戦えない私がキヴォトス中の生徒に執着されるまで   作:Zuzuiikb

118 / 119
第12話 赤い通信盤

 

「移動する」

 

 サオリさんの一言で、休息は終わった。

 

 何かを確認する時間も、気持ちを整える時間もなかった。ミサキさんが救護バッグを持ち、ヒヨリさんが足をかばいながら立ち上がる。アツコさんは灯りを消し、サオリさんは扉の前で外の気配を確認した。

 

 私は立つのが少し遅れた。

 

 手首は前で拘束されている。後ろで縛られていた時より歩きやすいはずなのに、自由になった感じはしない。両手が見えるぶん、余計に縛られていることが分かる。

 

「遅れるな」

 

「……はい」

 

 返事をすると、喉が少し掠れた。

 

 通路に出る。

 

 前をサオリさんが歩く。ヒヨリさんとアツコさんが続き、私はその後ろに入れられた。最後尾はミサキさん。逃げ道は、最初からそこにない。

 

 また歩かされる。

 

 どこへ向かっているのかは分からない。けれど、前よりも奥へ、暗い方へ進んでいることだけは分かった。

 

 白い校舎の気配は、もうほとんどなかった。

 

 途中で、サオリさんが足を止めた。

 

「巡回が増えている」

 

 それだけ言って、少し先の扉を見た。

 

 ミサキさんが小さく息を吐く。

 

「早いね」

 

「救護騎士団が気づいた可能性がある」

 

「先生も?」

 

 アツコさんが聞いた。

 

 先生。

 

 その名前に、指先が勝手に動いた。

 

 サオリさんは私を見なかった。

 

「可能性はある」

 

「先生が来たら……」

 

 言いかけて、私は止まった。

 

 聞かない方がいい。

 

 聞けば、もっと怖くなる。

 

 でも、知らないまま歩かされる方が嫌だった。

 

「先生が来たら、どうするんですか」

 

 サオリさんの視線が、少しだけこちらへ向いた。

 

「今それを聞くのか」

 

「聞きます」

 

 声は震えた。

 

 でも、引っ込めなかった。

 

「先生のことです」

 

「必要なら止める」

 

「止めるって、どうやって」

 

 返事はすぐには来なかった。

 

 その沈黙が、嫌だった。

 

 ミサキさんが後ろで言う。

 

「分かってるくせに」

 

「ミサキ」

 

 サオリさんが短く止める。

 

 ミサキさんは黙った。

 

 でも、もう遅かった。

 

 分かってるくせに。

 

 その言い方で、だいたい分かってしまった。

 

「撃つんですか」

 

 ヒヨリさんが息を詰める。

 

 サオリさんは、今度もすぐには否定しなかった。

 

「殺害が目的ではない」

 

「そういう言い方、しないでください」

 

「事実だ」

 

「目的じゃないなら、撃ってもいいんですか」

 

「妨害するなら排除する」

 

 排除。

 

 また、その言葉。

 

 私は唇を噛んだ。

 

「先生は、妨害なんかじゃありません」

 

「お前の見方ではな」

 

「普通はそうです」

 

「普通の話はしていない」

 

 サオリさんの声は低かった。

 

 怒っているわけではない。けれど、こちらの言葉を受け止めて考え直す声でもなかった。

 

「私たちは任務の話をしている」

 

「任務なら、何をしてもいいんですか」

 

「いいか悪いかで止まれるなら、ここにはいない」

 

 短い言葉だった。

 

 それだけで終わった。

 

 会話はそこで切れた。

 

 これ以上言っても、サオリさんは変わらない。ミサキさんも、たぶん変わらない。ヒヨリさんは泣きそうな顔をしていたけれど、何も言わなかった。

 

 怖かった。

 

 この人たちは、冷たいから怖いんじゃない。

 

 痛がっても、怯えても、嫌だと思っても、それでも命令の方へ戻っていく。

 

 その戻り方が、あまりにも自然だった。

 

「進む」

 

 サオリさんが言った。

 

 私たちはまた歩き出した。

 

 次に入った部屋は、前の隠れ家より狭かった。古い機材室のような場所で、壁際に棚と箱が並び、中央に低い机が置かれている。出入口は一つ。奥には小さな扉がある。

 

 サオリさんは入口の近くに立った。

 

「ここで短く休む。夜明け前に出る」

 

「はい……」

 

 ヒヨリさんが壁際に座る。

 

 ミサキさんは救護バッグを部屋の端に置いた。私からは届かない。端末も箱の中に入れられる。

 

 私は床に座るよう命じられた。

 

 座った。

 

 言われた通りに動く自分が、嫌だった。

 

 サオリさんたちは小さな声で確認を始めた。移動経路。巡回の間隔。先生が動いた場合。聞き取れない言葉もあったけれど、先生の名前だけは何度も耳に残った。

 

 先生に知らせないと。

 

 それだけが、はっきりしていく。

 

 この人たちは先生を撃つかもしれない。

 

 目的じゃないと言いながら、必要なら撃つ。

 

 それを、たぶん本当にできる。

 

 部屋の外へ出られれば、通路に通信盤があった。赤い蓋の古い非常通信盤。ここへ来る途中、曲がり角の壁に見えた。使えるかどうかは分からない。でも、警報だけでも鳴らせれば、誰かが気づくかもしれない。

 

 先生に直接届かなくてもいい。

 

 今は、何かを動かせればいい。

 

 私は目を閉じた。

 

 眠るためではない。眠っているように見せるため。

 

 しばらく待った。

 

 ヒヨリさんの呼吸が落ち着く。アツコさんは灯りのそばで動かない。サオリさんは扉近く。ミサキさんは壁際に座っている。

 

 ミサキさんが眠っているかどうかは分からない。

 

 でも、これ以上待てば夜明けが近づく。

 

 私はゆっくり膝を立てた。

 

 誰も動かない。

 

 立ち上がる。

 

 手首の布が擦れた。小さな音だった。それでも心臓が跳ねる。

 

 入口まで数歩。

 

 扉の金具を持ち上げる。少し重い。錆びた音が出そうになって、息を止めた。

 

 開いた。

 

 通路に出る。

 

 右は奥へ続く暗い道。左は短い通路で、曲がり角の先に赤い通信盤がある。

 

 左へ進んだ。

 

 走らない。

 

 走りたい。

 

 でも、走れば音が出る。

 

 曲がり角を曲がると、赤い蓋が見えた。古い壁の中で、そこだけがはっきり浮いている。

 

 あった。

 

 私は通信盤に近づき、縛られた手で蓋を引いた。

 

 硬い。

 

 もう一度、力を込める。

 

 蓋が開いた。

 

 中に赤いボタンが見えた。

 

 押せる。

 

 そう思った瞬間、横から腕を掴まれた。

 

「っ……!」

 

 体が引き戻される。足が滑った。肩が壁にぶつかり、息が詰まる。

 

 私は反射で通信盤へ手を伸ばした。

 

 届かなかった。

 

 手首の拘束ごと引き上げられ、肘を壁に押しつけられる。痛みで体が縮んだ。

 

「離して……!」

 

「無理」

 

 ミサキさんの声が近い。

 

 少しも乱れていない。

 

「押せてない」

 

 誰に言ったのか分からなかった。

 

 すぐに、サオリさんの足音が近づいた。

 

「切れ」

 

「ん」

 

「待って、やめてください!」

 

 私は声を上げた。

 

 ミサキさんの手に力が入る。肩がまた壁に押しつけられた。

 

「先生が危ないんです。あなたたちが、そう言ったんじゃないですか。撃つかもしれないって、そういうことを……!」

 

「だから切る」

 

 サオリさんは通信盤を見たまま言った。

 

 ミサキさんが中の線を引き抜く。

 

 小さな灯りが消えた。

 

 赤いボタンは、ただの赤い部品になった。

 

「……なんで」

 

 声が抜けた。

 

「なんで、そこまで」

 

「捕虜が通報しようとした。止める」

 

「先生に知らせようとしただけです」

 

「それが困る」

 

「先生が危ないからです」

 

「私たちの作戦が危なくなる」

 

 サオリさんはようやくこちらを見た。

 

 その目に、迷いはなかった。

 

「同じことだと思うなら、お前はここでは動けない」

 

「ここって、何ですか」

 

 自分でも、何を聞いているのか分からなかった。

 

「ここはトリニティですよ。学園の中ですよ。先生だって、生徒だって、みんな……」

 

「場所で命令は変わらない」

 

 サオリさんの声が、少しだけ硬くなった。

 

「アリウスではそう教わる」

 

 それ以上、言葉が出なかった。

 

 ミサキさんが私の腕をさらに上へ押さえる。

 

「痛い」

 

「動くから」

 

「離して」

 

「離さない」

 

 会話にならない。

 

 お願いも、説明も、届かない。

 

「部屋へ戻す」

 

 サオリさんが言った。

 

 ミサキさんが私を引く。支えられているのではない。倒れない程度に引きずられているだけだった。足がもつれて、膝が床につきそうになる。

 

「歩いて」

 

「……っ」

 

「歩けるでしょ」

 

 歩ける。

 

 歩けるけど、そういうことじゃない。

 

 でも歩かなければ、また腕を引かれる。

 

 部屋に戻ると、ヒヨリさんが立っていた。顔色が悪い。外套の端を握ったまま、こちらを見ている。

 

「レナさん……」

 

 私は返事をしなかった。

 

 返事をする余裕がなかった。

 

「ヒヨリ」

 

 サオリさんが短く呼ぶ。

 

「通路を見ろ。誰か来たら知らせる」

 

「でも……」

 

「ヒヨリ」

 

「……はい」

 

 ヒヨリさんは私を見た。

 

 泣きそうな顔だった。

 

 それでも、通路へ向いた。

 

 それがいちばん怖かった。

 

 ミサキさんが私の拘束を結び直す。今度は結び目が見えない位置に回された。余りも短い。指で探っても、ほどけそうなところがない。

 

「逃げ方は悪くなかった」

 

 ミサキさんが言った。

 

「通信盤を選んだのも、たぶん正しい」

 

「なら、通してください」

 

「無理」

 

「じゃあ、言わないでください」

 

 声が少し荒くなった。

 

 ミサキさんは怒らなかった。

 

「怒ってる?」

 

「怒ってます」

 

「そっか」

 

「そっか、じゃないです」

 

 言ってから、息が震えた。

 

「先生を撃つかもしれない人たちに捕まって、知らせようとしたら止められて、今度は先生のことを聞かれるって分かって……怒らない方がおかしいです」

 

 ミサキさんは、少しだけ黙った。

 

「おかしいのは、たぶんこっちだよ」

 

 その声は低かった。

 

 でも、それだけだった。

 

 サオリさんが奥の小部屋の扉を開ける。白い灯りが漏れた。

 

「移す」

 

 短い命令。

 

 アツコさんが、灯りのそばから私を見た。

 

「レナは、先生に来てほしいの?」

 

 私はすぐに答えられなかった。

 

 来てほしい。

 

 来てほしくない。

 

 危ないと知らせたい。

 

 でも、危ない場所へ来てほしくない。

 

 どれか一つだけなら、簡単だった。

 

「……来てほしくないです」

 

 やっと言えた。

 

「でも、知らせたかった」

 

 アツコさんは瞬きをした。

 

「そう」

 

 それ以上は聞かなかった。

 

 サオリさんがこちらを見る。

 

「先生について聞く」

 

 喉が乾いた。

 

「話しません」

 

「今はそれでいい」

 

「あとでも話しません」

 

「それを確認する」

 

 ミサキさんが私の腕を取る。

 

 私は奥の部屋へ入れられた。

 

 扉が閉まる。

 

 赤い通信盤は、もう見えない。

 

 先生に届くはずだったものは、通路の向こうで切られたまま残っている。

 

 私は、縛られた手を握った。

 

 話さない。

 

 そう決めることだけが、今できる全部だった。




本当に書くのが難しいアリウス。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。