戦えない私がキヴォトス中の生徒に執着されるまで 作:Zuzuiikb
「移動する」
サオリさんの一言で、休息は終わった。
何かを確認する時間も、気持ちを整える時間もなかった。ミサキさんが救護バッグを持ち、ヒヨリさんが足をかばいながら立ち上がる。アツコさんは灯りを消し、サオリさんは扉の前で外の気配を確認した。
私は立つのが少し遅れた。
手首は前で拘束されている。後ろで縛られていた時より歩きやすいはずなのに、自由になった感じはしない。両手が見えるぶん、余計に縛られていることが分かる。
「遅れるな」
「……はい」
返事をすると、喉が少し掠れた。
通路に出る。
前をサオリさんが歩く。ヒヨリさんとアツコさんが続き、私はその後ろに入れられた。最後尾はミサキさん。逃げ道は、最初からそこにない。
また歩かされる。
どこへ向かっているのかは分からない。けれど、前よりも奥へ、暗い方へ進んでいることだけは分かった。
白い校舎の気配は、もうほとんどなかった。
途中で、サオリさんが足を止めた。
「巡回が増えている」
それだけ言って、少し先の扉を見た。
ミサキさんが小さく息を吐く。
「早いね」
「救護騎士団が気づいた可能性がある」
「先生も?」
アツコさんが聞いた。
先生。
その名前に、指先が勝手に動いた。
サオリさんは私を見なかった。
「可能性はある」
「先生が来たら……」
言いかけて、私は止まった。
聞かない方がいい。
聞けば、もっと怖くなる。
でも、知らないまま歩かされる方が嫌だった。
「先生が来たら、どうするんですか」
サオリさんの視線が、少しだけこちらへ向いた。
「今それを聞くのか」
「聞きます」
声は震えた。
でも、引っ込めなかった。
「先生のことです」
「必要なら止める」
「止めるって、どうやって」
返事はすぐには来なかった。
その沈黙が、嫌だった。
ミサキさんが後ろで言う。
「分かってるくせに」
「ミサキ」
サオリさんが短く止める。
ミサキさんは黙った。
でも、もう遅かった。
分かってるくせに。
その言い方で、だいたい分かってしまった。
「撃つんですか」
ヒヨリさんが息を詰める。
サオリさんは、今度もすぐには否定しなかった。
「殺害が目的ではない」
「そういう言い方、しないでください」
「事実だ」
「目的じゃないなら、撃ってもいいんですか」
「妨害するなら排除する」
排除。
また、その言葉。
私は唇を噛んだ。
「先生は、妨害なんかじゃありません」
「お前の見方ではな」
「普通はそうです」
「普通の話はしていない」
サオリさんの声は低かった。
怒っているわけではない。けれど、こちらの言葉を受け止めて考え直す声でもなかった。
「私たちは任務の話をしている」
「任務なら、何をしてもいいんですか」
「いいか悪いかで止まれるなら、ここにはいない」
短い言葉だった。
それだけで終わった。
会話はそこで切れた。
これ以上言っても、サオリさんは変わらない。ミサキさんも、たぶん変わらない。ヒヨリさんは泣きそうな顔をしていたけれど、何も言わなかった。
怖かった。
この人たちは、冷たいから怖いんじゃない。
痛がっても、怯えても、嫌だと思っても、それでも命令の方へ戻っていく。
その戻り方が、あまりにも自然だった。
「進む」
サオリさんが言った。
私たちはまた歩き出した。
次に入った部屋は、前の隠れ家より狭かった。古い機材室のような場所で、壁際に棚と箱が並び、中央に低い机が置かれている。出入口は一つ。奥には小さな扉がある。
サオリさんは入口の近くに立った。
「ここで短く休む。夜明け前に出る」
「はい……」
ヒヨリさんが壁際に座る。
ミサキさんは救護バッグを部屋の端に置いた。私からは届かない。端末も箱の中に入れられる。
私は床に座るよう命じられた。
座った。
言われた通りに動く自分が、嫌だった。
サオリさんたちは小さな声で確認を始めた。移動経路。巡回の間隔。先生が動いた場合。聞き取れない言葉もあったけれど、先生の名前だけは何度も耳に残った。
先生に知らせないと。
それだけが、はっきりしていく。
この人たちは先生を撃つかもしれない。
目的じゃないと言いながら、必要なら撃つ。
それを、たぶん本当にできる。
部屋の外へ出られれば、通路に通信盤があった。赤い蓋の古い非常通信盤。ここへ来る途中、曲がり角の壁に見えた。使えるかどうかは分からない。でも、警報だけでも鳴らせれば、誰かが気づくかもしれない。
先生に直接届かなくてもいい。
今は、何かを動かせればいい。
私は目を閉じた。
眠るためではない。眠っているように見せるため。
しばらく待った。
ヒヨリさんの呼吸が落ち着く。アツコさんは灯りのそばで動かない。サオリさんは扉近く。ミサキさんは壁際に座っている。
ミサキさんが眠っているかどうかは分からない。
でも、これ以上待てば夜明けが近づく。
私はゆっくり膝を立てた。
誰も動かない。
立ち上がる。
手首の布が擦れた。小さな音だった。それでも心臓が跳ねる。
入口まで数歩。
扉の金具を持ち上げる。少し重い。錆びた音が出そうになって、息を止めた。
開いた。
通路に出る。
右は奥へ続く暗い道。左は短い通路で、曲がり角の先に赤い通信盤がある。
左へ進んだ。
走らない。
走りたい。
でも、走れば音が出る。
曲がり角を曲がると、赤い蓋が見えた。古い壁の中で、そこだけがはっきり浮いている。
あった。
私は通信盤に近づき、縛られた手で蓋を引いた。
硬い。
もう一度、力を込める。
蓋が開いた。
中に赤いボタンが見えた。
押せる。
そう思った瞬間、横から腕を掴まれた。
「っ……!」
体が引き戻される。足が滑った。肩が壁にぶつかり、息が詰まる。
私は反射で通信盤へ手を伸ばした。
届かなかった。
手首の拘束ごと引き上げられ、肘を壁に押しつけられる。痛みで体が縮んだ。
「離して……!」
「無理」
ミサキさんの声が近い。
少しも乱れていない。
「押せてない」
誰に言ったのか分からなかった。
すぐに、サオリさんの足音が近づいた。
「切れ」
「ん」
「待って、やめてください!」
私は声を上げた。
ミサキさんの手に力が入る。肩がまた壁に押しつけられた。
「先生が危ないんです。あなたたちが、そう言ったんじゃないですか。撃つかもしれないって、そういうことを……!」
「だから切る」
サオリさんは通信盤を見たまま言った。
ミサキさんが中の線を引き抜く。
小さな灯りが消えた。
赤いボタンは、ただの赤い部品になった。
「……なんで」
声が抜けた。
「なんで、そこまで」
「捕虜が通報しようとした。止める」
「先生に知らせようとしただけです」
「それが困る」
「先生が危ないからです」
「私たちの作戦が危なくなる」
サオリさんはようやくこちらを見た。
その目に、迷いはなかった。
「同じことだと思うなら、お前はここでは動けない」
「ここって、何ですか」
自分でも、何を聞いているのか分からなかった。
「ここはトリニティですよ。学園の中ですよ。先生だって、生徒だって、みんな……」
「場所で命令は変わらない」
サオリさんの声が、少しだけ硬くなった。
「アリウスではそう教わる」
それ以上、言葉が出なかった。
ミサキさんが私の腕をさらに上へ押さえる。
「痛い」
「動くから」
「離して」
「離さない」
会話にならない。
お願いも、説明も、届かない。
「部屋へ戻す」
サオリさんが言った。
ミサキさんが私を引く。支えられているのではない。倒れない程度に引きずられているだけだった。足がもつれて、膝が床につきそうになる。
「歩いて」
「……っ」
「歩けるでしょ」
歩ける。
歩けるけど、そういうことじゃない。
でも歩かなければ、また腕を引かれる。
部屋に戻ると、ヒヨリさんが立っていた。顔色が悪い。外套の端を握ったまま、こちらを見ている。
「レナさん……」
私は返事をしなかった。
返事をする余裕がなかった。
「ヒヨリ」
サオリさんが短く呼ぶ。
「通路を見ろ。誰か来たら知らせる」
「でも……」
「ヒヨリ」
「……はい」
ヒヨリさんは私を見た。
泣きそうな顔だった。
それでも、通路へ向いた。
それがいちばん怖かった。
ミサキさんが私の拘束を結び直す。今度は結び目が見えない位置に回された。余りも短い。指で探っても、ほどけそうなところがない。
「逃げ方は悪くなかった」
ミサキさんが言った。
「通信盤を選んだのも、たぶん正しい」
「なら、通してください」
「無理」
「じゃあ、言わないでください」
声が少し荒くなった。
ミサキさんは怒らなかった。
「怒ってる?」
「怒ってます」
「そっか」
「そっか、じゃないです」
言ってから、息が震えた。
「先生を撃つかもしれない人たちに捕まって、知らせようとしたら止められて、今度は先生のことを聞かれるって分かって……怒らない方がおかしいです」
ミサキさんは、少しだけ黙った。
「おかしいのは、たぶんこっちだよ」
その声は低かった。
でも、それだけだった。
サオリさんが奥の小部屋の扉を開ける。白い灯りが漏れた。
「移す」
短い命令。
アツコさんが、灯りのそばから私を見た。
「レナは、先生に来てほしいの?」
私はすぐに答えられなかった。
来てほしい。
来てほしくない。
危ないと知らせたい。
でも、危ない場所へ来てほしくない。
どれか一つだけなら、簡単だった。
「……来てほしくないです」
やっと言えた。
「でも、知らせたかった」
アツコさんは瞬きをした。
「そう」
それ以上は聞かなかった。
サオリさんがこちらを見る。
「先生について聞く」
喉が乾いた。
「話しません」
「今はそれでいい」
「あとでも話しません」
「それを確認する」
ミサキさんが私の腕を取る。
私は奥の部屋へ入れられた。
扉が閉まる。
赤い通信盤は、もう見えない。
先生に届くはずだったものは、通路の向こうで切られたまま残っている。
私は、縛られた手を握った。
話さない。
そう決めることだけが、今できる全部だった。
本当に書くのが難しいアリウス。