戦えない私がキヴォトス中の生徒に執着されるまで 作:Zuzuiikb
第1話 休憩係、勝手に就任しました
仲正イチカさんは、今日も笑っていた。
正義実現委員会の廊下は、思ったよりうるさい。いや、うるさいと言うと失礼かもしれない。活気がある、と言えばたぶん角が立たない。
でも、今この場に限って言えば、普通にうるさかった。
「だから、私は言ったの! あの箱は右の棚に置くって!」
「右って言ったら、こっちから見て右だと思うじゃないですか!」
「反対側から見たら左でしょ!」
「じゃあ最初から“窓側”って言ってください!」
「それは……そう!」
喧嘩なのか反省会なのか分からない下級生二人の間に、イチカさんがするっと入る。
すごい。
入る角度が自然すぎる。
争いの真ん中に入ったはずなのに、誰も「割って入られた」と思っていない。イチカさんが一歩近づくだけで、尖っていた声の先が少し丸くなる。
「はいはい、そこまでっす。方角で喧嘩してたら日が暮れるっすよ」
「でも、先に間違えたのは」
「どっちが先かを決める裁判を始めると、たぶん午後が終わるっす」
「でも!」
「午後、終わらせたいっすか?」
「……嫌です」
「じゃ、午後の勝ちっすね。守られたっす、午後」
何の勝ちなんだろう。
でも、下級生二人はなぜか納得した顔になっている。
すごい。理屈はふわっとしているのに、空気だけちゃんと収まった。
イチカさんはそのまま、落とし物の帳簿を確認して、廊下に置きっぱなしだった荷物を端へ寄せて、謎のぬいぐるみを拾い上げた。
「で、この子は誰のっすか」
「分かりません」
「えぇ……野良ぬいぐるみっすか。正実の廊下、ついにそこまで自由になったんすね」
「野良ぬいぐるみ……」
「飼い主、探すっすよ。たぶん寂しがってるっす」
ぬいぐるみにまで自然に声をかける。
優しい、と思いかけて、少し止まる。
たぶん、優しいだけじゃない。
その方がみんな笑うから、そうしている。場が軽くなるから、そう言っている。
イチカさんは、そういう選び方が上手い人だ。
でも、それなら。
イチカさん自身の重さは、どこに置いているんだろう。
私がそんなことを考えていると、イチカさんがこちらを見た。
「レナさん」
「あ」
「今、“この人、ぬいぐるみにまで話しかけてる”って顔してたっすね」
「してません」
「したっすよ。しかもちょっと真面目に」
「……少しだけ」
「はは、自白が早いっすね。助かるっす」
イチカさんはぬいぐるみを小脇に抱えたまま、私の前まで歩いてくる。
いつもの笑顔。
軽くて、柔らかくて、便利な笑顔。
便利、なんて思ったら失礼だ。
でも、やっぱり便利だと思う。
その笑顔があるだけで、みんなが安心する。怒っていた子も、困っていた子も、何となく「まあいいか」になる。
だから余計に、少し気になった。
その笑顔をずっと使っていたら、疲れないのかなって。
「それで、レナさん。正実に何か用っすか? 救護騎士団の緊急案件なら、この子は一旦置くっすけど」
「緊急ではないです」
「よかったっす。命拾いしたっすね、この子」
「ぬいぐるみの命……」
「ありますよ。たぶん」
「たぶんなんですね」
「自分、ぬいぐるみ専門じゃないんで」
私は思わず笑ってしまった。
イチカさんは、それを見て少し満足そうにする。
あ。
今、笑わされた。
なんだか少し悔しい。
私は持っていた紙袋を胸の前で軽く持ち上げた。
「差し入れです」
「お。急にいい話になったっす」
「さっきまで悪い話でした?」
「自分がぬいぐるみの生命について語ってたんで、まあまあ迷子だったっすね」
「それはそうかもしれません」
「そこは否定してくれてもよくないっすか?」
「じゃあ、否定します」
「遅いっす」
イチカさんは紙袋を見て、少しだけ目を細める。
「それ、自分に?」
「はい」
「下級生たちじゃなくて?」
「はい」
「ハスミ先輩でもなく?」
「はい」
「ツルギ委員長に渡したら、たぶんすごいことになるっすよ」
「何が起きるんですか?」
「分かんないっす。分かんないから怖いっす」
「じゃあイチカさんに渡します」
「理由が消去法っすね。ちょっと切ないっす」
「違います」
私は紙袋を少しだけ引き寄せた。
別に取られそうになったわけじゃない。
でも、なんとなく大事に持ちたかった。
「イチカさんに渡したくて持ってきました」
言ってから、ちょっとだけ後悔した。
いや、後悔というより、恥ずかしい。
自分で言っておいて、なんでこんなに胸が跳ねるんだろう。
イチカさんが一瞬だけ黙る。
ほんの一瞬。
でも、私は見た。
今のは、ちゃんと届いた。
「……レナさん」
「はい」
「差し入れって、そういう使い方もあるんすね」
「どういう使い方ですか?」
「いやー。クッキーの前に一発入ったなって」
「けがですか?」
「けがではないっすね。もっとこう、後から効くやつっす」
「じゃあ手当てできませんね」
「できない方が危ないんすよ、こういうのは」
イチカさんは笑っていたけど、その笑い方は少しだけさっきと違った。
見ていると、分かる。
この人は、言葉を軽くして、すぐ別の話にする。
今も、私の顔じゃなくて紙袋の方を見た。
別にいいけど。
ちょっとだけ、面白くない。
「イチカさん、休憩してください」
「急っすね」
「お願いです」
「お願いにしては、だいぶ逃げ道が狭いんすけど」
「逃げ道、いりますか?」
「聞き方がもう強いっす。レナさん、今日どうしたんすか。救護騎士団で何かありました?」
「何もないです」
「ほんとに?」
「はい。私が勝手に来ました」
「勝手に」
「はい」
「わざわざ?」
「わざわざ」
イチカさんが紙袋と私を交互に見る。
その顔が少しおかしくて、私は口元が緩みそうになった。
だめ。
ここで笑ったら、たぶん見つかる。
楽しんでることが。
「……休憩って、今からっすか?」
「今からです」
「いやー、まだ片づけが残ってるんすよね。あの子たちの方角裁判も完全には閉廷してないっすし、ぬいぐるみの飼い主も見つかってないっすし」
「ぬいぐるみは待てます」
「そうっすか?」
「たぶん」
「専門外同士で判断すると危ないやつっすね」
「それに、イチカさんがいなくても、少しは自分たちで考えます」
「考えた結果、第二回方角裁判が始まるかもしれないっすよ」
「その時はその時です」
「意外と雑っすね、レナさん」
「イチカさんが丁寧すぎるんです」
言うと、イチカさんは少しだけ瞬きをした。
まただ。
私の言葉が、笑顔の隙間に入ったみたいな顔。
何だろう。
ちょっと楽しい。
いや、違う。
楽しいだけじゃない。
イチカさんがいつもの軽い調子をほんの少し崩すと、私は変に嬉しくなる。
私が悪いのかもしれない。
「レナさん」
「はい」
「今、自分を休ませる理由、増やしながら喋ってないっすか?」
「増やしてません」
「ほんとっすか?」
「……少しだけ増やしました」
「そこは嘘つき切るところっすよ」
「苦手なので」
「その割に、こっちの退路はどんどん細くなってるんすけど」
「気のせいです」
「その紙袋、だんだん強そうに見えてきたっす」
「クッキーです」
「使い方次第っすね」
「じゃあ、使います」
「使うんすか」
「休憩してください。しなかったら、私がここで全部食べます」
「かわいい脅迫っすね」
「本気です」
「本気のかわいい脅迫、罪が重いっすよ。勘弁してほしいっす」
イチカさんは、困ったように笑った。
その目がまた廊下へ行きかけて、でも、私の紙袋に戻ってくる。
よし。
少しだけ戻ってきた。
「……五分だけっすよ」
「十分です」
「増えたっす」
「交渉です」
「交渉って、相手の返事を聞いてからするもんじゃないっすか?」
「では、八分」
「刻んできたっすね」
「九分でもいいです」
「増えてるっす」
「では、十分で」
「結局最初に戻るんすね。何だったんすか、今の八分」
イチカさんはとうとう小さく吹き出した。
嬉しい。
顔に出ないようにしたつもりだったけど、たぶん少し出た。
イチカさんが横目で私を見る。
「レナさん、羽がちょっと元気っすね」
「羽で判断しないでください」
「分かりやすくて助かるっす」
「助からないでください」
「無理っすね」
イチカさんは、ぬいぐるみを近くにいた下級生へ預けた。
「この子、飼い主探しお願いするっす」
「はい!」
「もし見つからなかったら?」
「その時は……」
「その時は正実のマスコット候補っすね」
「えっ、いいんですか?」
「半分冗談っす」
「半分は本気なんですね」
「世の中、半分くらいの本気で動くこと多いっすよ」
何だかそれっぽいことを言って、イチカさんは私の方へ戻ってくる。
「じゃ、休憩係さん。どこ連れてかれるんすか、自分」
「休憩室です」
「連行先が健全っすね」
「他にどこがよかったですか?」
「そこで聞き返されると困るんすよね」
「困りました?」
「今のは、ちょっと」
イチカさんは笑って、すぐ横を向いた。
そういうところ。
少し困ると、笑って、横を向く。
私はそれを、今日は覚えておくことにした。
案内された休憩室は、小さな部屋だった。
椅子が二つ。小さな丸テーブル。窓際には観葉植物。
たぶん誰かがちゃんと世話をしている。葉がつやつやしていて、少しだけ居心地が良さそうだった。
イチカさんは部屋に入ってすぐ、入口の方を見た。
また、呼ばれたら行く顔。
私はその顔を見るのが、少し嫌だった。
だって、今は私が連れてきたのに。
今だけは、私の休憩時間になってほしいのに。
だから私は、イチカさんが座る前に椅子を引いた。
「どうぞ」
「……レナさん、今日ちょっと強引じゃないっすか?」
「はい」
「いい返事っすね」
「イチカさんには、これくらいじゃないと」
「じゃないと?」
「気づいたら廊下に戻ってそうなので」
「あー……それは、まあ、否定しづらいっすね」
「座ってくれたら褒めます」
「何を?」
「偉いです、って」
「……それは逆に座りづらいっす」
「じゃあ言いません」
「いや、言わないなら言わないで気になるっすね」
「難しい人ですね」
「今さらっすよ」
イチカさんは椅子に座った。
やっと。
私はその向かいに座ろうとして、やめた。
少しだけ斜め隣。
近すぎないけど、遠くもないところ。
イチカさんが気づいた。
「その距離、何すか」
「クッキーを渡しやすい距離です」
「ほんとっすか?」
「あと、イチカさんが立ち上がったら分かる距離です」
「そっちが本音っすね」
「はい」
「今日のレナさん、開き直りがすごいっす」
私は紙袋を開けた。
バターの香りがふわっと出る。甘すぎない、でもちゃんと甘い匂い。
イチカさんは少しだけ顔を緩めた。
見逃さない。
今の、好きそうだった。
「甘さ控えめです」
「ありがたいっす。甘すぎると、ちょっと休憩というより戦いになるんで」
「甘いものと戦うんですか?」
「たまに負けるっす」
「負けたらどうなるんですか?」
「もう一個食べるっす」
「それは負けなんですか?」
「幸せな敗北っすね」
私はクッキーを一枚、イチカさんの前に置いた。
「じゃあ、負けてください」
「言い方」
「幸せな敗北です」
「レナさんに言われると、ちょっと意味変わるっすね」
「どう変わるんですか?」
「それ聞くんすか」
「気になります」
「気にしない方がいいっすよ」
イチカさんはそう言って、クッキーを手に取った。
上手い。
言葉では答えずに、クッキーで話を畳んだ。
私は少しだけ唇を尖らせた。
「……クッキー、便利ですね」
「おいしいっすからね」
「そういうことにしておきます」
「そういうことにしといてください」
イチカさんがクッキーを食べる。
ちゃんと一口で済ませず、少しずつ。
それだけなのに、私はなぜか嬉しい。
私が持ってきたものを、イチカさんが食べている。
私が座らせた場所で、私の作った休憩に、ちゃんといてくれる。
……まずい。
これ、思ったより楽しい。
「おいしいっす」
「本当ですか?」
「本当っすよ。疑うんすか?」
「イチカさん、何でも軽く言うので」
「信用ないっすね、自分」
「あります」
「どっちっすか」
「信用してるから、軽い言葉の中身を確認したくなるんです」
言ったあとで、少しだけ恥ずかしくなった。
どうして私は、こういうことをさらっと言ってしまうんだろう。
さらっと言ったつもりなのに、全然さらっとしていない。
自分で自分の言葉に足を引っかけている感じがする。
イチカさんはクッキーを持ったまま、私を見る。
笑っていない。
ほんの一瞬だけ。
でも、その一瞬がすごく静かだった。
「レナさんって、たまにすごいところ刺してくるっすよね」
「刺しました?」
「刺さったっす」
「痛いですか?」
「痛いっていうより、抜けない感じっすね」
「それは困ります」
「困ってるの、自分なんすけどね」
イチカさんはそう言って、残りのクッキーを口に入れた。
私の方を見ないで。
あ、今の。
また、クッキーに助けてもらった。
私は紙袋の口を少し整える。もう整っているのに、なんとなく。
「イチカさん」
「はい?」
「そのクッキー、もう一枚いりますか?」
「急に優しいっすね」
「今の話、クッキーで終わったので」
「……レナさん、意外と細かいところ見てるっすね」
「休憩係なので」
「便利っすね、その係」
「便利です」
イチカさんは少し笑った。
その笑い方が、いつもより小さい。
私はもう一枚クッキーを出して、今度はすぐ渡さずに、自分の指先で少しだけ持ったままにした。
イチカさんがそれを見る。
それから、私を見る。
「くれるんじゃないんすか?」
「質問に答えてくれたら」
「取り調べ始まったっす。自分、休憩に来たはずなんすけど」
「正実の休憩室なので」
「場所のせいにするの、上手いっすね」
「今日、何しに来たと思いますか?」
「え、自分が答える側っすか?」
「はい」
「差し入れ」
「それもあります」
「様子見」
「それもあります」
「救護騎士団の巡回」
「違います」
「じゃあ……」
イチカさんが言いかけて、少しだけ口を閉じた。
たぶん、何か浮かんだ。
でも言わない。
言わないで、私の手元のクッキーを見る。
私はそこで、少しだけ意地悪をしたくなった。
「続きは?」
「クッキー、遠いなって思ってたっす」
「そういう話でした?」
「今はそういう話っす」
「ずるいです」
「お互い様じゃないっすか?」
イチカさんが笑う。
軽い声。
でも、目は少しだけ私を見ている。
言わないなら、私が言うしかない。
それも少し悔しいけど、今日は私から来たのだから仕方ない。
「イチカさんに会いに来ました」
イチカさんが止まった。
よし。
と思った瞬間、自分の顔が熱くなる。
だめだ。
言った方も無傷じゃいられない。
こういうのは、勝ちと言っていいんだろうか。たぶん引き分けだ。いや、ちょっと負けかもしれない。
「……レナさん」
「はい」
「そういうの、クッキーより効くっすよ」
「効きますか?」
「効くっす。用法用量、守ってほしいっすね」
「副作用は?」
「自分が変な顔になるっす」
「見たいです」
「ほら、そういうところっすよ」
「見ちゃだめですか?」
「……だめとは言ってないっす」
「じゃあ見ます」
「宣言してくるんすね」
「はい」
「やりづらいっすねぇ」
「でも、見ます」
イチカさんは少しだけ顔を逸らした。
ほんの少し。
でも、その少しが嬉しい。
自分でもどうかと思う。
でも、イチカさんが私の言葉で少し困ると、胸の奥がふわっとする。
たぶんこれは、救護騎士団としてはあまり良くない感情だ。
でも今日は、休憩係なので。
休憩係は、たぶん少しだけ悪くてもいい。
さっきできた係だから、規則はまだない。
「レナさん、羽がまた元気っす」
「見すぎです」
「見ていいって言われた気がしたんで」
「私が見る話でした」
「じゃあ交代制っすね」
「いつ決まったんですか?」
「今っす」
「勝手です」
「レナさんに言われるとは思わなかったっす」
ふたりで笑った。
さっきまでの廊下のざわざわが、遠くに聞こえる。
休憩室の中は静かだった。
でも、気まずい静けさじゃない。
クッキーを食べる音と、紙袋が少し鳴る音と、イチカさんがたまに笑う声。
それだけで、なんだか十分だった。
イチカさんが、もう一枚クッキーを手に取る。
「これ、本当においしいっすね」
「よかったです」
「自分の好み、調べたんすか?」
「少しだけ」
「少しだけ?」
「甘すぎるものは戦いになるって、前に言っていたので」
「言いましたっけ」
「言ってました」
「覚えてたんすね」
「はい」
また、少しだけ静かになった。
今度の笑顔は、少しだけ疲れていた。
でも、さっきよりずっと近かった。
「レナさん」
「はい」
「それ、誰にでもするんすか」
急に、声の温度が変わった。
軽い。
軽いままなのに、どこか引っかかる。
たぶん、ここで「何がですか?」って言えば楽になる。
私はその答え方をもう知っている。
でも、今日は少し迷った。
楽な方に行きたい。
でも、行きたくない。
イチカさんが今、少しだけ本当のことを聞いてくれている気がしたから。
「誰にでもは、しません」
「じゃあ、自分は?」
言い方がずるい。
特別、という言葉を自分では言わない。
でも、私に言わせる形にしてくる。
私は紙袋の口を意味もなく整える。もう何度も整っているのに。
「……今日は、イチカさんの休憩係なので」
「係の話になったっすね」
「大事な話です」
「便利に使われてるっすね、その係」
「私が作ったので」
「じゃあ、作った人の責任で、次も来るんすか?」
その聞き方が、なんだか当たり前みたいだった。
また来る。
私が。
ここに。
イチカさんのところに。
そう思ったら、胸の奥が少し甘くなる。
「来ます」
「クッキー持参で?」
「はい」
「経過観察で?」
「それもあります」
「それも、っすか」
イチカさんがそこを拾う。
本当に、ずるい。
私は少しだけ唇を尖らせた。
「細かいです」
「正実なんで」
「便利ですね、正実」
「便利っすよ。レナさんの救護騎士団くらいには」
「じゃあ、お互い様です」
「ま、そういうことにしとくっす」
イチカさんが笑う。
私も笑った。
でも、そこで終わらせるのは少しだけもったいなかった。
今日の私は、少し悪い。
自覚はある。
自覚はあるけど、たぶんやめない。
「イチカさん」
「はい?」
「次は、もう少し甘いものにします」
「それは危ないっすね」
「甘いもの、苦手ですか?」
「苦手ではないっす。むしろ、たぶん弱いっす」
「じゃあ持ってきます」
「弱いって言ったのに?」
「はい」
「レナさん、人の弱点聞いてから攻めるタイプっすか」
「イチカさん相手なら」
言ってしまった。
今のは、ちょっと強かったかもしれない。
イチカさんが一瞬だけ目を伏せる。
笑っているけど、さっきまでより静か。
困っている。
たぶん、ちゃんと困っている。
それを見て、私は少し満足してしまった。
最低だ。
でも、少しだけなら許されたい。
「……ほんと、悪い子っすね」
「少しだけです」
「少しだけでこれなら、全力出されたら正実が落ちるっすよ」
「落としません」
「じゃあ、何を落とすんすか」
イチカさんが軽く言った。
たぶん冗談。
でも、私の方が詰まった。
何を落とすのか。
そんなの、今ここで言えるわけがない。
イチカさんが私を見る。
楽しそうに。
今度はイチカさんの方が、少しだけ悪い顔をしている。
「レナさん?」
「……言いません」
「えー、気になるっすね」
「言ったらイチカさんが調子に乗ります」
「乗るっすね」
「ほら」
「でも、言わないなら勝手に想像するしかないっすよ」
「それも困ります」
「じゃあ、やっぱり言うしか」
「嫌です」
「強いっすね」
「強いです」
「そこは認めるんすね」
「認めたので、今日はここまでです」
「線引きが急っすね」
「休憩時間なので」
「休憩時間、便利っすねぇ」
イチカさんが笑う。
今度はちゃんと楽しそうだった。
ああ、よかった。
そう思った。
休憩係としては、たぶん仕事ができている。
たぶん。
少し方向は怪しいけど。
紙袋の中には、クッキーがまだ数枚残っている。
私はそれを見て、イチカさんにもう一枚差し出した。
「追加です」
「買収が止まらないっすね」
「予算多めなので」
「その予算、どこから出てるんすか?」
「私のお小遣いです」
「一番断りにくいやつっすね、それ」
「だから効きます」
「レナさん、買収の才能あるっすよ」
「正実に褒められていい才能ですか?」
「だめっすね」
「じゃあ内緒で」
「共犯にされてるっす」
「嫌ですか?」
イチカさんはクッキーを受け取りながら、少しだけ肩をすくめた。
「嫌なら食べてないっす」
その一言が、思ったより嬉しかった。
私はたぶん、今日何度も浮いたり沈んだりしている。
でも最後にその言葉をもらえたなら、たぶん今日はいい日だ。
外から誰かがイチカさんを呼ぶ声がした。
イチカさんは返事をしようとして、私を見る。
私は少しだけ紙袋を閉じた。
「呼ばれてます」
「呼ばれたっすね」
「……行きますか?」
「休憩係さんの判断は?」
そこで私に聞くのは、少しずるい。
行ってほしくない、と言えば困らせる。
行ってください、と言えば私が少し寂しい。
だから私は、できるだけ真面目な顔をして言った。
「あと一枚食べたら、行っていいです」
「条件付きっすか」
「はい」
「厳しいっすね」
「休憩係なので」
「便利な係っす」
「便利に使ってください」
言った後で、少しだけ自分の言葉に引っかかった。
便利に使ってください。
それは、ちょっと違う。
でもイチカさんは、茶化さなかった。
クッキーを一枚食べて、ゆっくり飲み込んで、それから立ち上がる。
「じゃあ、使わせてもらうっす」
「はい」
「次も来てください」
さらっと言われた。
さらっと。
でも、そのせいで余計に胸に来る。
「……はい」
「返事、ちょっと遅かったっすね」
「急だったので」
「急じゃないっすよ。レナさんがまた来るって言ったんで、確認しただけっす」
「それも、ちょっとずるいです」
「お互い様っす」
イチカさんは扉の方へ歩いて、それから振り返った。
「レナさん」
「はい」
「次、甘いもの持ってくるなら」
「はい」
「自分、たぶん負けるっすよ」
私は少し笑った。
「クッキーにですか?」
イチカさんも笑う。
「何のことっすか?」
ずるい。
私の台詞を取られた。
でも、その言い方があまりに楽しそうだったから、今日は許すことにした。
イチカさんが部屋を出ていく。
廊下の声がまた少し近くなる。
私は残った紙袋を抱えて、ひとりで少しだけ笑った。
次は、もう少し甘いものにしよう。
クッキーのことかどうかは、まだ決めていない。