戦えない私がキヴォトス中の生徒に執着されるまで   作:Zuzuiikb

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8話 怖くないよって

救護騎士団のリボンは、思っていたより軽かった。

 

 けれど胸元に結ぶと、布一枚ぶんだけ背筋が伸びる。重さがあるわけではない。引っ張られるわけでもない。ただ、鏡の中の自分を見た時、昨日までとは少し違う場所に立たされた気がした。救護騎士団の一員。その言葉は、まだレナの中で少し大きすぎる。

 

 何度もリボンの位置を直す。右が少し下がっている気がして、左を整える。今度は左が上がりすぎたように見えて、もう一度指で撫でる。別に誰もそんな細かいところまで見ない。ミネ先輩だって、きっと怒りはしない。ただ真面目な顔で「身だしなみは救護活動時の信頼にも関わります」と言いそうではある。

 

 言いそう。

 

 すごく言いそう。

 

 レナは少しだけ息を吐いて、リボンから手を離した。

 

「……よし」

 

 小さく言って、救護騎士団の部室へ向かう。

 

 扉を開けると、薬品と紅茶の匂いがした。ここへ来るたびに感じる匂い。最初は少しだけ緊張したのに、今では胸の奥がふっと緩む。安全な場所だと、体の方が先に覚え始めているのかもしれない。

 

「おはようございます」

 

 レナが頭を下げると、団員たちが顔を上げた。

 

「おはようございます、レナさん」

 

「リボン、似合ってますね」

 

「団長、見ました? レナさん、完全に救護騎士団の子ですよ」

 

 明るい声だった。いつもの救護騎士団の空気。重くなりすぎないように、けれど軽く扱いすぎないように、皆が少しずつ距離を測ってくれているのが分かる。

 

 レナは笑おうとした。

 

 たぶん、少しぎこちなかった。

 

「ありがとうございます。今日から、その……救護騎士団の一員として、ちゃんと頑張ります」

 

 言った瞬間、自分の指先に力が入った。ちゃんと。その言葉が、少しだけ胸に引っかかる。ちゃんと立ちたい。ちゃんと助けたい。ちゃんと救護騎士団の一員になりたい。昨日みたいに、髪を踏まれて床から顔も上げられなかった自分を、少しでも早く遠ざけたい。

 

 団員の一人が、レナのリボンを見て近づいてくる。

 

「あ、少しだけ曲がってますね。直します?」

 

 悪気なんて、ひとつもなかった。

 

 分かっている。

 

 その手が伸びた先も、リボンだけだった。首元に近い布を整えようとしただけ。乱暴でもない。急でもない。ほんの些細な、優しい気遣いだった。

 

 なのに、レナの肩が小さく跳ねた。

 

 団員の手が止まる。

 

 レナも止まる。

 

 一瞬、部室の音が遠くなる。紙をめくる音も、カップを置く音も、誰かが息を吸う気配も、薄い膜の向こう側へ行ってしまったみたいだった。

 

「っあ……」

 

 レナは慌てて笑おうとした。

 

「す、すみません。ちょっとびっくりしただけで、大丈夫です。ほんとに、大丈夫なので」

 

 大丈夫。言った瞬間、自分でも分かった。今の声は、大丈夫な人の声ではない。

 

 団員はすぐに手を引いた。責めることも、困った顔をすることもなく、ただ少しだけ距離を取る。

 

「ごめんなさい。急に触ろうとしましたね」

 

「ちが、違うんです。私が勝手に……」

 

「勝手ではありません」

 

 低く、落ち着いた声が入った。

 

 ミネだった。

 

 部室の奥で書類を確認していたはずのミネは、いつの間にかレナの方を見ていた。表情は静かだったが、視線はいつもより少しだけ鋭い。リボンの曲がりではなく、レナの肩の揺れと、浅くなった呼吸を見ている。

 

「レナ。今日は訓練内容を変更します」

 

「え……?」

 

「戦闘訓練は行いません」

 

 レナは瞬きをした。戦闘訓練はない。その言葉にほっとするより先に、不安が来た。昨日のことで、もう使い物にならないと思われたのかもしれない。救護騎士団の一員になったばかりなのに、また守られる側に戻ってしまうのかもしれない。

 

 そう考えかけた瞬間、ミネが言った。

 

「接触への反応を確認します」

 

 部室の中で、誰かが小さく咳き込んだ。

 

 レナは固まる。

 

「接触、ですか」

 

「はい」

 

「えっと……触られる練習、みたいな……?」

 

「その表現でも間違いではありません」

 

「まっすぐですね……」

 

「曖昧にすると、不安が増します」

 

 ミネは本気だった。からかっているわけではない。ごまかすつもりもない。だからこそ、レナの方も逃げ道をなくしたみたいに、その言葉を正面から受け取るしかなかった。

 

「ただし、ここでは行いません」

 

「え?」

 

「部室には人が多い。あなたが緊張する要素を増やす必要はありません。団長室へ移動します」

 

 レナはほっとしたような、別の意味で緊張したような、よく分からない息を吐いた。

 

 二人きり。

 

 その方が安心できるはずなのに、急に意識してしまう。けれど、団員たちの前で手首や髪や羽根の話をされるよりは、ずっといい。怖い反応を見られるのも、震えるところを見られるのも、たぶん今のレナにはまだ少し重い。

 

 ミネは団員たちへ目を向けた。

 

「しばらく団長室を使います。緊急時以外は入室しないように」

 

「了解しました」

 

「団長、記録係は?」

 

「不要です」

 

「えっ」

 

「不要です」

 

 二度目は少しだけ圧があった。

 

 団員たちはすぐに頷く。けれど、そのうち何人かの目がほんの少しだけ泳いだのを、レナは見逃さなかった。……いや、今の何。何か企んでる顔じゃなかった?

 

 ミネは気づいているのかいないのか、レナへ向き直る。

 

「行きましょう」

 

「は、はい」

 

 団長室は、部室の奥にあった。

 

 中へ入ると、部室よりずっと静かだった。書類棚、机、簡素な応接用の椅子。余計な飾りは少ないのに、どこも整っている。ミネ先輩らしい部屋だと思った。きっちりしていて、無駄がなくて、でも机の端に置かれた予備の毛布だけが妙に救護騎士団らしい。

 

 ミネは扉を閉める前に、少しだけ振り返った。

 

「あなたたち」

 

 扉の外で、かすかに布が擦れる音が止まった。

 

「聞こえています」

 

「……」

 

「……」

 

 沈黙。

 

 レナは固まった。

 

 まさか。

 

「覗くつもりなら、最初から許可を取りなさい。許可しませんが」

 

 扉の向こうで、誰かが小さく「すみません」と言った。

 

 ミネはため息をつき、扉を閉める。

 

「……えっと」

 

「気にしなくて構いません」

 

「いや、気にしますよ……?」

 

「後で注意します」

 

 ミネは真顔だった。

 

 レナは少しだけ笑ってしまった。笑うつもりなんてなかったのに、緊張が少しだけほどけた。あの団員たちは本当に、空気を壊さないぎりぎりのところで変なことをする。

 

 ミネは応接用の椅子を二つ、向かい合うのではなく斜めに置いた。真正面だと緊張するだろうと判断したのだろう。椅子の間には、手を伸ばせば触れられるけれど、詰め寄られているとは感じない程度の距離がある。

 

「ここで行います」

 

「はい」

 

「始める前に説明します」

 

 ミネはレナの前に座り、静かに言った。

 

「あなたが昨日止まったのは、弱いからではありません。身体が危険を覚えているからです。髪を踏まれたこと、羽根の近くへ手を伸ばされたこと、それ以前に受けた恐怖。それらが重なった時、あなたの身体は、あなたの意思より先に止まった」

 

 レナは視線を落とす。昨日の廊下。靴底。床に広がった髪。羽根の近くで止まった指。思い出したくないのに、言葉にされると輪郭が戻る。けれどミネは、それを責めるために言っているのではなかった。

 

「ですが、実戦ではその一拍が命取りになります」

 

 厳しい言葉。でも、今日のミネの声には、追い込む響きがなかった。

 

「だから、怖くない接触を、怖くない相手と、怖くない形で覚え直します」

 

「……覚え直す」

 

「はい。これは慣らすためだけの訓練ではありません。あなたが、自分の意思で止められること、自分の意思で許可できることを身体に覚え直させるための救護です」

 

 自分の意思。その言葉に、レナの指が少しだけ動いた。

 

 昨日、奪われたもの。

 

 髪を踏まれた時、顔を上げることも選べなかった。羽根の近くに指が置かれた時、触れられるかどうかも自分では決められなかった。怖いと思うより先に体が止まって、自分のもののはずの身体が、自分から少しだけ離れていった。

 

 ミネは、それを戻すと言っている。

 

 触れるためではなく。

 

 レナへ返すために。

 

「嫌なら止めます。怖いなら待ちます。ですが、あなたが進みたいと言うなら、私は付き合います。途中で苦しくなったら、そこで止める。進めそうなら、一歩だけ進める。今日行うのは、それだけです」

 

 団長室は静かだった。

 

 部室の気配は扉の向こうにある。誰かがこっそり耳を澄ませているかもしれないと思うと少しだけ恥ずかしいけれど、それでも直接見られていないだけで、呼吸はかなり違った。震えた時に、すぐ誰かの目を気にしなくていい。失敗しても、ミネ先輩だけが見ている。

 

 レナは胸元のリボンに触れた。

 

「……お願いします」

 

 声は小さかった。

 

 でも、逃げなかった。

 

 ミネは頷いた。

 

「では、まず手首から始めます」

 

 レナは膝の上で手を重ねる。手首。昨日、銃を弾かれた場所。靴先で手を払われた場所。伸ばしても届かなかった場所。ミネはすぐには触れなかった。

 

「レナ。右手首に触れても?」

 

「……はい」

 

 答えた瞬間、呼吸が浅くなる。

 

 ミネの指が近づく。救護用の薄い手袋越しに、指先がレナの手首へそっと添えられた。掴まない。押さえない。逃げようと思えば、いつでも逃げられる強さだった。

 

 その自由があることに、レナは少し遅れて気づいた。昨日は違った。動こうとする先を塞がれた。届かないように払われた。自分の手なのに、自分で決められなかった。でも今は、動こうと思えば動ける。ミネ先輩の指は、逃げ道を残したままそこにある。

 

「呼吸が止まりました」

 

「……バレますね」

 

「救護ですから」

 

「便利ですね、それ……」

 

「便利ではありません。必要です」

 

 その返しがあまりにもミネらしくて、レナは少しだけ息を吐けた。ミネの指先がほんのわずかに離れる。

 

「今、離しました」

 

「はい」

 

「もう一度、触れてもいいですか」

 

 レナは自分の手首を見る。一度触れられた。怖かった。でも、何も起きなかった。掴まれなかった。払われなかった。自分の手は、自分のままだった。

 

「……お願いします」

 

 二度目は、少しだけ楽だった。三度目は、触れられた瞬間に息を止めかけて、自分で吐き直せた。ミネはそれを見て、小さく頷く。

 

「良いです。今、自分で克服しましたね」

 

 たったそれだけの言葉で、レナの胸が少し温かくなる。できた、というほど大きなことではない。でも、戻せた。自分で。

 

 その次は、髪だった。

 

 ミネが櫛を手にした時、レナの指が膝の上で強く握られた。髪。踏まれた場所。床に押さえつけられて、顔を上げることさえ許されなかった場所。

 

 ミネはすぐに気づいた。

 

「今日はやめますか」

 

 レナはすぐには答えられなかった。やめたい。怖い。でも、やめたら昨日の靴底だけが残る気がした。

 

「……少しだけ、待ってください」

 

「はい」

 

 ミネは櫛を置かない。けれど、近づけもしない。ただ、待つ。その待ってくれる時間が、レナには不思議だった。急かされない。試されない。怖がっていることを責められない。止まっているのに、失敗扱いされない。

 

 レナはゆっくり息を吐く。

 

「お願いします」

 

「触れる前に、一度髪を持ち上げます。引っ張りません。痛ければすぐ言いなさい」

 

「はい」

 

 ミネの指が、レナの髪へ触れた。その瞬間、床の冷たさが戻りそうになる。髪を踏まれた感覚。顔を上げられなかった屈辱。けれど、今の手は違った。

 

 踏むための重さではない。

 

 引くための力でもない。

 

 絡んだ毛先をほどいて、痛くないように持ち上げる手だった。

 

 櫛が通る。少し引っかかると、ミネはすぐに止めた。

 

「痛みは?」

 

「……大丈夫です」

 

「無理に大丈夫と言っていませんか」

 

「言ってないです。今のは、本当に」

 

「分かりました」

 

 また櫛が通る。今度はゆっくり。髪に触れられるたび、昨日の記憶が完全に消えるわけではない。靴底の感覚はまだある。顔を上げられなかった悔しさも、床の冷たさも、体のどこかに残っている。けれど、その隣に、ミネの指が丁寧に髪を梳いていく感覚が置かれていく。

 

 踏まれた髪。

 

 でも、今は整えられている髪。

 

 床に押さえられていた場所に、痛くない手が触れている。奪われた場所へ、優しい手が戻ってくる。レナは気づかないうちに、少しだけ肩の力を抜いていた。

 

「……ミネ先輩」

 

「はい」

 

「今の、少しだけ大丈夫でした」

 

「良いことです」

 

 ミネの声は静かだった。でも、どこか嬉しそうだった。

 

 次は肩だった。

 

 羽根へ行く前の、近い場所。

 

 レナは自分でも分かるくらい体が固くなった。ミネは、手を上げたまま止める。

 

「右肩に触れても?」

 

「……はい」

 

 指先が肩へ触れる。軽い。それだけなのに、背中が勝手に逃げようとする。レナは唇を結ぶ。ミネの手がすぐに離れた。

 

「今、止まりました」

 

「……はい」

 

「続けますか」

 

 レナは少しだけ迷った。怖い。でも、ミネ先輩は離してくれた。止まったら、止まってくれた。

 

「続けたいです」

 

「分かりました」

 

 二度目。肩に触れる。今度は、レナが先に息を吐こうとした。うまくいかない。でも、完全には止まらなかった。ミネはそれを見て、触れる時間を少し短くする。無理に慣れさせようとしない。少しずつ、レナの体に合わせてくれる。

 

「怖いですか」

 

「怖い、です」

 

「はい」

 

「でも……嫌じゃないです」

 

 言ってから、レナは自分で驚いた。怖い。でも嫌じゃない。そんなことがあるのだと、初めて知った気がした。

 

 ミネは一瞬だけ目を伏せた。

 

「それは、大切な違いです」

 

 その言葉が、レナの中にゆっくり沈んでいく。怖いけれど、嫌じゃない。怖いままでも、進んでいい。怖いから全部やめる、ではなく、怖いものを自分で選んで少しだけ受け止める。それが、今日の救護なのだと思った。

 

 最後に、羽根の近く。

 

 ミネがそう告げた時、レナの指先が冷たくなった。ここが一番怖い。昨日、相手の指が近づいただけで止まった場所。その前から、何度も怖い記憶と結びついている場所。レナは椅子に座ったまま、背中を少し丸めた。

 

 ミネは手を伸ばさない。

 

「今日は、羽根には触れません」

 

「……え?」

 

「まず近くまでです。あなたが許可するまで、触れません。私の手がどこで止まるか、あなたの目で確認してください」

 

 レナはゆっくり頷く。

 

 ミネの手が近づく。肩の横を通り、羽根の近くへ。レナの呼吸が浅くなる。背中が強張る。昨日の廊下が、視界の端でちらつく。

 

 でも、ミネの手はそこで止まった。

 

 本当に、止まった。

 

「ここで止めます」

 

 ミネが言う。

 

「触れていません」

 

「……はい」

 

「この位置で、苦しいですか」

 

「苦しいです」

 

「危険ですか」

 

 その問いに、レナは少しだけ目を閉じた。苦しい。怖い。でも、ミネ先輩の手は止まっている。触れないと言った場所で、ちゃんと止まっている。勝手に進まない。勝手に確かめない。レナが許可するまで、待ってくれる。

 

「……危険では、ないです」

 

「良い判断です」

 

 その言葉に、レナの胸が少し震えた。怖い記憶が消えたわけではない。羽根の近くに手があるだけで、体はまだ固くなる。けれど、今の手は昨日の指ではなかった。踏みつける靴でも、笑いながら近づく手でもない。待ってくれる手。止まってくれる手。レナの返事を、ちゃんと必要なものとして扱ってくれる手だった。

 

 その手がある場所に、少しだけ新しい記憶が置かれていく。

 

 レナは胸元のリボンを握りかけて、やめた。

 

 代わりに、ミネの袖を見た。

 

「……ミネ先輩」

 

「はい」

 

「少しだけなら」

 

 ミネの手は動かなかった。レナは顔を上げる。ミネはすぐに触れようとはしなかった。

 

「本当に?」

 

「はい。怖いです。でも……ミネ先輩なら、大丈夫だと思います」

 

 その言葉を聞いた瞬間、ミネの表情がわずかに変わった。嬉しい、というには静かすぎる。でも、何かを大切に受け取った顔だった。

 

「分かりました。羽根の外側に、ほんの少しだけ触れます。嫌なら言いなさい。言葉が出なければ、手を握ってください」

 

 ミネは片手をレナの前へ差し出した。レナはその手ではなく、袖を掴んだ。手を握るには、まだ少し勇気が足りなかった。けれど袖なら掴める。ミネはそれを見て、何も言わなかった。足りないと言わない。ちゃんと掴めたことだけを、そのまま受け取ってくれる。

 

「触れます」

 

 ミネの指先が、羽根の外側へほんの少し触れた。

 

 レナの体が震えた。息が止まりかける。昨日の廊下が、薄く戻る。相手の指。笑い声。床の冷たさ。髪を踏まれた感覚。助けたかった子の前で顔を上げられなかったこと。けれど、同じ場所に、ミネの声がある。

 

「ここで止めます」

 

 指先はそれ以上進まない。撫でない。確かめない。ただ、触れて、止まっている。レナは袖を掴む手に力を込めた。怖い。でも、壊れない。怖い。でも、逃げなくてもいい。怖い。でも、今ここにいるのはミネ先輩だ。

 

 レナは震えたまま、ゆっくり息を吐いた。

 

「……大丈夫、です」

 

「はい」

 

「まだ、怖いです」

 

「はい」

 

「でも……大丈夫です」

 

 同じ言葉を繰り返す。自分に言い聞かせるみたいに。ミネはそれを否定しなかった。

 

「今日はここまでにしましょう」

 

 指先が離れる。触れていた場所が、少しだけ熱を持っている気がした。レナはすぐには袖を離せなかった。力を抜きたいのに、指がまだ掴んでいる。ミネは急かさない。掴まれたまま、静かに待っている。

 

 その時、扉の向こうから、ごく小さく何かが擦れる音がした。

 

 ミネの目が扉へ向く。

 

「……あなたたち」

 

 扉の向こうが、ぴたりと静かになった。

 

 レナは袖を掴んだまま固まる。

 

「やっぱりいるんですか……?」

 

「いるようですね」

 

 ミネの声が低くなる。

 

「入室禁止と言いました」

 

 扉の向こうから、小さな声がした。

 

「団長、違うんです。緊急時のために待機を……」

 

「扉に耳を近づける必要はありません」

 

「……はい」

 

「あとで話しがあります」

 

「はい……」

 

 レナは一瞬だけ恥ずかしさで顔を伏せそうになった。けれど、団員たちの声があまりにも必死だったせいで、少しだけ笑ってしまう。笑うと、体の奥に残っていた強張りが少し緩む。ミネがそれを見て、ようやく少しだけ表情を和らげた。

 

「よく頑張りました」

 

 その言葉で、レナは目を伏せる。泣きそう、というほどではない。でも、胸の奥がじんわりした。

 

「……私、少しは進めましたか」

 

「進みました」

 

 ミネは迷わず言った。

 

「昨日の記憶は、すぐには消えません。以前の記憶も同じです。ですが、今日あなたは、自分で許可し、自分で止め、自分で続けました。それは小さなことではありません」

 

 レナは袖を掴んだまま、ゆっくり頷く。

 

 怖い記憶は消えていない。髪を踏まれた感覚も、床の冷たさも、羽根の近くで止まった指も、まだ体のどこかに残っている。でも、その隣に今日の記憶ができた。

 

 ミネの指が髪を梳いてくれたこと。手首に触れる前に確認してくれたこと。肩に触れたあと、すぐ止まってくれたこと。羽根の近くで、勝手に進まず待ってくれたこと。怖かった場所に、怖くない手が触れたこと。

 

 怖い記憶が消えたわけじゃない。

 

 ただ、そこにミネの手が重なった。

 

 踏まれた髪は、梳かれた髪にもなった。押さえられた手首は、離してもらえる手首にもなった。羽根の近くは、勝手に奪われる場所ではなく、レナが許可して、レナが止められる場所にもなった。

 

 レナは、少しだけ息を吐く。

 

「……ミネ先輩」

 

「はい」

 

「次も、お願いします」

 

 ミネは一瞬だけ目を伏せ、それから静かに頷いた。

 

「もちろんです。あなたが怖い記憶に負けないようになるまで、何度でも付き合います」

 

 その言葉が、あまりにもまっすぐだったから。

 

 レナはまだ少し震える手で、ミネの袖を離さなかった。

 

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