戦えない私がキヴォトス中の生徒に執着されるまで 作:Zuzuiikb
眠れなかった。
隠れ家の灯りは落とされていたけれど、部屋の中が真っ暗になることはなかった。古い棚の隙間から、細い光が少しだけ漏れている。壁の奥で水が落ちる音がして、時々、どこか遠くの配管が小さく鳴った。
私は壁際に座ったまま、前で拘束された手を膝の上に置いていた。
後ろではない。
それだけで、少し呼吸がしやすい。
でも、自由ではない。
指を開くと、手首の皮膚が少し引っ張られる。長い時間縛られていたせいで、関節の奥が鈍く痛んだ。動かせるのに、動かしてはいけない。触れるのに、触れてはいけない。
それが、思ったより苦しかった。
サオリさんは扉の近くにいた。眠ってはいない。背中を壁につけ、片膝を立てた姿勢で、外の音を聞いている。肩の処置は一応保っていた。けれど、無理に動けば布はずれる。
確認したい、と思った。
思ってから、すぐに唇を結ぶ。
私は捕虜だ。
見たいから見る。気になるから触る。そういうことが許される場所ではない。
ヒヨリさんは壁際で膝を抱えていた。足を投げ出すようにしているのは、たぶん負担をかけないためだ。けれど、前ほど露骨に痛そうにはしていない。処置は少なくとも、朝までは保っている。
ミサキさんは少し離れた場所に座っていた。
眠っているのかと思った。
でも、目は開いている。
新しく巻いた包帯は袖の下に隠れて見えない。見えないのに、そこにあることだけは分かる。あの白さを、私はもう見てしまった。
アツコさんは灯りのそばで静かに座っていた。
眠っているのか起きているのか、よく分からない。けれど、サオリさんがわずかに顔を上げた瞬間、アツコさんも目を開けた。
何かが変わった。
そう思った時には、サオリさんが立ち上がっていた。
「移動する」
短い声だった。
ヒヨリさんが顔を上げる。
「今、ですか……?」
「救護騎士団の捕虜を取ってる以上、ここに長くいるのは危険だ」
救護騎士団。
胸が跳ねた。
ミネ団長が、探している。
先生も、きっと。
補習授業部も。
そこまで思って、喉が詰まった。
助けが近いのかもしれない。
でも、それはこの人たちにとって危険という意味だった。
「ヒヨリ、行けるか」
「……はい」
「無理なら今言え。経路を変える」
ヒヨリさんは一度だけ足元を見た。
言い訳を探すような沈黙ではなかった。自分の状態を、できるだけ正確に測ろうとしている間だった。
「少し遅れます。でも、歩けます」
「分かった」
サオリさんはそれ以上、何も言わなかった。
責めない。慰めない。
ただ、地図のような紙を広げて、予定していた線を指でなぞり、別の細い道へ印を移す。
それだけで、ヒヨリさんの肩から少しだけ力が抜けた。
アツコさんが棚の奥から外套を取り出して、ヒヨリさんへ渡す。
「これ」
「ありがとうございます、姫……」
「目立たない方がいい」
ヒヨリさんは小さく頷いた。
サオリさんは次に、私を見た。
「レナ」
名前を呼ばれて、体が強張った。
「移動中は声を出すな。指示があるまで歩け。止まれと言われたら止まれ」
「……はい」
「転びそうなら言え。音を出される方が困る」
「分かりました」
気遣いではない。
でも、転んでもいいとは言われていない。
その違いに気づいてしまう自分が、少し嫌だった。
「ミサキ」
「ん」
「拘束を確認しろ」
ミサキさんが近づいてくる。
手首の結び目を確認する手つきは淡々としていた。きつすぎない。緩すぎない。昨日のように後ろで縛られていた時より、ずっとましだった。
でも、動けないことに変わりはない。
ミサキさんの指が離れる。
「緩んでない」
「姫は中央。ヒヨリは壁側。ミサキ、後方。私は前に出る」
「いつも通り」
ミサキさんが言った。
低い声。
それだけなのに、少しだけ空気が締まった。
いつも通り。
この人たちにとって、暗い通路を移動することも、追手を避けることも、息を殺して行動することも、いつも通りなのだ。
私は、その「いつも」を知らない。
知りたくなかった。
でも、もう少しだけ知ってしまっている。
隠れ家を出る前に、サオリさんは一度だけ室内を見渡した。
道具ではなく、人を見ていた。
ヒヨリさん。
ミサキさん。
アツコさん。
最後に、私。
「行く」
扉が開いた。
冷たい空気が流れ込んでくる。
地下の通路は、昨夜よりさらに暗く見えた。足元の石が湿っている。壁の配管から水が滲んで、細い線になって床へ落ちている。歩くたびに、靴底がかすかに鳴った。
音を立てないように歩く。
それだけで体がこわばる。
前にはサオリさん。
少し斜め前にアツコさん。外套の裾が揺れる。
ヒヨリさんは壁側を歩いている。
後ろにはミサキさん。足音が薄い。
私はその間にいた。
捕虜。
でも、置いていかれなかった。
それが良いことなのか悪いことなのか、分からない。
通路をいくつか曲がった。
サオリさんは迷わない。ミサキさんも、アツコさんも、ヒヨリさんも、どこで頭を下げるか、どの床石を避けるか知っている。私は知らないから、一歩ごとに遅れそうになる。
「足元」
後ろからミサキさんの声。
見下ろすと、床の一部が少し浮いていた。
踏めば音が出たかもしれない。
「……ありがとうございます」
「音が出ると困る」
短い返事だった。
お礼を受け取ったわけではない。
でも、教えてくれたことは事実だった。
私は浮いた床石を避ける。
しばらく歩くと、空気が少し変わった。
外が近い。
冷たい風が、かすかに通路の奥から入り込んでいる。どこかに出口があるのだと思った瞬間、遠くで足音が聞こえた。
サオリさんの手が上がる。
全員が止まった。
私も止まる。
心臓だけが、遅れて大きく鳴った。
足音は複数。
こちらへ来る。
サオリさんがわずかに振り返り、目だけでミサキさんに合図した。ミサキさんは音もなく横へずれる。ヒヨリさんは壁に背を寄せる。アツコさんは灯りの届かない影の方へ下がった。
私は、どうすればいいのか分からなかった。
足が動かない。
「しゃがめ」
サオリさんの声。
私はすぐに膝を折った。
手首が前で縛られているせいで、体勢が取りづらい。床に触れそうになって、指を開こうとして、拘束に引っかかる。
音を出さないようにするだけで、息が苦しくなった。
足音が近づく。
「この辺りも確認しろって言われたけどさぁ……」
知らない声だった。
トリニティの生徒。
救護騎士団ではない。たぶん、巡回か、校舎管理の生徒。声は緊張しているというより、少し面倒そうだった。
「古い通路って、まだ使われてたんだね」
「さあ。先生たちが何か探してるって話だけど」
先生。
私は顔を上げかけた。
その瞬間、ミサキさんの手が肩に触れた。
強くはない。
でも、止まった。
声を出してはいけない。
出せば、この人たちに見つかる。
見つかれば、助かるかもしれない。
私は捕まっている。助けを呼ぶべきだ。ここで声を出せば、きっと先生やミネ団長に繋がる。
そのはずなのに、喉が動かなかった。
サオリさんの肩。
ミサキさんの包帯。
ヒヨリさんの小さく詰めた息。
アツコさんの静かな横顔。
違う。
そんなことを考える場面じゃない。
私は、助けを呼ぶべきなのに。
「止まれ」
サオリさんの声が、ほとんど息のように落ちる。
巡回の足音が、すぐ近くで止まった。
懐中灯の光が、通路の壁をなぞる。
白い光が、床の水たまりを照らした。
その光が、私の足元に近づく。
まずい。
そう思った瞬間、サオリさんが動いた。
大きな音はなかった。サオリさんは影から一歩出て、巡回の生徒の視線を別の方向へ誘導するように、小さな金属片を通路の奥へ投げた。
カン、と音が鳴る。
「何?」
巡回の生徒たちが反射的にそちらを見る。
その隙に、ミサキさんが低い位置から動いた。
銃声は一発だけ。
耳をつんざくほどではない。けれど、狭い通路では十分すぎる音だった。照明の近くの古い配管が弾け、白い蒸気のようなものが噴き出す。
「うわっ!?」
「な、何!?」
巡回の生徒たちが怯む。
サオリさんが言う。
「退く。交戦しない」
交戦しない。
その言葉で、少しだけ意味が分かった。
倒すためではない。
逃げるため。
ミサキさんがすぐ後ろへ下がる。ヒヨリさんとアツコさんも動く。私は立ち上がろうとして、手首の拘束でバランスを崩しかけた。
その時、サオリさんの手が私の腕を掴んだ。
「立て」
「っ、はい」
強く引かれる。
痛い。
でも、転ばなかった。
通路の奥で、巡回の生徒が叫んでいる。誰かが連絡を取ろうとしている声もした。足音が増える前に、ここを離れないといけない。
分かる。
分かるのに、私は一度だけ振り返ってしまった。
白い蒸気の向こうで、巡回の生徒の一人が膝をついていた。
倒されたわけではない。
たぶん、驚いて転んだのだと思う。けれど、膝か腕を打ったらしい。もう一人が慌てて支えている。
怪我。
胸が跳ねる。
足が止まりかけた。
「レナ」
サオリさんの声。
低い。
怒鳴ってはいない。
けれど、こちらの迷いを許さない声だった。
「今は連れて行く」
「でも、あの人が」
「戻らせるわけにはいかない」
言葉が、冷たく落ちた。
私はサオリさんを見た。
サオリさんの目は、巡回の生徒ではなく私を見ている。
「お前は私たちの顔を見た。名前を聞いた。ここまでの経路も見ている」
「……私は」
「善意かどうかは関係ない」
喉が詰まった。
「戻れば話す。話さなくても調べられる。そうなれば、こちらの位置が割れる」
正しい。
この人の中では、全部繋がっている。
私が誰かを救護したいと思うこと。
私がトリニティへ戻ること。
先生やミネ団長に保護されること。
その全部が、アリウスの潜伏を壊す危険になる。
私は、もう返してもらえる人ではない。
捕まったまま連れて行かれる理由がある。
そのことが、胸の奥を冷たくした。
「……でも」
声は出た。
小さく、情けない声だった。
「怪我している人を、見たら」
「お前の判断は採用しない」
サオリさんは言った。
責めているのではない。
説得しているのでもない。
ただ、決定を告げている。
「今は歩け」
腕を引かれる。
私は足を動かした。
動かした瞬間、自分が何かを置いてきたような気がした。
通路を抜ける。
曲がる。
さらに細い階段を上る。
後ろで声が遠ざかっていく。助けを呼ぶ声。何かを確認する声。トリニティの生徒の声。
私はその全部から離れていく。
助かったのか、逃げたのか、分からなかった。
階段を上がりきると、外気が少し入る場所に出た。
古い倉庫の裏手。低い壁と植え込みに隠れた、ほとんど使われていない抜け道だった。空はまだ暗い。夜明け前の色が、建物の輪郭を薄く浮かび上がらせている。
全員が一度止まった。
サオリさんは周囲を確認する。肩の布に指が触れたけれど、すぐに離した。ミサキさんは後方を見ている。ヒヨリさんは呼吸を整え、アツコさんは外套の裾を直していた。
私は、まださっきの巡回の生徒のことを考えていた。
膝をついた人。
白い蒸気。
自分の足が止まりかけた瞬間。
それを止めたサオリさんの声。
お前の判断は採用しない。
捕虜。
その言葉を、もう一度突きつけられた気がした。
ミサキさんが低く言う。
「全部見ると、壊れるよ」
私は顔を上げる。
ミサキさんは、こちらを見ていなかった。
「見たもの全部に手を伸ばしたら、手が足りなくなる。足りなくなったら、落とす。落としたものは、後で残る」
長い言葉だった。
熱はない。
でも、妙に具体的だった。
「だから、最初から持たない方がいい」
私は息を止めた。
その言葉が、ミサキさん自身の話に聞こえたから。
サオリさんが短く言う。
「ミサキ」
「分かってる」
ミサキさんは口を閉じた。
でも、言葉はもう残ってしまっていた。
持たない方がいい。
そうなのかもしれない。
でも、私はもう持ってしまっている。
サオリさんが地図を確認し直していると、ミサキさんがふと呟いた。
「この先、先生側の警戒も増えると思う」
先生。
今度は、はっきり聞こえた。
私は顔を上げる。
サオリさんの目が、すぐにこちらへ向いた。
遅かった。
聞いてしまった。
「先生……?」
声が出ていた。
サオリさんは黙っている。
ヒヨリさんが小さく息を飲んだ。
アツコさんは、こちらを見ていた。
ミサキさんは視線を外す。
サオリさんが一歩近づいた。
「お前が知る必要はない」
冷たい声ではなかった。
でも、そこに壁ができた。
「先生に、何をするつもりですか」
言った瞬間、手首の拘束が急に重くなる。
怖い。
でも、今のは聞かないと駄目だった。
サオリさんは私を見下ろした。
青みの髪が、夜明け前の薄い光を受けて暗く沈んでいる。
「答える理由がない」
「あります」
自分でも驚くくらい、すぐに言葉が出た。
「私にあります」
サオリさんの目が少しだけ細くなった。
ミサキさんがこちらを見る。
ヒヨリさんは真っ青になっていた。
アツコさんは動かない。
「先生を傷つけるつもりなら、私は」
そこまで言って、続きが出なかった。
何ができる?
手首は縛られている。
武器もない。
逃げることすらできない。
それでも、言わなければならなかった。
「私は止めます」
サオリさんはしばらく黙っていた。
怒鳴られなかった。
銃を向けられることもなかった。
ただ、静かに見られた。
「お前がどうにかして止まるものではない」
サオリさんが言う。
「分かっています」
「分かっていない」
声が、少しだけ深くなる。
荒くはない。
でも、そこには切り捨てるような重さがあった。
「お前は何も知らない。ここで何が起きているのかも、私たちが何を背負っているのかも」
私は何も言えなかった。
正しい。
私は知らない。
アリウスのことも。
この人たちの過去も。
アツコさんがなぜ姫と呼ばれるのかも。
先生の名前が、どうしてこの人たちの作戦に出てくるのかも。
何も知らない。
でも、知らないから黙れるほど、私は器用ではなかった。
「……知らないです」
声が震える。
「でも、先生のことは知っています」
サオリさんの表情は変わらない。
けれど、夜明け前の空気が、少しだけ張り詰めた。
「先生は、生徒を道具みたいに扱わない人です」
言ってから、胸が痛くなった。
サオリさんたちがどう受け取るか分からない。
でも、言葉は戻らない。
ミサキさんが小さく息を吐いた。
「……そういう大人もいるんだ」
声は低かった。
信じているようには聞こえなかった。
信じていない、と決めつけているようにも聞こえなかった。
ただ、遠いものを見る声だった。
アツコさんが静かに言う。
「先生って、そういう人?」
私を見る目は、いつもと同じように静かだった。
でも、少しだけ違った。
私は頷いた。
「はい」
サオリさんが視線を切る。
「移動を再開する」
話は終わった。
そう告げる声だった。
でも、私の中では終わらなかった。
先生。
この人たちは、先生に関わる何かをしようとしている。
ただ連れ去られただけではない。
怪我人を見つけただけでもない。
私は、もっと大きなものの中に入ってしまった。
そう分かってしまった。
歩き出す。
夜明け前の空気は冷たい。
手首の拘束は前にある。
救護バッグは戻っていない。
先生に連絡する手段もない。
それでも、胸の奥でさっきの言葉だけが消えなかった。