戦えない私がキヴォトス中の生徒に執着されるまで   作:Zuzuiikb

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短編集
第1話 休憩係、勝手に就任しました


 

 仲正イチカさんは、今日も笑っていた。

 

 正義実現委員会の廊下は、思ったよりうるさい。いや、うるさいと言うと失礼かもしれない。活気がある、と言えばたぶん角が立たない。

 

 でも、今この場に限って言えば、普通にうるさかった。

 

「だから、私は言ったの! あの箱は右の棚に置くって!」

 

「右って言ったら、こっちから見て右だと思うじゃないですか!」

 

「反対側から見たら左でしょ!」

 

「じゃあ最初から“窓側”って言ってください!」

 

「それは……そう!」

 

 喧嘩なのか反省会なのか分からない下級生二人の間に、イチカさんがするっと入る。

 

 すごい。

 

 入る角度が自然すぎる。

 

 争いの真ん中に入ったはずなのに、誰も「割って入られた」と思っていない。イチカさんが一歩近づくだけで、尖っていた声の先が少し丸くなる。

 

「はいはい、そこまでっす。方角で喧嘩してたら日が暮れるっすよ」

 

「でも、先に間違えたのは」

 

「どっちが先かを決める裁判を始めると、たぶん午後が終わるっす」

 

「でも!」

 

「午後、終わらせたいっすか?」

 

「……嫌です」

 

「じゃ、午後の勝ちっすね。守られたっす、午後」

 

 何の勝ちなんだろう。

 

 でも、下級生二人はなぜか納得した顔になっている。

 

 すごい。理屈はふわっとしているのに、空気だけちゃんと収まった。

 

 イチカさんはそのまま、落とし物の帳簿を確認して、廊下に置きっぱなしだった荷物を端へ寄せて、謎のぬいぐるみを拾い上げた。

 

「で、この子は誰のっすか」

 

「分かりません」

 

「えぇ……野良ぬいぐるみっすか。正実の廊下、ついにそこまで自由になったんすね」

 

「野良ぬいぐるみ……」

 

「飼い主、探すっすよ。たぶん寂しがってるっす」

 

 ぬいぐるみにまで自然に声をかける。

 

 優しい、と思いかけて、少し止まる。

 

 たぶん、優しいだけじゃない。

 

 その方がみんな笑うから、そうしている。場が軽くなるから、そう言っている。

 

 イチカさんは、そういう選び方が上手い人だ。

 

 でも、それなら。

 

 イチカさん自身の重さは、どこに置いているんだろう。

 

 私がそんなことを考えていると、イチカさんがこちらを見た。

 

「レナさん」

 

「あ」

 

「今、“この人、ぬいぐるみにまで話しかけてる”って顔してたっすね」

 

「してません」

 

「したっすよ。しかもちょっと真面目に」

 

「……少しだけ」

 

「はは、自白が早いっすね。助かるっす」

 

 イチカさんはぬいぐるみを小脇に抱えたまま、私の前まで歩いてくる。

 

 いつもの笑顔。

 

 軽くて、柔らかくて、便利な笑顔。

 

 便利、なんて思ったら失礼だ。

 

 でも、やっぱり便利だと思う。

 

 その笑顔があるだけで、みんなが安心する。怒っていた子も、困っていた子も、何となく「まあいいか」になる。

 

 だから余計に、少し気になった。

 

 その笑顔をずっと使っていたら、疲れないのかなって。

 

「それで、レナさん。正実に何か用っすか? 救護騎士団の緊急案件なら、この子は一旦置くっすけど」

 

「緊急ではないです」

 

「よかったっす。命拾いしたっすね、この子」

 

「ぬいぐるみの命……」

 

「ありますよ。たぶん」

 

「たぶんなんですね」

 

「自分、ぬいぐるみ専門じゃないんで」

 

 私は思わず笑ってしまった。

 

 イチカさんは、それを見て少し満足そうにする。

 

 あ。

 

 今、笑わされた。

 

 なんだか少し悔しい。

 

 私は持っていた紙袋を胸の前で軽く持ち上げた。

 

「差し入れです」

 

「お。急にいい話になったっす」

 

「さっきまで悪い話でした?」

 

「自分がぬいぐるみの生命について語ってたんで、まあまあ迷子だったっすね」

 

「それはそうかもしれません」

 

「そこは否定してくれてもよくないっすか?」

 

「じゃあ、否定します」

 

「遅いっす」

 

 イチカさんは紙袋を見て、少しだけ目を細める。

 

「それ、自分に?」

 

「はい」

 

「下級生たちじゃなくて?」

 

「はい」

 

「ハスミ先輩でもなく?」

 

「はい」

 

「ツルギ委員長に渡したら、たぶんすごいことになるっすよ」

 

「何が起きるんですか?」

 

「分かんないっす。分かんないから怖いっす」

 

「じゃあイチカさんに渡します」

 

「理由が消去法っすね。ちょっと切ないっす」

 

「違います」

 

 私は紙袋を少しだけ引き寄せた。

 

 別に取られそうになったわけじゃない。

 

 でも、なんとなく大事に持ちたかった。

 

「イチカさんに渡したくて持ってきました」

 

 言ってから、ちょっとだけ後悔した。

 

 いや、後悔というより、恥ずかしい。

 

 自分で言っておいて、なんでこんなに胸が跳ねるんだろう。

 

 イチカさんが一瞬だけ黙る。

 

 ほんの一瞬。

 

 でも、私は見た。

 

 今のは、ちゃんと届いた。

 

「……レナさん」

 

「はい」

 

「差し入れって、そういう使い方もあるんすね」

 

「どういう使い方ですか?」

 

「いやー。クッキーの前に一発入ったなって」

 

「けがですか?」

 

「けがではないっすね。もっとこう、後から効くやつっす」

 

「じゃあ手当てできませんね」

 

「できない方が危ないんすよ、こういうのは」

 

 イチカさんは笑っていたけど、その笑い方は少しだけさっきと違った。

 

 見ていると、分かる。

 

 この人は、言葉を軽くして、すぐ別の話にする。

 

 今も、私の顔じゃなくて紙袋の方を見た。

 

 別にいいけど。

 

 ちょっとだけ、面白くない。

 

「イチカさん、休憩してください」

 

「急っすね」

 

「お願いです」

 

「お願いにしては、だいぶ逃げ道が狭いんすけど」

 

「逃げ道、いりますか?」

 

「聞き方がもう強いっす。レナさん、今日どうしたんすか。救護騎士団で何かありました?」

 

「何もないです」

 

「ほんとに?」

 

「はい。私が勝手に来ました」

 

「勝手に」

 

「はい」

 

「わざわざ?」

 

「わざわざ」

 

 イチカさんが紙袋と私を交互に見る。

 

 その顔が少しおかしくて、私は口元が緩みそうになった。

 

 だめ。

 

 ここで笑ったら、たぶん見つかる。

 

 楽しんでることが。

 

「……休憩って、今からっすか?」

 

「今からです」

 

「いやー、まだ片づけが残ってるんすよね。あの子たちの方角裁判も完全には閉廷してないっすし、ぬいぐるみの飼い主も見つかってないっすし」

 

「ぬいぐるみは待てます」

 

「そうっすか?」

 

「たぶん」

 

「専門外同士で判断すると危ないやつっすね」

 

「それに、イチカさんがいなくても、少しは自分たちで考えます」

 

「考えた結果、第二回方角裁判が始まるかもしれないっすよ」

 

「その時はその時です」

 

「意外と雑っすね、レナさん」

 

「イチカさんが丁寧すぎるんです」

 

 言うと、イチカさんは少しだけ瞬きをした。

 

 まただ。

 

 私の言葉が、笑顔の隙間に入ったみたいな顔。

 

 何だろう。

 

 ちょっと楽しい。

 

 いや、違う。

 

 楽しいだけじゃない。

 

 イチカさんがいつもの軽い調子をほんの少し崩すと、私は変に嬉しくなる。

 

 私が悪いのかもしれない。

 

「レナさん」

 

「はい」

 

「今、自分を休ませる理由、増やしながら喋ってないっすか?」

 

「増やしてません」

 

「ほんとっすか?」

 

「……少しだけ増やしました」

 

「そこは嘘つき切るところっすよ」

 

「苦手なので」

 

「その割に、こっちの退路はどんどん細くなってるんすけど」

 

「気のせいです」

 

「その紙袋、だんだん強そうに見えてきたっす」

 

「クッキーです」

 

「使い方次第っすね」

 

「じゃあ、使います」

 

「使うんすか」

 

「休憩してください。しなかったら、私がここで全部食べます」

 

「かわいい脅迫っすね」

 

「本気です」

 

「本気のかわいい脅迫、罪が重いっすよ。勘弁してほしいっす」

 

 イチカさんは、困ったように笑った。

 

 その目がまた廊下へ行きかけて、でも、私の紙袋に戻ってくる。

 

 よし。

 

 少しだけ戻ってきた。

 

「……五分だけっすよ」

 

「十分です」

 

「増えたっす」

 

「交渉です」

 

「交渉って、相手の返事を聞いてからするもんじゃないっすか?」

 

「では、八分」

 

「刻んできたっすね」

 

「九分でもいいです」

 

「増えてるっす」

 

「では、十分で」

 

「結局最初に戻るんすね。何だったんすか、今の八分」

 

 イチカさんはとうとう小さく吹き出した。

 

 嬉しい。

 

 顔に出ないようにしたつもりだったけど、たぶん少し出た。

 

 イチカさんが横目で私を見る。

 

「レナさん、羽がちょっと元気っすね」

 

「羽で判断しないでください」

 

「分かりやすくて助かるっす」

 

「助からないでください」

 

「無理っすね」

 

 イチカさんは、ぬいぐるみを近くにいた下級生へ預けた。

 

「この子、飼い主探しお願いするっす」

 

「はい!」

 

「もし見つからなかったら?」

 

「その時は……」

 

「その時は正実のマスコット候補っすね」

 

「えっ、いいんですか?」

 

「半分冗談っす」

 

「半分は本気なんですね」

 

「世の中、半分くらいの本気で動くこと多いっすよ」

 

 何だかそれっぽいことを言って、イチカさんは私の方へ戻ってくる。

 

「じゃ、休憩係さん。どこ連れてかれるんすか、自分」

 

「休憩室です」

 

「連行先が健全っすね」

 

「他にどこがよかったですか?」

 

「そこで聞き返されると困るんすよね」

 

「困りました?」

 

「今のは、ちょっと」

 

 イチカさんは笑って、すぐ横を向いた。

 

 そういうところ。

 

 少し困ると、笑って、横を向く。

 

 私はそれを、今日は覚えておくことにした。

 

 案内された休憩室は、小さな部屋だった。

 

 椅子が二つ。小さな丸テーブル。窓際には観葉植物。

 

 たぶん誰かがちゃんと世話をしている。葉がつやつやしていて、少しだけ居心地が良さそうだった。

 

 イチカさんは部屋に入ってすぐ、入口の方を見た。

 

 また、呼ばれたら行く顔。

 

 私はその顔を見るのが、少し嫌だった。

 

 だって、今は私が連れてきたのに。

 

 今だけは、私の休憩時間になってほしいのに。

 

 だから私は、イチカさんが座る前に椅子を引いた。

 

「どうぞ」

 

「……レナさん、今日ちょっと強引じゃないっすか?」

 

「はい」

 

「いい返事っすね」

 

「イチカさんには、これくらいじゃないと」

 

「じゃないと?」

 

「気づいたら廊下に戻ってそうなので」

 

「あー……それは、まあ、否定しづらいっすね」

 

「座ってくれたら褒めます」

 

「何を?」

 

「偉いです、って」

 

「……それは逆に座りづらいっす」

 

「じゃあ言いません」

 

「いや、言わないなら言わないで気になるっすね」

 

「難しい人ですね」

 

「今さらっすよ」

 

 イチカさんは椅子に座った。

 

 やっと。

 

 私はその向かいに座ろうとして、やめた。

 

 少しだけ斜め隣。

 

 近すぎないけど、遠くもないところ。

 

 イチカさんが気づいた。

 

「その距離、何すか」

 

「クッキーを渡しやすい距離です」

 

「ほんとっすか?」

 

「あと、イチカさんが立ち上がったら分かる距離です」

 

「そっちが本音っすね」

 

「はい」

 

「今日のレナさん、開き直りがすごいっす」

 

 私は紙袋を開けた。

 

 バターの香りがふわっと出る。甘すぎない、でもちゃんと甘い匂い。

 

 イチカさんは少しだけ顔を緩めた。

 

 見逃さない。

 

 今の、好きそうだった。

 

「甘さ控えめです」

 

「ありがたいっす。甘すぎると、ちょっと休憩というより戦いになるんで」

 

「甘いものと戦うんですか?」

 

「たまに負けるっす」

 

「負けたらどうなるんですか?」

 

「もう一個食べるっす」

 

「それは負けなんですか?」

 

「幸せな敗北っすね」

 

 私はクッキーを一枚、イチカさんの前に置いた。

 

「じゃあ、負けてください」

 

「言い方」

 

「幸せな敗北です」

 

「レナさんに言われると、ちょっと意味変わるっすね」

 

「どう変わるんですか?」

 

「それ聞くんすか」

 

「気になります」

 

「気にしない方がいいっすよ」

 

 イチカさんはそう言って、クッキーを手に取った。

 

 上手い。

 

 言葉では答えずに、クッキーで話を畳んだ。

 

 私は少しだけ唇を尖らせた。

 

「……クッキー、便利ですね」

 

「おいしいっすからね」

 

「そういうことにしておきます」

 

「そういうことにしといてください」

 

 イチカさんがクッキーを食べる。

 

 ちゃんと一口で済ませず、少しずつ。

 

 それだけなのに、私はなぜか嬉しい。

 

 私が持ってきたものを、イチカさんが食べている。

 

 私が座らせた場所で、私の作った休憩に、ちゃんといてくれる。

 

 ……まずい。

 

 これ、思ったより楽しい。

 

「おいしいっす」

 

「本当ですか?」

 

「本当っすよ。疑うんすか?」

 

「イチカさん、何でも軽く言うので」

 

「信用ないっすね、自分」

 

「あります」

 

「どっちっすか」

 

「信用してるから、軽い言葉の中身を確認したくなるんです」

 

 言ったあとで、少しだけ恥ずかしくなった。

 

 どうして私は、こういうことをさらっと言ってしまうんだろう。

 

 さらっと言ったつもりなのに、全然さらっとしていない。

 

 自分で自分の言葉に足を引っかけている感じがする。

 

 イチカさんはクッキーを持ったまま、私を見る。

 

 笑っていない。

 

 ほんの一瞬だけ。

 

 でも、その一瞬がすごく静かだった。

 

「レナさんって、たまにすごいところ刺してくるっすよね」

 

「刺しました?」

 

「刺さったっす」

 

「痛いですか?」

 

「痛いっていうより、抜けない感じっすね」

 

「それは困ります」

 

「困ってるの、自分なんすけどね」

 

 イチカさんはそう言って、残りのクッキーを口に入れた。

 

 私の方を見ないで。

 

 あ、今の。

 

 また、クッキーに助けてもらった。

 

 私は紙袋の口を少し整える。もう整っているのに、なんとなく。

 

「イチカさん」

 

「はい?」

 

「そのクッキー、もう一枚いりますか?」

 

「急に優しいっすね」

 

「今の話、クッキーで終わったので」

 

「……レナさん、意外と細かいところ見てるっすね」

 

「休憩係なので」

 

「便利っすね、その係」

 

「便利です」

 

 イチカさんは少し笑った。

 

 その笑い方が、いつもより小さい。

 

 私はもう一枚クッキーを出して、今度はすぐ渡さずに、自分の指先で少しだけ持ったままにした。

 

 イチカさんがそれを見る。

 

 それから、私を見る。

 

「くれるんじゃないんすか?」

 

「質問に答えてくれたら」

 

「取り調べ始まったっす。自分、休憩に来たはずなんすけど」

 

「正実の休憩室なので」

 

「場所のせいにするの、上手いっすね」

 

「今日、何しに来たと思いますか?」

 

「え、自分が答える側っすか?」

 

「はい」

 

「差し入れ」

 

「それもあります」

 

「様子見」

 

「それもあります」

 

「救護騎士団の巡回」

 

「違います」

 

「じゃあ……」

 

 イチカさんが言いかけて、少しだけ口を閉じた。

 

 たぶん、何か浮かんだ。

 

 でも言わない。

 

 言わないで、私の手元のクッキーを見る。

 

 私はそこで、少しだけ意地悪をしたくなった。

 

「続きは?」

 

「クッキー、遠いなって思ってたっす」

 

「そういう話でした?」

 

「今はそういう話っす」

 

「ずるいです」

 

「お互い様じゃないっすか?」

 

 イチカさんが笑う。

 

 軽い声。

 

 でも、目は少しだけ私を見ている。

 

 言わないなら、私が言うしかない。

 

 それも少し悔しいけど、今日は私から来たのだから仕方ない。

 

「イチカさんに会いに来ました」

 

 イチカさんが止まった。

 

 よし。

 

 と思った瞬間、自分の顔が熱くなる。

 

 だめだ。

 

 言った方も無傷じゃいられない。

 

 こういうのは、勝ちと言っていいんだろうか。たぶん引き分けだ。いや、ちょっと負けかもしれない。

 

「……レナさん」

 

「はい」

 

「そういうの、クッキーより効くっすよ」

 

「効きますか?」

 

「効くっす。用法用量、守ってほしいっすね」

 

「副作用は?」

 

「自分が変な顔になるっす」

 

「見たいです」

 

「ほら、そういうところっすよ」

 

「見ちゃだめですか?」

 

「……だめとは言ってないっす」

 

「じゃあ見ます」

 

「宣言してくるんすね」

 

「はい」

 

「やりづらいっすねぇ」

 

「でも、見ます」

 

 イチカさんは少しだけ顔を逸らした。

 

 ほんの少し。

 

 でも、その少しが嬉しい。

 

 自分でもどうかと思う。

 

 でも、イチカさんが私の言葉で少し困ると、胸の奥がふわっとする。

 

 たぶんこれは、救護騎士団としてはあまり良くない感情だ。

 

 でも今日は、休憩係なので。

 

 休憩係は、たぶん少しだけ悪くてもいい。

 

 さっきできた係だから、規則はまだない。

 

「レナさん、羽がまた元気っす」

 

「見すぎです」

 

「見ていいって言われた気がしたんで」

 

「私が見る話でした」

 

「じゃあ交代制っすね」

 

「いつ決まったんですか?」

 

「今っす」

 

「勝手です」

 

「レナさんに言われるとは思わなかったっす」

 

 ふたりで笑った。

 

 さっきまでの廊下のざわざわが、遠くに聞こえる。

 

 休憩室の中は静かだった。

 

 でも、気まずい静けさじゃない。

 

 クッキーを食べる音と、紙袋が少し鳴る音と、イチカさんがたまに笑う声。

 

 それだけで、なんだか十分だった。

 

 イチカさんが、もう一枚クッキーを手に取る。

 

「これ、本当においしいっすね」

 

「よかったです」

 

「自分の好み、調べたんすか?」

 

「少しだけ」

 

「少しだけ?」

 

「甘すぎるものは戦いになるって、前に言っていたので」

 

「言いましたっけ」

 

「言ってました」

 

「覚えてたんすね」

 

「はい」

 

 また、少しだけ静かになった。

 

 今度の笑顔は、少しだけ疲れていた。

 

 でも、さっきよりずっと近かった。

 

「レナさん」

 

「はい」

 

「それ、誰にでもするんすか」

 

 急に、声の温度が変わった。

 

 軽い。

 

 軽いままなのに、どこか引っかかる。

 

 たぶん、ここで「何がですか?」って言えば楽になる。

 

 私はその答え方をもう知っている。

 

 でも、今日は少し迷った。

 

 楽な方に行きたい。

 

 でも、行きたくない。

 

 イチカさんが今、少しだけ本当のことを聞いてくれている気がしたから。

 

「誰にでもは、しません」

 

「じゃあ、自分は?」

 

 言い方がずるい。

 

 特別、という言葉を自分では言わない。

 

 でも、私に言わせる形にしてくる。

 

 私は紙袋の口を意味もなく整える。もう何度も整っているのに。

 

「……今日は、イチカさんの休憩係なので」

 

「係の話になったっすね」

 

「大事な話です」

 

「便利に使われてるっすね、その係」

 

「私が作ったので」

 

「じゃあ、作った人の責任で、次も来るんすか?」

 

 その聞き方が、なんだか当たり前みたいだった。

 

 また来る。

 

 私が。

 

 ここに。

 

 イチカさんのところに。

 

 そう思ったら、胸の奥が少し甘くなる。

 

「来ます」

 

「クッキー持参で?」

 

「はい」

 

「経過観察で?」

 

「それもあります」

 

「それも、っすか」

 

 イチカさんがそこを拾う。

 

 本当に、ずるい。

 

 私は少しだけ唇を尖らせた。

 

「細かいです」

 

「正実なんで」

 

「便利ですね、正実」

 

「便利っすよ。レナさんの救護騎士団くらいには」

 

「じゃあ、お互い様です」

 

「ま、そういうことにしとくっす」

 

 イチカさんが笑う。

 

 私も笑った。

 

 でも、そこで終わらせるのは少しだけもったいなかった。

 

 今日の私は、少し悪い。

 

 自覚はある。

 

 自覚はあるけど、たぶんやめない。

 

「イチカさん」

 

「はい?」

 

「次は、もう少し甘いものにします」

 

「それは危ないっすね」

 

「甘いもの、苦手ですか?」

 

「苦手ではないっす。むしろ、たぶん弱いっす」

 

「じゃあ持ってきます」

 

「弱いって言ったのに?」

 

「はい」

 

「レナさん、人の弱点聞いてから攻めるタイプっすか」

 

「イチカさん相手なら」

 

 言ってしまった。

 

 今のは、ちょっと強かったかもしれない。

 

 イチカさんが一瞬だけ目を伏せる。

 

 笑っているけど、さっきまでより静か。

 

 困っている。

 

 たぶん、ちゃんと困っている。

 

 それを見て、私は少し満足してしまった。

 

 最低だ。

 

 でも、少しだけなら許されたい。

 

「……ほんと、悪い子っすね」

 

「少しだけです」

 

「少しだけでこれなら、全力出されたら正実が落ちるっすよ」

 

「落としません」

 

「じゃあ、何を落とすんすか」

 

 イチカさんが軽く言った。

 

 たぶん冗談。

 

 でも、私の方が詰まった。

 

 何を落とすのか。

 

 そんなの、今ここで言えるわけがない。

 

 イチカさんが私を見る。

 

 楽しそうに。

 

 今度はイチカさんの方が、少しだけ悪い顔をしている。

 

「レナさん?」

 

「……言いません」

 

「えー、気になるっすね」

 

「言ったらイチカさんが調子に乗ります」

 

「乗るっすね」

 

「ほら」

 

「でも、言わないなら勝手に想像するしかないっすよ」

 

「それも困ります」

 

「じゃあ、やっぱり言うしか」

 

「嫌です」

 

「強いっすね」

 

「強いです」

 

「そこは認めるんすね」

 

「認めたので、今日はここまでです」

 

「線引きが急っすね」

 

「休憩時間なので」

 

「休憩時間、便利っすねぇ」

 

 イチカさんが笑う。

 

 今度はちゃんと楽しそうだった。

 

 ああ、よかった。

 

 そう思った。

 

 休憩係としては、たぶん仕事ができている。

 

 たぶん。

 

 少し方向は怪しいけど。

 

 紙袋の中には、クッキーがまだ数枚残っている。

 

 私はそれを見て、イチカさんにもう一枚差し出した。

 

「追加です」

 

「買収が止まらないっすね」

 

「予算多めなので」

 

「その予算、どこから出てるんすか?」

 

「私のお小遣いです」

 

「一番断りにくいやつっすね、それ」

 

「だから効きます」

 

「レナさん、買収の才能あるっすよ」

 

「正実に褒められていい才能ですか?」

 

「だめっすね」

 

「じゃあ内緒で」

 

「共犯にされてるっす」

 

「嫌ですか?」

 

 イチカさんはクッキーを受け取りながら、少しだけ肩をすくめた。

 

「嫌なら食べてないっす」

 

 その一言が、思ったより嬉しかった。

 

 私はたぶん、今日何度も浮いたり沈んだりしている。

 

 でも最後にその言葉をもらえたなら、たぶん今日はいい日だ。

 

 外から誰かがイチカさんを呼ぶ声がした。

 

 イチカさんは返事をしようとして、私を見る。

 

 私は少しだけ紙袋を閉じた。

 

「呼ばれてます」

 

「呼ばれたっすね」

 

「……行きますか?」

 

「休憩係さんの判断は?」

 

 そこで私に聞くのは、少しずるい。

 

 行ってほしくない、と言えば困らせる。

 

 行ってください、と言えば私が少し寂しい。

 

 だから私は、できるだけ真面目な顔をして言った。

 

「あと一枚食べたら、行っていいです」

 

「条件付きっすか」

 

「はい」

 

「厳しいっすね」

 

「休憩係なので」

 

「便利な係っす」

 

「便利に使ってください」

 

 言った後で、少しだけ自分の言葉に引っかかった。

 

 便利に使ってください。

 

 それは、ちょっと違う。

 

 でもイチカさんは、茶化さなかった。

 

 クッキーを一枚食べて、ゆっくり飲み込んで、それから立ち上がる。

 

「じゃあ、使わせてもらうっす」

 

「はい」

 

「次も来てください」

 

 さらっと言われた。

 

 さらっと。

 

 でも、そのせいで余計に胸に来る。

 

「……はい」

 

「返事、ちょっと遅かったっすね」

 

「急だったので」

 

「急じゃないっすよ。レナさんがまた来るって言ったんで、確認しただけっす」

 

「それも、ちょっとずるいです」

 

「お互い様っす」

 

 イチカさんは扉の方へ歩いて、それから振り返った。

 

「レナさん」

 

「はい」

 

「次、甘いもの持ってくるなら」

 

「はい」

 

「自分、たぶん負けるっすよ」

 

 私は少し笑った。

 

「クッキーにですか?」

 

 イチカさんも笑う。

 

「何のことっすか?」

 

 ずるい。

 

 私の台詞を取られた。

 

 でも、その言い方があまりに楽しそうだったから、今日は許すことにした。

 

 イチカさんが部屋を出ていく。

 

 廊下の声がまた少し近くなる。

 

 私は残った紙袋を抱えて、ひとりで少しだけ笑った。

 

 次は、もう少し甘いものにしよう。

 

 クッキーのことかどうかは、まだ決めていない。

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総合評価:759/評価:7.48/連載:41話/更新日時:2026年06月21日(日) 05:24 小説情報

lamb nun【本編完結】(作者:酔いどれ執筆者)(原作:ブルーアーカイブ)

▼右頬を撃たれたならば左頬を差し出しましょう。▼汝、隣人を愛せよ、敵を愛せよ。▼私に向けられるそれは、手向かってはならないのです。▼主よお赦しください。彼女たちは自分が何をしているのかわからないのです。▼


総合評価:1723/評価:7.82/完結:62話/更新日時:2026年06月20日(土) 14:45 小説情報

本人無自覚のうちにクソ重感情を向けられてるやつ(作者:占城稲)(原作:ブルーアーカイブ)

愛されたいと思い、好きな小説の人たらし主人公の性格を真似てみるが、思ったより効果がなく自己嫌悪に陥ってる自己肯定感クソ低少女の話(ただし、本人は気づいてないだけで周りからはクソ重感情を向けられているし、摩擦はないものとする。)▼キャラ設定▼御形ミコト ▼トリニティ、2年生、銀髪、うすほそ、健気


総合評価:2857/評価:8.31/連載:11話/更新日時:2026年04月12日(日) 03:48 小説情報

光の勇者と闇の勇者(作者:脱力戦士セシタマン)(原作:ブルーアーカイブ)

▼ アリスとはもう一人違う、だがよく似た存在の闇の勇者がいた。アリスとは似ているが、内面は全く異なる勇者……▼ そんな闇の勇者のお話。▼


総合評価:874/評価:7.45/連載:18話/更新日時:2026年06月15日(月) 05:12 小説情報

シャーレの決戦兵器(作者:わんぱくフォックスですまない)(原作:ブルーアーカイブ)

ベアトリーチェによる、非人道的な人体実験の果てに莫大な神秘を体に宿した百合園サエカ▼しかし外付けの神秘ゆえ扱いきれず制御の利かない危険な爆弾のようなものと化し黒服に押し付ける形で売り払う。▼他のゲマトリア協力のもと、制作したオーパーツにより周囲に大きな被害を出しつつ、辛うじて制御に成功する。▼ゲマトリアに拉致られて神秘をこねこね実験された挙句、失敗作として破…


総合評価:1461/評価:6.82/連載:53話/更新日時:2026年06月23日(火) 19:07 小説情報


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