戦えない私がキヴォトス中の生徒に執着されるまで 作:Zuzuiikb
訓練場のベンチで、レナは毛布に包まれていた。
おかしい。
さっきまで自分は走って、撃って、遮蔽へ滑り込んで、息が上がって、膝が抜けそうになって、ミネ先輩に「停止」と言われたはずだった。それなのに今は、水を渡され、タオルを渡され、肩に毛布を掛けられ、完全に救護対象として固定されている。
しかも、ミネ先輩の顔が真剣すぎる。
この人、訓練中は鬼だった。
なのに、終わった瞬間に毛布を持ってくる。
温度差で脳が追いつかない。
「レナ、もう一口飲みなさい。一気に飲む必要はありませんが、口を湿らせるだけでは水分補給として不十分です」
「……はい」
言われた通り、レナはカップへ口をつける。水が喉を通るだけで、ようやく自分がどれだけ乾いていたのか分かった。腕は重いし、足は熱いし、背中はじんわり汗で気持ち悪いのに、毛布だけは妙にあたたかくて逃げられない。
……いや、逃げる体力もないんだけど。
『団長、さっきまで「戻しなさい」「もう一度」「判断が遅いです」って言ってた人と同じ人物とは思えないんですよね』
『レナさんの水分補給を見守る顔、完全に保護者じゃないですか』
「訓練と救護は連続した行為です。負荷を与えた後に回復を管理しないなら、それは訓練ではなく消耗です」
『正論なんですけど、毛布の掛け方が優しすぎるんですよ』
「毛布は適切に掛けるべきです」
ミネは一切動じなかった。
団員たちが笑いを堪えているのが見える。レナも少し笑いそうになったけれど、腹筋が疲れているせいで変な息だけが漏れた。
「レナさん、生きてます?」
「い、生きてます……たぶん」
「たぶん、では困ります」
即座にミネの声が入る。
「意識は明瞭です。呼吸も先ほどより整っています。脈も極端な異常はありません。したがって、あなたは生きています」
「そこまで真面目に判定されると、逆に不安になるんですけど……」
「不安を覚える余裕が戻ってきたなら、良い傾向です」
「何でも良い傾向にしますね……」
レナがそう言うと、ミネはほんの少しだけ表情を緩めた。笑った、というほどではない。でも、さっきまで訓練場で「もう一度」と言っていた顔とは違う。
それを見ると、少しだけ胸の奥が温かくなる。
きつかった。
本当にきつかった。
途中から、もう言葉も出なくなった。自分ではちゃんと動いているつもりなのに、銃口が下がって、足が遅れて、判断が鈍って、ミネ先輩に全部見抜かれた。あれは悔しかった。誤魔化せないのが、すごく悔しかった。
でも、終わった後に「よく頑張りました」と言われた時、涙が出そうになった。
褒められたいからやってるわけじゃない。
でも、見てくれている人にそう言われるのは、思ったよりずっと効いた。
「……ミネ先輩」
「はい」
「私、途中から全然動けてなかったですよね。頭では分かってるのに、体が遅れる感じがして、自分で自分に置いていかれるみたいで、すごく変でした」
ミネはレナの前にしゃがみ、目線を合わせる。
訓練中とは違って、声は低く穏やかだった。
「それが疲労です。余裕がある時にできることを、苦しい時にも同じようにできるとは限りません。だからこそ、あなたは“疲れた状態の自分”を知る必要があります」
「疲れた状態の自分……」
「はい。人は万全の状態でだけ戦うわけではありません。誰かを助けたい時ほど、状況は悪い。息が切れていて、視界が狭くて、怖くて、痛くて、それでも判断しなければならない」
その言葉に、レナは少しだけ息を止めた。
あの日の通路が、一瞬だけ脳裏を掠める。
冷たい壁。
動かない腕。
届かなかった力。
でも、今はその記憶に飲まれる前に、ミネの声が続いた。
「だから、今日はよくやりました。あなたは逃げなかった。苦しい状態で、何度も修正しようとした。それは軽く扱っていい成果ではありません」
「……」
レナはカップを握る指に少しだけ力を入れた。
嬉しい。
けど、そう言うのはなんだか恥ずかしい。
たぶん顔に出ていた。
近くにいた団員が、ものすごく小さい声で呟く。
『団長、今の褒め方、かなり刺さってます』
『レナさん、毛布の中でちょっと丸くなりましたね』
「聞こえてます……」
『すみません、可愛かったのでつい』
「可愛……っ」
レナの顔が一気に熱くなる。
ミネが団員の方を見る。
「本人が困惑しています。そういう評価は、本人の許可なく口にしないように」
『団長』
「なんでしょう」
『じゃあ団長は心の中では評価してるんですか?』
「……訓練後の反応として、保護欲を誘発する状態であるとは認識しています」
『言い換えが長いだけで、だいたい同じですよ』
「違います」
違うらしい。
でも、ミネの耳がほんの少し赤い。
レナはそれに気づいてしまって、なぜか自分まで恥ずかしくなった。さっきまで訓練で死にかけていたのに、今は「保護欲」という単語で被弾している。救護騎士団、違う方向から攻撃してくる。
その後、レナは救護騎士団の部室へ連れ戻された。
連れ戻された、という表現が正しいのか分からない。自分で歩いているつもりだったけれど、ミネは横にぴったりついていたし、団員の一人は「段差ありますよ」と先に言ってくるし、もう一人は「椅子空けてあります」と当たり前のように部室の扉を開ける。
なんか、護送されてない?
いや、守られてるだけなんだろうけど。
部室へ戻ると、レナの定位置みたいになりつつあるソファにクッションが増えていた。昨日より一つ多い。絶対に気のせいではない。レナがじっと見ると、団員の一人が目を逸らした。
「……これ、増えてません?」
『気のせいです』
「増えてますよね?」
『救護環境が最適化されました』
「ミネ先輩みたいな言い方をしないでください」
レナがそう言うと、部屋の端でミネが少しだけ咳払いした。
「座りなさい。筋肉疲労が強く出る前に、軽く休ませます」
「筋肉疲労って、もう今の時点で結構来てますけど……」
「本番は明日です」
「嫌な予告やめてもらっていいですか?」
団員たちが吹き出す。
ミネだけが真顔だった。
「訓練翌日の筋肉痛は、負荷が正しく入った証拠です。ただし過度であれば調整します。あなたの場合、明日の歩行状態を見て判断します」
「明日の私、歩けますかね……?」
「歩けます」
「本当ですか?」
「歩けるように救護します」
「微妙に答えが変わりましたよね?」
レナはソファへ座った瞬間、思った以上に体から力が抜けた。
クッションが悔しいくらいちょうどいい。毛布も掛けられる。温かい飲み物も出てくる。ここまで整えられると、逆に抵抗する方が失礼な気がしてくるから怖い。
ミネはレナの向かいに座り、訓練記録を確認し始めた。
手袋越しに端末を操作する指先が、やっぱり無駄なく整っている。さっきまでの鬼教官ぶりを思い出すとちょっと身構えるのに、その人が今は紅茶の温度まで確認している。脳が処理に困る。
「レナ、眠気はありますか」
「……ちょっとだけ」
「では二十分ほど仮眠を取りなさい」
「えっ、今ですか?」
「今です。訓練後の短時間休息は回復に有効です」
「でも、ここ部室ですし、皆さん作業してますし、私だけ寝るのはさすがに……」
「誰も気にしません」
ミネが言い切った瞬間、団員たちが一斉に何でもない顔をした。
……いや、気にしてる顔だった。
絶対に気にしてる。
『レナさん、気にしなくて大丈夫ですよ。私たち、静かにできますから』
『むしろ寝てください。団長がずっとタイミング見てました』
「余計なことを言わないでください」
『団長、さっきから時計見てましたもんね』
「回復時間を管理していただけです」
レナは毛布を膝の上で握ったまま、少しだけ迷った。
本当は眠い。
体が重いし、まぶたも少し落ちてきている。
でも、ここで寝るのは無防備すぎる気がした。皆がいる場所で寝るなんて、普通に恥ずかしい。しかも昨日泊まったばかりなのに、今日もソファで寝るとか、完全に救護騎士団に飼い慣らされている感じがする。
「……寝ません」
「眠そうですが」
「寝ません。目を閉じるだけです」
「それを一般的に睡眠と言います」
「違います。意識はあります」
レナはきっぱり言ったつもりだった。
その直後、団員の一人がソファの背もたれ越しにレナを覗き込む。
『レナさん、その体勢で目を閉じると首痛めますよ。よかったら膝、貸しましょうか?』
「ひ、膝!?」
レナの声が裏返った。
眠気が一瞬で飛びかける。
「いやいやいや、大丈夫です! そこまでしてもらったら、もう完全に介護されてる人じゃないですか! 私、疲れてるだけでまだ人間として自立してますから!」
『自立してる人は、毛布に包まれたままそんな必死に否定しませんよ』
『でも膝枕、首の角度的には悪くないですよね』
「悪くないとか言わないでください!」
レナが慌てていると、ミネが訓練記録から顔を上げた。
「待ちなさい」
低く静かな声。
団員たちがぴたりと止まる。
レナもなぜか止まる。
「その姿勢で眠ると、確かに首と肩へ負担がかかります。訓練後の筋疲労を考慮すると、頭部を安定させた方が回復効率は高い」
「ミネ先輩?」
嫌な予感がした。
ものすごくした。
『では団長、お願いします』
「……私が?」
『はい。団長が一番レナさんの状態を把握していますし、首の角度も適切に見られますし、何より団長が言い出した救護方針ですし』
『あと、レナさんが一番安心しそうです』
「ちょ、ちょっと待ってください! 最後の理由だけ急に感情寄りでしたよね!?」
レナは必死に抗議する。
でもミネは黙っていた。
ほんの数秒だけ。
それから、真面目な顔で頷いた。
「……必要な処置です」
「必要なんですか!?」
「訓練後の頸部負担を軽減するためです」
「言い方が医療なのに、やってることが膝枕なんですよ!」
『団長、レナさんのツッコミが今日一番元気です』
「良い傾向です」
「そこ拾わないでください!」
抵抗はした。
したけれど、レナの体力はもうほとんど残っていなかったし、ミネは救護判断として完全に覚悟を決めていた。団員たちは楽しそうにしながらも、クッションの位置を調整し、毛布を整え、レナが横になりやすいようにソファの周りを片付けていく。
逃げ道がない。
いや、あるにはある。
ただ、そこへ向かって立ち上がる体力がない。
レナは最終的に、真っ赤になりながらミネの膝へ頭を預けることになった。
絶対に眠れないと思った。
近すぎるし、恥ずかしいし、何よりミネ先輩があまりにも真面目な顔で「首の角度を調整します」と言うので、状況の甘さと医療行為みたいな口調が噛み合わなさすぎる。けれど、膝に頭を預けてしまうと、思っていたよりずっと安定していて、さっきまで強張っていた肩から少しずつ力が抜けていった。
「……大丈夫ですか」
ミネの声が上から降ってくる。
普段より近い。
それだけで、耳の奥が少し熱くなる。
「大丈夫、です……たぶん」
「たぶん、では困ります」
「今はもう、そういう細かいところを突っ込む元気がないです……」
「では、少し休みなさい。眠らなくても構いません。呼吸を整えるだけでも回復になります」
「……寝たわけじゃないですからね」
「はい」
「ちょっと目を閉じるだけです」
「はい」
「本当に」
「はい。分かっています」
絶対分かってない返事だった。
でも、声が優しかった。
レナは少しだけむっとしたかったのに、その前にまぶたが重くなる。体の奥に残っていた熱が、毛布の温かさと、膝の安定感と、上から聞こえるミネの呼吸にゆっくりほどけていく。遠くで団員たちが書類をめくる音がする。誰かが笑いを堪えている気配がする。
ここ、落ち着くな。
そう思ったのを最後に、レナの意識は静かに沈んだ。
レナが完全に眠った後、救護騎士団の部室では、誰もすぐには動かなかった。
ミネは膝の上で眠るレナを見下ろしたまま、端末を片手に固まっている。毛布を両手で握ったまま、少し丸くなっているレナは、さっきまで訓練場で必死に食らいついていた子と同じには見えない。
『……団長』
「声量を落としてください」
『まだ何も言ってません』
「言いそうだったので」
『さすがです』
団員の一人が、笑いを堪えながら小声で言う。
『完全に寝ましたね』
「はい。呼吸も安定しています。訓練後の休息としては良い状態です」
『団長、顔』
「なんでしょう」
『顔が優しいです』
「救護対象が安全に休息できていることを確認しているだけです」
『それを世間では優しい顔って言うんですよ』
ミネは返事をしなかった。
ただ、レナの肩から毛布が少しずれていることに気づくと、当然のように直した。その指先は訓練中の厳しさとはまるで違って、音を立てないよう慎重だった。
別の団員が小さく息を吐く。
『レナさん、不思議ですね。最初はただ疲れてる子だと思ってたんですけど、見てるとこう……端っこに行こうとするたび、真ん中に座らせたくなるというか』
「分かります」
即答だった。
団員たちがミネを見る。
ミネは少しだけ沈黙した。
「……救護的観点から見て、彼女は周囲が意識して休息を促す必要のあるタイプです。本人が自分の疲労や不安を軽視する傾向にある以上、環境側がそれを補わなければなりません」
『団長、今の説明、半分くらい照れ隠しですよね』
「違います」
『早い』
『でも、団長がここまで気にするの珍しいですよ。訓練中はあんなに厳しいのに、終わった瞬間ずっとレナさんのこと見てますし』
「当然です。厳しく負荷をかけた以上、回復まで見る責任があります」
『責任、ですか』
「はい」
ミネは眠っているレナへ視線を戻した。
声は、さっきより少しだけ低かった。
「それに、彼女は誰かを救うために強くなりたいと言いました。その願いを預かった以上、私は半端なことをするつもりはありません」
団員たちは茶化さなかった。
レナは眠ったまま、何も知らない。
自分が訓練記録の端に「判断力、良好。自己申告、要改善。努力傾向、極めて強い」と書かれていることも、ミネが毛布をもう一度だけ直したことも、団員たちが足音を殺して作業へ戻ったことも、何も知らない。
ただ、眠ったまま小さく息を吐いて、毛布の端を握り直した。
その拍子に、レナの指先がミネの制服の裾を少しだけ掴む。
ミネの動きが止まった。
『団長』
「……声量を落としてください」
『今のは無理です』
『完全に掴みましたよね』
「偶発的な動作です」
『団長、声が硬いです』
「静かに」
『耐えてます?』
「……耐えています」
団員たちが肩を震わせる。
ミネはレナを起こさないように、掴まれた制服の裾をそのままにした。指先で外すこともできたはずなのに、そうしなかった。
「……今は、休みなさい」
その声は、訓練場で「もう一度」と告げた時とは別人みたいに優しかった。