戦えない私がキヴォトス中の生徒に執着されるまで   作:Zuzuiikb

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短編集
第1話 休憩係、勝手に就任しました


 

 仲正イチカさんは、今日も笑っていた。

 

 正義実現委員会の廊下は、思ったよりうるさい。いや、うるさいと言うと失礼かもしれない。活気がある、と言えばたぶん角が立たない。

 

 でも、今この場に限って言えば、普通にうるさかった。

 

「だから、私は言ったの! あの箱は右の棚に置くって!」

 

「右って言ったら、こっちから見て右だと思うじゃないですか!」

 

「反対側から見たら左でしょ!」

 

「じゃあ最初から“窓側”って言ってください!」

 

「それは……そう!」

 

 喧嘩なのか反省会なのか分からない下級生二人の間に、イチカさんがするっと入る。

 

 すごい。

 

 入る角度が自然すぎる。

 

 争いの真ん中に入ったはずなのに、誰も「割って入られた」と思っていない。イチカさんが一歩近づくだけで、尖っていた声の先が少し丸くなる。

 

「はいはい、そこまでっす。方角で喧嘩してたら日が暮れるっすよ」

 

「でも、先に間違えたのは」

 

「どっちが先かを決める裁判を始めると、たぶん午後が終わるっす」

 

「でも!」

 

「午後、終わらせたいっすか?」

 

「……嫌です」

 

「じゃ、午後の勝ちっすね。守られたっす、午後」

 

 何の勝ちなんだろう。

 

 でも、下級生二人はなぜか納得した顔になっている。

 

 すごい。理屈はふわっとしているのに、空気だけちゃんと収まった。

 

 イチカさんはそのまま、落とし物の帳簿を確認して、廊下に置きっぱなしだった荷物を端へ寄せて、謎のぬいぐるみを拾い上げた。

 

「で、この子は誰のっすか」

 

「分かりません」

 

「えぇ……野良ぬいぐるみっすか。正実の廊下、ついにそこまで自由になったんすね」

 

「野良ぬいぐるみ……」

 

「飼い主、探すっすよ。たぶん寂しがってるっす」

 

 ぬいぐるみにまで自然に声をかける。

 

 優しい、と思いかけて、少し止まる。

 

 たぶん、優しいだけじゃない。

 

 その方がみんな笑うから、そうしている。場が軽くなるから、そう言っている。

 

 イチカさんは、そういう選び方が上手い人だ。

 

 でも、それなら。

 

 イチカさん自身の重さは、どこに置いているんだろう。

 

 私がそんなことを考えていると、イチカさんがこちらを見た。

 

「レナさん」

 

「あ」

 

「今、“この人、ぬいぐるみにまで話しかけてる”って顔してたっすね」

 

「してません」

 

「したっすよ。しかもちょっと真面目に」

 

「……少しだけ」

 

「はは、自白が早いっすね。助かるっす」

 

 イチカさんはぬいぐるみを小脇に抱えたまま、私の前まで歩いてくる。

 

 いつもの笑顔。

 

 軽くて、柔らかくて、便利な笑顔。

 

 便利、なんて思ったら失礼だ。

 

 でも、やっぱり便利だと思う。

 

 その笑顔があるだけで、みんなが安心する。怒っていた子も、困っていた子も、何となく「まあいいか」になる。

 

 だから余計に、少し気になった。

 

 その笑顔をずっと使っていたら、疲れないのかなって。

 

「それで、レナさん。正実に何か用っすか? 救護騎士団の緊急案件なら、この子は一旦置くっすけど」

 

「緊急ではないです」

 

「よかったっす。命拾いしたっすね、この子」

 

「ぬいぐるみの命……」

 

「ありますよ。たぶん」

 

「たぶんなんですね」

 

「自分、ぬいぐるみ専門じゃないんで」

 

 私は思わず笑ってしまった。

 

 イチカさんは、それを見て少し満足そうにする。

 

 あ。

 

 今、笑わされた。

 

 なんだか少し悔しい。

 

 私は持っていた紙袋を胸の前で軽く持ち上げた。

 

「差し入れです」

 

「お。急にいい話になったっす」

 

「さっきまで悪い話でした?」

 

「自分がぬいぐるみの生命について語ってたんで、まあまあ迷子だったっすね」

 

「それはそうかもしれません」

 

「そこは否定してくれてもよくないっすか?」

 

「じゃあ、否定します」

 

「遅いっす」

 

 イチカさんは紙袋を見て、少しだけ目を細める。

 

「それ、自分に?」

 

「はい」

 

「下級生たちじゃなくて?」

 

「はい」

 

「ハスミ先輩でもなく?」

 

「はい」

 

「ツルギ委員長に渡したら、たぶんすごいことになるっすよ」

 

「何が起きるんですか?」

 

「分かんないっす。分かんないから怖いっす」

 

「じゃあイチカさんに渡します」

 

「理由が消去法っすね。ちょっと切ないっす」

 

「違います」

 

 私は紙袋を少しだけ引き寄せた。

 

 別に取られそうになったわけじゃない。

 

 でも、なんとなく大事に持ちたかった。

 

「イチカさんに渡したくて持ってきました」

 

 言ってから、ちょっとだけ後悔した。

 

 いや、後悔というより、恥ずかしい。

 

 自分で言っておいて、なんでこんなに胸が跳ねるんだろう。

 

 イチカさんが一瞬だけ黙る。

 

 ほんの一瞬。

 

 でも、私は見た。

 

 今のは、ちゃんと届いた。

 

「……レナさん」

 

「はい」

 

「差し入れって、そういう使い方もあるんすね」

 

「どういう使い方ですか?」

 

「いやー。クッキーの前に一発入ったなって」

 

「けがですか?」

 

「けがではないっすね。もっとこう、後から効くやつっす」

 

「じゃあ手当てできませんね」

 

「できない方が危ないんすよ、こういうのは」

 

 イチカさんは笑っていたけど、その笑い方は少しだけさっきと違った。

 

 見ていると、分かる。

 

 この人は、言葉を軽くして、すぐ別の話にする。

 

 今も、私の顔じゃなくて紙袋の方を見た。

 

 別にいいけど。

 

 ちょっとだけ、面白くない。

 

「イチカさん、休憩してください」

 

「急っすね」

 

「お願いです」

 

「お願いにしては、だいぶ逃げ道が狭いんすけど」

 

「逃げ道、いりますか?」

 

「聞き方がもう強いっす。レナさん、今日どうしたんすか。救護騎士団で何かありました?」

 

「何もないです」

 

「ほんとに?」

 

「はい。私が勝手に来ました」

 

「勝手に」

 

「はい」

 

「わざわざ?」

 

「わざわざ」

 

 イチカさんが紙袋と私を交互に見る。

 

 その顔が少しおかしくて、私は口元が緩みそうになった。

 

 だめ。

 

 ここで笑ったら、たぶん見つかる。

 

 楽しんでることが。

 

「……休憩って、今からっすか?」

 

「今からです」

 

「いやー、まだ片づけが残ってるんすよね。あの子たちの方角裁判も完全には閉廷してないっすし、ぬいぐるみの飼い主も見つかってないっすし」

 

「ぬいぐるみは待てます」

 

「そうっすか?」

 

「たぶん」

 

「専門外同士で判断すると危ないやつっすね」

 

「それに、イチカさんがいなくても、少しは自分たちで考えます」

 

「考えた結果、第二回方角裁判が始まるかもしれないっすよ」

 

「その時はその時です」

 

「意外と雑っすね、レナさん」

 

「イチカさんが丁寧すぎるんです」

 

 言うと、イチカさんは少しだけ瞬きをした。

 

 まただ。

 

 私の言葉が、笑顔の隙間に入ったみたいな顔。

 

 何だろう。

 

 ちょっと楽しい。

 

 いや、違う。

 

 楽しいだけじゃない。

 

 イチカさんがいつもの軽い調子をほんの少し崩すと、私は変に嬉しくなる。

 

 私が悪いのかもしれない。

 

「レナさん」

 

「はい」

 

「今、自分を休ませる理由、増やしながら喋ってないっすか?」

 

「増やしてません」

 

「ほんとっすか?」

 

「……少しだけ増やしました」

 

「そこは嘘つき切るところっすよ」

 

「苦手なので」

 

「その割に、こっちの退路はどんどん細くなってるんすけど」

 

「気のせいです」

 

「その紙袋、だんだん強そうに見えてきたっす」

 

「クッキーです」

 

「使い方次第っすね」

 

「じゃあ、使います」

 

「使うんすか」

 

「休憩してください。しなかったら、私がここで全部食べます」

 

「かわいい脅迫っすね」

 

「本気です」

 

「本気のかわいい脅迫、罪が重いっすよ。勘弁してほしいっす」

 

 イチカさんは、困ったように笑った。

 

 その目がまた廊下へ行きかけて、でも、私の紙袋に戻ってくる。

 

 よし。

 

 少しだけ戻ってきた。

 

「……五分だけっすよ」

 

「十分です」

 

「増えたっす」

 

「交渉です」

 

「交渉って、相手の返事を聞いてからするもんじゃないっすか?」

 

「では、八分」

 

「刻んできたっすね」

 

「九分でもいいです」

 

「増えてるっす」

 

「では、十分で」

 

「結局最初に戻るんすね。何だったんすか、今の八分」

 

 イチカさんはとうとう小さく吹き出した。

 

 嬉しい。

 

 顔に出ないようにしたつもりだったけど、たぶん少し出た。

 

 イチカさんが横目で私を見る。

 

「レナさん、羽がちょっと元気っすね」

 

「羽で判断しないでください」

 

「分かりやすくて助かるっす」

 

「助からないでください」

 

「無理っすね」

 

 イチカさんは、ぬいぐるみを近くにいた下級生へ預けた。

 

「この子、飼い主探しお願いするっす」

 

「はい!」

 

「もし見つからなかったら?」

 

「その時は……」

 

「その時は正実のマスコット候補っすね」

 

「えっ、いいんですか?」

 

「半分冗談っす」

 

「半分は本気なんですね」

 

「世の中、半分くらいの本気で動くこと多いっすよ」

 

 何だかそれっぽいことを言って、イチカさんは私の方へ戻ってくる。

 

「じゃ、休憩係さん。どこ連れてかれるんすか、自分」

 

「休憩室です」

 

「連行先が健全っすね」

 

「他にどこがよかったですか?」

 

「そこで聞き返されると困るんすよね」

 

「困りました?」

 

「今のは、ちょっと」

 

 イチカさんは笑って、すぐ横を向いた。

 

 そういうところ。

 

 少し困ると、笑って、横を向く。

 

 私はそれを、今日は覚えておくことにした。

 

 案内された休憩室は、小さな部屋だった。

 

 椅子が二つ。小さな丸テーブル。窓際には観葉植物。

 

 たぶん誰かがちゃんと世話をしている。葉がつやつやしていて、少しだけ居心地が良さそうだった。

 

 イチカさんは部屋に入ってすぐ、入口の方を見た。

 

 また、呼ばれたら行く顔。

 

 私はその顔を見るのが、少し嫌だった。

 

 だって、今は私が連れてきたのに。

 

 今だけは、私の休憩時間になってほしいのに。

 

 だから私は、イチカさんが座る前に椅子を引いた。

 

「どうぞ」

 

「……レナさん、今日ちょっと強引じゃないっすか?」

 

「はい」

 

「いい返事っすね」

 

「イチカさんには、これくらいじゃないと」

 

「じゃないと?」

 

「気づいたら廊下に戻ってそうなので」

 

「あー……それは、まあ、否定しづらいっすね」

 

「座ってくれたら褒めます」

 

「何を?」

 

「偉いです、って」

 

「……それは逆に座りづらいっす」

 

「じゃあ言いません」

 

「いや、言わないなら言わないで気になるっすね」

 

「難しい人ですね」

 

「今さらっすよ」

 

 イチカさんは椅子に座った。

 

 やっと。

 

 私はその向かいに座ろうとして、やめた。

 

 少しだけ斜め隣。

 

 近すぎないけど、遠くもないところ。

 

 イチカさんが気づいた。

 

「その距離、何すか」

 

「クッキーを渡しやすい距離です」

 

「ほんとっすか?」

 

「あと、イチカさんが立ち上がったら分かる距離です」

 

「そっちが本音っすね」

 

「はい」

 

「今日のレナさん、開き直りがすごいっす」

 

 私は紙袋を開けた。

 

 バターの香りがふわっと出る。甘すぎない、でもちゃんと甘い匂い。

 

 イチカさんは少しだけ顔を緩めた。

 

 見逃さない。

 

 今の、好きそうだった。

 

「甘さ控えめです」

 

「ありがたいっす。甘すぎると、ちょっと休憩というより戦いになるんで」

 

「甘いものと戦うんですか?」

 

「たまに負けるっす」

 

「負けたらどうなるんですか?」

 

「もう一個食べるっす」

 

「それは負けなんですか?」

 

「幸せな敗北っすね」

 

 私はクッキーを一枚、イチカさんの前に置いた。

 

「じゃあ、負けてください」

 

「言い方」

 

「幸せな敗北です」

 

「レナさんに言われると、ちょっと意味変わるっすね」

 

「どう変わるんですか?」

 

「それ聞くんすか」

 

「気になります」

 

「気にしない方がいいっすよ」

 

 イチカさんはそう言って、クッキーを手に取った。

 

 上手い。

 

 言葉では答えずに、クッキーで話を畳んだ。

 

 私は少しだけ唇を尖らせた。

 

「……クッキー、便利ですね」

 

「おいしいっすからね」

 

「そういうことにしておきます」

 

「そういうことにしといてください」

 

 イチカさんがクッキーを食べる。

 

 ちゃんと一口で済ませず、少しずつ。

 

 それだけなのに、私はなぜか嬉しい。

 

 私が持ってきたものを、イチカさんが食べている。

 

 私が座らせた場所で、私の作った休憩に、ちゃんといてくれる。

 

 ……まずい。

 

 これ、思ったより楽しい。

 

「おいしいっす」

 

「本当ですか?」

 

「本当っすよ。疑うんすか?」

 

「イチカさん、何でも軽く言うので」

 

「信用ないっすね、自分」

 

「あります」

 

「どっちっすか」

 

「信用してるから、軽い言葉の中身を確認したくなるんです」

 

 言ったあとで、少しだけ恥ずかしくなった。

 

 どうして私は、こういうことをさらっと言ってしまうんだろう。

 

 さらっと言ったつもりなのに、全然さらっとしていない。

 

 自分で自分の言葉に足を引っかけている感じがする。

 

 イチカさんはクッキーを持ったまま、私を見る。

 

 笑っていない。

 

 ほんの一瞬だけ。

 

 でも、その一瞬がすごく静かだった。

 

「レナさんって、たまにすごいところ刺してくるっすよね」

 

「刺しました?」

 

「刺さったっす」

 

「痛いですか?」

 

「痛いっていうより、抜けない感じっすね」

 

「それは困ります」

 

「困ってるの、自分なんすけどね」

 

 イチカさんはそう言って、残りのクッキーを口に入れた。

 

 私の方を見ないで。

 

 あ、今の。

 

 また、クッキーに助けてもらった。

 

 私は紙袋の口を少し整える。もう整っているのに、なんとなく。

 

「イチカさん」

 

「はい?」

 

「そのクッキー、もう一枚いりますか?」

 

「急に優しいっすね」

 

「今の話、クッキーで終わったので」

 

「……レナさん、意外と細かいところ見てるっすね」

 

「休憩係なので」

 

「便利っすね、その係」

 

「便利です」

 

 イチカさんは少し笑った。

 

 その笑い方が、いつもより小さい。

 

 私はもう一枚クッキーを出して、今度はすぐ渡さずに、自分の指先で少しだけ持ったままにした。

 

 イチカさんがそれを見る。

 

 それから、私を見る。

 

「くれるんじゃないんすか?」

 

「質問に答えてくれたら」

 

「取り調べ始まったっす。自分、休憩に来たはずなんすけど」

 

「正実の休憩室なので」

 

「場所のせいにするの、上手いっすね」

 

「今日、何しに来たと思いますか?」

 

「え、自分が答える側っすか?」

 

「はい」

 

「差し入れ」

 

「それもあります」

 

「様子見」

 

「それもあります」

 

「救護騎士団の巡回」

 

「違います」

 

「じゃあ……」

 

 イチカさんが言いかけて、少しだけ口を閉じた。

 

 たぶん、何か浮かんだ。

 

 でも言わない。

 

 言わないで、私の手元のクッキーを見る。

 

 私はそこで、少しだけ意地悪をしたくなった。

 

「続きは?」

 

「クッキー、遠いなって思ってたっす」

 

「そういう話でした?」

 

「今はそういう話っす」

 

「ずるいです」

 

「お互い様じゃないっすか?」

 

 イチカさんが笑う。

 

 軽い声。

 

 でも、目は少しだけ私を見ている。

 

 言わないなら、私が言うしかない。

 

 それも少し悔しいけど、今日は私から来たのだから仕方ない。

 

「イチカさんに会いに来ました」

 

 イチカさんが止まった。

 

 よし。

 

 と思った瞬間、自分の顔が熱くなる。

 

 だめだ。

 

 言った方も無傷じゃいられない。

 

 こういうのは、勝ちと言っていいんだろうか。たぶん引き分けだ。いや、ちょっと負けかもしれない。

 

「……レナさん」

 

「はい」

 

「そういうの、クッキーより効くっすよ」

 

「効きますか?」

 

「効くっす。用法用量、守ってほしいっすね」

 

「副作用は?」

 

「自分が変な顔になるっす」

 

「見たいです」

 

「ほら、そういうところっすよ」

 

「見ちゃだめですか?」

 

「……だめとは言ってないっす」

 

「じゃあ見ます」

 

「宣言してくるんすね」

 

「はい」

 

「やりづらいっすねぇ」

 

「でも、見ます」

 

 イチカさんは少しだけ顔を逸らした。

 

 ほんの少し。

 

 でも、その少しが嬉しい。

 

 自分でもどうかと思う。

 

 でも、イチカさんが私の言葉で少し困ると、胸の奥がふわっとする。

 

 たぶんこれは、救護騎士団としてはあまり良くない感情だ。

 

 でも今日は、休憩係なので。

 

 休憩係は、たぶん少しだけ悪くてもいい。

 

 さっきできた係だから、規則はまだない。

 

「レナさん、羽がまた元気っす」

 

「見すぎです」

 

「見ていいって言われた気がしたんで」

 

「私が見る話でした」

 

「じゃあ交代制っすね」

 

「いつ決まったんですか?」

 

「今っす」

 

「勝手です」

 

「レナさんに言われるとは思わなかったっす」

 

 ふたりで笑った。

 

 さっきまでの廊下のざわざわが、遠くに聞こえる。

 

 休憩室の中は静かだった。

 

 でも、気まずい静けさじゃない。

 

 クッキーを食べる音と、紙袋が少し鳴る音と、イチカさんがたまに笑う声。

 

 それだけで、なんだか十分だった。

 

 イチカさんが、もう一枚クッキーを手に取る。

 

「これ、本当においしいっすね」

 

「よかったです」

 

「自分の好み、調べたんすか?」

 

「少しだけ」

 

「少しだけ?」

 

「甘すぎるものは戦いになるって、前に言っていたので」

 

「言いましたっけ」

 

「言ってました」

 

「覚えてたんすね」

 

「はい」

 

 また、少しだけ静かになった。

 

 今度の笑顔は、少しだけ疲れていた。

 

 でも、さっきよりずっと近かった。

 

「レナさん」

 

「はい」

 

「それ、誰にでもするんすか」

 

 急に、声の温度が変わった。

 

 軽い。

 

 軽いままなのに、どこか引っかかる。

 

 たぶん、ここで「何がですか?」って言えば楽になる。

 

 私はその答え方をもう知っている。

 

 でも、今日は少し迷った。

 

 楽な方に行きたい。

 

 でも、行きたくない。

 

 イチカさんが今、少しだけ本当のことを聞いてくれている気がしたから。

 

「誰にでもは、しません」

 

「じゃあ、自分は?」

 

 言い方がずるい。

 

 特別、という言葉を自分では言わない。

 

 でも、私に言わせる形にしてくる。

 

 私は紙袋の口を意味もなく整える。もう何度も整っているのに。

 

「……今日は、イチカさんの休憩係なので」

 

「係の話になったっすね」

 

「大事な話です」

 

「便利に使われてるっすね、その係」

 

「私が作ったので」

 

「じゃあ、作った人の責任で、次も来るんすか?」

 

 その聞き方が、なんだか当たり前みたいだった。

 

 また来る。

 

 私が。

 

 ここに。

 

 イチカさんのところに。

 

 そう思ったら、胸の奥が少し甘くなる。

 

「来ます」

 

「クッキー持参で?」

 

「はい」

 

「経過観察で?」

 

「それもあります」

 

「それも、っすか」

 

 イチカさんがそこを拾う。

 

 本当に、ずるい。

 

 私は少しだけ唇を尖らせた。

 

「細かいです」

 

「正実なんで」

 

「便利ですね、正実」

 

「便利っすよ。レナさんの救護騎士団くらいには」

 

「じゃあ、お互い様です」

 

「ま、そういうことにしとくっす」

 

 イチカさんが笑う。

 

 私も笑った。

 

 でも、そこで終わらせるのは少しだけもったいなかった。

 

 今日の私は、少し悪い。

 

 自覚はある。

 

 自覚はあるけど、たぶんやめない。

 

「イチカさん」

 

「はい?」

 

「次は、もう少し甘いものにします」

 

「それは危ないっすね」

 

「甘いもの、苦手ですか?」

 

「苦手ではないっす。むしろ、たぶん弱いっす」

 

「じゃあ持ってきます」

 

「弱いって言ったのに?」

 

「はい」

 

「レナさん、人の弱点聞いてから攻めるタイプっすか」

 

「イチカさん相手なら」

 

 言ってしまった。

 

 今のは、ちょっと強かったかもしれない。

 

 イチカさんが一瞬だけ目を伏せる。

 

 笑っているけど、さっきまでより静か。

 

 困っている。

 

 たぶん、ちゃんと困っている。

 

 それを見て、私は少し満足してしまった。

 

 最低だ。

 

 でも、少しだけなら許されたい。

 

「……ほんと、悪い子っすね」

 

「少しだけです」

 

「少しだけでこれなら、全力出されたら正実が落ちるっすよ」

 

「落としません」

 

「じゃあ、何を落とすんすか」

 

 イチカさんが軽く言った。

 

 たぶん冗談。

 

 でも、私の方が詰まった。

 

 何を落とすのか。

 

 そんなの、今ここで言えるわけがない。

 

 イチカさんが私を見る。

 

 楽しそうに。

 

 今度はイチカさんの方が、少しだけ悪い顔をしている。

 

「レナさん?」

 

「……言いません」

 

「えー、気になるっすね」

 

「言ったらイチカさんが調子に乗ります」

 

「乗るっすね」

 

「ほら」

 

「でも、言わないなら勝手に想像するしかないっすよ」

 

「それも困ります」

 

「じゃあ、やっぱり言うしか」

 

「嫌です」

 

「強いっすね」

 

「強いです」

 

「そこは認めるんすね」

 

「認めたので、今日はここまでです」

 

「線引きが急っすね」

 

「休憩時間なので」

 

「休憩時間、便利っすねぇ」

 

 イチカさんが笑う。

 

 今度はちゃんと楽しそうだった。

 

 ああ、よかった。

 

 そう思った。

 

 休憩係としては、たぶん仕事ができている。

 

 たぶん。

 

 少し方向は怪しいけど。

 

 紙袋の中には、クッキーがまだ数枚残っている。

 

 私はそれを見て、イチカさんにもう一枚差し出した。

 

「追加です」

 

「買収が止まらないっすね」

 

「予算多めなので」

 

「その予算、どこから出てるんすか?」

 

「私のお小遣いです」

 

「一番断りにくいやつっすね、それ」

 

「だから効きます」

 

「レナさん、買収の才能あるっすよ」

 

「正実に褒められていい才能ですか?」

 

「だめっすね」

 

「じゃあ内緒で」

 

「共犯にされてるっす」

 

「嫌ですか?」

 

 イチカさんはクッキーを受け取りながら、少しだけ肩をすくめた。

 

「嫌なら食べてないっす」

 

 その一言が、思ったより嬉しかった。

 

 私はたぶん、今日何度も浮いたり沈んだりしている。

 

 でも最後にその言葉をもらえたなら、たぶん今日はいい日だ。

 

 外から誰かがイチカさんを呼ぶ声がした。

 

 イチカさんは返事をしようとして、私を見る。

 

 私は少しだけ紙袋を閉じた。

 

「呼ばれてます」

 

「呼ばれたっすね」

 

「……行きますか?」

 

「休憩係さんの判断は?」

 

 そこで私に聞くのは、少しずるい。

 

 行ってほしくない、と言えば困らせる。

 

 行ってください、と言えば私が少し寂しい。

 

 だから私は、できるだけ真面目な顔をして言った。

 

「あと一枚食べたら、行っていいです」

 

「条件付きっすか」

 

「はい」

 

「厳しいっすね」

 

「休憩係なので」

 

「便利な係っす」

 

「便利に使ってください」

 

 言った後で、少しだけ自分の言葉に引っかかった。

 

 便利に使ってください。

 

 それは、ちょっと違う。

 

 でもイチカさんは、茶化さなかった。

 

 クッキーを一枚食べて、ゆっくり飲み込んで、それから立ち上がる。

 

「じゃあ、使わせてもらうっす」

 

「はい」

 

「次も来てください」

 

 さらっと言われた。

 

 さらっと。

 

 でも、そのせいで余計に胸に来る。

 

「……はい」

 

「返事、ちょっと遅かったっすね」

 

「急だったので」

 

「急じゃないっすよ。レナさんがまた来るって言ったんで、確認しただけっす」

 

「それも、ちょっとずるいです」

 

「お互い様っす」

 

 イチカさんは扉の方へ歩いて、それから振り返った。

 

「レナさん」

 

「はい」

 

「次、甘いもの持ってくるなら」

 

「はい」

 

「自分、たぶん負けるっすよ」

 

 私は少し笑った。

 

「クッキーにですか?」

 

 イチカさんも笑う。

 

「何のことっすか?」

 

 ずるい。

 

 私の台詞を取られた。

 

 でも、その言い方があまりに楽しそうだったから、今日は許すことにした。

 

 イチカさんが部屋を出ていく。

 

 廊下の声がまた少し近くなる。

 

 私は残った紙袋を抱えて、ひとりで少しだけ笑った。

 

 次は、もう少し甘いものにしよう。

 

 クッキーのことかどうかは、まだ決めていない。

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