ震えているのが分かった。
その時、先生の端末が鳴った。
ミネ団長からではなかったらしい。
画面を見た先生の眉が、一瞬だけ動く。
「ナギサ?」
その名前で、全員が少しだけ反応した。
先生は、まだ床の包装を見ながら話す。
「補習授業部の救護補助に入っていたレナと連絡が取れない。救護騎士団にも戻っていない。今、古い校舎側の通路で救護備品らしきものを見つけた」
端末の向こうは聞こえない。
けれど、先生の声は静かだった。
「まだ断定はできない。でも、普通の遅れではないと思う」
普通の遅れではない。
その言葉が、廊下に落ちた。
ヒフミはもう一度、端末を見る。
既読は、ない。
『今日はありがとうございました。また来てくださいね』
その文章が、急に遠い場所へ送ってしまった手紙みたいに見えた。
廊下の奥から、足音が聞こえてきた。
複数人。
急いでいる。けれど、乱れてはいない。
先頭にいたミネ団長は、白い制服の裾を揺らして近づいてきた。いつものまっすぐな姿勢。けれど、その目はいつもより少しだけ鋭い。
ヒフミたちを見ると、ミネ団長は一度だけ頷いた。
「ここから先は救護騎士団が確認します」
「ミネ」
先生が言う。
「レナは」
「まだ確認できていません」
ミネ団長は答えた。
その声は落ち着いていた。
落ち着きすぎていて、ヒフミは胸が痛くなった。
「ただし、現場を見る限り救護備品が使用された痕跡があります。怪我人が存在した可能性が高い」
「レナちゃんが、処置を……?」
気づいた時には、聞いていた。
ミネ団長の視線が、ヒフミへ向く。
厳しい目ではなかった。
「可能性です。断定はしません」
それから、少しだけ声を柔らかくした。
「ですが、レナなら、そうするでしょう」
その一言で、ヒフミの喉が詰まった。
やっぱり。
やっぱり、そうなのだ。
誰かが怪我をしていたら、レナちゃんは止まる。
知らない人でも、怖くても、たぶん止まる。
それがレナちゃんだから。
そのことが、今はどうしようもなく怖かった。
ミネ団長は救護騎士団の生徒たちへ短く指示を出す。通路の確保、痕跡の保全、周辺確認、外部への連絡制限。声は淡々としている。でも、指示の速度が速い。
レナちゃんの師匠としてではなく、救護騎士団長として動いている。
でも、その手が一瞬だけ救護バッグの紐を握ったのを、ヒフミは見た。
先生はミネ団長と短く言葉を交わしてから、補習授業部の方へ向き直った。
「今日はここまで。みんなは寮へ戻って」
「嫌です」
コハルちゃんがすぐに言った。
先生は、少しだけ目を伏せた。
「コハル」
「嫌です。戻っても、何もできないし、寝られるわけないし」
「それでも、ここには置けない」
「なんで」
「危ないから」
「レナは危ないかもしれないところにいるんでしょ!」
コハルちゃんの声が廊下に響いた。
言ってから、自分で驚いたように口を閉じる。
先生は怒らなかった。
代わりに、膝を少し曲げて、コハルちゃんと目線を近づけた。
「だから、君たちまで危ない場所へ入れない」
コハルちゃんの目が揺れた。
ハナコさんが静かに言う。
「戻りましょう、コハルちゃん」
「ハナコまで……」
「先生たちの邪魔にならない場所へ、です」
いつもの柔らかい声だった。
でも、ふざけてはいなかった。
「戻るだけです。待つのをやめるわけではありません」
コハルちゃんは何か言い返そうとして、できなかった。
アズサちゃんが先生を見る。
「何かあれば、知らせてほしい」
「必ず」
先生は言った。
アズサちゃんは一度だけ頷く。
ヒフミたちは廊下を戻り始めた。
足取りは重い。
誰も、冗談を言わなかった。
曲がり角の前で、ヒフミはもう一度振り返った。
古い校舎側の通路。
白い包装。
床の擦れた跡。
ミネ団長と先生の背中。
そこに、レナちゃんの姿だけがない。
画面は暗い。
それでもヒフミは端末を握ったまま、指を離せなかった。
返事が来るかもしれない。
今、既読がつくかもしれない。
レナちゃんが、すみません、少し遅れました、と送ってくるかもしれない。
そう思って、何度も画面を見てしまう。
けれど、何も変わらない。
その夜、補習授業部の教室には誰も戻らなかった。
黒板には、コハルちゃんの文字が残ったままだった。
次は絶対合格。
その白い粉の跡の下に、レナちゃんの笑い声だけが、もうどこにも残っていなかった。