戦えない私がキヴォトス中の生徒に執着されるまで   作:Zuzuiikb

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7話 敗北を経て騎士になる

 

 救護騎士団の部室へ戻るまで、レナはほとんど喋らなかった。

ミネの外套を肩から掛けられたまま、団員に支えられて歩いた。歩けないわけではない。脚は動く。怪我も、動けなくなるほどではない。けれど、廊下の床を踏むたびに、さっき髪を踏まれた感覚がふいに戻ってきて、膝の力が少しだけ抜けそうになる。

 

 外套の端を握る手が、ずっと震えていた。

 

 誰もそれを指摘しなかった。

 

 いつもなら、救護騎士団の団員たちは何かしら軽口を挟む。レナが転びそうになれば「団長が増やした訓練メニューのせいですね」と言うし、ミネが水分補給を命じれば「また始まりました」と笑う。けれど今は、誰も茶化さなかった。

 

 それが逆に、胸に重かった。

 

 部室の扉が開くと、薬品と紅茶の匂いがした。いつもと同じ匂いのはずなのに、今日は少し違って感じる。安全な場所へ戻ってきたのだと分かった瞬間、体の奥に残っていた力が、かえって抜けそうになった。

 

「こちらへ」

 

 団員の一人が、ソファではなく処置用の椅子を示した。

 

 レナは小さく頷いて座る。外套の端を離そうとして、指がうまく開かないことに気づいた。ぎゅっと握りすぎていたらしい。自分の指なのに、少しだけ他人のものみたいだった。

 

「……外套、汚しちゃって」

 

 ようやく出た言葉がそれだった。

 

 ミネは答える前に、レナの前へ膝をついた。目線が合いそうになって、レナは反射的に少し俯く。合わせられない。見られたら、さっき床に伏せていた自分まで全部見られる気がした。

 

「外套は洗えます」

 

 ミネの声は、静かだった。

 

「あなたは、まず呼吸を整えなさい」

 

「……はい」

 

 言われて、自分の呼吸が浅いことに気づく。吸えていると思っていたのに、胸の途中で止まっていた。レナはゆっくり息を吐こうとする。けれど、吐く途中で喉が詰まる。

 

 ミネは急かさなかった。

 

 ただ、手を伸ばす前に一度止める。

 

「髪に触れても?」

 

 レナの肩がほんの少し揺れた。

 

 触れても。

 

 たったそれだけの確認なのに、胸の奥が痛む。さっきは、確認なんてなかった。髪を踏まれ、動こうとするたび引かれ、顔を上げることさえ相手の靴ひとつで止められた。

 

 でも、今の声は違う。

 

 ミネ先輩は待っている。

 

 レナが頷くまで、触れない。

 

「……はい」

 

 小さく答えると、ミネの指先がレナの髪へ触れた。踏まれて乱れた部分を、乱暴に払うことはしない。埃を落とし、絡んだ毛先をほどき、床に擦れて乱れた部分を少しずつ整えていく。

 

 丁寧だった。

 

 その丁寧さが、少し苦しかった。

 

 団員の一人が濡らした布を持ってくる。別の団員は救急箱を開け、消毒液と小さなガーゼを並べた。いつもなら「レナさん、また救護対象ですね」くらい言いそうなのに、今は誰も余計なことを言わない。

 

 レナは膝の上で手を握った。

 

 指先がまだ震えている。

 

「レナさん、袖、少し見せてもらえますか」

 

 団員が柔らかく言う。

 

「あ……はい」

 

 袖口に埃がついていた。膝にも擦れた跡がある。痛みは強くない。けれど、その汚れを見ると、床に押さえ込まれていた自分の姿が急に戻ってくる。

 

 立てなかった。

 

 顔も上げられなかった。

 

 髪を踏まれて、助けたかった子の前で、動けなかった。

 

 レナは唇を結ぶ。

 

 謝らなきゃ。

 

 そう思った。

 

 でも、何に対して謝るのか分からなかった。負けたこと。止まったこと。最後の一人へ届かなかったこと。ミネの教えを守れなかったこと。助けてもらったこと。全部がひとつの塊になって、喉の奥に詰まっている。

 

「……すみません」

 

 結局、それしか出なかった。

 

 ミネの手が止まる。

 

 部室の空気が、少しだけ細くなる。

 

 ミネはすぐには返事をしなかった。レナの髪を整えていた手をそっと離し、正面へ戻る。それから、レナが逃げなくて済む高さに視線を置いたまま、静かに言った。

 

「今の謝罪は、何に対するものですか」

 

 責める声ではなかった。

 

 だから、余計に答えられなかった。

 

「それ、は……」

 

 レナは外套の端を握る。

 

「私、止まって……負けて……最後の子にも、届かなくて……」

 

 声が小さくなる。

 

 言葉にした瞬間、胸の中が沈む。言い訳になりそうで怖かった。怖かったから撃てなかった。ミネの教えを思い出して迷った。羽根の近くに手が伸びて、体が動かなかった。

 

 どれも本当だ。

 

 でも、言った瞬間に全部、自分を守るための言葉になってしまいそうだった。

 

 だから、そこで止まった。

 

 ミネは少しだけ目を伏せた。

 

「レナ。今、あなたが自分を責める必要はありません」

 

 静かな断言だった。

 

 レナは顔を上げられない。

 

「あなたは傷つけられました。まず救護されるべきは、あなたです」

 

「でも……」

 

「でも、ではありません」

 

 ミネの声は強くなかった。

 

 けれど、逃げ道を塞ぐような確かさがあった。

 

「あなたは二人を逃がしました」

 

 レナの指が止まる。

 

「最後の一人へも手を伸ばしました。届かなかった。敗北した。傷つけられた。それも事実です。ですが、二人を逃がしたことまで、敗北の中に沈めてはいけません」

 

 レナは息を呑んだ。

 

 二人を逃がした。

 

 その言葉は、さっきから自分の中でほとんど消えていた。残っていたのは、床の冷たさと、踏まれた髪と、羽根の近くで止まった指と、助けきれなかった一人の顔だけだった。

 

「……でも、最後の子は」

 

「救護騎士団が保護しました。怪我はありますが、命に関わるものではありません」

 

「……よかった」

 

 それだけは、すぐに出た。

 

 声は震えていた。

 

 でも、本心だった。

 

 ミネはわずかに頷く。

 

「あなたが時間を作ったからです。あなたが二人を逃がし、相手の注意を引き、最後の一人へ向かおうとした。その時間がなければ、状況はさらに悪化していました」

 

「私が……?」

 

「はい」

 

 レナはすぐに飲み込めなかった。

 

 負けたのに。

 

 床に倒されて、髪を踏まれて、ミネ先輩に助けられたのに。

 

 それでも、何かをできていたと言われる。

 

 胸の奥が痛い。

 

 嬉しいとは違う。慰められているだけだと思いたい自分と、信じたい自分がぶつかって、うまく呼吸できなくなる。

 

 団員の一人が、そっと温かい飲み物を置いた。

 

「レナさん、少しだけ飲めそうなら。無理なら持ってるだけでも大丈夫です」

 

「……ありがとうございます」

 

 カップを受け取ると、手の震えが少しだけ分かりにくくなった。温かさが指に移る。レナは口をつけず、ただ両手で包み込む。

 

 ミネは立ち上がり、机の上に置かれていた小さな箱を取った。

 

 救護騎士団の紋章が入った、細いリボンだった。

 

 レナはそれを見て、少しだけ目を瞬かせる。

 

「……それ」

 

「救護騎士団の所属を示すリボンです」

 

 ミネは言った。

 

「正式な団員に渡すものです」

 

 レナは意味を理解するまで、数秒かかった。

 

 正式な団員。

 

 その言葉が、うまく頭に入ってこない。

 

「え……?」

 

 ミネは箱を開けたまま、レナを見る。

 

「レナ。あなたを、救護騎士団の一員として迎えます」

 

 部室のどこかで、誰かが小さく息を吸った。

 

 レナはカップを落としそうになって、慌てて持ち直す。

 

「ま、待ってください。私、今日、負けて……助けられて……」

 

「それが理由で迎えるのではありません」

 

 ミネはすぐに言った。

 

「そして、慰めでもありません」

 

 その言葉に、レナは口を閉じた。

 

「あなたは救護のために動きました。二人を逃がし、最後の一人へも手を伸ばした。失敗も、敗北も、傷も、その事実を消しません。救護騎士団は、無傷で勝ち続ける者だけの場所ではありません」

 

 ミネの声が少しだけ低くなる。

 

「倒れても、届かなくても、それでも誰かを救おうとする者の場所です」

 

 レナは何も言えなかった。

 

 胸の奥が熱くなる。

 

 でも、泣きそうなのとは少し違う。いや、泣きそうではある。けれど、それより先に、信じられないという感情があった。

 

 こんな姿で。

 

 髪を踏まれて、制服を汚して、最後の一人に届かなくて、助けられて戻ってきた自分が。

 

 救護騎士団に。

 

「私で、いいんですか」

 

 ようやく出た声は、ひどく頼りなかった。

 

 ミネは迷わなかった。

 

「あなたがいいのです」

 

 短い言葉だった。

 

 なのに、強かった。

 

 レナは俯いた。

 

 カップの中で、飲み物が少し揺れている。自分の手がまだ震えているからだと気づく。けれど今度の震えは、さっきとは少し違っていた。

 

「……私、弱いです」

 

「知っています」

 

 即答だった。

 

 レナが思わず顔を上げると、ミネは真顔だった。

 

「あなたはまだ弱い。判断も揺れます。自分の状態を軽視する癖もあります。恐怖に体を奪われる瞬間もある。ですが、それらは救護騎士団に入れない理由にはなりません」

 

「……」

 

「救護騎士団に必要なのは、最初から完璧であることではありません。救うことを諦めないことです」

 

 団員の一人が、そこで小さく笑った。

 

 いつもの軽口より、ずっと柔らかい声だった。

 

「レナさん、ようこそ。団長の訓練に数週間耐えた時点で、もう半分くらい仲間みたいなものでしたけどね」

 

 別の団員も頷く。

 

「正式に地獄へようこそ、です。あ、でもちゃんと毛布とお茶は出ます」

 

「救護騎士団って、地獄なんですか……?」

 

 レナがかすれた声で返すと、部室の空気が少しだけ緩んだ。

 

 ミネが団員たちを見る。

 

「不適切な表現です」

 

「でも団長の訓練、地獄寄りですよ」

 

「適切な負荷です」

 

「出ました」

 

 小さな笑い声が生まれる。

 

 その音で、レナの肩から少しだけ力が抜けた。

 

 いつもの救護騎士団だ。

 

 重い空気の中でも、ちゃんと戻ってくる場所がある。

 

 ミネはリボンを手に取り、レナへ差し出した。

 

「今すぐ返事をする必要はありません。ですが、これはあなたがここにいていい理由です。他の誰にも、今日の敗北にも、奪わせません」

 

 レナはリボンを見つめる。

 

 救護騎士団の色。

 

 ミネ先輩のいる場所。

 

 自分が、救われる側として連れてこられた場所。

 

 そして今、救う側として立つことを許される場所。

 

 指を伸ばすのに、少し時間がかかった。

 

 まだ震えている。

 

 でも、伸ばした。

 

 リボンに触れる。

 

 ミネはそれをレナの手へ置いた。

 

 軽い。

 

 なのに、ひどく重かった。

 

「……私」

 

 声が詰まる。

 

 今度こそ涙が滲んだ。

 

 それを隠そうとして、でも隠しきれなかった。

 

「私、頑張ります。まだ全然、足りないけど……今日も、届かなかったけど……それでも、ここにいていいなら、ちゃんと、救護騎士団の一員として頑張りたいです」

 

 言い終える頃には、声が震えていた。

 

 ミネは静かに頷いた。

 

「はい。ですが、頑張りすぎたら止めます」

 

 その言葉に、レナは泣きながら少し笑った。

 

「……それ、入団しても変わらないんですね」

 

「当然です。あなたは救護騎士団の一員になりますが、同時に救護対象でもあります」

 

「両方なんですか」

 

「両方です」

 

 団員たちが、やっぱりという顔で頷いている。

 

「レナさん、諦めてください。団長は仲間になった相手ほど管理が細かくなります」

 

「睡眠時間とか食事量とか、たぶん正式記録に入りますよ」

 

「えっ」

 

 レナが思わずミネを見る。

 

 ミネは少しだけ視線を逸らした。

 

「必要な範囲で」

 

「必要な範囲って、どこまでですか……?」

 

「救護に必要な範囲です」

 

「便利すぎます、その言葉……」

 

 部室に、小さく笑いが広がった。

 

 その笑いの中で、レナはリボンを両手で握った。

 

 まだ髪に触れられると、少し体が強張る。

 

 羽根の近くに何かが来る想像をすると、呼吸が浅くなる。

 

 床に伏せた感覚も、まだ消えていない。

 

 でも、手の中には救護騎士団のリボンがある。

 

 外套の温かさも、まだ肩に残っている。

 

 負けた。

 

 届かなかった。

 

 それでも、ここにいていいと言われた。

 

 その事実だけが、今のレナを床から少しだけ引き上げてくれる。

 

 ミネは、レナの手の中のリボンを見てから、静かに言った。

 

「ようこそ、レナ。救護騎士団へ」

 

 その言葉に、団員たちがそれぞれ小さく拍手をした。大げさではない。けれど、確かに歓迎の音だった。

 

 レナは泣きそうな顔のまま、何度も頷く。

 

「はい……よろしくお願いします」

 

 声はまだ掠れていた。

 

 でも、さっきより少しだけ前を向いていた。

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