戦えない私がキヴォトス中の生徒に執着されるまで   作:Zuzuiikb

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第2話 レナさんの分、ありますよ

 

 イチカさんの部屋には、私の歯ブラシがある。

 

 青い歯ブラシ。

 

 洗面台の端に置かれた白いコップの中で、イチカさんの歯ブラシと並んで立っている。最初に見た時は、何かの間違いかと思った。けれど、何度見てもそこにあるし、何度使っても次に来た時にはそこに戻っている。

 

 だから私は今日も、それを手に取った。

 

 手に取ってから、ほんの少しだけ止まる。

 

 慣れている。

 

 そのことに、慣れてしまっている。

 

「レナさん、青い方っすよ」

 

 洗面所の外から声がした。

 

「分かってます」

 

「今、白い方に一瞬だけ迷ってなかったっすか」

 

「迷ってません。確認です」

 

「歯ブラシを前にしてそんな慎重になる人、あんまり見ないっすね。正実の備品点検でも、もうちょっと雑っすよ」

 

「イチカさんの備品点検が雑なのでは?」

 

「いやー、痛いところ刺すっすね。今のは聞かなかったことにしておくっす」

 

 私は口をゆすぎながら、鏡越しに廊下を見た。

 

 イチカさんは部屋着の袖を少しまくって、片手に小さな鍋を持っていた。正義実現委員会の廊下にいる時とは違って、肩のあたりが少しだけゆるい。けれど、そのゆるさの中にも妙な隙のなさがある。

 

 机の上には既に二人分のカップが置いてあった。

 

 一つはイチカさんのもの。

 

 もう一つは、私が使うようになったもの。

 

 いつからそうなったのか、はっきりとは覚えていない。

 

 一度目は、借りた。

 二度目は、出された。

 三度目からは、何も言われずそこに置かれていた。

 

 たぶん、そういう順番だったと思う。

 

 私は歯ブラシをコップに戻し、洗面台の水滴を指で軽く払った。イチカさんの部屋で、そういうことをする自分にまた少し驚く。

 

 客ならしない。

 

 でも、住人でもない。

 

 では何なのかと考えると、答えが急に湿った綿みたいに重くなるので、私は考えるのをやめた。

 

「レナさん」

 

「はい」

 

「歯ブラシと会議、終わりました?」

 

「会議ではありません」

 

「じゃあ面談っすか」

 

「歯ブラシとは話しません」

 

「野良ぬいぐるみがいるくらいなんで、歯ブラシにも意思があってもおかしくないっすよ。青い方、たぶんけっこう律儀な子っす」

 

「私の歯ブラシに性格をつけないでください」

 

「レナさん用なんで、ちょっと真面目そうにしといた方がいいかなって」

 

 何を言っているんだろう。

 

 そう思ったのに、少しだけ笑ってしまった。

 

 部屋に戻ると、机の上には小さなおにぎりとスープ、それから卵焼きが並んでいた。おにぎりは二つ。大きさが少し違う。私の前に置かれている方が、小さい。

 

 その小ささが、妙に腹立たしいくらい丁寧だった。

 

「少なめにしました?」

 

「夜なんで。足りなかったら追加するっす」

 

「最初から普通に出してくれても」

 

「レナさん、空腹の時は勢いで食べるけど、あとでちょっと眠そうになるんすよ。しかも本人は眠くないふりするから、先にこっちで調整した方が早いっす。梅は抜いてます。味濃いのもやめました。明日早いんで、朝から“私は平気です”って言いながら全然平気じゃない状態で出て行かれると、こっちが気になるんすよ」

 

 長かった。

 

 あまりにも自然に、あまりにも普通のことみたいに言うから、私はすぐ返事ができなかった。

 

 イチカさんは自分のカップを手に取り、何もなかったようにスープを飲んでいる。

 

 ずるい。

 

 今の量の気遣いを、そんな軽さで出さないでほしい。

 

「……イチカさん」

 

「はい?」

 

「それ、どのくらい前から気づいてました?」

 

「どれっすか。梅? 味濃いの? 眠そうになるやつ?」

 

「全部です」

 

「んー。梅は早かったっすね。最初に出した時、レナさん一応食べたけど、次の一口までちょっと間があったんで。味濃いのは何回か見てから。眠そうになるやつは、まあ、分かりやすかったっす」

 

「分かりやすいですか」

 

「はい。目は起きてるんすけど、返事が一拍遅れるんすよ。あと羽の動きが少し省エネになる」

 

「羽で判断しないでください」

 

「じゃあ、返事の遅さだけで判断するっす」

 

「それも嫌です」

 

「難しいなあ」

 

 イチカさんは笑って、私の前に箸を置いた。

 

 箸の向きがちゃんと私から取りやすい向きになっている。こういうところまで気づいてしまうのは、私がイチカさんを見すぎているからかもしれない。

 

 おにぎりを一口食べる。

 

 梅は入っていなかった。

 味も、濃すぎなかった。

 

 少し悔しいくらい、おいしい。

 

「どうっすか」

 

「……おいしいです」

 

「よかった。レナさんが黙って食べ始めた時点で、たぶん大丈夫だとは思ったっすけど」

 

「私、そんなに食べ方に出ます?」

 

「出る時は出るっすね。でも安心してください。外ではたぶんそこまで見てる人いないっすよ」

 

「イチカさんは見てるんですね」

 

「自分の部屋でご飯出してる相手くらいは見ますよ。変なもの食べさせて倒れられたら、正実の信用問題っす」

 

「正実の話にしますか」

 

「便利なんで」

 

 イチカさんは卵焼きを一つ、自分の皿から私の皿へ移した。

 

 流れるような動きだった。

 

 私はそれを見て、箸を止める。

 

「今、自然に増やしましたね」

 

「見つかったっすか」

 

「見つかります。目の前です」

 

「レナさん、これ好きっすよね」

 

「好きですけど、イチカさんの分が減ります」

 

「自分は作りながら味見したんで」

 

「それは味見であって、食事ではありません」

 

「救護騎士団、卵焼きの定義にも厳しいっすね」

 

「イチカさんが自分の分を減らすからです」

 

 私は卵焼きを元に戻そうとした。

 

 その前に、イチカさんが皿を少しだけ遠ざける。

 

 あまりにも素早く、あまりにも何でもない動きで。

 

「だめっす」

 

「どうしてですか」

 

「一回渡したものを返されると、こっちが微妙に切なくなるんで」

 

 その言い方が少し意外で、私は手を止めた。

 

 イチカさんは笑っている。けれど、今のはただの冗談にするには少しだけ素直だった。

 

「切なくなるんですか」

 

「なりますよ。せっかくレナさんに食べさせようと思って置いたのに、戻ってきたら卵焼きも困るっす」

 

「卵焼きが?」

 

「はい。行き先決まってたのに、急に帰省させられる卵焼きの気持ち、考えたことあります?」

 

「ありません」

 

「今考えてください」

 

「嫌です」

 

「即答っすね。卵焼きに厳しい」

 

 私は笑ってしまった。

 

 そのまま、戻すのを諦めて卵焼きを食べる。

 

 甘い。

 

 少しだけ甘くて、やっぱりおいしい。

 

 イチカさんは何も言わなかった。ただ、私が食べたのを見届けてから、自分の皿に残っていた分を食べる。

 

 こういう人だ。

 

 恩着せがましくしない。

 

 先に用意して、先に気づいて、先に場所を空けてくれる。けれど、こちらがそれを大ごとにしようとすると、すぐに変な冗談で手触りを軽くしてしまう。

 

 その軽さに助けられているのか、誤魔化されているのか、まだよく分からない。

 

 でも、たぶん両方だ。

 

「イチカさんって」

 

「はい」

 

「そういうところがありますよね」

 

「主語も目的語も置いてきたっすね」

 

「拾ってください」

 

「いやー、落とし物係じゃないんで」

 

「野良ぬいぐるみは拾っていたのに」

 

「あれは保護っす」

 

「じゃあ今のも保護してください」

 

「レナさん、たまに無茶なこと言うっすよね」

 

 私はカップを持ち上げた。

 

 温かい。

 

 手のひらから、じわっと熱が入ってくる。

 

「イチカさんは、何でもないみたいに置くんです。歯ブラシも、カップも、クッションも、こういうご飯も。こっちが気づいた時にはもうそこにあって、しかも“便利だから”みたいな言い方をするので、怒るタイミングも照れるタイミングもなくなります」

 

 イチカさんが、少しだけ箸を止めた。

 

 私は言いながら、自分で恥ずかしくなってきた。けれど、途中でやめる方がもっと恥ずかしい気がして、そのまま続ける。

 

「それで、私はいつの間にか使ってます。青い歯ブラシも、マグカップも、ここにある寝具も。たぶん、使っていいように置いてくれているから。……そういうの、困ります」

 

「困るんすか」

 

「困ります」

 

「じゃあ片づけます?」

 

 イチカさんは棚の方をちらっと見た。

 

 そこには、私用のマグカップがある。

 

 私は無言でカップを両手で持ち直した。

 

 イチカさんが少しだけ息を吐く。

 

「片づけないっすよ。そんな大事そうに持たれたら、自分が悪者になるじゃないっすか」

 

「大事そうに持ってません」

 

「今の否定、だいぶ弱いっす」

 

「弱くても否定は否定です」

 

「はいはい」

 

 短く笑ったあと、イチカさんは立ち上がった。

 

 棚から小さな箱を取り出す。

 

 その箱は私も知っている。

 

 この部屋に置きっぱなしになっている、私のものが入っている箱。予備のリボン、櫛、絆創膏、小さなヘアピン。最初は一つずつだったはずなのに、いつの間にか箱が必要なくらいには増えていた。

 

 イチカさんは箱を開けて、中からリボンを一つ取り出す。

 

「これ、明日使うっすか。今日の、少し湿ってるんで」

 

「……いつ気づいたんですか」

 

「さっき髪見た時っす。雨、思ったより当たってたんじゃないですか」

 

「言ってくれればよかったのに」

 

「ご飯の前に言ったら、レナさんたぶんリボンの方気にするっすよ。先に食べさせたかったんで」

 

 さっきから、ずっとそうだ。

 

 先に食べさせたかった。

 先に調整した方が早い。

 先に用意しておいた。

 

 イチカさんの言葉には、いつも先回りが混ざっている。

 

 私はそのリボンを受け取った。

 

「スパダリみたいです」

 

 つい言ってしまった。

 

 イチカさんは分かりやすく嫌そうに眉を寄せた。

 

「その言葉、前も出してきませんでした?」

 

「気のせいです」

 

「気のせいにするには、だいぶ鮮明に覚えてるっす」

 

「嫌ですか?」

 

「嫌というか、荷が重いっす。自分、そんな立派なものじゃないんで。梅抜いて、おにぎり小さくして、レナさんのリボン乾かしてるだけっすよ」

 

「並べるとすごいです」

 

「並べないでほしいっす」

 

「でも、助かってます」

 

 イチカさんが何か言おうとして、やめた。

 

 口を開きかけて、閉じる。

 

 それから少し遠回りするみたいに、空になりかけた皿を片づけ始めた。

 

「助かってるなら、まあ、いいっす」

 

 声は軽い。

 

 でも、さっきより少し小さかった。

 

 私はその背中を見て、リボンを膝の上でそっと握る。

 

 今のイチカさんは、たぶん照れていた。

 

 そう言ったら怒られそうだから、言わない。

 

 代わりに、卵焼きの最後の一切れを食べた。

 

 その時、端末が震えた。

 

 机の端で、小さく音が鳴る。

 

 私は何気なく画面を見た。

 

 メッセージだった。

 

『レナさん、明日少し時間ありますか? この前のお礼をしたくて。好きだって言っていたもの、用意しておきます』

 

 前に相談に乗ったトリニティの生徒からだった。

 

 お礼。

 

 好きだと言ったもの。

 

 たぶん、お菓子のことだ。

 

 特別な意味はない。普通に親切な子で、普通にお礼をしたいだけ。だから、変に構える必要はない。

 

 ないはずなのに。

 

 私はすぐ返事を打てなかった。

 

 イチカさんは皿を持ったまま、こちらを見ない。けれど、端末の通知音には気づいているはずだった。

 

 沈黙が、妙に薄く伸びる。

 

 雨の音がその上に重なる。

 

「急ぎなら、先に返していいっすよ」

 

 イチカさんが言った。

 

 声はいつも通りだった。

 いつも通りすぎて、私は少しだけ端末を伏せた。

 

「明日のことです」

 

「そっすか」

 

「前に相談に乗った子が、お礼をしたいって」

 

「レナさん、相談されるの多いっすね」

 

「そんなに多くは」

 

「多いっすよ。本人が数えてないだけで。レナさん、困ってる人の前で立ち止まるの上手いんすよね。立ち止まるだけなら誰でもできるけど、そのあと相手が喋りやすい場所を作るのが上手い。だからみんな、もう少しだけ聞いてほしくなるんじゃないっすか」

 

 私は端末を見たまま、返事を忘れた。

 

 イチカさんは皿を洗面台へ運び、戻ってくる。その動きは普段と変わらない。変わらないのに、なぜか部屋の空気が少しだけ静かになった気がした。

 

「……イチカさん」

 

「はい?」

 

「褒めていますか?」

 

「かなり褒めてるっす。伝わってなかったなら、自分の言い方が悪いっすね」

 

「伝わりました」

 

「ならよかった」

 

 イチカさんはそれだけ言って、スープのカップを片づけた。

 

 それ以上は聞いてこない。

 

 誰からなのか。

 何を用意してくれるのか。

 明日どこで会うのか。

 

 聞かない。

 

 聞かないまま、私の前に温かいお茶を置く。

 

「食後のやつっす」

 

「ありがとうございます」

 

「返事、打つなら冷めないうちにどうぞ。お茶も、相手も」

 

「相手も?」

 

「待たせすぎると申し訳ないじゃないっすか」

 

 軽い冗談みたいに言って、イチカさんは窓の方を見た。

 

 私は端末を開く。

 

 指が少しだけ迷う。

 

『ありがとうございます。明日なら少しだけ時間あります』

 

 そこまで打って、止まった。

 

 イチカさんの部屋にある青い歯ブラシのことを、なぜか思い出す。

 

 関係ない。

 

 明日の予定と歯ブラシは関係ない。

 

 でも、関係ないものが急に同じ部屋の中に並んでしまったような気がして、私は続きを打つのに少し時間がかかった。

 

『楽しみにしています』

 

 送信。

 

 画面を伏せる。

 

 イチカさんはまだ窓の方を見ていた。

 

「終わりました」

 

「ん」

 

 短い返事。

 

 そのあと、イチカさんは何でもなかったみたいにこちらを振り返った。

 

「お茶、飲んでください。せっかくちょうどいい温度にしたんで」

 

「ちょうどいい温度?」

 

「熱すぎるとレナさん、少し待つじゃないっすか。でも待ってる間に別のこと始めて、そのまま冷めるんで」

 

「そこまで見られてると、ちょっと怖いです」

 

「怖がるところ、そこなんすか」

 

「じゃあ、どこですか」

 

「自分で言うのも変なんでやめとくっす」

 

 イチカさんは冗談の端を少しだけ残して、すぐに別の作業へ移った。

 

 机の上を片づける。

 布巾で拭く。

 私の皿と自分の皿を重ねる。

 棚の下から、折り畳まれた寝具を出す。

 

 その一連の動きが、あまりにも滑らかだった。

 

 まるで、今夜私が泊まることは最初から予定に含まれていたみたいに。

 

 私はお茶を飲みながら、何も言えなくなる。

 

 温度は、本当にちょうどよかった。

 

 悔しい。

 

「イチカさん」

 

「はい?」

 

「まだ泊まるとは言ってません」

 

 イチカさんは寝具を抱えたまま、こちらを見た。

 

「じゃあ片づけます?」

 

 そう言って、寝具を本当に少しだけ持ち上げる。

 

 私は無言でカップを置いた。

 

 イチカさんの手が止まる。

 

 部屋の中に、雨の音だけが残った。

 

「……それ、返事っすか」

 

「まだ考え中です」

 

「考え中の人、寝具片づけられそうになってそんなに静かになります?」

 

「静かになっただけです」

 

「はいはい」

 

 イチカさんは寝具を床に置いた。

 

 勝手に決められた気がする。

 

 でも、文句は出なかった。

 

 イチカさんは布団を広げる前に、私の濡れたリボンを机の端にかけた。形が崩れないように、下に小さな布まで敷く。

 

 そういうことをする。

 

 言わずに。

 

 当たり前みたいに。

 

「帰るなら、送るっすよ」

 

 急に、イチカさんが言った。

 

 私は少し驚いて顔を上げる。

 

「この雨ですし、夜も遅いんで。一人で帰すのはちょっと落ち着かないっす。正実の人間としても、個人的にも」

 

 個人的にも。

 

 その言葉だけ、少しだけ遅れて胸に届いた。

 

「……送ってくれるんですか」

 

「帰るなら」

 

「泊まるなら?」

 

「朝、起こすっす」

 

「二択なんですね」

 

「他に何かあります?」

 

「イチカさんが選ぶ、という選択肢」

 

「それ、自分に渡すんすか」

 

「はい」

 

「ずるいなあ」

 

 イチカさんは小さく笑った。

 

 さっきまでより、少し困ったような声だった。

 

「自分が選んだら、たぶん泊まれって言うっすよ」

 

「言うんですか」

 

「言いますね。こんな時間で、この雨で、明日早くて、しかもレナさんのリボン乾かしてる途中なんで。帰る理由より、泊まる理由の方が多いっす」

 

「リボンも理由に入るんですか」

 

「入りますよ。大事な理由っす」

 

「大事なんですね」

 

「大事っす。レナさん、朝にリボン決まらないと、けっこう気にするんで」

 

 私は何も言えなくなった。

 

 この人は、またそうやって言う。

 

 私が忘れているような小さなことを、まるで重大な証拠みたいに拾い上げる。

 

 それでいて、自分が何をしているのか分かっていないふりをする。

 

 私は膝の上で指を組んだ。

 

「イチカさん」

 

「はい」

 

「帰る理由、探した方がいいですか」

 

 イチカさんは、寝具を広げる手を止めた。

 

 ほんの短い間。

 

 それから、こちらを見ずに答える。

 

「あるなら、探してもいいっすよ」

 

「なかったら?」

 

「なかったことにすればいいっす」

 

「雑です」

 

「こういう時は雑な方が楽っすよ。理由って、探すときりがないんで」

 

 イチカさんは寝具を広げ終えて、端を整えた。

 

 その手つきが丁寧だったから、言葉の雑さだけが少し浮く。

 

 私はその場所を見る。

 

 この部屋で、私が寝る場所。

 

 何度か使った場所。

 

 折り目のついた布団。私が使う枕。少しだけ厚めのブランケット。

 

 全部、もう知っている。

 

 知らないふりをするのが、だんだん下手になっている。

 

「レナさん」

 

「はい」

 

「帰る理由、あります?」

 

 軽い声だった。

 

 でも、軽いだけじゃなかった。

 

 私はすぐには答えられなかった。

 

 帰る理由。

 

 ある。たぶんある。

 

 自分の部屋。明日の準備。救護騎士団の予定。まだ返していない資料。探せばいくらでも出てくる。

 

 でも、イチカさんがそう聞いた時点で、私は探す気をなくしていた。

 

 そんな聞き方をされたら、帰らない理由の方ばかり増えてしまう。

 

「……ありません」

 

「じゃあ、泊まってけばいいっす」

 

「軽いですね」

 

「重く言った方がいいんすか?」

 

 イチカさんがこちらを見た。

 

 冗談みたいな声。

 

 でも、目は少しも冗談だけではなかった。

 

「それは……困ります」

 

「じゃあ軽く言うっす」

 

 イチカさんはそう言って、枕を整える。

 

 私はその横顔を見ながら、聞かなくてもいいことを聞いてしまった。

 

「理由は?」

 

 イチカさんは少しだけ笑った。

 

 困ったようにも、楽しそうにも見える笑い方だった。

 

「レナさんの歯ブラシ、もうあるんで」

 

 何も言えなかった。

 

 ずるい。

 

 本当に、ずるい。

 

 そんな理由を、そんな軽さで言わないでほしい。

 

 でも、言われた瞬間に、私はもう完全に帰る気をなくしていた。

 

 イチカさんは寝具の端をぽん、と軽く叩く。

 

「はい。レナさんの場所っす」

 

「……私の場所なんですか」

 

「今夜は」

 

「今夜だけ?」

 

「そこ、今日詰めるんすか」

 

「少し気になったので」

 

「悪い子っすね」

 

「少しだけです」

 

「その“少しだけ”、最近だいぶ範囲広いっすよ」

 

 私は笑った。

 

 イチカさんも笑う。

 

 けれど、私の胸の奥は少し変なままだった。

 

 歯ブラシがある。

 マグカップがある。

 クッションがある。

 リボンが乾かされている。

 私の場所、とイチカさんが言った。

 

 今夜は、と付け足したけれど。

 

 その言葉は、簡単には消えなかった。

 

「明日、六時半に起こしてください」

 

「了解っす。起きなかったら?」

 

「優しく起こしてください」

 

「条件つけるの早いっすね」

 

「イチカさんならできます」

 

「信頼が重い」

 

「重く言った方がいいですか?」

 

「それ、こっちの台詞だったんすけど」

 

「借りました」

 

「返してください」

 

「嫌です」

 

「ほんと、困る人っすね」

 

 イチカさんは部屋の明かりを少し落とした。

 

 眩しすぎない、でも暗すぎない明るさ。

 

 私が眠くなる前に、ちょうどいい明るさ。

 

 やっぱり、分かっている。

 

 私は布団の端に手を置いた。

 

「イチカさん」

 

「はい?」

 

「明日の朝ご飯も、梅は抜いてください」

 

「朝から梅の心配っすか」

 

「大事です」

 

「はいはい。抜いとくっす。あと、味濃いのもやめとくっす。レナさん、明日は相談される側なんで、朝からぼーっとしてたら困るでしょうし」

 

 相談される側。

 

 その言葉で、さっきのメッセージを思い出した。

 

 好きだと言っていたものを用意しておきます。

 

 イチカさんは何も聞かなかった。

 

 何も聞かないまま、私の明日の朝ご飯の味を考えている。

 

 私は布団に座ったまま、イチカさんを見た。

 

 イチカさんは机の上を片づけている。私のマグカップを持ち上げて、洗面台へ運んでいく。

 

 私の分。

 

 何でもないみたいに置かれた、私の分。

 

 それが嬉しくて、少し怖い。

 

「おやすみなさい、イチカさん」

 

「はい。おやすみっす、レナさん」

 

 雨の音が続いている。

 

 私は目を閉じる前に、洗面所の方を少しだけ見た。

 

 青い歯ブラシがある。

 

 それだけのことなのに、帰らない理由としては十分すぎた。

 

 この部屋は私の部屋じゃない。

 

 でも、私の分がある。

 

 その事実が、どうしようもなくあたたかくて、どうしようもなく危ないことのような気がした。

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