戦えない私がキヴォトス中の生徒に執着されるまで 作:Zuzuiikb
六時半より少し前に、私は目を覚ました。
正確には、目を覚ましたというより、部屋の中にある小さな音で意識だけが浮かんできた。
布の擦れる音。カップが机に置かれる音。棚の扉が閉まる音。
どれも小さい。眠っている人を起こさないようにしている音だった。
目を開けると、イチカさんが机の前に立っていた。部屋着の上に軽く羽織っただけの姿で、昨日濡れていた私のリボンを指で整えている。
乾いていた。
ただ干してあっただけじゃない。変な折り目がつかないように、端がきれいに伸ばされている。下には小さな布まで敷いてあった。
そういうところだ。
イチカさんは、こういうことを何でもないみたいにする。
「起きてたんすか」
こちらを見ないまま、イチカさんが言った。
「今、起きました」
「六時半まであと三分あります。優秀っすね」
「三分前に起きたら優秀なんですか」
「レナさん基準ではかなり」
「私、そんなに起きませんか」
「起きますよ。ただ、一回目は返事だけして、二回目で目を開けて、三回目でようやく上半身が起きることがあるっす」
「……観察しすぎです」
「泊まった人を朝起こす係になったら、これくらいは把握するっす。というか、把握しないと負ける」
「私と戦ってるんですか」
「朝のレナさんとは、たまに」
イチカさんはリボンを持って、こちらへ来た。
私は寝具の上で上体を起こす。まだ少し眠い。けれど、イチカさんが手にしているリボンを見ると、ぼんやりしている場合ではない気がした。
「これ、今日こっち使うっすか。昨日の、乾いてます」
「ありがとうございます」
「あと、朝ご飯できてます。梅なし、味薄め、卵焼きは一個多め」
「一個多め?」
「昨日返そうとした罰っす」
寝起きの頭で、その言葉を理解するまで少しかかった。
「罰が優しいです」
「優しくない罰がいいんすか」
イチカさんはさらっと言った。
さらっと言われたせいで、余計に返し方に困る。
「……今はいいです」
「今は、なんすね」
「聞かなかったことにしてください」
「自分に都合の悪い時だけ、それ使うのずるいっすよ」
イチカさんは笑いながら、私の手にリボンを乗せた。
軽い。
乾いた布の感触が指先に残る。
昨日の夜、イチカさんの部屋に泊まった。
青い歯ブラシを使って、イチカさんが用意したご飯を食べて、イチカさんの部屋で眠った。
朝起きたら、私のリボンが整えられていて、朝ご飯には梅が抜いてある。
普通ではない。
たぶん、何度確認しても普通ではない。
けれど、イチカさんは今日も普通みたいに言う。
「髪、少し跳ねてるっす。後ろ」
「え」
「自分でやると時間かかる場所っすね。座ったままでいいんで、少しこっち向いてください」
私は言われるまま少し横を向いた。
イチカさんの指が髪に触れる。手つきは慣れていて、でも雑ではない。寝癖の部分だけをつまんで、櫛を通して、リボンを結びやすいように髪を軽く分ける。
その間、イチカさんは何も言わなかった。
私も何も言わなかった。
たまに、沈黙の方がよく分かることがある。
この部屋では、もう言葉にしなくても通じることが少しずつ増えている。お茶をどこに置くか。私が朝どれくらいぼんやりしているか。リボンを結ぶ前に少しだけ髪を整えた方がいいこと。
増えている。
増えてしまっている。
「はい。たぶん大丈夫っす」
「ありがとうございます」
「どういたしまして。じゃあ起きるっす。朝ご飯、かわいそうになる前に」
「ご飯がかわいそうになるんですか」
「レナさんに食べてもらう予定でそこにいるんで。放置されたら寂しいっすよ」
「イチカさん、食べ物に感情をつけがちですね」
「食べてもらうための作戦っす」
私は笑いながら布団から出た。
朝ご飯は、昨日と同じようにちょうどよかった。
量も、味も、温度も。
私はそれをありがたいと思いながら、少しだけ怖くも思った。怖いというより、このままどこまで当たり前になるのか分からない感じがした。
食べ終わる頃、イチカさんが私の予定を確認するように聞いた。
「今日は、この前の子に会うんすよね」
「はい。少し話を聞くだけです」
「場所は?」
「中庭の近くです」
「じゃあ途中まで一緒っすね。自分も正実の方に寄るんで」
それも自然だった。
自然すぎた。
私はカップを置いて、少しだけイチカさんを見る。
「送ってくれるんですか」
「途中までっす。送るって言うほどじゃないですよ」
「でも、途中まで一緒に来てくれるんですよね」
「同じ方向なんで」
「そういうことにしておきます」
「何か含みがあるっすね」
「ありません」
「朝からその返事は信用が薄いなあ」
イチカさんはそう言って、空いた皿を片づける。
私の分を先に下げて、自分の皿をその後に持つ。やっぱりそういう順番だ。私が何かを言うより前に、イチカさんの手が動いている。
部屋を出る前、私は洗面台の青い歯ブラシを見た。
そこにある。
当然みたいに。
昨日の夜、イチカさんは言った。
レナさんの歯ブラシ、もうあるんで。
その言葉がまだ部屋のどこかに残っている気がして、私は目をそらした。
「レナさん?」
「何でもないです」
「そっすか。忘れ物は?」
「ありません」
「端末」
「あります」
「リボン」
「つけました」
「今日持っていく資料」
「鞄に」
「じゃあ大丈夫っすね」
「イチカさん、私の持ち物確認までします?」
「途中まで一緒なんで、途中で戻ることになったら自分も巻き込まれるじゃないっすか」
「正直ですね」
「朝は正直が一番っす」
そう言って、イチカさんは扉を開けた。
外の空気は、昨日の雨が少し残っていた。
しっとりしていて、でも空は明るい。廊下の窓から差す光が、床に薄く伸びている。
その中を、イチカさんと並んで歩く。
何度かこの部屋から出たことがある。けれど、朝に一緒に出る時は、いつも少しだけ落ち着かない。
帰る場所を一つ間違えたような気持ちになる。
でも、その間違いを正したいとは思わなかった。
中庭に近づくと、人の声が増えた。
いつものトリニティの朝。誰かが挨拶をして、誰かが小走りで通り過ぎる。空気が少しずつ外向きになっていく。
イチカさんも、部屋にいた時よりほんの少しだけ正実のイチカさんに戻った。
肩の力が入りすぎるわけではない。けれど、視線の配り方が変わる。誰が困っているか、どこで人が詰まりそうか、自然に見ている。
そういうイチカさんを見ると、少しだけ遠く感じる。
私だけのものではないのだと、当たり前のことを思い出してしまうから。
「レナさん」
声をかけられて、私は前を向いた。
昨日メッセージをくれた子が、少し緊張した様子で立っていた。両手に小さな紙袋を持っている。
「おはようございます。来てくれて、ありがとうございます」
「おはようございます。こちらこそ、呼んでくれてありがとうございます」
その子は私に紙袋を差し出した。
「あの、これ。この前、好きだって言っていたものです。甘すぎない方がいいって言っていたので、少し探してみました」
紙袋から、焼き菓子の甘い匂いがした。
甘すぎない、でもちゃんと甘い匂い。
私は素直に嬉しかった。
「覚えていてくれたんですね。ありがとうございます」
「はい。レナさん、あの時すごく丁寧に話を聞いてくれたので……何かお礼がしたくて」
「そんな、大したことは」
「大したことでした。私には」
その子は少し恥ずかしそうに言った。
私は紙袋を受け取る。
横にいるイチカさんは、何も言わなかった。
ちらっと見ても、いつも通りだった。人のやり取りを邪魔しない距離で、少しだけ後ろにいる。口元には軽い笑みがある。必要なら場を明るくできるけれど、今は入らない。そういう立ち位置。
「よかったっすね」
イチカさんはそれだけ言った。
声は軽かった。
軽くて、普通で、いつものイチカさんだった。
普通すぎた。
昨日の夜、私の歯ブラシを理由に泊まらせた人と同じ声には聞こえないくらい、きれいに普通だった。
私は紙袋の口を指で押さえる。
「はい。嬉しいです」
少しだけ、イチカさんの方を見た。
でも、イチカさんはただ笑っていた。
その子が緊張しないように。私が気まずくならないように。周囲に変な空気が生まれないように。
いつものイチカさん。
それが、少しだけ嫌だった。
私だけが、昨夜の部屋のことを持ち出しているみたいだった。私だけが、青い歯ブラシをまだ気にしているみたいだった。
そう思うと、胸の奥が小さく尖った。
「よかったら、ここで一つ食べてください。味が合うか分からないので」
その子が言った。
普通なら、私は一つ選んで食べて、お礼を言えばいい。
でも、なぜか今日はそうしなかった。
「じゃあ、一つ選んでもらってもいいですか?」
「私が、ですか?」
「はい。せっかく選んでくれたので」
その子は少し驚いた後、嬉しそうに紙袋を開けた。
焼き菓子がいくつか入っている。形が少しずつ違う。私一人では、たぶん普通に端のものを選んでいたと思う。
その子は迷いながら、一つを取り出した。
「これ、たぶんレナさん好きだと思います。甘さも控えめで、少し香りがいいので」
「じゃあ、それにします」
私は受け取った。
指先が少しだけ触れる。
何でもない。
何でもないはずだった。
でも、私はまたイチカさんを見てしまう。
イチカさんは少し離れたところで、近くを通りかかった下級生に道を譲っていた。こちらを見ていない。見ていないように見える。
それも、少しだけ腹立たしかった。
見ていてほしいのに、見ていないふりが上手い。
崩れてほしいわけではない。
たぶん。
ただ、昨日の夜のことを、イチカさんも覚えているのだと分かりたかった。私だけじゃないと、どこかで確認したかった。
だから私は、焼き菓子をその場で食べた。
「おいしいです」
「本当ですか?」
「はい。好きです、これ」
その子の表情がぱっと明るくなった。
私はそれを見て、少しだけ笑う。
イチカさんは、何も言わない。
何も言わないまま、そこにいる。
話はそのまま相談のことに移った。
その子は、最近の委員会で少し悩んでいるらしかった。誰かと大きく揉めたわけではない。けれど、言いたいことがうまく言えず、頼まれたことを断れないまま疲れてしまうのだという。
私は相づちを打ちながら聞いた。
「急いで答えを出さなくてもいいと思います。断るのが苦手なら、まずはその場で返事をしない練習からでもいいです。少し考えます、って言うだけでも、全部受け取るよりは楽になるので」
「でも、それを言うのも怖くて」
「怖いなら、最初は短くていいです。今日は難しいです、だけでも。理由を全部説明しようとすると、相手に言い返す隙を渡してしまうこともありますから」
その子は真剣に聞いていた。
私はできるだけゆっくり話した。
横でイチカさんが、時々軽く言葉を添える。
「まあ、返事を一回持ち帰るのは悪いことじゃないっすよ。即答が正義ってわけでもないんで。正実が言うとややこしいっすけど」
その子が少し笑う。
場がほぐれる。
やっぱり、イチカさんは上手い。
私の話が少し固くなりそうなところを、自然にやわらかくしてくれる。こちらが気づく前に、空気の角を削っている。
そういうところを好きだと思う。
思うから、余計に嫌になる。
イチカさんは誰にでもそうできる。
私のためだけではない。
私も、たぶん似たようなことをしている。
それなのに、自分が同じことをされる側になると、こんなに落ち着かない。
相談が一段落した頃、その子が私を見て少し笑った。
「あ、レナさん。髪に、小さい葉っぱがついてます」
「え?」
「取りますね」
その子が一歩近づく。
ほとんど同時に、イチカさんが動いた。
「あ、大丈夫っす。自分が」
いつもの声だった。
いつもの声で、いつものように自然に入ろうとした。
だから私は、止めた。
「大丈夫です」
イチカさんの手が止まる。
私はその子の方を向いて、笑う。
「お願いしてもいいですか」
「はい」
その子の指が、私の髪に触れた。
ほんの少し。髪の端をつまんで、小さな葉を取るだけ。
何も変なことではない。
でも、私の体は少し強張った。
強張った理由が、その子の手ではないことくらい、自分でも分かっていた。
イチカさんがいる。
近くにいる。
見ているのか、見ていないのか分からない場所にいる。
「取れました」
「ありがとうございます」
「いえ。あ、羽の方にも少し……」
その子の視線が、私の羽へ移った。
そこで、イチカさんが一歩前に出た。
今度は、先ほどよりも少しだけ早かった。
「そこは自分がやるっす」
声は軽い。
でも、譲る形ではなかった。
その子は少し驚いたように手を引く。
「あ、すみません」
「いやいや、謝ることじゃないっすよ。羽、ちょっと向きが難しいんで」
イチカさんはそう言って、私の後ろに回った。
指が羽の端に触れる。
いつもなら、丁寧だと思う。
今日は、少し違った。
乱暴ではない。
痛くもない。
けれど、ほんの短い間だけ、羽の根元がぞくっとした。
イチカさんの指が小さな葉を取る。すぐに離れる。
「はい。取れたっす」
イチカさんは何事もなかったみたいに言った。
私は振り返らなかった。
振り返ったら、何か余計なことを言ってしまいそうだった。
その子は少しだけ恐縮していたので、私はすぐに声をかける。
「気づいてくれてありがとうございます。私、自分では分からないので助かりました」
「いえ、そんな」
「本当に。今日、見てもらえてよかったです」
言ってから、自分でも少し強かったと思った。
その子は嬉しそうにしていた。
イチカさんは、笑っていた。
笑っている。
何も言わない。
私がその子に近づいても、髪に触れられても、羽に触れられかけても、ただ場が気まずくならないように笑っている。
それが、少しだけ嫌だった。
だって昨日、帰る理由をなくしたのはイチカさんなのに。
私の歯ブラシがあるなんて、あんな言い方をしたのはイチカさんなのに。
それなのに、外に出たら全部きれいにしまってしまう。まるで、あの部屋にあるものは全部、部屋の中だけの話だと言われているみたいだった。
私だけが気にしているみたいで、悔しかった。
相談は終わり、少し雑談になった。
その子は、さっきよりだいぶ表情がやわらかくなっていた。紙袋を持つ手にも、最初の緊張はもうない。
「レナさん、本当にありがとうございました。私、少し楽になりました」
「それならよかったです」
「また相談してもいいですか?」
「もちろんです」
「あと……もし迷惑じゃなかったら、今度うちにも来てください。今日のお礼、もっとちゃんとしたくて。泊まりでも大丈夫です。好きなもの、ちゃんと用意しますから」
泊まり。
その言葉が出た瞬間、私はイチカさんを見た。
イチカさんは笑っていた。
何も崩れない。
完璧に、いつものイチカさんだった。
その完璧さに、胸の尖ったところがさらに押された。
違う。
たぶん、違う。
ここで踏むのは良くない。分かっていた。
分かっていたのに、口が先に動いた。
「じゃあ、歯ブラシ、置いておいてください」
その子は一瞬きょとんとして、それから笑った。
「本当に用意しますね」
「はい。青以外でお願いします」
冗談みたいに言った。
周囲にいた子たちも、少し笑った。
何でもない会話。
少し踏み込んだ冗談。
ただそれだけ。
イチカさんも笑っていた。
「準備いいっすね。レナさん、どこでも暮らせそうっす」
声は軽かった。
あまりにも軽かった。
その時、私はようやく分かった。
これは外れたんじゃない。
当たった。
当たったのに、イチカさんが受け止めなかっただけだ。
みんなの前だから。
いつものイチカさんでいるために。
その子は最後に何度も頭を下げて、紙袋の残りを私に持たせてくれた。私はお礼を言って、笑って、手を振った。
周りにいた生徒たちも少しずつ散っていく。
中庭のざわめきが、遠くなる。
さっきまで近くにあった声が、ひとつずつ離れていく。
イチカさんは空になった小さな包装紙を拾った。
畳む。
指先で角を揃える。
もう十分小さくなっているのに、もう一度だけ折ろうとして、紙が少し歪んだ。
「イチカさん」
返事はなかった。
「あの、さっきのは」
そこで、イチカさんが私の手首を取った。
強かった。
いつもの手ではなかった。
椅子を引いてくれる時の手でも、濡れた髪を拭いてくれる時の手でもない。
痛い、と言う前に、体が先に引かれた。
「帰るっすよ」
「え?」
「帰るっす」
「どこに」
「自分の部屋」
それだけだった。
説明も、冗談も、いつもの逃げ道もなかった。
イチカさんは歩き出す。
私は一歩目から遅れた。持っていた紙袋が腕にぶつかって、中のお菓子が小さく鳴る。
「イチカさん、待っ」
返事はない。
歩くのが速い。
普段なら、イチカさんは私の歩幅に合わせる。私が少し遅れただけで気づく。羽が人に当たらないように、通る位置を少し変えてくれる。
今は、そういうものがなかった。
廊下へ入る角で、羽の端が壁にかすれた。
ほんの少し。
それでも私は息を詰める。
イチカさんは振り返らない。
その背中を見た瞬間、私はようやく本当に分かった。
怒っている。
私が知っているイチカさんが、私のためにいつもできていたことを、今はできないくらい。
紙袋がまた腕にぶつかる。
指から少しずれて、持ち手が危うく滑りかけた。中のお菓子ががさっと鳴る。
イチカさんは止まらない。
私は黙った。
言い訳をすればよかったのかもしれない。冗談だったと言えばよかったのかもしれない。あの子に悪い意味はないと、私は本気で泊まるつもりなんてなかったと。
でも、どれも今言うには遅すぎた。
私が言った。
じゃあ、歯ブラシ、置いておいてください。
2話でイチカさんが私にくれた言葉を、私は別の誰かに向けて使った。
軽く。
わざと。
そこまで考えた時、足元が少し冷たくなる。
イチカさんの手は、まだ離れない。
正実の廊下を抜ける。角を曲がる。何人かとすれ違った気がするけれど、イチカさんは何も説明しなかった。挨拶だけは短く返していた。声はいつも通りに聞こえたかもしれない。
でも、手首を掴む力は変わらなかった。
階段を上がる時、私は少しつまずきかけた。
その時だけ、イチカさんの足が一瞬止まる。
でも、振り返らなかった。
止まったのは本当に一瞬だけで、すぐまた歩き出す。
最低限。
それ以上は、今のイチカさんにはなかった。
部屋の前につく。
イチカさんが扉を開ける。私は引かれるまま中へ入った。
見慣れた部屋だった。
昨日泊まった部屋。
机の上には、朝に使ったカップが伏せてある。棚の端には私の予備のリボンを入れた箱。窓際には、私がよく座るクッション。
洗面台の方には、青い歯ブラシが見えた。
昨日は、それが嬉しかった。
帰らない理由になった。
今は、逃げられない理由みたいに見えた。
扉が閉まる。
大きな音ではなかった。
でも、いつものイチカさんなら絶対に出さない音だった。
私の手首は、まだ掴まれたままだった。
「座って」
っす、がなかった。
私は動けなかった。
イチカさんがこちらを向く。
声は低くなかった。
でも、軽くもなかった。
「...ねぇ」
短い沈黙。
私の手の中で、紙袋がかすかに鳴った。
イチカさんの視線がそこへ落ちる。
それから、私へ戻る。
「歯ブラシ、置いておいてくださいって、何?」