戦えない私がキヴォトス中の生徒に執着されるまで 作:Zuzuiikb
※セリカ視点です
ミレニアム技術展示会の閉場案内が流れる頃には、私の頬はすっかり笑顔の形に固まっていた。
来場者へパンフレットを渡し、迷子を案内し、実演機に触ろうとした子どもの手を三度止めた。時給はいい。昼食も出た。交通費までつく。条件だけを見れば文句なんてひとつもない。
それでも、朝から立ちっぱなしだった足は重いし、借り物のジャケットは肩が凝る。ようやく外したスタッフ腕章を受付へ返しながら、私は西側の入場口を見た。
いない。
べつに、探しているわけではない。
ただ、昼過ぎにレナから『終わる頃に行きます』と連絡が来ていた。それだけだ。頼んでもいないのに勝手に来ると言ったのは向こうで、私は『好きにすれば』と返しただけだった。
だから、さっきから自動ドアが開くたびに耳がそちらを向いてしまうのも、単に時間を確認しているだけで——。
「セリカさん」
聞き慣れた声に、身体が先に振り向いた。
閉まりかけた自動ドアを慌てて抜けてきたレナが、少し曲がった一日入館証を胸元で揺らしながら手を振っている。走ってきたのか、頬がうっすら赤い。
来た。
本当に来た。
胸の奥がぱっと軽くなったのを隠すように、私は腕を組んだ。
「遅い」
「まだ閉場してませんよ」
「私の仕事はもう終わったの」
「じゃあ、ちょうどですね。お疲れさまです」
レナは怒られているのに、なぜか嬉しそうだった。その顔のまま、私の肩にかかっていたバッグへ手を伸ばす。
「持ちます」
「いい。自分で持てるから」
「今日働いた人の方が偉いので、持たせてください」
「頼んでないんだけど」
「そうですか。じゃあ私は、展示会を一分だけ見に来た人ということにして帰ろうかな」
「っべ、別に帰れとは言ってないでしょ」
「よかった。じゃあ、このまま迎えに来た人でいます」
言いながら、レナは結局バッグの持ち手を半分だけ奪った。全部取れば怒ると分かっている持ち方だった。
そういうところが、ずるい。
文句を言おうとして、やめた。二人でひとつのバッグを持つ格好は少し変だったけれど、手放す理由も思いつかなかった。
このまま二人で帰れる。
そう思って、バッグを持ったまま受付を離れようとしたときだった。
「お疲れさまでした、セリカさん」
すぐ横の展示ブースから、柔らかな声がかかった。
足を止めて振り向くと、撤収状況を確認していたノアさんが、ちょうど端末の画面を閉じるところだった。
そういえば、ノアさんは運営側だ。この会場にいても何もおかしくない。
おかしくないけれど、よりによって今、声をかけなくてもいいでしょ。
ノアさんはいつもの穏やかな笑みをこちらへ向けている。視線はまず私へ、それからレナへ、最後に二人で持っているバッグへ落ちた。
一瞬だけ。
本当に一瞬だけだったのに、私にはきっちり見えた。
「ノアさんも、お疲れさまです」
レナがすぐに笑いかける。
「ありがとうございます、レナさん。今日は見学に?」
「いえ。セリカさんのお迎えです。頼まれてはいないんですけど」
「そこ、いちいち言わなくていいから」
「ふふ。そうでしたか。閉場まで残った甲斐がありましたね、セリカさん」
「バイトなんだから、最後までいるのは当たり前でしょ」
そのとき、レナが「あ」と声を上げた。
視線の先には、会場の隅に置かれた記念撮影ブースがある。展示会限定のフレームで写真を撮れるらしく、閉場間際になって列も消えていた。
「あれ、まだ使えますか?」
「あと七分ほどでしたら」
「じゃあ、撮りたいです」
レナが私を見る。
「今日のセリカさん、私、まだ一枚も持ってないので」
「な……何よ、その言い方」
「スタッフの服、似合ってます。脱ぐ前に一枚ほしいです」
そんなふうに正面から言われると困る。頬が熱くなり、それを隠せずにいる間に、レナはもう撮影ブースの方へ歩き始めていた。
二歩進んでから振り返る。
「ノアさんも、一緒に撮りませんか?」
浮いた気持ちが、胸の中でぺしゃりと潰れた。
「ええ。喜んで」
ノアさんの返事は早かった。
撮影ブースの中は、外から見るよりずっと狭かった。
三人用のモードを選ぶと、画面に立ち位置が表示される。レナが中央、私は左、ノアさんが右。肩が触れそうで触れない距離に並ぶと、正面の画面へ三人の姿が映った。
両端の二人だけ、妙に離れている。
「これだと私だけ証明写真みたいですね」
レナが画面を見て笑った。
「二人とも、もう少しこっちに来てください」
「私はちゃんと枠に入ってるでしょ」
「私も問題なく写っていますよ」
「そういうところだけ息を合わせないでください」
レナは呆れたように言って、二人の袖を同時につまんだ。そのまま遠慮なく自分の方へ引く。
レナが二人を引き寄せた拍子に、その右肩がノアさんの肩へぶつかった。
私の側も同じくらい近いはずなのに、画面の中では、レナの顔のすぐ横にノアさんの白い髪がある。
近い。
『撮影まで、三、二、一——』
一枚目のシャッターが切れた。
直後に表示された写真では、レナだけが目を閉じて笑っていた。私はノアさんの方を見ていて、ノアさんはなぜかきれいにカメラを見ている。
「セリカさん、こっち見てないです」
「だ、だって急だったから」
「もう一回撮りましょう。私も今度は目を閉じません」
「レナさんはきれいに写っていますよ」
「半分閉じてますよ。ノアさん、優しさで事実を変えないでください」
レナが自分の写真を見て吹き出した。
二枚目のカウントが始まる。そのとき、ノアさんがレナの横顔へ手を伸ばした。
「レナさん、少し失礼しますね」
返事を待つより先に、頬へかかっていた髪を指で掬う。
耳へかける。
ノアさんの指はすぐには離れなかった。耳の下から髪の流れに沿って、肩の近くまでゆっくり滑っていく。一度整えた毛先を、もう一度撫でて揃える。
何、それ。
一回で終わったでしょ。
「寝癖、残ってました?」
触られている本人は、少し恥ずかしそうに目を伏せているだけだ。
「いいえ。照明で少しだけ乱れて見えたので」
「もう直ってるでしょ」
気づけば、手が動いていた。
レナの肩を抱くようにして、こちらへ引き寄せる。
「わっ」
急に重心をずらされたレナの身体が傾いた。すぐに、反対側からノアさんの腕が腰へ回る。
『一——』
白い光が弾けた。
二枚目には、私の胸元へ引き寄せられたレナと、その腰を支えるノアさんの手が、どちらもはっきり写っていた。
「ちょっと、二人とも」
レナが画面と二人の顔を見比べる。
「私の立ち位置、そこまで厳密に決めなくても大丈夫ですよ?」
「あんたが急にふらつくからでしょ」
「転ばれたら危ないですから」
「原因、半分はセリカさんですけどね」
「うっ」
それを言われると弱い。
腕の力を緩める。その向こうで、遅れてノアさんもレナの腰から手を離した。
——遅い。
レナはもう立っていた。
それなのに、三つ数えるくらいは触れていた。
三つ。
数えた自分にも腹が立つ。
「次は普通に撮りましょう。私、もう動きませんから」
レナが両手を身体の前で揃え、わざと置物みたいに背筋を伸ばす。
「ほら。これなら安全です」
「固すぎ。卒業写真じゃないんだから」
「注文が多いなぁ」
口を尖らせながらも、レナは楽しそうだった。
三枚目は、三人とも正面を向いた。けれどシャッターの瞬間、レナがこらえきれずに笑ってしまい、少しぶれた。
「今の、セリカさんが卒業写真とか言うからですよ」
「私のせい?」
「笑わせた責任はあります」
「では、四枚目はセリカさんに責任を取っていただきましょうか」
「なんでノアさんが決めるのよ」
言い返しながら、レナの胸元で斜めになっていた入館証に気づいた。さっき引いたせいだ。
「レナ、動かないで」
「今度は何ですか?」
「これ、曲がってる」
入館証の紐をつまみ、真っ直ぐに直す。レナが「自分でできます」と笑いながらも、素直にこちらへ身体を向けた。
『撮影まで、二——』
「レナさん」
ノアさんが呼んだ。
レナが顔だけをそちらへ向ける。
「はい?」
まだ笑いの残った顔で。
『一——』
四枚目の光が、三人を白く包んだ。
撮影ブースの外に出ると、選択用の画面へ四枚が並んだ。
一枚目はばらばら。二枚目は近すぎる。三枚目は少しぶれている。四枚目は、身体を私の方へ向けたレナが、顔だけをノアさんへ向けて笑っていた。
...やられた。結局まともな4枚目のレナはノアさんを見ている。
「あ、ちょっと待ってください」
画面へ顔を寄せていたレナが、ふいに私の足元を見た。
「セリカさん、さっきから右足だけ浮かせてる」
「浮かせてない」
「浮いてます。今日、ずっと立ちっぱなしだったんでしょう」
「これくらい平気よ」
「平気な人は、私に見つかった瞬間だけ両足で立ちません」
図星を突かれ、口を閉じた。
レナは小さく笑う。
「何か飲みましょう。私もちょうど喉が渇きました」
「だったら私が——」
「今日は働いてない私に、ひとつくらい仕事させてください」
バッグの持ち手を返し、レナは近くのドリンクスタンドを指さした。
「写真、二人で決めておいてもらってもいいですか? すぐ戻ります」
「私が買ってきますよ、レナさん」
「ノアさんはまだお仕事中でしょう。ここは一番暇な人に任せてください」
そう言って、レナは返事も待たずに駆けていった。途中で一度だけ振り返り、「走ってません、早歩きです」と先回りして言い訳をする。
「誰もまだ何も言ってないでしょ!」
私が怒鳴ると、レナは笑いながら角の向こうへ消えた。
姿が見えなくなるまで目で追ってしまった。
隣へ視線を戻す。
ノアさんも、同じ方向を見ていた。
会場の撤収音が、急に耳につく。遠くで機材を畳む音。床を走る台車の車輪。目の前では、写真選択機の冷却ファンだけが低く回っている。
ノアさんが先に画面へ向き直り、四枚の写真を一枚ずつ拡大した。
その横顔を見た。
「....ミレニアムの生徒って、許可も取らずに人の髪に触るのね。しかも、あんなねっとりと」
画面を滑っていたノアさんの指が止まった。
一拍だけ。
「ねっとり、ですか?」
「二回。もう直ってるのに、二回も撫でたじゃない」
「よく見ていらしたんですね」
「目の前でやられたら、嫌でも見えるでしょ」
「なるほど。では次は、もう少し目立たないように気をつけます」
「は?」
思わず、低い声が出た。
ノアさんの口元が、ほんの少しだけ深くなる。
「冗談です」
「全然面白くないわよ」
「すみません。セリカさんの表情はわかりやすいので、少しからかってしまいました。」
むかつく。
にこにこしているくせに、絶対に分かって言っている。
「私は、あんな触り方しない」
「触らない、ではないんですね」
しまった。
舌打ちの代わりに、画面の送りボタンを強く押した。二枚目の写真が大きく表示される。
「揚げ足取らないで」
「大事な違いかと思いまして」
「何が大事なのよ」
ノアさんは答えなかった。
ただ、口元に笑みを残したまま二枚目の写真を拡大する。
答えないことまで、むかつく。
そのくせ画面には、レナを抱き寄せている自分の腕がこれでもかというほどきれいに残っている。これでは、どちらが勝手に触っているのか分からない。
ノアさんが写真の端を指で広げた。レナの腰に添えられた白い手が、大きく映る。
「これ、消して」
「レナさんがよく笑っていますよ」
「そこじゃない。ノアさんの手」
「支えただけです」
「もう立ってたじゃない」
「またセリカさんが引かれるかもしれませんから」
「何回も引っ張らないわよ!」
声が大きくなった。
撤収作業中の生徒がこちらを見て、私は慌てて声を落とす。
「……だからって、三秒も触ってる必要ないでしょ」
「あら?数えていたんですか。」
ノアさんが、静かに繰り返した。
言った瞬間、自分で自分の舌を噛みたくなった。
数えた。
そうだ。馬鹿みたいに、あの手が離れるまで数えていた。
「私より、ずいぶん正確に覚えていらっしゃるんですね」
「...暇だったのよ。レナが、“わざわざ”私の仕事が終わる時間に合わせて来るって言うから」
今度は、ノアさんが黙った。
笑みは消えていない。けれど、画面の縁に置かれた親指が、ぴたりと止まった。
刺さった。
胸の中で、ほんの少しだけ溜飲が下がる。
「ええ。お迎えでしたね」
ノアさんは二枚目を閉じ、四枚目を開いた。
「そのお迎えに、私まで混ぜていただいて申し訳ありません」
「別に。レナがノアさんも一緒にって言っただけだし」
「はい。レナさんが、そう言ってくださいました」
笑みが戻った。
やられた。
自分で言って、自分で刺さった。腹が立つ。ノアさんにも、自分にも。
「この四枚目がいいと思います」
ノアさんが言った。
「……私も、それ」
同意してしまったことまで悔しい。
四枚目のレナは、一番自然に笑っている。身体はこちらへ傾いているのに、目はノアさんを見ている。どちらか片方だけを切り取ることができない写真だった。
「四枚目。そう。顔、ノアさんの方を向いてるものね」
「身体はセリカさんの方へ向いていますから、選びにくいかと思いました」
「選ぶって言ったでしょ」
「私も、顔だけで選んだとは言っていませんよ」
ノアさんが印刷枚数の欄に触れる。
「三枚でよろしいですか?」
「当たり前でしょ。一人一枚」
「よかった。セリカさんに二枚とも持ち帰られたら、どうしようかと思っていました」
「するわけないじゃない。ノアさんこそ、セミナーの経費にしないでよ」
「もちろん私費です。これは公務ではありませんから」
機械の奥で、印刷が始まった。
細い作動音のあと、まだ温かい写真が三枚、受け取り口へ落ちてくる。ノアさんは角に指紋をつけないよう端だけを持ち、一枚を私へ差し出した。
「どうぞ」
「……ありがと」
受け取った写真の中央で、レナが笑っている。
たった数分前の顔なのに、見ていると胸の奥が落ち着く。すぐにバッグへしまおうとして、やめた。中で折れたら困る。ジャケットの内ポケットを開き、写真を真っ直ぐ差し込む。
顔を上げると、ノアさんが見ていた。
「何よ」
「いいえ。大切にしてくださるんだな、と」
「普通でしょ。折れたら見づらいし」
「ええ。私もそう思います」
ノアさんは自分の一枚を、端末ケースではなく手帳の内側へ挟んだ。閉じる前に、写真の位置を指先で丁寧に直す。
そっちだって、同じじゃない。
「すみません、どちらか一本取ってください」
レナの声が戻ってきた。
紙カップとボトルを三本抱え、危なっかしい格好でこちらへ歩いてくる。私とノアさんが同時に手を伸ばし、真ん中のボトルの上で指がぶつかった。
「あ、それは私のです」
レナが困ったように笑った。
「セリカさんはこっち。冷たいレモンソーダです」
「覚えてたの?」
「いつも飲んでるでしょう。あと、これも」
小さな塩味のクラッカーまで押しつけられる。
「いらないって」
「お昼から何も食べてない顔してます」
「どんな顔よ、それ」
「セリカさんの『食べてないけど平気』って言い張るときの顔です」
「……そんな顔ない」
「あります。よく知ってます」
最後の一言に、耳の奥が熱くなった。
反射的にノアさんを見る。
笑っている。
いつも通りに見える。ただ、レナが差し出したカップを受け取る手が、まだ動いていなかった。
「ノアさんは、温かいミルクティーです。甘めにしてもらいました」
そこで初めて、ノアさんが瞬きをした。
「覚えていてくださったんですね」
「前に甘くないのを飲んだとき、すごく静かな顔で砂糖を足してたので。あれは忘れません」
「そんな顔をしていましたか?」
「はい。ノアさんでも、飲み物には分かりやすいんだなって」
レナが楽しそうに笑う。
ノアさんも笑った。今度の笑みは、さっきまで私に向けていたものより少しだけ柔らかい。
何よ。
自分だって、よく知ってますって言われたばかりなのに。たったそれだけで薄まるような言葉ではないはずなのに、胸の中へ小さな棘が刺さる。
クラッカーの袋を乱暴に開けた。
「写真、決まりました?」
「四枚目にしましたよ」
ノアさんが残りの一枚を渡す。
レナは受け取るなり、ぱっと顔を明るくした。
「よかった。私もこれが一番好きです」
「顔、半分横向いてるけど」
「でも、二人とも近いし、私もちゃんと笑ってます。」
レナは写真を両手で持ち、飽きもせず眺めている。
その横顔を挟んで、私とノアさんの視線がぶつかった。
「次は、もっと広いところで撮りたいですね」
レナは何も知らずに続ける。
「三人だと、あの箱はちょっと狭すぎました」
「そうね。次はちゃんと撮り直すわよ」
「私は今日の写真も、よく撮れていると思いますけれど」
「ノアさんはそうでしょうね」
「セリカさんも、ずいぶん気に入っているように見えますよ」
レナが二人を交互に見た。
「あれ。私がいない間に、ちょっと仲良くなりました?」
私は一瞬で口元を持ち上げた。さっきまでのことなど何もなかったように、ノアさんの方へ顔を向ける。
「何言ってるの。最初から仲悪くなんてないわよ。ね、ノアさん」
「ええ、もちろんです。セリカさんとは、驚くほど話が合いました」
にこりと返された笑顔に、頬が引きつりそうになる。
驚くほど。
どの口が言うのよ。
けれど、レナが嬉しそうに「よかった」と笑ったので、私も笑ったまま頷いた。
笑顔を崩さないまま、レモンソーダの蓋を開けた。隣ではノアさんが、熱いカップを両手で包んでいる。
レナは真ん中で自分のストローをくわえ、もう一度写真へ目を落とした。
内ポケットの写真を、指先でさらに奥へ押し込んだ。
ノアさんがそれを見た。
見ただけで、何も言わなかった。
だから私も、ノアさんが手帳の内側へ同じ写真を挟んだことには、何も言わなかった。
言わないだけで、ちゃんと見ていた。
活動報告でネタ募集中です。
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