戦えない私がキヴォトス中の生徒に執着されるまで 作:Zuzuiikb
その日、レナは一人で中庭の奥を歩いていた。救護騎士団の訓練場へ向かう途中だった。約束の時間までは少しだけ余裕がある。だから、いつもなら通らない渡り廊下の横を抜けて、少し遠回りになる道を選んだ。
理由は、特にない。
強いて言うなら、前回の訓練でミネ先輩に褒められたことを、まだ少しだけ引きずっていたからかもしれない。
「良い判断です」
たったそれだけの言葉が、思っていたより長く胸に残っている。単純だな、と自分でも思う。でも、嬉しかったものは仕方ない。褒められるために訓練しているわけではないのに、ちゃんと見ている人に認められると、足元が少しだけ確かになる。
今日も頑張ろう。
そう思っていた時だった。
「だから、さっきから邪魔だって言ってるんだけど」
廊下の角の向こうから、知らない声がした。
軽い声だった。けれど、その軽さが嫌だった。相手を見下すことに慣れている声。言葉の端に、面倒くさそうな悪意が混ざっている。
レナは足を止める。
そっと角から覗くと、数人の生徒がいた。
壁際に追いやられているのは、トリニティの生徒が三人。ひとりは小さな箱を胸に抱えていて、もうひとりは床に散らばった備品を拾おうとしている。最後のひとりは転んだのか、足元を押さえたまま動けずにいた。
その前に、見慣れない制服の生徒が二人。
外部から入り込んだ不良か、それに近い何かだとすぐ分かった。片方は銃を肩に引っ掛け、もう片方は床に散らばった中身を靴先でつついている。箱の中身は医療用の備品だった。包帯。消毒液。小さな器具。救護騎士団へ運ぶものかもしれない。
レナは息を吸った。
以前なら、たぶんすぐに飛び出していた。怖さと焦りが一緒になって、何も見ずに前へ出ていたと思う。
でも今は違う。
敵の数。二人。
助けるべき子。三人。
すぐ逃げられそうなのは、箱を持っている子と、備品を拾おうとしている子。足を押さえている子は、たぶんすぐには動けない。
逃げ道は右奥の渡り廊下。
撃ってはいけない方向は、壁際の三人の背後。
遮蔽になりそうなものは、倒れかけた掲示板と廊下の柱。
ひとつずつ見る。
全部を一度に抱えようとしない。
ミネ先輩の声が、頭の中で静かに残っていた。
敵を見るのではなく、道を見る。
「……あの」
レナは角から出た。
声は少し震えた。
でも、出た。
「その子たち、困ってます。備品を返してください」
二人の不良がこちらを見る。
壁際の生徒たちも顔を上げた。目が合う。箱を抱えた子は泣きそうな顔で、備品を拾っていた子は息を呑み、足を押さえた子だけが、痛みを堪えるように唇を噛んでいた。
守りたい。その感情が真っ先に来る。でも、感情のまま走らない。
「は? 誰?」
「ったくまたかよぉ..トリニティって、こういう子ばっか出てくるよね。正義感だけは一人前って感じ」
笑われる。
レナは銃を握る手に力を入れた。
怒るな。
焦るな。
倒すためじゃない。
あの子たちが逃げるための道を作る。
「右へ走ってください」
レナは壁際の二人へ言った。
「私が合図したら、柱の方へ。足を痛めている子は、無理に動かないでください」
「で、でも……」
「大丈夫です。走れる子から先に離れてください」
箱を抱えた子が小さく頷く。
その瞬間、不良の一人が銃を持ち直した。
「話進めてんじゃねぇよ」
銃口が動く。
レナは撃った。
相手の体ではない。足元でもない。床に散らばっていた消毒液のケース。その縁を撃つ。ケースが跳ねて、不良の足元へ転がる。反射的に相手の視線が落ちる。
「今!」
箱を抱えた子と、備品を拾っていた子が走る。
もう一人の不良が追おうとした。
レナは柱の手前へ一発撃つ。相手の進路を止めるための一発。倒すためじゃない。走る道を作るための一発。
二人が柱の裏へ滑り込む。
できた。二人、逃がせた。
胸の奥が熱くなる。
でも、まだ終わりじゃない。
足を痛めた子が残っている。
「へぇ」
不良の一人が、少しだけ顔を変えた。
「意外と動けるじゃん」
もう一人が笑う。
「でもさ、さっきから“助ける方”ばっか見てるよね」
レナは返事をしない。言い返す余裕がないわけではない。ただ、今言葉に使う集中力がもったいなかった。右の不良。左の不良。柱の裏へ逃げた二人。備品箱。足を押さえたままの子。廊下の出口。
見える。
ちゃんと見えている。
レナは柱へ寄りながら、二人の進路を切るように撃った。相手は思ったより速く反応したけれど、完全には詰めてこられない。レナが作った隙を使って、逃げた二人は渡り廊下の奥へ消えた。
できてる。
今、ちゃんと動けてる。
誰かの前に立ててる。
その手応えが、ほんの少しだけ背中を押した。
もう一人。
まだ、足を押さえている子がいる。
レナの呼吸が浅くなる。
助けなきゃ。でも、距離がある。不良二人の間を抜ける必要がある。
今なら行ける。今なら、道を作れる。
レナは前へ出た。
一歩。
いつもより少し深い一歩だった。
その瞬間、廊下の奥から別の足音がした。
軽くない。
ゆっくり、こちらの様子を見ながら近づいてくる足音。
「何やってんの。二人がかりで手間取ってるわけ?」
出てきたのは、三人目だった。
背が高い。表情はだるそうなのに、目だけが妙に冷めている。武器の持ち方も、立ち方も、さっきの二人とは違った。少し見ただけで分かる。格が違う。
レナは足を止めた。だけど止めたこと自体が、もう遅かった。
三人目はレナの動きを見て、小さく笑った。
「ふーん。臆病そうなのに助ける側やってるんだ」
その声に、嫌なものが混ざっていた。
レナは銃を構える。
相手はまっすぐ来ない。左へ流れ、柱の影を使い、レナの射線を切る。レナも追う。足元へ撃つ。進路を止める。もう一発。距離を取る。
動けている。
まだ、動けている。
でも相手は、止まらない。
撃ったところへ来ない。
レナが作った道の外側から、ずっと半歩ずつ近づいてくる。
「さっきの二人、逃がせてよかったね」
「……」
「じゃあ、残ってる子と自分は?」
その言葉の意味を考える前に、相手が踏み込んだ。
速い。
レナは反射的に後ろへ下がる。撃つ。相手の肩を狙う。いや、肩じゃない。止めるなら足。距離を取るなら膝の近く。
撃てる。
でも、その一発は少し深い。
止めるための一発か。
怖くて、近づけたくなくて、相手を遠ざけるためだけの一発か。
ミネ先輩の言葉が頭をよぎる。
相手を傷つけるな、ではありません。
壊すために戦うな、です。
必要なら撃ちなさい。止めなさい。倒しなさい。
そして、その“傷つく人”の中には、あなた自身も含まれます。
分かっている。頭では分かっている。けれど、相手の手が伸びた。
レナの肩の横を抜けるように。
羽根のすぐそばへ。
まだ触れていない。触れていないはずなのに、背中の奥が勝手に強張った。
通路の冷たさ。
押さえつけられた腕。
笑い声。
逃げようとしても動かなかった体。
終わったはずの記憶が、今の廊下へ薄く重なる。
呼吸が、一拍だけ抜けた。
撃てる。隙が見えた。
でも指が止まった。
今撃ったら、止めるためじゃない気がした。
怖いから。
近づかれたくないから。
この手を、羽根の近くから遠ざけたいから。
それは救うための一発なのか、ただ恐怖で相手を壊そうとする一発なのか。
分からなくなった。その一拍で、距離を詰められた。
「遅い」
銃口を弾かれる。
手首に衝撃。
レナの銃が床を滑る。
取りに行こうとした足を払われた。
視界が傾く。
受け身を取ろうとして、肩を押さえ込まれる。
床が近い。
息が詰まる。
さっきまで見えていたものが、たった一拍で全部ひっくり返った。
「っ、ぁ……!」
レナは腕を立てようとした。でも、相手の膝が近い。重さそのものではなく、角度で動きを潰されている。力任せではない。レナが立とうとする場所だけ、先に塞がれている。
「さっきまで格好よかったのにね」
笑われる。
レナは歯を食いしばった。
起き上がらないと。
まだ、あの子がいる。
備品箱の近くで足を押さえていた生徒。視界の端で、怯えた顔がこちらを見ている。逃がせた二人はもういない。けれど、この子はまだここにいる。
見ないで。
いや、違う。
無事か見たい。
その二つが喉の奥でぶつかって、声にならなかった。
レナはもう一度手を伸ばす。
銃へ。
でも、その手の先で靴が動いた。銃が遠くへ蹴られる。金属音が廊下へ転がった。
「まだやる気?」
「……っ」
「いいね。そういうの、折りたくなる」
言葉の意味が胸に沈む前に、レナは膝を立てようとした。
その瞬間、床に広がった髪を、相手の靴がはっきりと踏んだ。
痛みは鋭くない。髪を引き千切られるような痛みでもない。ただ、顔を上げようとした瞬間に頭皮が引かれて、動きがそこで止まる。ほんの少し顔を上げることさえ、相手の靴底ひとつで許されない。
その事実が、痛みより先にレナの呼吸を詰まらせた。
「助ける側って、床に寝るんだ?」
笑い声。
レナは手を伸ばした。
踏まれた髪を外そうとする。
でも、届かない。床に押さえつけられた髪のせいで、首が動かない。上体を起こそうとすると髪が引かれ、顔を伏せれば相手の靴が視界の端に残る。怪我をするほどではない。だからこそ、相手が遊んでいるのだと分かってしまう。
制服の袖に埃がついている。膝のあたりにも砂がついた。リボンが少し曲がって、髪は床に広がったまま踏まれている。
さっきまで、ちゃんと前に立てていたはずなのに。
今は、顔も上げられない。
女の子としての、というより。
人として、ちゃんとしていたい部分を踏まれている気がした。
レナは髪を踏む靴を外そうと、もう一度手を伸ばす。その手首の近くを、相手の靴先が軽く払った。強い痛みではない。でも、届かない。届かないことだけを、わざわざ思い知らされる。
「ほら、まだ助けたかった子、見てるよ」
その言葉で、レナの息が止まった。
見てる。
まだ逃がせていない子が。
助けたかった子が。
こんな姿を。
レナは顔を上げようとした。けれど、髪を踏まれているせいで動きが止まる。無理に上げれば、さらに髪が引かれる。そう思った瞬間、余計に動けなくなる。
「……見ないで」
声になったかどうか分からないくらい小さかった。
誰に言ったのかも分からない。
足を痛めた生徒にか。
相手にか。
それとも、自分にか。
「何?」
相手が少し屈む。
レナは反射的に肩を縮めた。羽根を庇うように。
それを見られた。
「ああ、そこなのね」
相手の指が、羽根の近くで止まる。
触れない。
ただ、触れられるかもしれない距離に置かれる。
それだけで、レナの肩が勝手に強張った。
「そんなに嫌なんだ」
違う。
嫌だ。
でも、それだけじゃない。
怖い。
悔しい。
動けない。
動きたいのに、体が先に覚えてしまっている。あの時の冷たさも、笑い声も、抵抗が削られていく感覚も。
レナは奥歯を噛んだ。泣きたくない。謝りたくない。でも、抵抗の力が少しずつ浅くなる。
また足音が聞こえた。だけど今度は、迷いのない足音だった。
「そこまでです」
声は大きくなかった。
けれど、髪を踏んでいた靴がすぐに離れた。
レナは顔を上げられなかった。自由になったはずなのに、まだ床に押さえつけられているみたいだった。視界の端に、青みがかった髪が見える。
ミネ先輩だった。
ミネ先輩は、怒鳴っていなかった。
でも、怒っていた。
握られた手袋の指先が白い。普段なら真っ直ぐに整っている呼吸が、ほんのわずかだけ深い。声は静かなのに、その静けさの下で何かが煮えているのが分かる。
「今、あなたは何を踏んでいましたか」
三人目の不良が、笑おうとして失敗した。
「髪ですか。尊厳ですか。それとも、助けようとした者の意思ですか」
ミネが一歩進む。
「救護対象を増やす行為は、救護騎士団として看過できません」
もう一歩。
「そして、私個人としても、許容できません」
廊下の空気が、ひどく冷えた。
不良の一人が後ろへ下がる。
「救護騎士団かよ……」
三人目だけが、まだ形だけ笑おうとした。
「こっちはちょっと遊んでただけなんだけど」
「遊びで、倒れている相手の髪を踏むのですか」
ミネの声は変わらない。
でも、低かった。
「遊びで、負傷者のそばに武器を向けるのですか」
ミネが武器を構える。
「遊びで、人の恐怖を確かめるのですか」
その三つ目で、相手の顔から笑みが消えた。
そこから先は、一瞬だった。
ヒフミ先輩の時みたいに、感情が爆発する怖さではない。ミネ先輩の動きは静かで、正確で、無駄がなかった。相手の退路を塞ぎ、武器を弾き、抵抗しようとする腕を崩す。必要な分だけ、必要な場所だけを止めていく。
でも、普段のミネ先輩とは少し違った。
制圧の一つ一つが、いつもより重い。
相手を壊してはいない。必要以上に傷つけてもいない。けれど、逃げ道を与えない速度と、立ち上がる余地を消す角度に、怒りが滲んでいた。
一人目が膝をつく。
二人目が壁際へ追い込まれる。
三人目が最後に動こうとして、ミネの一撃で床へ落ちた。
終わった。
あまりにも早く。
レナが何もできなかった時間より、ずっと短い時間で。
ミネは倒れた相手を団員へ任せると、まず足を痛めた生徒の方へ視線を向けた。
「救護を」
「はい!」
駆けつけた団員が、その子を抱えるように支える。まだ逃がせていなかった子が、ようやくレナの視界の外へ運ばれていく。
無事だった。
少なくとも、生きている。
そのことだけで、少しだけ息が戻った。
ミネはそれを確認してから、レナの方へ歩いてきた。
レナは起き上がろうとした。
腕に力を入れる。
でも、うまく立てない。
さっきまで髪を踏まれていた感覚が残っている。制服の汚れが気になる。羽根の近くにまだ何かが残っている気がして、体のどこから動かせばいいのか分からなかった。
「……すみ、ませ」
声が途中で消えた。
言い訳は出なかった。
何を言えばいいか分からなかった。
ミネ先輩の教えを守ろうとした。
怖かった。
撃てなかった。
止まった。
負けた。
言葉にすればするほど、全部が言い訳になりそうで、レナは口を閉じた。
ミネは何も聞かなかった。
ただ、レナの手元ではなく、肩を見た。
羽根を庇うように縮こまった、その小さな動きだけで、何が起きたのかを察したらしい。
ミネの表情が、ほんの少しだけ痛む。
それでも声は乱れなかった。
「今は、立たなくて構いません」
レナは目を合わせられない。
ミネは膝をつき、床へ広がったレナの髪をそっと手でまとめた。靴で踏まれて乱れた部分を乱暴に払うことはしない。ただ、これ以上床に触れないように、静かにレナの肩の方へ寄せる。
その指先が丁寧すぎて、胸が痛かった。
次に、ミネは自分の外套を外した。
乱れた肩口と、埃のついた制服が隠れるように、レナへ掛ける。
「戻ります」
短い言葉。
責めない。
問い詰めない。
励ましもしない。
今のレナが何か言えば、きっとそれは全部崩れてしまうと分かっているみたいだった。
レナは外套の端を握った。
温かい。
それが、今は少しだけ苦しかった。
「……はい」
ようやく出た返事は、小さくて、情けないほど掠れていた。
ミネはそれでも、ちゃんと聞いてくれたように頷いた。
「救護騎士団へ戻ります。あなたは、今はそれだけ考えなさい」
レナはもう一度頷こうとして、うまくできなかった。逃がせた二人。逃がしきれなかった一人。
止まった自分。
踏まれた髪。
羽根の近くで止まった指。
全部が頭の中でぐちゃぐちゃになっている。
でも、ミネの外套だけが温かかった。
その温かさに縋るみたいに、レナは端を握る。
無事だった。
それだけは分かった。
よかった。
そう思えたのに、涙は出なかった。
ただ、外套の端を握る手だけが、いつまでも震えていた。