戦えない私がキヴォトス中の生徒に執着されるまで   作:Zuzuiikb

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6話 一拍の遅れ

 その日、レナは一人で中庭の奥を歩いていた。救護騎士団の訓練場へ向かう途中だった。約束の時間までは少しだけ余裕がある。だから、いつもなら通らない渡り廊下の横を抜けて、少し遠回りになる道を選んだ。

 

 理由は、特にない。

 

 強いて言うなら、前回の訓練でミネ先輩に褒められたことを、まだ少しだけ引きずっていたからかもしれない。

 

 「良い判断です」

 

 たったそれだけの言葉が、思っていたより長く胸に残っている。単純だな、と自分でも思う。でも、嬉しかったものは仕方ない。褒められるために訓練しているわけではないのに、ちゃんと見ている人に認められると、足元が少しだけ確かになる。

 

 今日も頑張ろう。

 

 そう思っていた時だった。

 

「だから、さっきから邪魔だって言ってるんだけど」

 

 廊下の角の向こうから、知らない声がした。

 

 軽い声だった。けれど、その軽さが嫌だった。相手を見下すことに慣れている声。言葉の端に、面倒くさそうな悪意が混ざっている。

 

 レナは足を止める。

 

 そっと角から覗くと、数人の生徒がいた。

 

 壁際に追いやられているのは、トリニティの生徒が三人。ひとりは小さな箱を胸に抱えていて、もうひとりは床に散らばった備品を拾おうとしている。最後のひとりは転んだのか、足元を押さえたまま動けずにいた。

 

 その前に、見慣れない制服の生徒が二人。

 

 外部から入り込んだ不良か、それに近い何かだとすぐ分かった。片方は銃を肩に引っ掛け、もう片方は床に散らばった中身を靴先でつついている。箱の中身は医療用の備品だった。包帯。消毒液。小さな器具。救護騎士団へ運ぶものかもしれない。

 

 レナは息を吸った。

 

 以前なら、たぶんすぐに飛び出していた。怖さと焦りが一緒になって、何も見ずに前へ出ていたと思う。

 

 でも今は違う。

 

 敵の数。二人。

 

 助けるべき子。三人。

 

 すぐ逃げられそうなのは、箱を持っている子と、備品を拾おうとしている子。足を押さえている子は、たぶんすぐには動けない。

 

 逃げ道は右奥の渡り廊下。

 

 撃ってはいけない方向は、壁際の三人の背後。

 

 遮蔽になりそうなものは、倒れかけた掲示板と廊下の柱。

 

 ひとつずつ見る。

 

 全部を一度に抱えようとしない。

 

 ミネ先輩の声が、頭の中で静かに残っていた。

 

 敵を見るのではなく、道を見る。

 

「……あの」

 

 レナは角から出た。

 

 声は少し震えた。

 

 でも、出た。

 

「その子たち、困ってます。備品を返してください」

 

 二人の不良がこちらを見る。

 

 壁際の生徒たちも顔を上げた。目が合う。箱を抱えた子は泣きそうな顔で、備品を拾っていた子は息を呑み、足を押さえた子だけが、痛みを堪えるように唇を噛んでいた。

 

 守りたい。その感情が真っ先に来る。でも、感情のまま走らない。

 

「は? 誰?」

 

「ったくまたかよぉ..トリニティって、こういう子ばっか出てくるよね。正義感だけは一人前って感じ」

 

 笑われる。

 

 レナは銃を握る手に力を入れた。

 

 怒るな。

 

 焦るな。

 

 倒すためじゃない。

 

 あの子たちが逃げるための道を作る。

 

「右へ走ってください」

 

 レナは壁際の二人へ言った。

 

「私が合図したら、柱の方へ。足を痛めている子は、無理に動かないでください」

 

「で、でも……」

 

「大丈夫です。走れる子から先に離れてください」

 

 箱を抱えた子が小さく頷く。

 

 その瞬間、不良の一人が銃を持ち直した。

 

「話進めてんじゃねぇよ」

 

 銃口が動く。

 

 レナは撃った。

 

 相手の体ではない。足元でもない。床に散らばっていた消毒液のケース。その縁を撃つ。ケースが跳ねて、不良の足元へ転がる。反射的に相手の視線が落ちる。

 

「今!」

 

 箱を抱えた子と、備品を拾っていた子が走る。

 

 もう一人の不良が追おうとした。

 

 レナは柱の手前へ一発撃つ。相手の進路を止めるための一発。倒すためじゃない。走る道を作るための一発。

 

 二人が柱の裏へ滑り込む。

 

 できた。二人、逃がせた。

 

 胸の奥が熱くなる。

 

 でも、まだ終わりじゃない。

 

 足を痛めた子が残っている。

 

「へぇ」

 

 不良の一人が、少しだけ顔を変えた。

 

「意外と動けるじゃん」

 

 もう一人が笑う。

 

「でもさ、さっきから“助ける方”ばっか見てるよね」

 

 レナは返事をしない。言い返す余裕がないわけではない。ただ、今言葉に使う集中力がもったいなかった。右の不良。左の不良。柱の裏へ逃げた二人。備品箱。足を押さえたままの子。廊下の出口。

 

 見える。

 

 ちゃんと見えている。

 

 レナは柱へ寄りながら、二人の進路を切るように撃った。相手は思ったより速く反応したけれど、完全には詰めてこられない。レナが作った隙を使って、逃げた二人は渡り廊下の奥へ消えた。

 

 できてる。

 

 今、ちゃんと動けてる。

 

 誰かの前に立ててる。

 

 その手応えが、ほんの少しだけ背中を押した。

 

 もう一人。

 

 まだ、足を押さえている子がいる。

 

 レナの呼吸が浅くなる。

 

 助けなきゃ。でも、距離がある。不良二人の間を抜ける必要がある。

今なら行ける。今なら、道を作れる。

 

 レナは前へ出た。

 

 一歩。

 

 いつもより少し深い一歩だった。

 

 その瞬間、廊下の奥から別の足音がした。

 

 軽くない。

 

 ゆっくり、こちらの様子を見ながら近づいてくる足音。

 

「何やってんの。二人がかりで手間取ってるわけ?」

 

 出てきたのは、三人目だった。

 

 背が高い。表情はだるそうなのに、目だけが妙に冷めている。武器の持ち方も、立ち方も、さっきの二人とは違った。少し見ただけで分かる。格が違う。

 

 レナは足を止めた。だけど止めたこと自体が、もう遅かった。

 

 三人目はレナの動きを見て、小さく笑った。

 

「ふーん。臆病そうなのに助ける側やってるんだ」

 

 その声に、嫌なものが混ざっていた。

 

 レナは銃を構える。

 

 相手はまっすぐ来ない。左へ流れ、柱の影を使い、レナの射線を切る。レナも追う。足元へ撃つ。進路を止める。もう一発。距離を取る。

 

 動けている。

 

 まだ、動けている。

 

 でも相手は、止まらない。

 

 撃ったところへ来ない。

 

 レナが作った道の外側から、ずっと半歩ずつ近づいてくる。

 

「さっきの二人、逃がせてよかったね」

 

「……」

 

「じゃあ、残ってる子と自分は?」

 

 その言葉の意味を考える前に、相手が踏み込んだ。

 

 速い。

 

 レナは反射的に後ろへ下がる。撃つ。相手の肩を狙う。いや、肩じゃない。止めるなら足。距離を取るなら膝の近く。

 

 撃てる。

 

 でも、その一発は少し深い。

 

 止めるための一発か。

 

 怖くて、近づけたくなくて、相手を遠ざけるためだけの一発か。

 

 ミネ先輩の言葉が頭をよぎる。

 

 相手を傷つけるな、ではありません。

 壊すために戦うな、です。

必要なら撃ちなさい。止めなさい。倒しなさい。

そして、その“傷つく人”の中には、あなた自身も含まれます。

 

 分かっている。頭では分かっている。けれど、相手の手が伸びた。

 レナの肩の横を抜けるように。

 

 羽根のすぐそばへ。

 

 まだ触れていない。触れていないはずなのに、背中の奥が勝手に強張った。

 通路の冷たさ。

 

 押さえつけられた腕。

 

 笑い声。

 

 逃げようとしても動かなかった体。

 

 終わったはずの記憶が、今の廊下へ薄く重なる。

 

 呼吸が、一拍だけ抜けた。

 

 撃てる。隙が見えた。

 

 でも指が止まった。

 今撃ったら、止めるためじゃない気がした。

 

 怖いから。

 

 近づかれたくないから。

 

 この手を、羽根の近くから遠ざけたいから。

 

 それは救うための一発なのか、ただ恐怖で相手を壊そうとする一発なのか。

 

 分からなくなった。その一拍で、距離を詰められた。

 

「遅い」

 

 銃口を弾かれる。

 

 手首に衝撃。

 

 レナの銃が床を滑る。

 

 取りに行こうとした足を払われた。

 

 視界が傾く。

 

 受け身を取ろうとして、肩を押さえ込まれる。

 

 床が近い。

 

 息が詰まる。

 

 さっきまで見えていたものが、たった一拍で全部ひっくり返った。

 

「っ、ぁ……!」

 

 レナは腕を立てようとした。でも、相手の膝が近い。重さそのものではなく、角度で動きを潰されている。力任せではない。レナが立とうとする場所だけ、先に塞がれている。

 

「さっきまで格好よかったのにね」

 

 笑われる。

 

 レナは歯を食いしばった。

 

 起き上がらないと。

 

 まだ、あの子がいる。

 

 備品箱の近くで足を押さえていた生徒。視界の端で、怯えた顔がこちらを見ている。逃がせた二人はもういない。けれど、この子はまだここにいる。

 

 見ないで。

 

 いや、違う。

 

 無事か見たい。

 

 その二つが喉の奥でぶつかって、声にならなかった。

 

 レナはもう一度手を伸ばす。

 

 銃へ。

 

 でも、その手の先で靴が動いた。銃が遠くへ蹴られる。金属音が廊下へ転がった。

 

「まだやる気?」

 

「……っ」

 

「いいね。そういうの、折りたくなる」

 

 言葉の意味が胸に沈む前に、レナは膝を立てようとした。

 

 その瞬間、床に広がった髪を、相手の靴がはっきりと踏んだ。

 

 痛みは鋭くない。髪を引き千切られるような痛みでもない。ただ、顔を上げようとした瞬間に頭皮が引かれて、動きがそこで止まる。ほんの少し顔を上げることさえ、相手の靴底ひとつで許されない。

 

 その事実が、痛みより先にレナの呼吸を詰まらせた。

 

「助ける側って、床に寝るんだ?」

 

 笑い声。

 

 レナは手を伸ばした。

 

 踏まれた髪を外そうとする。

 

 でも、届かない。床に押さえつけられた髪のせいで、首が動かない。上体を起こそうとすると髪が引かれ、顔を伏せれば相手の靴が視界の端に残る。怪我をするほどではない。だからこそ、相手が遊んでいるのだと分かってしまう。

 

 制服の袖に埃がついている。膝のあたりにも砂がついた。リボンが少し曲がって、髪は床に広がったまま踏まれている。

 

 さっきまで、ちゃんと前に立てていたはずなのに。

 

 今は、顔も上げられない。

 

 女の子としての、というより。

 

 人として、ちゃんとしていたい部分を踏まれている気がした。

 

 レナは髪を踏む靴を外そうと、もう一度手を伸ばす。その手首の近くを、相手の靴先が軽く払った。強い痛みではない。でも、届かない。届かないことだけを、わざわざ思い知らされる。

 

「ほら、まだ助けたかった子、見てるよ」

 

 その言葉で、レナの息が止まった。

 

 見てる。

 

 まだ逃がせていない子が。

 

 助けたかった子が。

 

 こんな姿を。

 

 レナは顔を上げようとした。けれど、髪を踏まれているせいで動きが止まる。無理に上げれば、さらに髪が引かれる。そう思った瞬間、余計に動けなくなる。

 

「……見ないで」

 

 声になったかどうか分からないくらい小さかった。

 

 誰に言ったのかも分からない。

 

 足を痛めた生徒にか。

 

 相手にか。

 

 それとも、自分にか。

 

「何?」

 

 相手が少し屈む。

 

 レナは反射的に肩を縮めた。羽根を庇うように。

 

 それを見られた。

 

「ああ、そこなのね」

 

 相手の指が、羽根の近くで止まる。

 

 触れない。

 

 ただ、触れられるかもしれない距離に置かれる。

 

 それだけで、レナの肩が勝手に強張った。

 

「そんなに嫌なんだ」

 

 違う。

 

 嫌だ。

 

 でも、それだけじゃない。

 

 怖い。

 

 悔しい。

 

 動けない。

 

 動きたいのに、体が先に覚えてしまっている。あの時の冷たさも、笑い声も、抵抗が削られていく感覚も。

 

 レナは奥歯を噛んだ。泣きたくない。謝りたくない。でも、抵抗の力が少しずつ浅くなる。

 

 また足音が聞こえた。だけど今度は、迷いのない足音だった。

 

「そこまでです」

 

 声は大きくなかった。

 

 けれど、髪を踏んでいた靴がすぐに離れた。

 

 レナは顔を上げられなかった。自由になったはずなのに、まだ床に押さえつけられているみたいだった。視界の端に、青みがかった髪が見える。

 

 ミネ先輩だった。

 

 ミネ先輩は、怒鳴っていなかった。

 

 でも、怒っていた。

 

 握られた手袋の指先が白い。普段なら真っ直ぐに整っている呼吸が、ほんのわずかだけ深い。声は静かなのに、その静けさの下で何かが煮えているのが分かる。

 

「今、あなたは何を踏んでいましたか」

 

 三人目の不良が、笑おうとして失敗した。

 

「髪ですか。尊厳ですか。それとも、助けようとした者の意思ですか」

 

 ミネが一歩進む。

 

「救護対象を増やす行為は、救護騎士団として看過できません」

 

 もう一歩。

 

「そして、私個人としても、許容できません」

 

 廊下の空気が、ひどく冷えた。

 

 不良の一人が後ろへ下がる。

 

「救護騎士団かよ……」

 

 三人目だけが、まだ形だけ笑おうとした。

 

「こっちはちょっと遊んでただけなんだけど」

 

「遊びで、倒れている相手の髪を踏むのですか」

 

 ミネの声は変わらない。

 

 でも、低かった。

 

「遊びで、負傷者のそばに武器を向けるのですか」

 

 ミネが武器を構える。

 

「遊びで、人の恐怖を確かめるのですか」

 

 その三つ目で、相手の顔から笑みが消えた。

 

 そこから先は、一瞬だった。

 

 ヒフミ先輩の時みたいに、感情が爆発する怖さではない。ミネ先輩の動きは静かで、正確で、無駄がなかった。相手の退路を塞ぎ、武器を弾き、抵抗しようとする腕を崩す。必要な分だけ、必要な場所だけを止めていく。

 

 でも、普段のミネ先輩とは少し違った。

 

 制圧の一つ一つが、いつもより重い。

 

 相手を壊してはいない。必要以上に傷つけてもいない。けれど、逃げ道を与えない速度と、立ち上がる余地を消す角度に、怒りが滲んでいた。

 

 一人目が膝をつく。

 

 二人目が壁際へ追い込まれる。

 

 三人目が最後に動こうとして、ミネの一撃で床へ落ちた。

 

 終わった。

 

 あまりにも早く。

 

 レナが何もできなかった時間より、ずっと短い時間で。

 

 ミネは倒れた相手を団員へ任せると、まず足を痛めた生徒の方へ視線を向けた。

 

「救護を」

 

「はい!」

 

 駆けつけた団員が、その子を抱えるように支える。まだ逃がせていなかった子が、ようやくレナの視界の外へ運ばれていく。

 

 無事だった。

 

 少なくとも、生きている。

 

 そのことだけで、少しだけ息が戻った。

 

 ミネはそれを確認してから、レナの方へ歩いてきた。

 

 レナは起き上がろうとした。

 

 腕に力を入れる。

 

 でも、うまく立てない。

 

 さっきまで髪を踏まれていた感覚が残っている。制服の汚れが気になる。羽根の近くにまだ何かが残っている気がして、体のどこから動かせばいいのか分からなかった。

 

「……すみ、ませ」

 

 声が途中で消えた。

 

 言い訳は出なかった。

 

 何を言えばいいか分からなかった。

 

 ミネ先輩の教えを守ろうとした。

 

 怖かった。

 

 撃てなかった。

 

 止まった。

 

 負けた。

 

 言葉にすればするほど、全部が言い訳になりそうで、レナは口を閉じた。

 

 ミネは何も聞かなかった。

 

 ただ、レナの手元ではなく、肩を見た。

 

 羽根を庇うように縮こまった、その小さな動きだけで、何が起きたのかを察したらしい。

 

 ミネの表情が、ほんの少しだけ痛む。

 

 それでも声は乱れなかった。

 

「今は、立たなくて構いません」

 

 レナは目を合わせられない。

 

 ミネは膝をつき、床へ広がったレナの髪をそっと手でまとめた。靴で踏まれて乱れた部分を乱暴に払うことはしない。ただ、これ以上床に触れないように、静かにレナの肩の方へ寄せる。

 

 その指先が丁寧すぎて、胸が痛かった。

 

 次に、ミネは自分の外套を外した。

 

 乱れた肩口と、埃のついた制服が隠れるように、レナへ掛ける。

 

「戻ります」

 

 短い言葉。

 

 責めない。

 

 問い詰めない。

 

 励ましもしない。

 

 今のレナが何か言えば、きっとそれは全部崩れてしまうと分かっているみたいだった。

 

 レナは外套の端を握った。

 

 温かい。

 

 それが、今は少しだけ苦しかった。

 

「……はい」

 

 ようやく出た返事は、小さくて、情けないほど掠れていた。

 

 ミネはそれでも、ちゃんと聞いてくれたように頷いた。

 

「救護騎士団へ戻ります。あなたは、今はそれだけ考えなさい」

 

 レナはもう一度頷こうとして、うまくできなかった。逃がせた二人。逃がしきれなかった一人。

 止まった自分。

 踏まれた髪。

 羽根の近くで止まった指。

 

 全部が頭の中でぐちゃぐちゃになっている。

 

 でも、ミネの外套だけが温かかった。

 

 その温かさに縋るみたいに、レナは端を握る。

 

 無事だった。

 

 それだけは分かった。

 

 よかった。

 

 そう思えたのに、涙は出なかった。

 

 ただ、外套の端を握る手だけが、いつまでも震えていた。

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