戦えない私がキヴォトス中の生徒に執着されるまで   作:Zuzuiikb

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第13話 息のない沈黙

 

 

 

 私は、もう答えなかった。

 

 奥の部屋に入れられてから、何を聞かれても口を開かないと決めていた。先生のこと。エデン条約の会議のこと。ナギサ様に呼ばれていたこと。救護騎士団との連携。補習授業部の扱い。会場から救護所へ向かう道。

 

 知っていることも、知らないこともある。けれど、それを分けて話すこと自体が危なかった。分かりません、と言えば、その間を見られる。違います、と言えば、その否定を使われる。だったら、何も言わない。沈黙だけを握る。

 

 それが、私に残った最後の抵抗だった。

 

 部屋の照明は暗い。壁は古く、床は冷たい。窓はない。外の音もほとんど入ってこない。サオリさんは正面に立っていて、ミサキさんは少し横にいる。ヒヨリさんは入口の近く。アツコさんは壁際で、何も言わずにこちらを見ていた。

 

 静かだった。

 

 それが嫌だった。

 

 怒鳴られる方が、まだ人間らしい。ここには、怒りよりもずっと冷たいものがあった。必要だから聞く。必要だから殴る。必要だから息を奪う。そういう判断が、もう決まった形で置かれている。

 

「先生は、エデン条約の会議に出席するのか」

 

 サオリさんが聞いた。

 

 私は答えない。

 

「会議の前に、ナギサと会う予定はあるのか」

 

 答えない。

 

「先生は補習授業部の件をどこまで任されている」

 

 答えない。

 

 サオリさんの目が、少しだけ細くなった。

 

「黙るのか」

 

 私は何も言わなかった。

 

 次の瞬間、頬に衝撃が来た。

 

 視界が横に流れた。痛みより先に音が遅れて聞こえる。口の中に血の味がした気がした。声を出したくなかったのに、喉の奥から短い音が漏れた。

 

「……っ」

 

 返事じゃない。

 

 何も言っていない。

 

 そう思おうとしたけれど、サオリさんはそれに反応しなかった。ただ、同じ温度の声で続ける。

 

「先生は会議に出るのか」

 

 答えない。

 

 今度は腹に衝撃が入った。息が潰れる。体が前に折れて、膝が床に落ちた。縛られた手では受け身も取れない。冷たい床に倒れそうになったところで、腕を掴まれた。

 

「立て」

 

 無理。

 

 そう思っただけで、声には出さなかった。でも体は立てなかった。膝に力が入らない。息を戻したい。少しでいいから、丸まっていたい。

 

 ミサキさんが私の腕を引き上げた。

 

 支えられているのではない。倒れていられない形に戻されているだけだった。足元がふらつく。涙がにじむ。まだ始まったばかりだと分かっているのに、体はもう怖がっていた。

 

「顔を上げろ」

 

 私は上げなかった。

 

 上げたくなかった。

 

 涙が出ていたから。

 

 顎を掴まれ、無理に前を向かされる。サオリさんは私の顔を見ても、何も言わなかった。泣いていることも、息が乱れていることも、どうでもいいみたいだった。

 

「先生は会議の前に誰と会う」

 

 答えない。

 

「ナギサは先生に何を確認する」

 

 答えない。

 

「会場周辺で異常が起きた場合、先生は会議場へ向かうか、救護へ向かうか」

 

 答えない。

 

 サオリさんの手がまた動いた。

 

 頬が熱くなる。体が揺れる。倒れそうになる。倒れる前に戻される。質問が来る。答えない。衝撃が来る。息が乱れる。涙が落ちる。戻される。

 

 その繰り返しで、時間の感覚が少しずつ削れていった。

 

「先生が単独になる可能性がある場所はどこだ」

 

 答えない。

 

「救護騎士団の待機場所は」

 

 答えない。

 

「会議場から救護へ向かう最短の通路は」

 

 答えない。

 

 そこは、特に駄目だった。

 

 会議に出るかどうか。誰に呼ばれているか。何を任されているか。それらも言ってはいけない。でも、通路は違う。そこを渡せば、待てる。狙える。先生が通るかもしれない場所を、あの人たちに教えることになる。

 

 絶対に言わない。

 

 そこだけは、何があっても。

 

「ミサキ」

 

 サオリさんが名前を呼んだ。

 

 部屋の空気が変わった。

 

 ミサキさんが近づいてくる。足音は静かで、急いでいない。サオリさんの暴力みたいに、来ると分かるものではない。気づいた時には近くにいて、逃げ道がなくなっている。

 

「えらいね」

 

 耳元で、柔らかい声がした。

 

 私は肩を震わせた。

 

「サオリに叩かれても、蹴られても、まだ何も喋らないんだ」

 

 甘い声だった。

 

 だから怖かった。

 

「先生のこと、大事なんだね。会議のことも、ナギサのことも、救護のことも、全部守ってるつもりなんだ」

 

 答えない。

 

「でも、顔はもう守れてない」

 

 ミサキさんの指が、私の頬に触れた。涙の跡をなぞられる。優しい仕草に見えるのに、体が冷えた。

 

「泣いてる。震えてる。さっきまでちゃんと睨んでたのに、もうぐちゃぐちゃ」

 

「……」

 

「先生には見せられないね」

 

 その一言で、喉の奥が詰まった。

 

 見せたくない。

 

 こんな顔、先生に見られたくない。ミネ団長にも、ヒフミさんにも、コハルにも、誰にも見せたくない。私は救護騎士団で、助ける側で、誰かが痛がっていたら手を伸ばす側のはずだった。

 

 なのに今は、膝をついて、泣いて、何もできない。

 

「まだ黙るんだ」

 

 ミサキさんが言った。

 

「じゃあ、もう少し頑張ろうか」

 

 首元に圧がかかった。

 

 何をされたのか、最初は分からなかった。ただ息を吸おうとして、入ってこないことだけが分かった。

 

 もう一度吸おうとした。

 

 入ってこない。

 

 胸だけが持ち上がる。喉が勝手に動く。空気を探しているのに、空気がない。縛られた手が上がる。届かない。掴めない。剥がせない。足が床を擦って、体が勝手に逃げようとした。

 

 だめ。

 

 だめだめ。

 

 やばい。

 

 息。

 

 息が。

 

 なんで。

 

 入らな、

 

「ん゛、っ……ぐ……」

 

 変な音が出た。

 

 私の音だった。

 

 出したくない。聞かれたくない。こんなの声じゃない。返事じゃない。何も話していない。そう思いたいのに、喉の奥で潰れた音が部屋に落ちる。

 

「苦しいね」

 

 ミサキさんの声が近い。

 

「でも、喋らない。えらい」

 

 頭を撫でられた。

 

 優しく。

 

 ゆっくり。

 

 その手つきが嫌だった。あまりにも普通で、あまりにも優しくて、一瞬だけ、何をされているのか分からなくなる。慰められているみたいだった。褒められているみたいだった。でも違う。違う。絶対に違う。

 

 だめ。

 

 おちる。

 

 だめ。

 

 先生。

 

 会議。

 

 通路。

 

 だめ。

 

 息。

 

 息、息。

 

 ほしい。

 

 ほしい。

 

 やだ。

 

 助けて。

 

 違う。

 

 助けてなんて。

 

 違う。

 

「手、上がってる」

 

 ミサキさんが囁く。

 

「届かないね」

 

 嫌だ。

 

 そんなところを見ないで。

 

 縛られた手が空を掻いている。指が震えている。足が勝手に床を蹴っている。逃げようとしている。逃げられないのに、体だけが逃げようとしている。

 

「体は助けてって言ってる」

 

 違う。

 

 言ってない。

 

 言ってないはずなのに。

 

 もう駄目だと思った瞬間、急に緩んだ。

 

「っ、は、ぁ゛っ……げほ、っ、は……はぁ……!」

 

 空気が入ってきた。

 

 私は咳き込みながら息を吸った。吸う。まだ足りない。もっと欲しい。胸が痛い。喉が熱い。涙で何も見えない。口元が濡れている。みっともない音が出ている。

 

 でも、そんなことより息が欲しかった。

 

 助かった。

 

 そう思ってしまった。

 

「戻ってこられたね」

 

 ミサキさんが言った。

 

 頭を撫でる手は、そのままだった。

 

 やめて。

 

 触らないで。

 

 そう言いたいのに、息を吸うので精一杯で言葉にならない。

 

 サオリさんの声が落ちた。

 

「先生は、会議に出席するのか」

 

 答えない。

 

 答えない。

 

 言うな。

 

 喋るな。

 

「……」

 

「ミサキ」

 

「うん」

 

「いや……っ」

 

 声が出た。

 

 情けない声だった。

 

 その瞬間、自分で分かった。怖がっている。次に来るものを、体がもう覚えている。

 

 ミサキさんが小さく息を揺らした。

 

「大丈夫」

 

 大丈夫じゃない。

 

「少しだけ」

 

 少しじゃない。

 

「また頑張ろうね」

 

 今度は、ゆっくりだった。

 

 じわじわ息が細くなる。完全に止まるまでに少しだけ時間があって、その時間が一番怖かった。まだ吸える。まだ少し入る。いや、足りない。細い。足りない。足りない。

 

 だめ。

 

 これ、だめ。

 

 止まる。

 

 止まるって。

 

「っ、ん゛……!」

 

 私は首を振ろうとした。うまく動かない。頭を撫でていた手が、そのまま髪を押さえる。逃げないで、と言われた気がした。

 

「えらいね」

 

 ミサキさんが囁く。

 

「まだ先生のこと、言わない」

 

 言わない。

 

 言わない。

 

 言わな、

 

 息。

 

 息がない。

 

 頭が白い。

 

 考えが切れる。

 

 会議。ナギサ様。救護騎士団。補習授業部。通路。先生。

 

 だめ。

 

 だめだめだめだめ。

 

 言っちゃだめ。

 

 でも。

 

 おちる。

 

 今度こそ。

 

 ほんとに。

 

 おち、る。

 

 緩んだ。

 

 私は床に崩れた。咳が止まらない。息を吸おうとして、また咳になる。涙が落ちる。口元が濡れて、顎まで伝っているのが分かる。汚い。嫌だ。こんなの嫌だ。私はこんな顔で、こんな音で、床に膝をついて、ただ空気に縋っている。

 

 顔を伏せようとした。

 

 でも、顎を持ち上げられた。

 

「隠さないで」

 

 ミサキさんの声。

 

「今の顔、ちゃんと見えるようにして」

 

 嫌だ。

 

 見ないで。

 

 お願いだから。

 

 私は首を振った。弱く、何度も。言葉にならない声が喉で擦れる。

 

「や……やだ……」

 

 言ってしまった。

 

 もう嫌だと。

 

 その声が、いちばん情けなかった。泣きながら、息を乱しながら、口元も拭けないまま、子どもみたいに嫌だと言った。

 

「うん」

 

 ミサキさんは、また頭を撫でた。

 

「嫌だよね」

 

 優しい。

 

 優しいのに、終わらない。

 

 サオリさんの声が落ちる。

 

「先生は、会議に出席するのか」

 

 答えない。

 

 まだ、答えない。

 

 でも、ミサキさんの指が髪を梳く。

 

「頑張る?」

 

 私は首を振った。

 

 反射だった。

 

「や、です……」

 

「じゃあ、言おうか」

 

「だめ……だめ、です……」

 

「先生のため?」

 

 私は泣きながら頷いた。

 

「先生が撃たれるから?」

 

 その言葉で、胸が潰れた。

 

 ミサキさんの手が、少しずつ首元へ戻っていく。

 

 来る。

 

 また来る。

 

 体が先に知っている。

 

 肩が跳ねる。足が伸びる。縛られた手が震える。私はもう一度首を振った。お願い、やめて。言葉にしたら全部終わる気がして、声にはできなかった。

 

 圧が戻った。

 

 今度は短かった。

 

 でも、短いから平気なわけじゃない。

 

 一瞬で息が奪われて、一瞬で体が跳ねて、一瞬で頭が白くなる。足が床を蹴る。喉の奥で音が潰れる。涙が跳ねる。

 

 緩む。

 

「っ、は……!」

 

 吸った。

 

 吸った瞬間、また塞がれた。

 

「ん゛っ……!」

 

 さっきより短い。

 

 でも、分からない。

 

 いつ緩むのか分からない。

 

 今度は戻れるのか分からない。

 

 緩む。

 

 吸う。

 

 また。

 

 また来る。

 

 また。

 

 やだ。

 

 やだやだやだ。

 

 息が戻ったと思ったら、すぐに奪われる。助かったと思う暇もない。吸えたと思った瞬間に、体が裏切られたみたいに跳ねる。頭がぐらぐらする。何を守っていたのか、一瞬分からなくなる。

 

 サオリさんの声が遠くから聞こえた。

 

「出席するのか」

 

 答えない。

 

 答えたくない。

 

 でも、ミサキさんの手がまだそこにある。

 

 また来る。

 

 次も来る。

 

 来る。

 

 来る。

 

「……出、ます」

 

 言葉が落ちた。

 

 私の口から。

 

 私の声で。

 

 言った瞬間、息より冷たいものが胸の奥に落ちた。

 

 サオリさんはすぐに続ける。

 

「会議の前にナギサと会うのか」

 

 言うな。

 

 もう言うな。

 

 でも、ミサキさんの指が髪を撫でる。優しい。怖い。次に来る。来る。来る。

 

「……呼ばれて、ました」

 

「何のために」

 

「エデン条約の準備で……確認があるって。先生に……補習授業部のことも、任せるって」

 

「救護騎士団との連携は」

 

「必要があれば……先生か救護騎士団と、連絡を」

 

 喋っている。

 

 私が喋っている。

 

 止めなきゃ。

 

 でも、息がまだうまく入らない。頭がぼうっとする。次にまた奪われるかもしれないと思うだけで、体が勝手に震える。

 

「会場で異常が起きた場合、先生はどこへ動く」

 

「……救護の、方に」

 

「通路は」

 

 そこで、頭が少し戻った。

 

 だめ。

 

 そこは本当にだめ。

 

 会議に出ることも、ナギサ様に呼ばれていることも、救護の方へ動くかもしれないことも、もう言ってしまった。でも、通路は違う。そこを言えば、待てる。狙える。先生がどこを通るか、あの人たちに渡してしまう。

 

 私は首を振った。

 

「言えません……」

 

「答えろ」

 

「言えないです」

 

 声は震えていた。泣いているのも分かる。口元もまだうまく閉じられない。けれど、そこだけは駄目だった。

 

「先生が、撃たれるから」

 

 サオリさんの表情は変わらなかった。

 

「ミサキ」

 

 また、その名前。

 

 私は反射で体を引いた。

 

「いや……っ」

 

 嫌だ。

 

 もう嫌だ。

 

 さっきまで何度もそう思った。でも、今の嫌は違う。次に来るものを、体が覚えている。喉の奥が縮んで、まだ何もされていないのに息が浅くなる。

 

 ミサキさんが私の前にしゃがむ。

 

「えらいね」

 

 優しい声。

 

「そこは大事なんだ」

 

 私は首を振った。違う。褒めないで。そんな声で言わないで。

 

「会議のことは言っちゃった。ナギサのことも、救護のことも言っちゃった。でも通路だけは守るんだ」

 

 頭を撫でられる。

 

 ゆっくり。

 

 まるで泣いている子を落ち着かせるみたいに。

 

「偉いよ。まだ先生を守ってるつもりなんだ」

 

「……やめて」

 

 声が漏れた。

 

「やめてください……」

 

「うん」

 

 ミサキさんは頷いた。

 

「じゃあ、言おうか」

 

「言えない……」

 

「そっか」

 

 その声が近づいた。

 

 首元に、また圧がかかった。

 

 だめ。

 

 来た。

 

 息。

 

 息が。

 

 入らない。

 

 さっきより早い。体が先に暴れる。膝が床を擦る。縛られた手が意味もなく上がる。届かない。剥がせない。助けてなんて言えない。声が出ない。喉の奥で音だけが潰れる。

 

「ん゛、っ……ぐ、ぁ……」

 

 嫌だ。

 

 こんな音、嫌だ。

 

 先生に聞かれたくない。

 

 誰にも聞かれたくない。

 

 でも止まらない。

 

「苦しいね」

 

 ミサキさんが言う。

 

「でもまだ言わない。すごい」

 

 頭を撫でる手だけが優しい。

 

 それが余計に分からなくなる。

 

 助けてくれる手じゃない。逃がしてくれる手じゃない。なのに優しい。優しいから、余計に怖い。

 

 だめ....おちる。やばいほんとに今度こそ。

 

 頭、白い。

 

 先生。先生、だめ。通路、だめ。

 

言っちゃだめ。

 

 でも息がない。

 

 息。

 

 息だけ。

 

 息、ほし、い。

 

「じ..ぬ゛……」

 

 声にならない声が漏れた。

 

 自分で言ったのか、頭の中で思っただけなのか分からない。

 

 緩んだ。

 

 空気が入る。

 

「っ、は、ぁ゛っ、げほっ、は……っ、は……!」

 

 私は床に崩れた。咳が止まらない。息を吸いたいのに、咳で途切れる。涙で何も見えない。口元が濡れている。顎まで伝っている。拭けない。隠せない。もう、自分の顔がどうなっているのか考えたくなかった。

 

 サオリさんの声がした。

 

「通路は」

 

 私は首を振った。

 

「……言え、ません」

 

 まだ言えた。

 

 まだ守れた。

 

 そう思った瞬間、腹に衝撃が入った。

 

 息がまた潰れた。体が丸まる。痛い。痛い痛い。けれど、サオリさんは待たなかった。

 

「顔を上げろ」

 

 上げられない。

 

「上げろ」

 

 顎を掴まれ、無理に前を向かされる。視界の中でサオリさんの顔がぼやけている。ミサキさんの手が、まだ私の髪に触れている。

 

「答えろ」

 

「言えない……」

 

「なら続ける」

 

 その一言が落ちた瞬間、体が震えた。

 

 まだ続く。

 

 終わっていない。

 

 さっきので終わりじゃない。

 

 私は首を振った。言葉にならない声が出る。

 

「いや……や、です……もう……」

 

「通路は」

 

「だめ……先生が……」

 

「通路は」

 

 ミサキさんが、また頭を撫でた。

 

「頑張ったね」

 

 やめて。

 

「でも、もう終わりにしよう」

 

 やめて。

 

「次で言えるよ」

 

 やめて。

 

 首元に、また圧が戻った。

 

 今度は、何も考えられなかった。

 

 だめだめだめむりむりむりむりおちる。

 

 ほんとに死ぬ、いや...先生、ごめんなさい。ごめ、ごめんなさ、

 

 息、息、息。

 

 ほしい。

 

 通路、だめだめだけど....だめだめ

 

 お゛、ち……

 

 緩む。

 

 私は息を吸うより先に泣いていた。咳と涙と声が混ざって、自分でも何を言っているのか分からない。

 

「……裏」

 

 音が落ちた。

 

 サオリさんが動きを止める。

 

「もう一度」

 

 私は首を振った。

 

 言った。

 

 今、言った。

 

 駄目。

 

 戻して。

 

 今のを、なかったことにして。

 

 ミサキさんの手が髪を撫でる。

 

「大丈夫。言えたね」

 

「違う……」

 

「続き」

 

「違う、今のは……」

 

「続き」

 

 サオリさんの声。

 

 短い。

 

 逃げ道がない。

 

 私は震えながら息を吸った。喉が痛い。頭がぼうっとする。もう、考えがまとまらない。先生が撃たれる。私が言う。言ったら撃たれる。でも言わなかったら、また来る。また息がなくなる。また落ちる。今度こそ戻ってこられないかもしれない。

 

 嫌だ。

 

 助かりたい。

 

 先生を守りたい。

 

 助かりたい。

 

 守りたい。

 

 助かりたい。

 

 どっちも、もう持てなかった。

 

「……会議場の、裏側の……古い連絡通路」

 

 言葉が震えながら出た。

 

「普段はあまり使われないところです。でも、緊急時に救護へ回るなら、そこが早いって……前に聞きました。先生が知ってるかは分かりません。でも、ナギサ様か救護騎士団が案内するなら、そこを使うかもしれません……」

 

 部屋が静かになった。

 

 ミサキさんの手が、私の頭から離れた。

 

 それが終わりの合図みたいだった。

 

 サオリさんは立ち上がる。

 

「十分だ」

 

 私は、床に崩れたまま動けなかった。

 

 息は戻っている。喉は痛いけれど、吸える。吸えるのに、胸の奥がずっと潰れている。

 

 言った。

 

 古い連絡通路。

 

 先生が通るかもしれない場所。

 

 そこだけは守るつもりだった。

 

 そこだけは絶対に言わないつもりだった。

 

 なのに。

 

「違う……」

 

 私は震える声で言った。

 

「今の、違います……使わないで……お願いです……先生を撃たないで……」

 

 サオリさんは答えなかった。

 

 ミサキさんが、静かに言う。

 

「頑張ったね」

 

 私は首を振った。

 

 頑張ってなんかいない。

 

 私は吐いた。

 

 先生の道を、吐いた。

 

 そのあと、どれくらい床に倒れていたのか分からない。

 

 誰かが私の腕を引いた。立たされる。足が震えて、うまく歩けない。涙はまだ止まっていない。口元を拭きたいのに、手首は縛られたままだった。

 

 部屋の外で、ヒヨリさんが顔を伏せていた。

 

 目が合いそうになって、逸らされる。

 

 それだけで、また胸が痛くなった。

 

 アツコさんは何も言わなかった。ただ、じっと私を見ていた。その目に責める色はない。慰める色もない。だから余計に、何も隠せなかった。

 

 サオリさんは短く命じる。

 

「移動準備」

 

 その言葉で、全部が現実に戻る。

 

 私が言った情報が使われる。

 

 先生が会議に出ること。ナギサ様に呼ばれていたこと。救護への動線。古い連絡通路。

 

 先生が撃たれる。

 

 そう思った瞬間、膝から力が抜けそうになった。

 

 ミサキさんが私の腕を掴む。

 

「倒れないで」

 

 優しい声だった。

 

 私はもう、その優しさが怖かった。

 

「先生を……」

 

 声が掠れる。

 

「先生を、撃たないでください……」

 

 誰も答えなかった。

 

 答えないまま、アリウスは動き始めた。

 

 そして私は、自分の口から吐いた道が、先生へ続いていく音を聞いていた。




やりすぎた
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