戦えない私がキヴォトス中の生徒に執着されるまで   作:Zuzuiikb

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第11話 濡れた通路

 

 眠れなかった。

 

 隠れ家の灯りは落とされていたけれど、部屋の中が真っ暗になることはなかった。古い棚の隙間から、細い光が少しだけ漏れている。壁の奥で水が落ちる音がして、時々、どこか遠くの配管が小さく鳴った。

 

 私は壁際に座ったまま、前で拘束された手を膝の上に置いていた。

 

 後ろではない。

 

 それだけで、少し呼吸がしやすい。

 

 でも、自由ではない。

 

 指を開くと、手首の皮膚が少し引っ張られる。長い時間縛られていたせいで、関節の奥が鈍く痛んだ。動かせるのに、動かしてはいけない。触れるのに、触れてはいけない。

 

 それが、思ったより苦しかった。

 

 サオリさんは扉の近くにいた。眠ってはいない。背中を壁につけ、片膝を立てた姿勢で、外の音を聞いている。肩の処置は一応保っていた。けれど、無理に動けば布はずれる。

 

 確認したい、と思った。

 

 思ってから、すぐに唇を結ぶ。

 

 私は捕虜だ。

 

 見たいから見る。気になるから触る。そういうことが許される場所ではない。

 

 ヒヨリさんは壁際で膝を抱えていた。足を投げ出すようにしているのは、たぶん負担をかけないためだ。けれど、前ほど露骨に痛そうにはしていない。処置は少なくとも、朝までは保っている。

 

 ミサキさんは少し離れた場所に座っていた。

 

 眠っているのかと思った。

 

 でも、目は開いている。

 

 新しく巻いた包帯は袖の下に隠れて見えない。見えないのに、そこにあることだけは分かる。あの白さを、私はもう見てしまった。

 

 アツコさんは灯りのそばで静かに座っていた。

 

 眠っているのか起きているのか、よく分からない。けれど、サオリさんがわずかに顔を上げた瞬間、アツコさんも目を開けた。

 

 何かが変わった。

 

 そう思った時には、サオリさんが立ち上がっていた。

 

「移動する」

 

 短い声だった。

 

 ヒヨリさんが顔を上げる。

 

「今、ですか……?」

 

「救護騎士団の捕虜を取ってる以上、ここに長くいるのは危険だ」

 

 救護騎士団。

 

 胸が跳ねた。

 

 ミネ団長が、探している。

 

 先生も、きっと。

 

 補習授業部も。

 

 そこまで思って、喉が詰まった。

 

 助けが近いのかもしれない。

 

 でも、それはこの人たちにとって危険という意味だった。

 

「ヒヨリ、行けるか」

 

「……はい」

 

「無理なら今言え。経路を変える」

 

 ヒヨリさんは一度だけ足元を見た。

 

 言い訳を探すような沈黙ではなかった。自分の状態を、できるだけ正確に測ろうとしている間だった。

 

「少し遅れます。でも、歩けます」

 

「分かった」

 

 サオリさんはそれ以上、何も言わなかった。

 

 責めない。慰めない。

 ただ、地図のような紙を広げて、予定していた線を指でなぞり、別の細い道へ印を移す。

 

 それだけで、ヒヨリさんの肩から少しだけ力が抜けた。

 

 アツコさんが棚の奥から外套を取り出して、ヒヨリさんへ渡す。

 

「これ」

 

「ありがとうございます、姫……」

 

「目立たない方がいい」

 

 ヒヨリさんは小さく頷いた。

 

 サオリさんは次に、私を見た。

 

「レナ」

 

 名前を呼ばれて、体が強張った。

 

「移動中は声を出すな。指示があるまで歩け。止まれと言われたら止まれ」

 

「……はい」

 

「転びそうなら言え。音を出される方が困る」

 

「分かりました」

 

 気遣いではない。

 

 でも、転んでもいいとは言われていない。

 

 その違いに気づいてしまう自分が、少し嫌だった。

 

「ミサキ」

 

「ん」

 

「拘束を確認しろ」

 

 ミサキさんが近づいてくる。

 

 手首の結び目を確認する手つきは淡々としていた。きつすぎない。緩すぎない。昨日のように後ろで縛られていた時より、ずっとましだった。

 

 でも、動けないことに変わりはない。

 

 ミサキさんの指が離れる。

 

「緩んでない」

 

「姫は中央。ヒヨリは壁側。ミサキ、後方。私は前に出る」

 

「いつも通り」

 

 ミサキさんが言った。

 

 低い声。

 

 それだけなのに、少しだけ空気が締まった。

 

 いつも通り。

 

 この人たちにとって、暗い通路を移動することも、追手を避けることも、息を殺して行動することも、いつも通りなのだ。

 

 私は、その「いつも」を知らない。

 

 知りたくなかった。

 

 でも、もう少しだけ知ってしまっている。

 

 隠れ家を出る前に、サオリさんは一度だけ室内を見渡した。

 

 道具ではなく、人を見ていた。

 

 ヒヨリさん。

 ミサキさん。

 アツコさん。

 最後に、私。

 

「行く」

 

 扉が開いた。

 

 冷たい空気が流れ込んでくる。

 

 地下の通路は、昨夜よりさらに暗く見えた。足元の石が湿っている。壁の配管から水が滲んで、細い線になって床へ落ちている。歩くたびに、靴底がかすかに鳴った。

 

 音を立てないように歩く。

 

 それだけで体がこわばる。

 

 前にはサオリさん。

 

 少し斜め前にアツコさん。外套の裾が揺れる。

 ヒヨリさんは壁側を歩いている。

 後ろにはミサキさん。足音が薄い。

 

 私はその間にいた。

 

 捕虜。

 

 でも、置いていかれなかった。

 

 それが良いことなのか悪いことなのか、分からない。

 

 通路をいくつか曲がった。

 

 サオリさんは迷わない。ミサキさんも、アツコさんも、ヒヨリさんも、どこで頭を下げるか、どの床石を避けるか知っている。私は知らないから、一歩ごとに遅れそうになる。

 

「足元」

 

 後ろからミサキさんの声。

 

 見下ろすと、床の一部が少し浮いていた。

 

 踏めば音が出たかもしれない。

 

「……ありがとうございます」

 

「音が出ると困る」

 

 短い返事だった。

 

 お礼を受け取ったわけではない。

 でも、教えてくれたことは事実だった。

 

 私は浮いた床石を避ける。

 

 しばらく歩くと、空気が少し変わった。

 

 外が近い。

 

 冷たい風が、かすかに通路の奥から入り込んでいる。どこかに出口があるのだと思った瞬間、遠くで足音が聞こえた。

 

 サオリさんの手が上がる。

 

 全員が止まった。

 

 私も止まる。

 

 心臓だけが、遅れて大きく鳴った。

 

 足音は複数。

 

 こちらへ来る。

 

 サオリさんがわずかに振り返り、目だけでミサキさんに合図した。ミサキさんは音もなく横へずれる。ヒヨリさんは壁に背を寄せる。アツコさんは灯りの届かない影の方へ下がった。

 

 私は、どうすればいいのか分からなかった。

 

 足が動かない。

 

「しゃがめ」

 

 サオリさんの声。

 

 私はすぐに膝を折った。

 

 手首が前で縛られているせいで、体勢が取りづらい。床に触れそうになって、指を開こうとして、拘束に引っかかる。

 

 音を出さないようにするだけで、息が苦しくなった。

 

 足音が近づく。

 

「この辺りも確認しろって言われたけどさぁ……」

 

 知らない声だった。

 

 トリニティの生徒。

 

 救護騎士団ではない。たぶん、巡回か、校舎管理の生徒。声は緊張しているというより、少し面倒そうだった。

 

「古い通路って、まだ使われてたんだね」

 

「さあ。先生たちが何か探してるって話だけど」

 

 先生。

 

 私は顔を上げかけた。

 

 その瞬間、ミサキさんの手が肩に触れた。

 

 強くはない。

 

 でも、止まった。

 

 声を出してはいけない。

 

 出せば、この人たちに見つかる。

 

 見つかれば、助かるかもしれない。

 

 私は捕まっている。助けを呼ぶべきだ。ここで声を出せば、きっと先生やミネ団長に繋がる。

 

 そのはずなのに、喉が動かなかった。

 

 サオリさんの肩。

 ミサキさんの包帯。

 ヒヨリさんの小さく詰めた息。

 アツコさんの静かな横顔。

 

 違う。

 

 そんなことを考える場面じゃない。

 

 私は、助けを呼ぶべきなのに。

 

「止まれ」

 

 サオリさんの声が、ほとんど息のように落ちる。

 

 巡回の足音が、すぐ近くで止まった。

 

 懐中灯の光が、通路の壁をなぞる。

 

 白い光が、床の水たまりを照らした。

 

 その光が、私の足元に近づく。

 

 まずい。

 

 そう思った瞬間、サオリさんが動いた。

 

 大きな音はなかった。サオリさんは影から一歩出て、巡回の生徒の視線を別の方向へ誘導するように、小さな金属片を通路の奥へ投げた。

 

 カン、と音が鳴る。

 

「何?」

 

 巡回の生徒たちが反射的にそちらを見る。

 

 その隙に、ミサキさんが低い位置から動いた。

 

 銃声は一発だけ。

 

 耳をつんざくほどではない。けれど、狭い通路では十分すぎる音だった。照明の近くの古い配管が弾け、白い蒸気のようなものが噴き出す。

 

「うわっ!?」

 

「な、何!?」

 

 巡回の生徒たちが怯む。

 

 サオリさんが言う。

 

「退く。交戦しない」

 

 交戦しない。

 

 その言葉で、少しだけ意味が分かった。

 

 倒すためではない。

 

 逃げるため。

 

 ミサキさんがすぐ後ろへ下がる。ヒヨリさんとアツコさんも動く。私は立ち上がろうとして、手首の拘束でバランスを崩しかけた。

 

 その時、サオリさんの手が私の腕を掴んだ。

 

「立て」

 

「っ、はい」

 

 強く引かれる。

 

 痛い。

 

 でも、転ばなかった。

 

 通路の奥で、巡回の生徒が叫んでいる。誰かが連絡を取ろうとしている声もした。足音が増える前に、ここを離れないといけない。

 

 分かる。

 

 分かるのに、私は一度だけ振り返ってしまった。

 

 白い蒸気の向こうで、巡回の生徒の一人が膝をついていた。

 

 倒されたわけではない。

 

 たぶん、驚いて転んだのだと思う。けれど、膝か腕を打ったらしい。もう一人が慌てて支えている。

 

 怪我。

 

 胸が跳ねる。

 

 足が止まりかけた。

 

「レナ」

 

 サオリさんの声。

 

 低い。

 

 怒鳴ってはいない。

 

 けれど、こちらの迷いを許さない声だった。

 

「今は連れて行く」

 

「でも、あの人が」

 

「戻らせるわけにはいかない」

 

 言葉が、冷たく落ちた。

 

 私はサオリさんを見た。

 

 サオリさんの目は、巡回の生徒ではなく私を見ている。

 

「お前は私たちの顔を見た。名前を聞いた。ここまでの経路も見ている」

 

「……私は」

 

「善意かどうかは関係ない」

 

 喉が詰まった。

 

「戻れば話す。話さなくても調べられる。そうなれば、こちらの位置が割れる」

 

 正しい。

 

 この人の中では、全部繋がっている。

 

 私が誰かを救護したいと思うこと。

 私がトリニティへ戻ること。

 先生やミネ団長に保護されること。

 その全部が、アリウスの潜伏を壊す危険になる。

 

 私は、もう返してもらえる人ではない。

 

 捕まったまま連れて行かれる理由がある。

 

 そのことが、胸の奥を冷たくした。

 

「……でも」

 

 声は出た。

 

 小さく、情けない声だった。

 

「怪我している人を、見たら」

 

「お前の判断は採用しない」

 

 サオリさんは言った。

 

 責めているのではない。

 

 説得しているのでもない。

 

 ただ、決定を告げている。

 

「今は歩け」

 

 腕を引かれる。

 

 私は足を動かした。

 

 動かした瞬間、自分が何かを置いてきたような気がした。

 

 通路を抜ける。

 

 曲がる。

 

 さらに細い階段を上る。

 

 後ろで声が遠ざかっていく。助けを呼ぶ声。何かを確認する声。トリニティの生徒の声。

 

 私はその全部から離れていく。

 

 助かったのか、逃げたのか、分からなかった。

 

 階段を上がりきると、外気が少し入る場所に出た。

 

 古い倉庫の裏手。低い壁と植え込みに隠れた、ほとんど使われていない抜け道だった。空はまだ暗い。夜明け前の色が、建物の輪郭を薄く浮かび上がらせている。

 

 全員が一度止まった。

 

 サオリさんは周囲を確認する。肩の布に指が触れたけれど、すぐに離した。ミサキさんは後方を見ている。ヒヨリさんは呼吸を整え、アツコさんは外套の裾を直していた。

 

 私は、まださっきの巡回の生徒のことを考えていた。

 

 膝をついた人。

 白い蒸気。

 自分の足が止まりかけた瞬間。

 それを止めたサオリさんの声。

 

 お前の判断は採用しない。

 

 捕虜。

 

 その言葉を、もう一度突きつけられた気がした。

 

 ミサキさんが低く言う。

 

「全部見ると、壊れるよ」

 

 私は顔を上げる。

 

 ミサキさんは、こちらを見ていなかった。

 

「見たもの全部に手を伸ばしたら、手が足りなくなる。足りなくなったら、落とす。落としたものは、後で残る」

 

 長い言葉だった。

 

 熱はない。

 

 でも、妙に具体的だった。

 

「だから、最初から持たない方がいい」

 

 私は息を止めた。

 

 その言葉が、ミサキさん自身の話に聞こえたから。

 

 サオリさんが短く言う。

 

「ミサキ」

 

「分かってる」

 

 ミサキさんは口を閉じた。

 

 でも、言葉はもう残ってしまっていた。

 

 持たない方がいい。

 

 そうなのかもしれない。

 

 でも、私はもう持ってしまっている。

 

 サオリさんが地図を確認し直していると、ミサキさんがふと呟いた。

 

「この先、先生側の警戒も増えると思う」

 

 先生。

 

 今度は、はっきり聞こえた。

 

 私は顔を上げる。

 

 サオリさんの目が、すぐにこちらへ向いた。

 

 遅かった。

 

 聞いてしまった。

 

「先生……?」

 

 声が出ていた。

 

 サオリさんは黙っている。

 

 ヒヨリさんが小さく息を飲んだ。

 

 アツコさんは、こちらを見ていた。

 

 ミサキさんは視線を外す。

 

 サオリさんが一歩近づいた。

 

「お前が知る必要はない」

 

 冷たい声ではなかった。

 

 でも、そこに壁ができた。

 

「先生に、何をするつもりですか」

 

 言った瞬間、手首の拘束が急に重くなる。

 

 怖い。

 

 でも、今のは聞かないと駄目だった。

 

 サオリさんは私を見下ろした。

 

 青みの髪が、夜明け前の薄い光を受けて暗く沈んでいる。

 

「答える理由がない」

 

「あります」

 

 自分でも驚くくらい、すぐに言葉が出た。

 

「私にあります」

 

 サオリさんの目が少しだけ細くなった。

 

 ミサキさんがこちらを見る。

 

 ヒヨリさんは真っ青になっていた。

 

 アツコさんは動かない。

 

「先生を傷つけるつもりなら、私は」

 

 そこまで言って、続きが出なかった。

 

 何ができる?

 

 手首は縛られている。

 武器もない。

 逃げることすらできない。

 

 それでも、言わなければならなかった。

 

「私は止めます」

 

 サオリさんはしばらく黙っていた。

 

 怒鳴られなかった。

 

 銃を向けられることもなかった。

 

 ただ、静かに見られた。

 

「お前がどうにかして止まるものではない」

 

 サオリさんが言う。

 

「分かっています」

 

「分かっていない」

 

 声が、少しだけ深くなる。

 

 荒くはない。

 

 でも、そこには切り捨てるような重さがあった。

 

「お前は何も知らない。ここで何が起きているのかも、私たちが何を背負っているのかも」

 

 私は何も言えなかった。

 

 正しい。

 

 私は知らない。

 

 アリウスのことも。

 この人たちの過去も。

 アツコさんがなぜ姫と呼ばれるのかも。

 先生の名前が、どうしてこの人たちの作戦に出てくるのかも。

 

 何も知らない。

 

 でも、知らないから黙れるほど、私は器用ではなかった。

 

「……知らないです」

 

 声が震える。

 

「でも、先生のことは知っています」

 

 サオリさんの表情は変わらない。

 

 けれど、夜明け前の空気が、少しだけ張り詰めた。

 

「先生は、生徒を道具みたいに扱わない人です」

 

 言ってから、胸が痛くなった。

 

 サオリさんたちがどう受け取るか分からない。

 

 でも、言葉は戻らない。

 

 ミサキさんが小さく息を吐いた。

 

「……そういう大人もいるんだ」

 

 声は低かった。

 

 信じているようには聞こえなかった。

 

 信じていない、と決めつけているようにも聞こえなかった。

 

 ただ、遠いものを見る声だった。

 

 アツコさんが静かに言う。

 

「先生って、そういう人?」

 

 私を見る目は、いつもと同じように静かだった。

 

 でも、少しだけ違った。

 

 私は頷いた。

 

「はい」

 

 サオリさんが視線を切る。

 

「移動を再開する」

 

 話は終わった。

 

 そう告げる声だった。

 

 でも、私の中では終わらなかった。

 

 先生。

 

 この人たちは、先生に関わる何かをしようとしている。

 

 ただ連れ去られただけではない。

 

 怪我人を見つけただけでもない。

 

 私は、もっと大きなものの中に入ってしまった。

 

 そう分かってしまった。

 

 歩き出す。

 

 夜明け前の空気は冷たい。

 

 手首の拘束は前にある。

 救護バッグは戻っていない。

 先生に連絡する手段もない。

 

 それでも、胸の奥でさっきの言葉だけが消えなかった。

 

 

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