戦えない私がキヴォトス中の生徒に執着されるまで   作:Zuzuiikb

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4話 限界の境界線

朝、レナは救護騎士団の仮眠室で目を覚ました。

 

 知らない天井。

 

 ……いや、知らない天井というほど劇的ではない。昨日、自分で見た天井だ。救護騎士団の仮眠室。白くて、清潔で、妙に整っていて、寝具は信じられないくらいちゃんとしていた。多分、そこらの寮のベッドより寝心地がいい。救護騎士団、休ませる気合いが強すぎる。

 

 レナは布団の中で少しだけ瞬きをして、それから昨日の夜のことを思い出した。

 

 ミネ先輩に、言った。強くなりたい、と。

 

 誰かを傷つけるためじゃなくて、誰かを助けるために。

 

 守られるだけじゃなくて、必要な時にちゃんと動けるようになりたいと。

 

 そしてミネ先輩は、私が見る、と言ってくれた。

 

「……師匠」

 

 小さく呟いた瞬間、自分で少し恥ずかしくなって布団を引き上げる。なんか、言葉にすると急に重い。いや、実際重いんだけど。昨日の夜は真剣だった。真剣だったはずなのに、朝になって冷静になると、ミネ先輩に師匠になってもらうって何? 展開の速度おかしくない? と脳内の冷静な私が会議を始める。

 

 でも、嫌ではなかった。

 

 むしろ、少しだけ胸が落ち着いている。

 

 今までずっと胸の奥で形にならなかったものに、やっと名前と行き先ができた気がした。

 

 その時、扉の向こうから軽くノックの音がした。

 

「レナ。起きていますか」

 

「あ、はい。起きてます」

 

「入っても?」

 

「大丈夫です」

 

 扉が開くと、ミネ先輩が朝の光を背に立っていた。青みがかった長い髪が、昨日の夜より少し淡く見える。制服はきっちり整っていて、寝起きの人間の部屋へ来る格好としてはあまりにも隙がなかった。

 

 背筋まで朝から真っ直ぐだ。

 

 この人、寝癖とか存在する世界線にいるのかな。

 

「おはようございます、レナ。睡眠時間はおよそ六時間半。昨日の状態を考えれば最低限は確保できていますが、疲労回復にはまだ不足しています」

 

「おはようございます。第一声が健康診断なんですね……」

 

「重要事項です。起床時の顔色、声、反応速度から見て、昨日よりは改善しています。ただし完全とは言えません。朝食を摂った後、軽く体を動かして状態を確認します」

 

「軽く、ですか?」

 

「はい。軽くです」

 

 ミネ先輩は一切迷いなく頷いた。

 

 その顔があまりにも真面目だったので、レナは少し安心した。軽くなら大丈夫かもしれない。昨日はかなり深刻な話をしたけれど、初日からいきなり無茶なことはしないはずだ。ミネ先輩は救護の人だし、体調も気にしてくれているし。

 

 ……と、この時の私は思っていた。

 

 人間、希望的観測で生きている。そんなわけないのに。そんな簡単に強くなれるわけないのに。

 

 食堂代わりの小さなスペースへ行くと、すでに朝食が用意されていた。温かいスープ、柔らかいパン、少量の果物。量は多すぎず、でもちゃんと食べた感が出る絶妙なラインだった。

 

「これ、私のために……?」

 

「はい。昨日の食事量と顔色から考えて、胃に負担の少ないものを選びました。無理に完食する必要はありませんが、半分以下で終える場合は理由を聞きます」

 

「優しいのか厳しいのか分からないです」

 

「どちらも必要です」

 

 ミネ先輩は当然のように言った。

 

 近くで団員が小さく笑っている。

 

『団長、朝から完全に保護者ですね』

 

『弟子というより、保護対象の延長では?』

 

「保護と育成は対立しません。むしろ、適切に保護されていない人間を鍛えることは危険です」

 

『正論で殴ってくる』

 

『朝食のパンより硬い正論ですね』

 

 レナはスープを飲みながら、思わず少し笑った。味が優しい。体に染みる感じがする。こういう朝食を出されると、昨日ここに泊まることになったのはやっぱり正しかったのかもしれない、と思ってしまう。

 

 ミネ先輩はそんなレナの様子を見て、ほんの少しだけ満足そうに頷いた。

 

「食べられていますね。良い傾向です」

 

「私、食事してるだけで評価されてません?」

 

「されます。体調管理は訓練の前提です」

 

「じゃあ、訓練もこんな感じで優しいんですか?」

 

 何気なく聞いた。

 

 団員たちが、なぜか一斉に目を逸らした。

 

 ……え?

 

 今の何?

 

 ミネ先輩だけが、静かに紅茶を置いた。

 

「レナ」

 

「はい」

 

「朝食後、あなたの現在地を確認します」

 

「現在地って、地図アプリみたいな言い方ですね」

 

「戦闘において現在地の把握は基本です。自分が今どこに立ち、どの程度動けて、どこからが危険なのかを知らない人間は、いざという時に判断を誤ります」

 

「冗談を真面目に処理されると、私がちょっと恥ずかしくなるんですけど……」

 

 団員たちがまた小さく笑った。

 

 でも、ミネ先輩の顔は変わらない。

 

 そして朝食から三十分後。

 

 レナは訓練場に立っていた。

 

 救護騎士団の訓練場は、想像していたより広かった。救護のための組織なのに、遮蔽物、簡易標的、走行ルート、射撃訓練用の設備まで揃っている。医療と戦闘が当然のように並んでいるのが、救護騎士団らしいといえばらしい。

 

 ミネ先輩は訓練用の記録端末を持ち、レナの前に立つ。

 

「まずは走行、遮蔽移動、射撃姿勢保持、疲労状態での判断問題を行います」

 

「……軽く、って言いましたよね?」

 

「軽い確認です」

 

「私の知ってる軽い確認と違います」

 

「では認識を更新してください」

 

『団長、初日から容赦ないですねぇ』

 

『でも一応、昨日の疲労を見て負荷は落としてますよ。団長基準ですけど』

 

「団長基準って何ですか。すごく嫌な響きなんですけど」

 

 レナはまだ笑えていた。

 

 この時点では。

 

 最初の走行は、そこまで悪くなかった。決められたコースを走り、合図で止まり、遮蔽へ入る。息は上がるけれど、動ける。レナは元々、何もしていないわけじゃない。基礎訓練もしてきたし、自分なりに足りないところを補おうとしてきた。一般生徒相手なら、それなりに戦える程度には。

 

「足運びは悪くありません。ただ、曲がる時に上半身が少し遅れます。疲労時にはその遅れが大きくなるでしょう」

 

「走りながらそこまで見てるんですか……?」

 

「見ます。次、同じコースをもう一度」

 

「はい!」

 

 二回目。

 

 三回目。

 

 まだ行ける。

 

 四回目。

 

 少し息が重くなる。

 

 五回目。

 

 遮蔽に入る時、膝が少しだけ遅れた。

 

「今の遅れ、分かりましたか」

 

「分かりました、けど……っ」

 

「なら修正しなさい。分かっているのに直せないなら、それが今のあなたの体力と集中力の境目です」

 

 ミネ先輩の声は冷静だった。

 

 怒っているわけではない。

 

 でも、甘くない。

 

「もう一度」

 

「……はい」

 

 そのあたりから、レナの中の余裕が少しずつ削れていった。

 

 最初は文句を言う余裕があった。昨日の優しさどこへ行ったんですか、とか、救護騎士団の訓練って救護される側を増やす活動なんですか、とか、脳内ではいくつか言い訳みたいなツッコミも浮かんでいた。

 

 でも、繰り返すうちに言葉が減っていく。

 

 息を吸う。吐く。走る。止まる。銃を構える。標的を狙う。撃つ。

 

 次の遮蔽へ移る。

 

 たったそれだけの動作が、重くなる。

 

 腕が下がる。銃口がわずかに落ちる。足裏の感覚が鈍くなって、地面を蹴っているのに、思ったほど体が進まない。呼吸を整えようとしても、吸った空気が胸の途中で引っかかる。

 

「銃口が下がっています」

 

「分かって、ます……っ」

 

「では戻しなさい」

 

「戻して、ます……!」

 

「戻っていません」

 

 きつい。

 

 はっきりそう思った。

 

 ミネ先輩は、レナが怠けた瞬間を見逃さない。いや、怠けているわけじゃない。自分ではちゃんとやっているつもりなのに、体の方が少しずつ言うことを聞かなくなっていく。そのズレを、ミネ先輩は淡々と指摘する。

 

 それが苦しい。

 

 誤魔化せないから。

 

「次、疲労状態で判断問題に入ります。前方に負傷者役、右に敵性目標、左に遮蔽。あなたは三秒以内に行動を決めてください」

 

「三秒……?」

 

「長い方です」

 

「本当に……?」

 

 返事をする余裕が、だんだん薄くなってきた。

 

 合図。

 

 負傷者役の団員が倒れる。右の標的が動く。左に遮蔽。

 

 助けに行く。

 

 いや、先に敵を止める。

 

 でも撃ち方を間違えたら、負傷者役の近くへ弾が飛ぶ。

 

 考える。

 

 考えている間に、ミネ先輩の声が飛んだ。

 

「遅いです」

 

「っ……!」

 

「今の迷いで、相手は一歩詰めています。救護対象へ向かうなら、その前に敵の動線を切る。撃つことに迷うなら、射線ではなく移動で止める。選択肢を増やしなさい」

 

「はい……っ」

 

「もう一度」

 

 そこから先は、本当にきつかった。

 

 走るだけならまだいい。

 

 撃つだけならまだいい。

 

 でも、疲れた状態で考えるのがきつい。頭がぼんやりしてくる。最初は三つ見えていたものが、だんだん二つになる。敵と負傷者。敵と遮蔽。どれか一つを見ると、もう一つが遅れる。

 

 ミネ先輩は止めない。

 

 でも見ている。

 

 レナが膝をつきそうになった時、一歩だけ近くに来た。支えはしない。ただ、倒れたら受け止められる距離にいる。それが分かってしまうから、余計に負けたくなくなる。

 

「苦しいですか」

 

「苦しい、です……っ」

 

「危険ですか」

 

「……分かり、ません」

 

「なら覚えなさい。今の状態は“苦しい”です。“危険”ではありません。あなたは限界の手前で止まろうとする癖がある」

 

 ミネ先輩の声が、少しだけ低くなる。

 

「苦しいことと危険なことは違います。苦しさだけで止まっていては、誰かを救う前に足が止まる。ですが危険を無視すれば、あなた自身が救護対象になる。その境目を覚えなさい」

 

 レナは何か返事をしようとした。

 

 でも、息が先に出て言葉にならなかった。

 

 視界の端が少し白い。

 

 足が重い。

 

 手首が震える。

 

 それでも、ミネ先輩の言葉は頭のどこかに残っていた。

 

 苦しい。

 

 危険。

 

 違う。

 

 違うんだ。

 

 今まで自分は、それを全部ひとまとめにしていたのかもしれない。苦しくなった瞬間、これはもう駄目だと思っていた。あるいは逆に、本当に危険な時まで「まだ大丈夫」と言っていた。

 

 自分の限界を知らない。

 

 だから負けたのかもしれない。

 

 いや、それだけではない。

 

 それだけではないけれど。

 

「次、最後です」

 

「……まだ、あるんですか……」

 

「あります」

 

「ミネ先輩、昨日の“休みなさい”って言ってた人と同じ人ですか……?」

 

「同じです。昨日は休息が必要で、今は負荷が必要です」

 

「切り替えが軍事施設なんですよ……」

 

 団員の一人が遠くで吹き出した。

 

『レナさん、まだツッコめてるから大丈夫ですね』

 

『いや、声がだいぶ死んでますよ』

 

『団長、そろそろ本当に限界近くないですか?』

 

「見ています」

 

 ミネ先輩は短く答えた。

 

 その一言だけで、団員たちは黙る。

 

 次のメニューは、短い距離の連続移動と射撃だった。

 

 遮蔽から遮蔽へ。

 

 撃つ。

 

 移る。

 

 しゃがむ。

 

 立つ。

 

 撃つ。

 

 移る。

 

 最初の二回はできた。

 

 三回目で足がもつれた。

 

 四回目で、銃を構える腕が明らかに遅れた。

 

 五回目。

 

 標的が見えた瞬間、レナは撃とうとした。

 

 でも、指が一拍遅れた。

 

 その一拍で、訓練用の警告音が鳴る。

 

 失敗。

 

「……っ」

 

 悔しい。

 

 もう一回。

 

 そう思って足を動かそうとした瞬間、膝が抜けた。

 

 床が近づく。

 

 倒れる、と思った。

 

 でも、衝撃は来なかった。

 

 ミネ先輩の腕が、レナの肩を支えていた。

 

「停止」

 

「まだ、できます……っ」

 

「できません」

 

 即答だった。

 

「今は危険です。呼吸が乱れすぎていますし、足の反応が落ちている。これ以上続ければ、訓練ではなく負傷リスクになります」

 

「でも、まだ……」

 

「レナ」

 

 名前を呼ばれて、言葉が止まった。

 

 ミネ先輩の声は厳しかった。

 

 でも、怒ってはいなかった。

 

「今止まることも訓練です。あなたは、苦しい時には止まりたがるのに、本当に危険な時には無理を続けようとする。その逆を覚えなさい」

 

 何も返せなかった。

 

 悔しい。

 

 でも、その通りだった。

 

 レナは支えられたまま、ゆっくり息を吐く。体が熱い。腕が重い。足は自分のものじゃないみたいだった。さっきまで文句を言っていた口も、もうほとんど動かない。

 

 ミネ先輩は静かにレナをベンチへ座らせると、即座に水とタオルを差し出した。

 

「飲みなさい。一気にではなく、少しずつ」

 

「……はい」

 

「呼吸を整えてください。吸うことより、吐くことを意識して」

 

「はい……」

 

「よく頑張りました」

 

 その言葉だけ、少しだけ柔らかかった。

 

 レナはタオルを握ったまま、なぜか泣きそうになった。

 

 さっきまで鬼だったのに。

 

 ほんとに、さっきまで鬼だったのに。

 

「……ミネ先輩」

 

「はい」

 

「訓練中、別人でした……」

 

「必要な負荷を与えただけです」

 

「必要って言葉、便利すぎません……?」

 

 ミネ先輩は答える代わりに、レナの肩へ毛布を掛けた。

 

 訓練場で毛布。

 

 絵面が変。

 

 でも、あったかい。

 

『団長、訓練中との温度差でこっちが風邪引きそうです』

 

『さっきまで鬼教官だったのに、終わった瞬間に毛布持ってくるんですね』

 

『レナさん、生きてます?』

 

「し、死んでます……」

 

「死んでいません。脈は安定しています」

 

「そういう意味じゃないです……」

 

 団員たちが笑う。

 

 レナも少しだけ笑おうとして、失敗して、でもそれがまたおかしくて小さく息を漏らした。

 

 ミネ先輩はそんなレナを見て、ほんの少しだけ目を細める。

 

「今日分かったことがあります」

 

「私の体力がないことですか……?」

 

「それもあります」

 

「否定してほしかったです」

 

「ですが、それだけではありません」

 

 ミネ先輩はしゃがんで、レナと目線を合わせた。

 

 その動きが意外で、レナは少しだけ背筋を伸ばす。

 

「あなたは苦しくても、言われたことを聞こうとします。修正しようとする。迷いながらも助ける対象を見失わない。それは良い資質です」

 

「……」

 

「ただし、自分の状態を把握する能力が足りない。苦しいのか、危険なのか。まだ動けるのか、止まるべきなのか。そこを覚えれば、あなたは今よりずっと長く、誰かの前に立てます」

 

 レナはタオルを握る指に少しだけ力を入れた。

 

 疲れている。

 

 体はもうへろへろだ。

 

 でも、胸の奥だけ少し熱かった。

 

「……私、強くなれますか」

 

 小さく聞く。

 

 ミネ先輩は迷わなかった。

 

「なれます」

 

 即答だった。

 

 その言い方があまりにも真っ直ぐで、レナは何も言えなくなる。

 

「ただし、近道はありません。あなたには自分を守ること、限界を知ること、迷いながらも判断することを覚えてもらいます。救うための力は、一日で身につくものではありません」

 

「……はい」

 

「そして、頑張りすぎたら止めます」

 

「それもセットなんですね」

 

「師としても、救護騎士団としても、当然です」

 

 やっぱり真面目だった。

 

 でも、レナは少しだけ笑った。

 

 きつかった。

 

 本当にきつかった。

 

 途中からギャグなんて考える余裕もなくなって、息をするだけで精一杯で、自分の弱さを嫌になるほど思い知らされた。

 

 それでも。

 

 前みたいに、ただ「届かない」と思うだけではなかった。

 

 どこが足りないのか。

 

 何を覚えればいいのか。

 

 少しだけ、見えた気がした。

 

 レナは毛布にくるまったまま、ゆっくり水を飲む。

 

 団員の一人が、遠くから小さく手を振った。

 

『レナさん、初日生還おめでとうございます』

 

『救護騎士団式訓練、合格です』

 

『ちなみに明日はもうちょっと動けるようになりますよ。たぶん』

 

「明日もあるんですか……?」

 

 レナがかすれた声で言うと、ミネ先輩は当然のように頷いた。

 

「あります」

 

 逃げ場のない一言だった。

 

 レナは毛布を握りしめる。

 

「……私、昨日、師匠選び間違えました?」

 

「いいえ。最適です」

 

「自己評価が強い……」

 

 団員たちが笑う。

 

 ミネ先輩は真顔のまま、レナの水の量を確認している。

 

 その横顔を見ながら、レナは小さく息を吐いた。

 

 鬼みたいに厳しくて、信じられないくらい過保護で、救護と言えばだいたい押し切ってくる人。

 

 でも。

 

 この人なら、信頼できる。そう思ったら、明日の訓練が少しだけ怖くて、少しだけ楽しみだった。

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