戦えない私がキヴォトス中の生徒に執着されるまで 作:Zuzuiikb
救護騎士団の部室へ戻るまで、レナはほとんど喋らなかった。
ミネの外套を肩から掛けられたまま、団員に支えられて歩いた。歩けないわけではない。脚は動く。怪我も、動けなくなるほどではない。けれど、廊下の床を踏むたびに、さっき髪を踏まれた感覚がふいに戻ってきて、膝の力が少しだけ抜けそうになる。
外套の端を握る手が、ずっと震えていた。
誰もそれを指摘しなかった。
いつもなら、救護騎士団の団員たちは何かしら軽口を挟む。レナが転びそうになれば「団長が増やした訓練メニューのせいですね」と言うし、ミネが水分補給を命じれば「また始まりました」と笑う。けれど今は、誰も茶化さなかった。
それが逆に、胸に重かった。
部室の扉が開くと、薬品と紅茶の匂いがした。いつもと同じ匂いのはずなのに、今日は少し違って感じる。安全な場所へ戻ってきたのだと分かった瞬間、体の奥に残っていた力が、かえって抜けそうになった。
「こちらへ」
団員の一人が、ソファではなく処置用の椅子を示した。
レナは小さく頷いて座る。外套の端を離そうとして、指がうまく開かないことに気づいた。ぎゅっと握りすぎていたらしい。自分の指なのに、少しだけ他人のものみたいだった。
「……外套、汚しちゃって」
ようやく出た言葉がそれだった。
ミネは答える前に、レナの前へ膝をついた。目線が合いそうになって、レナは反射的に少し俯く。合わせられない。見られたら、さっき床に伏せていた自分まで全部見られる気がした。
「外套は洗えます」
ミネの声は、静かだった。
「あなたは、まず呼吸を整えなさい」
「……はい」
言われて、自分の呼吸が浅いことに気づく。吸えていると思っていたのに、胸の途中で止まっていた。レナはゆっくり息を吐こうとする。けれど、吐く途中で喉が詰まる。
ミネは急かさなかった。
ただ、手を伸ばす前に一度止める。
「髪に触れても?」
レナの肩がほんの少し揺れた。
触れても。
たったそれだけの確認なのに、胸の奥が痛む。さっきは、確認なんてなかった。髪を踏まれ、動こうとするたび引かれ、顔を上げることさえ相手の靴ひとつで止められた。
でも、今の声は違う。
ミネ先輩は待っている。
レナが頷くまで、触れない。
「……はい」
小さく答えると、ミネの指先がレナの髪へ触れた。踏まれて乱れた部分を、乱暴に払うことはしない。埃を落とし、絡んだ毛先をほどき、床に擦れて乱れた部分を少しずつ整えていく。
丁寧だった。
その丁寧さが、少し苦しかった。
団員の一人が濡らした布を持ってくる。別の団員は救急箱を開け、消毒液と小さなガーゼを並べた。いつもなら「レナさん、また救護対象ですね」くらい言いそうなのに、今は誰も余計なことを言わない。
レナは膝の上で手を握った。
指先がまだ震えている。
「レナさん、袖、少し見せてもらえますか」
団員が柔らかく言う。
「あ……はい」
袖口に埃がついていた。膝にも擦れた跡がある。痛みは強くない。けれど、その汚れを見ると、床に押さえ込まれていた自分の姿が急に戻ってくる。
立てなかった。
顔も上げられなかった。
髪を踏まれて、助けたかった子の前で、動けなかった。
レナは唇を結ぶ。
謝らなきゃ。
そう思った。
でも、何に対して謝るのか分からなかった。負けたこと。止まったこと。最後の一人へ届かなかったこと。ミネの教えを守れなかったこと。助けてもらったこと。全部がひとつの塊になって、喉の奥に詰まっている。
「……すみません」
結局、それしか出なかった。
ミネの手が止まる。
部室の空気が、少しだけ細くなる。
ミネはすぐには返事をしなかった。レナの髪を整えていた手をそっと離し、正面へ戻る。それから、レナが逃げなくて済む高さに視線を置いたまま、静かに言った。
「今の謝罪は、何に対するものですか」
責める声ではなかった。
だから、余計に答えられなかった。
「それ、は……」
レナは外套の端を握る。
「私、止まって……負けて……最後の子にも、届かなくて……」
声が小さくなる。
言葉にした瞬間、胸の中が沈む。言い訳になりそうで怖かった。怖かったから撃てなかった。ミネの教えを思い出して迷った。羽根の近くに手が伸びて、体が動かなかった。
どれも本当だ。
でも、言った瞬間に全部、自分を守るための言葉になってしまいそうだった。
だから、そこで止まった。
ミネは少しだけ目を伏せた。
「レナ。今、あなたが自分を責める必要はありません」
静かな断言だった。
レナは顔を上げられない。
「あなたは傷つけられました。まず救護されるべきは、あなたです」
「でも……」
「でも、ではありません」
ミネの声は強くなかった。
けれど、逃げ道を塞ぐような確かさがあった。
「あなたは二人を逃がしました」
レナの指が止まる。
「最後の一人へも手を伸ばしました。届かなかった。敗北した。傷つけられた。それも事実です。ですが、二人を逃がしたことまで、敗北の中に沈めてはいけません」
レナは息を呑んだ。
二人を逃がした。
その言葉は、さっきから自分の中でほとんど消えていた。残っていたのは、床の冷たさと、踏まれた髪と、羽根の近くで止まった指と、助けきれなかった一人の顔だけだった。
「……でも、最後の子は」
「救護騎士団が保護しました。怪我はありますが、命に関わるものではありません」
「……よかった」
それだけは、すぐに出た。
声は震えていた。
でも、本心だった。
ミネはわずかに頷く。
「あなたが時間を作ったからです。あなたが二人を逃がし、相手の注意を引き、最後の一人へ向かおうとした。その時間がなければ、状況はさらに悪化していました」
「私が……?」
「はい」
レナはすぐに飲み込めなかった。
負けたのに。
床に倒されて、髪を踏まれて、ミネ先輩に助けられたのに。
それでも、何かをできていたと言われる。
胸の奥が痛い。
嬉しいとは違う。慰められているだけだと思いたい自分と、信じたい自分がぶつかって、うまく呼吸できなくなる。
団員の一人が、そっと温かい飲み物を置いた。
「レナさん、少しだけ飲めそうなら。無理なら持ってるだけでも大丈夫です」
「……ありがとうございます」
カップを受け取ると、手の震えが少しだけ分かりにくくなった。温かさが指に移る。レナは口をつけず、ただ両手で包み込む。
ミネは立ち上がり、机の上に置かれていた小さな箱を取った。
救護騎士団の紋章が入った、細いリボンだった。
レナはそれを見て、少しだけ目を瞬かせる。
「……それ」
「救護騎士団の所属を示すリボンです」
ミネは言った。
「正式な団員に渡すものです」
レナは意味を理解するまで、数秒かかった。
正式な団員。
その言葉が、うまく頭に入ってこない。
「え……?」
ミネは箱を開けたまま、レナを見る。
「レナ。あなたを、救護騎士団の一員として迎えます」
部室のどこかで、誰かが小さく息を吸った。
レナはカップを落としそうになって、慌てて持ち直す。
「ま、待ってください。私、今日、負けて……助けられて……」
「それが理由で迎えるのではありません」
ミネはすぐに言った。
「そして、慰めでもありません」
その言葉に、レナは口を閉じた。
「あなたは救護のために動きました。二人を逃がし、最後の一人へも手を伸ばした。失敗も、敗北も、傷も、その事実を消しません。救護騎士団は、無傷で勝ち続ける者だけの場所ではありません」
ミネの声が少しだけ低くなる。
「倒れても、届かなくても、それでも誰かを救おうとする者の場所です」
レナは何も言えなかった。
胸の奥が熱くなる。
でも、泣きそうなのとは少し違う。いや、泣きそうではある。けれど、それより先に、信じられないという感情があった。
こんな姿で。
髪を踏まれて、制服を汚して、最後の一人に届かなくて、助けられて戻ってきた自分が。
救護騎士団に。
「私で、いいんですか」
ようやく出た声は、ひどく頼りなかった。
ミネは迷わなかった。
「あなたがいいのです」
短い言葉だった。
なのに、強かった。
レナは俯いた。
カップの中で、飲み物が少し揺れている。自分の手がまだ震えているからだと気づく。けれど今度の震えは、さっきとは少し違っていた。
「……私、弱いです」
「知っています」
即答だった。
レナが思わず顔を上げると、ミネは真顔だった。
「あなたはまだ弱い。判断も揺れます。自分の状態を軽視する癖もあります。恐怖に体を奪われる瞬間もある。ですが、それらは救護騎士団に入れない理由にはなりません」
「……」
「救護騎士団に必要なのは、最初から完璧であることではありません。救うことを諦めないことです」
団員の一人が、そこで小さく笑った。
いつもの軽口より、ずっと柔らかい声だった。
「レナさん、ようこそ。団長の訓練に数週間耐えた時点で、もう半分くらい仲間みたいなものでしたけどね」
別の団員も頷く。
「正式に地獄へようこそ、です。あ、でもちゃんと毛布とお茶は出ます」
「救護騎士団って、地獄なんですか……?」
レナがかすれた声で返すと、部室の空気が少しだけ緩んだ。
ミネが団員たちを見る。
「不適切な表現です」
「でも団長の訓練、地獄寄りですよ」
「適切な負荷です」
「出ました」
小さな笑い声が生まれる。
その音で、レナの肩から少しだけ力が抜けた。
いつもの救護騎士団だ。
重い空気の中でも、ちゃんと戻ってくる場所がある。
ミネはリボンを手に取り、レナへ差し出した。
「今すぐ返事をする必要はありません。ですが、これはあなたがここにいていい理由です。他の誰にも、今日の敗北にも、奪わせません」
レナはリボンを見つめる。
救護騎士団の色。
ミネ先輩のいる場所。
自分が、救われる側として連れてこられた場所。
そして今、救う側として立つことを許される場所。
指を伸ばすのに、少し時間がかかった。
まだ震えている。
でも、伸ばした。
リボンに触れる。
ミネはそれをレナの手へ置いた。
軽い。
なのに、ひどく重かった。
「……私」
声が詰まる。
今度こそ涙が滲んだ。
それを隠そうとして、でも隠しきれなかった。
「私、頑張ります。まだ全然、足りないけど……今日も、届かなかったけど……それでも、ここにいていいなら、ちゃんと、救護騎士団の一員として頑張りたいです」
言い終える頃には、声が震えていた。
ミネは静かに頷いた。
「はい。ですが、頑張りすぎたら止めます」
その言葉に、レナは泣きながら少し笑った。
「……それ、入団しても変わらないんですね」
「当然です。あなたは救護騎士団の一員になりますが、同時に救護対象でもあります」
「両方なんですか」
「両方です」
団員たちが、やっぱりという顔で頷いている。
「レナさん、諦めてください。団長は仲間になった相手ほど管理が細かくなります」
「睡眠時間とか食事量とか、たぶん正式記録に入りますよ」
「えっ」
レナが思わずミネを見る。
ミネは少しだけ視線を逸らした。
「必要な範囲で」
「必要な範囲って、どこまでですか……?」
「救護に必要な範囲です」
「便利すぎます、その言葉……」
部室に、小さく笑いが広がった。
その笑いの中で、レナはリボンを両手で握った。
まだ髪に触れられると、少し体が強張る。
羽根の近くに何かが来る想像をすると、呼吸が浅くなる。
床に伏せた感覚も、まだ消えていない。
でも、手の中には救護騎士団のリボンがある。
外套の温かさも、まだ肩に残っている。
負けた。
届かなかった。
それでも、ここにいていいと言われた。
その事実だけが、今のレナを床から少しだけ引き上げてくれる。
ミネは、レナの手の中のリボンを見てから、静かに言った。
「ようこそ、レナ。救護騎士団へ」
その言葉に、団員たちがそれぞれ小さく拍手をした。大げさではない。けれど、確かに歓迎の音だった。
レナは泣きそうな顔のまま、何度も頷く。
「はい……よろしくお願いします」
声はまだ掠れていた。
でも、さっきより少しだけ前を向いていた。