戦えない私がキヴォトス中の生徒に執着されるまで   作:Zuzuiikb

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9話 帰る場所から、行ってきます

 

 救護騎士団の部室に、レナの席ができた。正確には、誰かがそう決めたわけではない。名札が置かれたわけでもないし、専用の机が用意されたわけでもない。ただ、部室の窓際にある小さな椅子と、その横の棚の一段が、いつの間にかレナのものみたいになっていた。

 

 棚には、予備のリボンと、小さなメモ帳と、訓練後に団員が押しつけてくる飴が入っている。最初に見つけた時、レナは「これ、誰のですか」と聞いた。すると団員の一人が何でもない顔で、「レナさんの救護物資です」と答えた。

 

 救護物資......飴とメモ帳と予備リボンが。

 

 レナは反論しようとして、できなかった。なぜなら、その棚の中には、ミネが書いた訓練記録の控えも入っていたからだ。自分の名前が整った字で書かれているのを見た瞬間、なんだか胸がくすぐったくなって、もう何も言えなくなった。

 

「レナ、リボンが少し曲がっています」

 

「えっ、またですか」

 

「はい。右がわずかに下がっています」

 

「ミネ先輩、もしかして毎朝見てます?」

 

「救護騎士団の一員としての身だしなみは重要です」

 

「やっぱり言いましたね、それ……」

 

 レナが苦笑すると、ミネは当然のように手を止めた。

 

「直しても?」

 

 その確認に、レナはほんの少しだけ息を吸った。もう、あの時ほど体は跳ねない。それでも何も感じないわけではない。首元に手が近づくと、肩の奥が少しだけ固くなる。髪に誰かが触れようとすると、床の冷たさがうっすら戻りかける。羽根の近くは、まだ怖い。

 

 けれど、今はその怖さの隣に、別の記憶がある。

 

 ミネが待ってくれたこと。触れていいか確認してくれたこと。止めると言えば止まってくれたこと。怖いままでも進めたこと。

 

 レナは小さく頷いた。

 

「お願いします」

 

 ミネの指先がリボンへ触れる。布を整える動きは短く、丁寧だった。首元へ必要以上に近づかない。触れる場所を増やさない。終わると、すぐに手を離す。

 

「整いました」

 

「ありがとうございます」

 

「良い返事です」

 

「リボン直してもらっただけで評価されてる……」

 

 部室の端で、団員たちが小さく笑った。

 

「団長、最近レナさんの身だしなみチェック厳しくないですか?」

 

「救護騎士団の一員ですから」

 

「前は“保護対象”だったのに、今は“救護騎士団の一員”って言い方するの、なんかいいですね」

 

 ミネは一瞬だけ黙った。

 

「……どちらでもあります」

 

「出た、両方」

 

「レナさん、救護する側であり救護される側ですね」

 

「それ、ずっと続くんですか?」

 

 レナが聞くと、ミネは迷わず頷いた。

 

「続きます。誰かを救う者も、救護の対象です。自分を対象から外す人間を、私は信用しません」

 

 真面目な声だった。

 

 それはきっと、ミネが何度でもレナに言う言葉なのだろう。

 

 レナは胸元のリボンに触れた。

 

 救護騎士団の一員。

 

 その響きには、まだ少し照れがある。けれど、前ほど遠くはない。部室に入る時の緊張は薄れて、誰かに名前を呼ばれるたび、少しずつここにいていいのだと思えるようになっていた。

 

 そんな朝だった。

 

 ミネの端末に、連絡が入った。

 

 短い通知音。

 

 ミネが画面を確認し、少しだけ目を細める。

 

「シャーレからです」

 

 レナの肩がぴくりと動いた。

 

「先生から、ですか?」

 

「はい。近隣区域で小規模な混乱があり、トリニティ側からも支援できる人員がいれば協力してほしい、とのことです」

 

 先生。

 

 シャーレ。

 

 その言葉は、レナにとって遠いものではなかった。すでに関わりがある。助けてもらったことも、話したこともある。けれど、救護騎士団のリボンをつけた今、その連絡は少し違う意味を持って聞こえた。

 

 団員の一人が、少しだけ身を乗り出す。

 

「団長が行きますか?」

 

「状況次第です。ですが、今回は大規模な戦闘ではなく、現場整理と軽傷者対応、避難誘導が中心のようです」

 

 ミネの視線が、レナへ向いた。

 

 レナはすぐに分かった。

 

 何かを言われる。

 

 それも、たぶん自分に関わることだ。

 

 胸の奥が少しだけ硬くなる。

 

「レナ」

 

「はい」

 

「あなたに行ってもらいます」

 

 部室の空気が、一瞬だけ止まった。

 

 団員たちも、ミネを見る。茶化す声は出なかった。

 

 レナは自分の胸元を押さえた。

 

「私が、ですか」

 

「はい。もちろん単独ではありません。シャーレ側と連携し、救護騎士団からも後方支援をつけます。危険度が上がれば、私が出ます」

 

「でも……」

 

 言いかけて、言葉が止まる。

 

 怖い。

 

 その言葉が、喉の奥にあった。

 

 前よりは動ける。訓練もした。成功もした。救護騎士団の一員にもなった。それでも、外へ出ると聞くと、体のどこかがあの日の廊下を思い出す。髪を踏まれたこと。羽根の近くで止まった指。届かなかった一人。

 

 ミネは、それを急かさなかった。

 

「不安ですか」

 

「……はい」

 

 嘘をつかなかった。

 

 ミネが少しだけ頷く。

 

「良い申告です」

 

「不安って言っても褒められるんですね」

 

「自分の状態を正しく伝えることは、救護騎士団に必要な能力です」

 

 その言い方があまりにもいつも通りで、レナは少しだけ笑いそうになった。

 

 けれど、ミネの目はまっすぐだった。

 

 ミネは、すぐには続けなかった。

 

 端末に表示されたシャーレからの連絡を見つめたまま、ほんのわずかに指を止める。その沈黙は短かった。けれど、レナには分かった。ミネ先輩は迷っている。救護騎士団の団長としてではなく、レナをここまで見てきた師匠として。

 

「……本来なら」

 

 ミネは静かに言った。

 

「私が同行するべきなのでしょう。あなたの状態を一番把握しているのは私です。あなたが無理をする癖も、怖いものを怖いと言うまでに少し時間がかかることも、私は知っています」

 

 レナは息を止める。

 

「なら……」

 

 そう言いかけて、やめた。

 

 言ってはいけない気がした。

 

 ミネはレナを見た。真っ直ぐな目だった。けれど、その目の奥に、いつもの救護騎士団団長としての厳しさだけではないものがある。心配。躊躇。手放す痛み。そういうものを、きちんと整えた姿勢の奥に隠している。

 

「ですが、私が常に隣にいては、あなたは私の判断を待つようになります」

 

 ミネの声は穏やかだった。

 

「あなたは、もう救護騎士団の一員です。救護対象を見つけ、自分で状況を見て、自分で判断しなければならない場面が来ます。私はそれを避けさせるために、あなたを救護騎士団へ迎えたわけではありません」

 

 言葉は正しい。

 

 けれど、正しいだけではなかった。

 

 ミネは一度、レナの胸元のリボンへ視線を落とした。

 

「……正直に言えば、心配です」

 

 その一言で、レナの胸が小さく揺れた。

 

 ミネ先輩が、そんなふうに言うとは思わなかった。

 

「あなたがまた無理をするのではないか。怖いと言えずに立ち続けるのではないか。傷ついた時に、それを隠して笑おうとするのではないか。そう考えれば、行かせない理由はいくらでも作れます」

 

 ミネは、そこで少しだけ息を吐いた。

 

「ですが、それは救護ではありません」

 

 レナは何も言えなかった。

 

「守ることと、閉じ込めることは違います。あなたに戻る場所を与えることと、あなたの進む先を奪うことも違います。私は、あなたを私の目が届く場所に置いて安心したいわけではありません」

 

 ミネの指が、端末の縁を軽く押さえる。

 

 その指先に、ほんの少しだけ力が入っていた。

 

「あなたが、あなたの足で誰かのもとへ向かえるようにしたいのです」

 

 レナは胸元のリボンを握った。

 

 嬉しいのに、少し苦しい。

 

 ミネが送り出そうとしているのは、レナを突き放すためじゃない。むしろ、手放したくない気持ちをちゃんと抱えたまま、それでも前へ出してくれている。

 

「ここは、あなたが戻ってきていい場所です」

 

 ミネは続けた。

 

「あなたが傷ついたら救護します。怖くなったら待ちます。疲れたら休ませます。訓練が必要なら、何度でも付き合います」

 

 その言葉は優しくて、だからこそ胸に響いた。

 

「ですが、ここだけにいては、あなたが救えるものは限られます」

 

 ここは温かい。

 

 毛布がある。紅茶がある。ミネがいる。団員たちがいる。怖い記憶の隣に新しい記憶を置いてくれる手がある。

 

 ここにいれば安心できる。

 

 でも、安心できる場所にいるだけでは、誰かの前に立てる自分にはなれない。

 

 レナはそれを、もう分かっていた。

 

「あなたは救護騎士団の一員です。ですが、救護騎士団の中だけで強くなる必要はありません。あなたが出会う人、迷う場所、怖いと思う瞬間。そのすべてが、あなたの力になります」

 

 ミネは少しだけ間を置いた。

 

「行きなさい、レナ」

 

 言葉は命令のようで、でも違った。

 

 押し出しているのではない。

 

 背中に手を添えてくれている。

 

「怖くなったら戻ってきなさい。傷ついたら救護します。判断に迷ったなら報告しなさい。ですが、進めるなら進みなさい。あなたがここで学んだ救護を、外で使ってきなさい」

 

 レナは何も言えなかった。

 

 胸の奥が熱い。

 

 泣きそう、とは少し違う。寂しいのに、嬉しい。怖いのに、行きたい。ここにいたいのに、ここに戻れるなら外へ出られる気がする。

 

 そんな、矛盾した感情が全部一緒に押し寄せてくる。

 

「……私、また失敗するかもしれません」

 

「するでしょう」

 

「即答……」

 

「失敗しない人間はいません」

 

 ミネはまっすぐ言った。

 

「ですが、失敗した時に戻る場所があります。失敗を分析する師がいます。あなたを笑わず、責めず、それでも次へ進ませる仲間がいます」

 

 団員の一人が、小さく胸を張った。

 

「そうですよ。戻ってきたらお茶出します」

 

「毛布も出します」

 

「必要なら団長の訓練も出ます」

 

「最後だけ罰みたいに聞こえるんですけど……」

 

 レナが思わず言うと、部室に少しだけ笑いが戻った。

 

 ミネは真顔で言う。

 

「訓練は罰ではありません。適切な負荷です」

 

「はい、出ました」

 

「レナさん、救護騎士団名物です」

 

 そのやり取りが、やけに愛おしかった。

 

 ここは本当に、レナの場所になっていた。

 

 最初は保護対象として座らされたソファ。帰ろうとして帰してもらえなかった部屋。訓練後に膝枕で寝落ちした場所。泣きながらリボンを受け取った場所。怖い手が、怖くない手に変わっていった場所。

 

 全部が、ここにある。

 

 レナはゆっくり息を吸った。

 

「……行きます」

 

 声はまだ少し震えていた。

 

 でも、出た。

 

「怖いです。でも、行きます。救護騎士団の一員として、シャーレの方でも、ちゃんと私にできることをしてきます」

 

 言い切ると、ミネの表情がほんの少しだけ柔らかくなった。

 

「良い返事です」

 

 その一言で、レナはまた少し背筋を伸ばした。

 

 出発の準備は、思ったより騒がしかった。

 

 団員たちは急にいつもの調子を取り戻し、レナの小さな救護バッグへ次々と物を詰めていった。包帯、消毒液、携帯食、水、予備の手袋、予備のリボン、飴。最後の二つは本当に必要なのか怪しかったが、団員たちは「必要です」と真顔で言い張った。

 

「レナさん、ちゃんと水飲んでくださいね。緊張すると絶対忘れますから」

 

「知らない人に雑に触られそうになったら、即距離取ってください。あと団長に報告してください」

 

「無理して笑ったら、たぶん先生にも団長にもバレますよ」

 

「私、そんなに信用ないですか……?」

 

 レナが困ったように言うと、団員たちは一斉に目を逸らした。

 

「……ないんですね」

 

「ないというか、前科が多いというか」

 

「救護騎士団の正式見解としては、要観察です」

 

「正式見解にしないでください」

 

 笑い声が広がる。

 

 それはいつもの部室の音だった。レナが何度も毛布を掛けられ、何度も水を渡され、何度も「まだ大丈夫です」を信用されなかった場所の音。ここにいると、自分が少し情けなくても許される気がする。

 

 だからこそ、扉の外へ出るのが少し怖かった。

 

 ミネはそれに気づいた。

 

 何も言わず、レナの前に立つ。

 

「レナ」

 

「はい」

 

「触れても?」

 

 その確認に、レナは少しだけ目を見開いた。

 

 出発前の、短い確認。

 

 レナは小さく頷く。

 

「はい」

 

 ミネの手が、レナの肩へそっと触れた。昨日のふれあいの会で覚えた触れ方だった。勝手に進まない。逃げ道を塞がない。レナが許可した場所へ、許可した分だけ触れる。

 

 怖くない手。

 

 レナはその温度を受け取る。

 

 ミネの手は短く肩に触れて、それから離れた。けれど、その短さの中に、心配と信頼が両方入っていた。引き止めたい気持ちを押し込めて、それでも送り出すための手だった。

 

「行ってきなさい」

 

 ミネは言った。

 

「帰ってきたら、報告を聞きます」

 

「……はい」

 

「怪我をしていたら救護します」

 

「はい」

 

「無理をしていたら叱ります」

 

「そこは変わらないんですね」

 

「当然です」

 

 レナは少し笑った。

 

 怖さは消えていない。

 

 けれど、怖さの隣にミネの手がある。救護騎士団のリボンがある。帰ってきていい場所がある。

 

「行ってきます」

 

 レナが言うと、団員たちが口々に返した。

 

「行ってらっしゃい、レナさん」

 

「救護騎士団の初任務、頑張ってください」

 

「でも頑張りすぎたら団長案件ですからね」

 

 ミネは最後に、静かに頷いた。

 

「行ってらっしゃい、レナ」

 

 その声を背中に受けて、レナは扉を開けた。

 

 廊下の空気は、部室より少し冷たい。

 

 少しだけ怖い。

 

 でも、歩ける。

 

 ここがあるから。

 

 戻ってきていいと言ってくれた人がいるから。

 

 レナは胸元のリボンに触れた。救護騎士団の色。ミネがくれた、ここにいていい理由。外へ出ても、戻ってきていい証。

 

 一歩、前へ出る。

 

 もう一歩。

 

 怖い記憶は、まだ消えていない。

 

 でも、その隣には、怖くない手の記憶がある。

 

 帰る場所がある。

 

 だから、行ける。

 

 レナはシャーレから届いた連絡先を確認しながら、少しだけ背筋を伸ばした。

 

 救護騎士団の一員として。

 

 シャーレに関わる一人として。

 

 そして、誰かを救いたいと願った自分として。

 

 今度は、自分の足で外へ向かった。

ミネ編を終えて、内容的に今までのはすこしベクトルが違うと思います。今後の参考にするのでどれが好みだったか教えてください。

  • ミカ編
  • ヒフミ編
  • ミネ編
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