戦えない私がキヴォトス中の生徒に執着されるまで 作:Zuzuiikb
1話 帰る場所を得た者と、帰る場所を守る者
シャーレの執務室は、救護騎士団の部室とは匂いが違った。薬品と紅茶の代わりに、紙と電子機器の熱、それから乾いた空調の匂いがする。窓の外にはキヴォトスの街並みが広がっていて、そこだけを見ればいつも通りの朝なのに、レナの胸元では救護騎士団のリボンがやけに存在を主張していた。
指先で、布の端をそっと押さえる。
曲がっていない。
たぶん。
ミネ先輩が見たら、「右がわずかに下がっています」と言うかもしれない。そこまで見られたら困る。でも、そう言われたら言われたで、少しだけ安心してしまう気もする。
「リボン、似合っているわ」
机の向こうから、先生が微笑んだ。
レナは反射的に背筋を伸ばす。
「あ、ありがとうございます。まだ少し慣れなくて……ちゃんと救護騎士団の一員に見えてるか、自分だとよく分からないんです」
「見えているわよ。前に会った時より、少しだけ顔つきが変わった。ミネさんが見たら、きっと誇らしそうにするでしょうね」
「ミネ先輩は……たぶん、まずリボンの角度を見ます」
「ふふ、言いそうね」
先生は笑った。
子どもっぽくはない、けれど冷たいわけでもない。余裕があって、レナが少し言葉に詰まっても急かさず待ってくれる、大人の笑い方だった。ミカ編で初めてきちんと話した時から、先生はそういう人だった。レナを便利な戦力として見るのではなく、傷つく一人の子として見てくれる人。だからこそ、今回の依頼も、軽いものではないのだと分かっていた。
先生の手元で、薄い光が瞬いた。
黒いタブレットのような端末――シッテムの箱。その表面に、レナには読み取れない細かな表示が走る。先生は慣れた様子で視線を落とし、画面の向こうにいる誰かへ声をかけるように言った。
「アロナ、目的地の再確認をお願い。アビドス自治区、対策委員会からの要請地点まで」
明るい通知音が、小さく鳴った。
レナにはその返事までは聞こえなかった。けれど、先生が端末の表示を見て少しだけ頷いたので、きっと何かしらの案内があったのだろう。シッテムの箱も、アロナという名前も、まだレナには不思議なものだった。けれど先生の手元にそれがあるだけで、シャーレという場所がただの執務室ではないのだと、改めて思い知らされる。
「今回の依頼は、アビドス高等学校から。正確には、アビドス廃校対策委員会からのものよ」
「廃校、対策委員会……」
言葉だけで、少し重かった。
「現地はかなり厳しい状況みたい。詳しいことは着いてから聞くことになるけれど、治安の悪化もあるから、先生として私が行く必要がある。レナには、救護騎士団の一員として同行してほしいの」
救護騎士団の一員。
その言葉に、胸元のリボンが少しだけ重くなる。
「私で、役に立てるでしょうか」
「役に立つためだけに連れていくんじゃないわ」
先生は、すぐにそう言った。
レナが顔を上げる。
「もちろん、あなたの救護の知識と判断は必要になるかもしれない。でも、それ以上に大切なのは、あなたが自分で見て、自分で考えて、できることとできないことを判断することよ。ミネさんは、あなたを閉じ込めるために送り出したわけじゃないでしょう?」
ミネの声が、胸の奥で重なる。
怖くなったら戻ってきなさい。傷ついたら救護します。ですが、進めるなら進みなさい。
「……はい」
レナは小さく頷いた。
「怖くないと言ったら、嘘になります。でも、行きます。私は、救護騎士団の一員なので」
「それでいいわ。怖くない子より、怖いと分かった上で歩ける子の方が、ずっと信頼できる」
先生の言葉は、優しいのに甘やかしだけではなかった。
レナは胸元のリボンから手を離し、救護バッグの肩紐を握り直した。中には、出発前に救護騎士団の団員たちが詰め込んだ物が入っている。包帯、消毒液、携帯食、水、予備手袋、予備リボン、飴。最後の二つが本当に必要なのか、まだレナは判断できていない。けれど、棚の前で団員たちが真顔で「必要です」と言い張っていた姿を思い出すと、少しだけ口元が緩みそうになった。
帰る場所がある。
それを鞄の重さで確かめながら、レナは先生とともにシャーレを出た。
アビドス自治区へ近づくにつれ、景色は少しずつ乾いていった。
最初は、ただ日差しが強いだけだと思った。けれど進むほど、街の色が薄くなる。砂が路地の端に積もり、建物の壁には風に削られた跡がある。看板は傾き、閉じた店のシャッターには古い貼り紙が残ったまま、誰にも剥がされずに褪せていた。
人が少ない。
それが、一番怖かった。
廃墟というほど壊れているわけではない。道は道として残り、校舎へ続く案内板もある。けれど、そこにあるはずの声がない。休み時間のざわめきも、部活の音も、誰かが走る足音もない。砂が擦れる音ばかりが耳につく。
レナは救護騎士団の部室を思い出した。
紅茶の匂い。毛布。誰かが「水飲んでください」と言う声。ミネの端末を打つ音。団員たちの小さな笑い声。
ここには、それがない。
「暑い?」
先生が横から声をかける。
「少しだけです。水分は、今のところ大丈夫です」
「無理はしないこと。喉が渇いたと思う前に飲んでいいわ」
「はい。ありがとうございます」
先生はそれ以上、急かさなかった。レナの申告を聞いた上で、まだ歩けると判断してくれている。その距離感がありがたかった。
けれど、歩いても歩いても、校舎らしい建物には近づかなかった。
最初は、遠くに見えていた建物が目的地なのだと思っていた。けれど、角を曲がり、砂に半分埋もれた標識を越え、使われていないバス停らしき場所を通り過ぎても、景色はあまり変わらない。シッテムの箱の画面を確認していた先生が、ほんの少しだけ眉を寄せた。
「……先生、もしかして迷ってますか?」
「迷っているというより、地図と現地が少し合っていないのよ」
「それ、迷ってるって言いませんか……?」
「言うかもしれないわね」
先生はあくまで落ち着いていた。
その落ち着きが逆にすごい。レナなら、もう少し慌てる。いや、救護騎士団の一員としては慌てない方がいい。けれど、砂と暑さと似たような建物ばかりの道で目的地を見失うのは、なかなか心細い。
端末から、また小さな通知音が鳴る。
先生が画面を見て、少し困ったように微笑んだ。
「アロナも再計算してくれているみたいだけれど、このあたりは変化が大きいのかもしれないわ。少し回り込む必要がありそうね」
「はい。私は歩けます」
「分かったわ。でも、休憩は早めに挟みましょう」
レナは頷き、水筒を取り出して口をつけた。
水は喉を通った。ちゃんと飲めている。そう思ったのに、体の奥まで届く前に、乾いた砂の熱に吸われていくような感覚があった。救護バッグの肩紐が、さっきより深く右肩へ食い込んでいる。無意識に持ち替えようとして、指先に力が入りにくいことに気づいた。
砂地は思ったより足を取る。歩くたびに靴底が沈み、膝から下に余計な重さがまとわりつく。最初は汗をかいていると思っていたのに、いつの間にか汗の量が減っていた。額は熱いのに、指先だけが少し冷たい。喉は乾いているはずなのに、水を飲みたいという感覚そのものが鈍くなっている。
少しまずいかもしれない。
そう思った時には、もう声が出るまでに一拍かかった。
「先生、何度もすいません。また水分補給してもいいですか」
そう言った声が、自分で思っていたより少し掠れていた。
先生はすぐに頷く。
「もちろん。良い判断ね。少し止まりましょう」
「はい」
立ち止まると、ふっと体が重くなった。動いている間はごまかせていた疲れが、止まった瞬間に追いついてくる。レナは水筒を両手で持ち、少しずつ飲んだ。喉を通る感覚はある。けれど、体の奥がまだ乾いている。足元が少しだけふわつき、視界の端が白くなるほどではないにしても、次の一歩を出す前に、ほんの少しだけ呼吸を整えたくなる。
その時だった。
「……倒れそう」
前方から、短い声がした。
挨拶でも、誰何でもなかった。
先生が誰かも、レナがどこの生徒かも、まだ聞いていない。砂の中で立っている二人のうち、先に崩れそうなのがどちらかを見て、その結論だけを口にしたような声だった。
レナは水筒を持ったまま、顔を上げる。
白い髪。狼のような耳。静かな目。でも信じらせないくらいの美少女。
そこに立っていた少女は、いつの間に現れたのか分からないほど自然に、砂の中にいた。手には別の水のボトル。差し出された先は、先生ではなくレナだった。
「飲んで」
「あ、でも、今飲んだので……」
「足りてない」
短い声だった。
「汗、止まりかけてる。唇も乾いてる。バッグ、さっきより右肩に寄ってる。歩き方も少し遅い」
レナは返事が遅れた。
自分では隠せているつもりだった。水も飲んだし、先生にも申告できた。だから大丈夫だと、そう思おうとしていた。けれど目の前の少女は、名前も知らない相手の状態を、最初から必要なところだけ見ていた。
先生が静かに尋ねる。
「あなたは?」
白い髪の少女は、少しだけ先生を見て、それからまたレナへ視線を戻した。
「砂狼シロコ」
「助けてくれるの?」
「倒れそうな人がいたから」
それだけだった。
シャーレも、先生も、救護騎士団も、まだ関係ない。目の前に消耗した人がいる。だから水を渡す。声も表情もほとんど変わらないのに、その判断だけが迷いなくそこにあった。
「飲んで。倒れられると困る」
その言い方は、優しさというより判断だった。
気遣いではなく、必要な処置。倒れられたら困る。だから飲ませる。そこに余計な感情は見えない。
けれど、レナはその水を受け取った。
冷たいボトルの感触が手のひらに触れた瞬間、自分が思っていた以上に乾いていたことを、体の方が先に認めてしまった。蓋を開けて少しずつ飲む。喉が鳴るのを抑えようとしても、思ったよりうまくいかない。水が体に入っていくたび、足元のふわつきが少しだけ形を変えていく。
シロコはそれを最後まで見ていた。
飲み方。呼吸。水筒を持つ指の震え。どこを見られているのか分かるくらい、視線がまっすぐだった。
「歩ける?」
「歩けます。……ゆっくりなら」
「ん。正直でいい」
シロコは小さく頷いた。
その返事に、レナは少しだけ目を瞬かせた。
正直でいい。
それは、褒め言葉なのか、ただの評価なのか分からない。でも、少なくとも、無理をしなかったことを責める声ではなかった。
先生がシロコへ向き直る。
「私たちはアビドス高等学校へ向かっているの。道を教えてもらえるかしら」
「アビドス?」
シロコの目が、ほんの少しだけ細くなった。
その変化は小さい。けれど、今までより空気が一段だけ硬くなる。
「何しに?」
「対策委員会からの要請を受けて来たわ。私はシャーレの先生。こちらは救護騎士団のレナ」
その言葉を聞いた瞬間、シロコの視線がレナの胸元へ落ちた。
救護騎士団のリボン。
ここに来るまで、先生はそれを似合っていると言ってくれた。ミネや団員たちは、それをレナの居場所の証として扱ってくれた。
でも、シロコの目には、別のものとして映っている気がした。
外から来た子。
別の学校の子。
帰る場所を持っている子。
それを責められたわけではない。けれど、砂の中でそのリボンは少しだけ綺麗すぎた。
「……シャーレ」
シロコは短く呟いた。
驚きではない。歓迎でもない。確認するような声だった。
それから、先生とレナを順番に見て、少しだけ背を向ける。
「案内する。こっち」
「あ、ありがとうございます。シロコさん」
「ん」
返事はそれだけだった。
それでも、道案内は丁寧だった。砂で埋まりかけた道を避け、日陰を選び、ところどころでレナの歩幅を確かめる。話しかけてくるわけではない。笑いかけるわけでもない。ただ、見ている。必要なものを確認している。
その視線が、少しだけ落ち着かない。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
やがて、校舎が見えた。
アビドス高等学校。
遠くから見た時は、ただ大きな建物だと思った。近づくほど、その大きさが痛みに変わる。校門はある。校舎もある。窓も、掲示板も、通路も、きっと本来ならたくさんの生徒で満ちていたはずの場所が、そのまま残っている。
でも、人の気配が少なすぎた。
靴箱が並んでいるのに、使われている場所は一部だけ。掲示板には古いお知らせが残り、廊下の隅には砂が薄く積もっている。壊れているわけではない。けれど、使われなくなった場所が多すぎて、まだ使われている場所の方が痛々しく見えた。
レナは言葉を失った。
ここを、五人で守っている。
そう思った瞬間、胸の奥が締め付けられる。
シロコはレナの反応をちらりと見た。
何も言わない。
先生も、すぐには説明しない。
説明されなくても、分かることがあった。ここは、誰かがいなくなった後の場所だ。残った人たちが、なくなりそうなものを必死に押さえている場所だ。
救護騎士団の部室とは違う。
レナには戻る場所がある。
この学校は、その戻る場所そのものが砂に埋もれかけている。
「こっち」
シロコが短く言う。
案内された先は、廃校対策委員会の部屋だった。
扉の前で、レナは無意識にリボンへ触れた。曲がっていない。さっき先生にも言われた。ミネならきっと確認する。そんなことを考えている自分が、少し場違いに思えた。
シロコが扉を開ける。
中には、数人の少女の気配があった。
「連れてきた」
シロコが言う。
その声に、部屋の中の視線がこちらへ向いた。
礼儀正しく立ち上がろうとする気配。柔らかな声が何か言いかける気配。机の向こうで、眠そうな誰かが顔を上げる気配。
そして、その全部より先に、鋭い声が飛んできた。
「……今さら?」
歓迎とは、まったく違う温度だった。
レナの指が、胸元のリボンを握る。
アビドスの砂より先に、その言葉が胸に刺さった。
先生は何も言わなかった。
シロコも、何も言わなかった。
ただ、開いた扉の向こうから、まだ見ぬ痛みがこちらを見ている。レナは小さく息を吸った。
ここでは、優しさより先に痛みが来る。そのことだけを、最初に教えられた気がした。