戦えない私がキヴォトス中の生徒に執着されるまで 作:Zuzuiikb
玄関横の砂は、思っていたよりしつこかった。
私は膝をつき、救護バッグから取り出した折り畳みシートを広げる前に、床の上へ薄く積もった砂を手で払った。払っても、すぐにざらりとした粒が残る。風が通れば、廊下の奥からまた細かな砂が流れてくる。掃除をしていないのではない。きっと、掃除をしても追いつかないのだ。
そう思うと、何でもない砂の感触まで少し重くなる。
「そこ、そんなに丁寧にやらなくてもいいわよ」
セリカが、少し離れた場所から言った。
戦闘後の熱がまだ残っているせいか、声には少し苛立ちが混ざっている。けれど、さっきまでのように真正面から刺す棘ではなかった。どちらかというと、そんなところまで気にしていたらきりがない、と言いたいような声音だった。
私は手を止めずに答える。
「ここを一時救護地点にするなら、処置道具を置く場所だけでも砂を減らした方がいいと思います。砂が入ると、傷口にも、包帯にも、器具にも良くないので」
「そんなの分かってるけど、毎回毎回こんな砂だらけなのよ。校門で撃ち合いになるたびに、廊下まで砂が入ってきて、掃除しても次の日にはまた同じ。いちいち完璧にしようとしたら、こっちが先に倒れるわ」
「はい。完璧にはしません」
私は素直に頷いた。
セリカが少しだけ眉を寄せる。
「……そこは言い返すところじゃないの?」
「言い返せるほど、まだアビドスのことを知らないので。ただ、毎回完璧にできないなら、毎回ここだけは最低限整える、みたいに決めるのはどうかなって思いました」
言ってから、実は少しだけ不安になった。
踏み込みすぎただろうか。外から来たばかりで、まだ何も知らないのに、改善案みたいなことを言うのは偉そうだったかもしれない。そう思って顔を上げると、セリカさんは何か言いたそうな顔で黙っていた。
怒っている、ようにも見える。
でも、それだけではない。
「……好きにすれば」
結局、セリカはそう言った。
それから、ぷいと顔を逸らして校門の方へ歩いていく。
完全に許されたわけではない。認められたわけでもない。けれど、止められなかった。
少しだけ息を吐いて、シートを広げた。救護バッグを開き、包帯と消毒液、手袋、折り畳み式の小さなライトを並べる。置く順番は、ミネに何度も直されたものだった。使う頻度が高いものは手前。清潔に保つものは砂が入りにくい位置。水はすぐ届く場所。記録用のメモ帳は、書きながら処置の邪魔にならない位置。
この手順だけは、体が覚えている。
アビドスの砂の中でも、救護騎士団で叩き込まれた順番が、私の指を迷わせなかった。
「レナさん」
背後からアヤネさんの声がした。
振り向くと、アヤネさんが端末と紙の資料を抱えて立っていた。眼鏡の奥の目はまだ少し硬い。けれど、その硬さは警戒というより、今すぐ整理しなければならないことが多すぎる人の目だった。
「一時救護地点の位置、記録に入れておきたいのですが、先ほど言っていた条件をもう一度確認してもいいですか」
「はい。えっと、砂が少ないこと、校門側から戻ってくる動線と校舎内への搬送動線が重ならないこと、処置道具を広げられる平面があること、あとは……敵の射線が直接通りにくいこと、です」
私は言いながら、玄関横の柱を指さした。
「ここなら、校門側から見て少しだけ死角になります。完全ではないですけど、負傷者を下げる間の数秒は作れると思います」
アヤネのペン先が紙の上を走る。
「なるほど……今まで、負傷者が出た時はその都度近い場所へ下げていました。もちろん、負傷の程度や敵の位置によりますが、あらかじめ候補地を決めておく方が動きやすいですね」
「救護騎士団でも、先に戻る場所を決めておけって教わりました。倒れてから探すと、そこで時間を使うからって」
「実践的ですね」
「はい。師匠が、かなり実践的なので……」
言いながら、ミネ先輩の顔を思い出す。
訓練中の厳しい目。水分補給を命じる声。触れる前に必ず確認してくれる手。帰る場所から送り出してくれた時の、心配と信頼が混ざった肩への短い接触。
胸元のリボンが、少しだけ温かく感じた。
アヤネはそのリボンを一瞬だけ見た。だけど何も言わなかった。
「レナさんは、書類も綺麗にまとめられるんですね」
「え?」
「いえ、先ほどメモを見た時に。救護記録の字が、とても整っていたので」
少しだけ固まる。
自分のメモ帳へ視線を落とした。たしかに、処置記録の字は昔から癖が少ない。日付、対象、症状、対応、残り物資。欄を揃えて書くのは、別に意識しているわけではない。そうするものだと、いつの間にか覚えていた。
「あ……昔、少しだけ。書き方を直されたことがあって」
「そうなんですか」
「はい。でも、そんな大したものじゃないです。救護騎士団でも、記録は大事だって教わったので」
居た堪れなくてそこで話を切った。
アヤネさんは追及しなかった。けれど、ペン先が紙の上でほんの少し止まったのを、私は見た。気づかれたかもしれない。何に、と聞かれても答えられない。ただ、自分でもあまり触れたくない場所に、ほんの少し風が当たったような気がした。
「……では、この形式を参考にして、こちらの襲撃記録にも救護欄を追加してみます。負傷者が出た時だけではなく、消耗や物資使用も書けるようにした方が良さそうですね」
「はい。私でよければ、後で一緒に見ます」
「助かります」
アヤネさんの声が、ほんの少しだけ柔らかくなった。
それはまだ、信頼と呼ぶには早い。
けれど、必要だから頼る、という最初の線が引かれた気がした。
校門側では、シロコさんとセリカさんが周辺の確認をしていた。ノノミさんは弾薬と消耗品を数え、ホシノさんは玄関の段差に腰を下ろして、眠そうにあくびをしている。先生はシッテムの箱を片手に、アヤネさんから渡された状況資料へ目を通していた。
私は救護地点を整え終えると、手袋を外して息をついた。
その瞬間、シロコさんがいつの間にか隣に立っていた。
「飲んだ?」
「え?」
「水」
「あ、はい。さっき飲みました」
「今は?」
少しだけ目を瞬かせる。
「今、ですか」
「うん」
「……飲みます」
シロコさんは頷いた。
それだけ。
でも、レナが水筒に手を伸ばすまで、その場を離れない。視線は相変わらずまっすぐだった。校門の方を警戒しているはずなのに、話の水分補給の確認も同じくらい当然のこととして組み込まれている。
少し落ち着かない。
けれど、不思議と嫌ではない。
水を飲み、蓋を閉めた。
「飲みました」
「ん」
シロコさんは短く返し、今度は救護地点へ視線を落とした。
「ここ、使うの?」
「はい。負傷者が出た時の一時救護地点にできるかなって」
「いいと思う。校門から下がりやすい。日陰もある」
「ありがとうございます」
「でも、レナはここから前に出ない方がいい」
淡々と言われた。
私は一拍遅れて、言葉の意味を飲み込む。
「……状況によります」
「状況によっても、出ないで」
「まだ、そんなに私のこと見てないですよね?」
「見た」
即答だった。
レナは困ってしまう。
「えっと……」
「さっきの発煙弾。投げたあと、戻るのが遅かった。セリカを見て安心して気が抜けてた」
全部見られていた。
私は少しだけ頬を引き締める。恥ずかしいというより、痛いところを突かれた感覚だった。確かに、セリカさんが避けられたことに安心して、一拍止まった。ミネにも言われそうなことだ。
「次は戻ります」
「ん」
シロコは頷いた。
叱っているわけではない。突き放しているわけでもない。ただ、見たことを言って、修正を求めている。それが妙にまっすぐで、返事以外に何もできなくなる。
シロコはもう一度、私のリボンを見た。
今度は、さっきより短く。
「救護騎士団」
「はい」
「救護地点の確認...そういうこともするんだ」
「怪我をした後だけが救護じゃないので」
「……ん」
シロコさんはそれだけ言って、校門の方へ戻っていった。
残されたレナは、少しだけ息を吐く。
会話した、というほど長いやり取りではない。けれど、シロコさんの中で何かが一つ記録された気がした。私は救護騎士団。前に出る。戻るのが少し遅い。水分を忘れがち。救護地点を作る。発煙弾を使う。
必要な情報として。
まだ、それだけ。
でも、見られている。
その視線の中に置かれることが、なぜか少しだけ胸に残った。
「レナちゃん、少し休みませんか?」
今度はノノミさんが近づいてきた。
手には小さな包みがある。戦闘直後とは思えないくらい柔らかい笑顔で、それを私へ差し出す。
「お菓子です。補給、大事ですよ〜」
「ありがとうございます。でも、私、まだ作業が」
「作業の前に補給です。ね?」
柔らかい声だった。
けれど、断りにくい。
ミネの「必要です」とは違う。シロコさんの「飲んで」とも違う。ノノミさんの言葉はふわりと包むように来るのに、包まれた後の出口が少しだけ見つけにくい。
レナは包みを受け取った。
「あ……このお菓子美味しいやつですよね」
ノノミさんが目を丸くする。
「分かるんですか?」
言ってから、しまったと思った。
「えっと、香りが少し。あと、包み方が……すみません、知ったようなことを言って」
「いえいえ、レナちゃん詳しいんですね〜」
「詳しいというほどじゃないです。昔、少しだけ見たことがあって」
笑って誤魔化した。
ノノミさんはにこにこしている。けれど、その笑顔の奥で何かを考えたのか、包みを持つ手がほんの少し止まった。
「じゃあ、今度お茶も用意しますね。アビドスだと、あまり良いものは出せないかもしれませんけど」
「そんな、気を遣わないでください」
「気を遣っているんじゃありませんよ。レナちゃんが、少しでも休める場所が増えたらいいなって思っただけです」
その言葉は優しかった。
優しかったから、少しだけ返事が遅れた。
休める場所。
帰る場所とは違う。でも近い言葉だった。
「……ありがとうございます」
そう答えると、ノノミは嬉しそうに笑った。
「おーい、レナちゃーん」
ホシノさんの声がした。
見ると、ホシノさんは玄関の段差に座ったまま、片手をひらひら振っている。呼ばれたので近づくと、ホシノさんは目を細めて私を見上げた。
「おじさんも見てもらおうかなぁ。救護騎士団さんに」
「怪我をしたんですか?」
「いやぁ、してないと思うけどねぇ」
「思う、ですか」
「レナちゃん、そういうところ聞き逃さないねぇ」
ホシノはのんびり笑った。
その笑い方は、やっぱり掴めない。眠そうで、軽くて、全部冗談にしてしまいそうなのに、近づくほど底が見えない。
「手、見せてもらってもいいですか。さっき、敵の武器を弾いた時に少し衝撃があったように見えました」
「うへぇ、そこまで見てたの?」
「たまたまです」
「たまたまで見られたら、おじさん困っちゃうなぁ」
そう言いながら、ホシノは手を出した。
私は一瞬だけ迷い、すぐに思い出す。
「触れても?」
ミネから教わった言葉。
ホシノがわずかに瞬きをした。
「……いいよ」
レナはホシノの手に触れた。
小さく見える手ではなかった。柔らかくもない。力を抜いているようで、いつでも動ける手だった。指の付け根に少しだけ赤みがある。怪我というほどではないが、衝撃はあったのだろう。
「冷やすほどではないと思います。でも、後で痛みが出たら言ってください」
「はぁい」
「本当に言ってください」
「うんうん」
「ホシノ先輩」
私が少しだけ真面目に呼ぶと、ホシノの笑みが止まった。
ほんの一瞬。
手を取られたまま、ホシノはレナを見た。
「痛みを隠す人は、救護が遅れます」
言ってから、また少し踏み込みすぎたと思った。
けれどホシノさんは、すぐには茶化さなかった。眠そうな目の奥に、さっきと同じ遠いものが浮かぶ。触れてはいけない場所に、私の言葉が少しだけ当たったような気がした。
「……レナちゃんの師匠って、やっぱり厳しいねぇ」
「はい」
「でも、悪くない先生だ」
「はい。すごく」
私が答えると、ホシノは目を細めて笑った。
今度の笑みは、少しだけ寂しかった。
「そっかぁ」
手が離れる。
けれど、その瞬間、ホシノの指先が私の手首へほんの少し引っかかった。引き止めるほどではない。偶然と言えるくらい軽い接触。けれど、レナは気づいた。
ホシノも、たぶん気づいていた。
「ありがとね、救護騎士さん」
「……はい」
レナは小さく頷いた。
その呼び方は軽かった。
でも、少しだけ重かった。
作業が一段落した頃、アヤネが全員を対策委員会室へ戻した。
「襲撃による損害確認は完了しました。幸い、校舎への大きな被害はありません。ただ、消耗品が少し減っています。弾薬、水、修理用部品、それから……」
「おやつもですか〜?」
「ノノミ先輩、それは別枠です」
「別枠なんだ……」
レナが思わず呟くと、セリカが横から言った。
「そこに突っ込んでたら、アビドスじゃやっていけないわよ」
「そうなんですか」
「そうなの」
短いやり取り。
でも、セリカさんがさっきよりほんの少しだけ普通に返してくれた気がした。
すぐ仲良くなったわけではない。まだ距離はある。セリカさんは私を完全に信用していないし、私もセリカさんの痛みを分かったつもりにはなれない。けれど、戦闘前の「今さら」という鋭さとは違う場所に、ほんの小さな会話が生まれた。
アヤネが資料を広げる。
「先生、レナさん。改めて、アビドスの現状について説明します。先ほどは襲撃で中断してしまいましたので」
先生が頷く。
「お願い」
私も姿勢を正した。
対策委員会室の机は、少し古かった。けれど、資料は丁寧に整理されている。地図には赤や青の印があり、襲撃地点、物資保管場所、砂の侵食が進んでいる場所、通行不能になった道が細かく書き込まれていた。五人だけで、この量を管理している。
アヤネは説明を始めた。
アビドスの借金。周辺環境の悪化。生徒の減少。学校を維持するために必要な費用。毎月の返済。治安の悪化。ヘルメット団の襲撃。どの話も一つだけならまだ対処のしようがあるのかもしれない。けれど、それらが全部重なって、学校を少しずつ押し潰している。
私はメモを取る。
字が自然に揃っていく。
名前。場所。数。必要なもの。足りないもの。
アヤネが途中で一度、私の手元を見た。
今度は何も言わなかった。
「……つまり、私たちは廃校を避けるために、この学校を維持しながら、借金を返し続ける必要があります」
アヤネの声は落ち着いていた。
落ち着いていることが、かえって苦しかった。
「もちろん、現実的にはかなり難しいです。でも、ここを失うわけにはいきません。ここは、私たちの学校ですから」
ここは、私たちの学校。
その言葉に、私はペンを止めた。
学校。
名前。
残る場所。
呼ばれ続ける場所。
もしその名前が消えたら、そこにいた人たちはどこへ行くのだろう。呼ばれなくなった名前は、消えたことになるのだろうか。そんな考えが、ふいに胸の奥を掠めた。
私はすぐにペンを動かした。
考えすぎだ。
今はアビドスの話を聞く時だ。
けれど、シロコが一瞬だけレナを見た。
何に気づいたのかは分からない。ただ、レナがペンを止めたその一拍を、見逃さなかった。
「レナさん?」
アヤネが声をかける。
「あ、すみません。続けてください」
「大丈夫ですか?」
「はい。大丈夫です」
今度はちゃんと、自分の状態を確かめてから答えた。
アヤネは少しだけ頷き、説明を続ける。
その横で、セリカは腕を組み、ノノミは静かに微笑み、ホシノは眠そうにしながらも目を閉じきらず、シロコは壁際から全員を見ていた。先生はシッテムの箱を机に置き、必要なところで質問を挟む。
アビドスは、まだ私を受け入れてはいない。
けれど、レナはもう、この学校の砂に触れてしまった。
救護地点を作った。水を渡された。セリカの足を見た。シロコに動きを指摘された。ノノミのお菓子を受け取った。ホシノの手に触れた。アヤネの資料に、自分の字が少しだけ入った。
小さな線が、いくつも引かれていく。
信頼には遠い。
依存にはもっと遠い。
けれど、最初の拒絶だけでは、もうなくなっていた。
説明が一区切りついた時、外の空は少しだけ赤くなり始めていた。砂に反射した夕陽が、窓から差し込む。対策委員会室の空席が、その光の中で静かに並んでいた。
レナは、その空席の数を数えないようにした。
数えてしまったら、この学校からいなくなった人たちの重さを、少しだけ知ってしまう気がしたから。
けれど、見ないふりもできなかった。
だから、レナはメモ帳の端に小さく書いた。
一時救護地点、玄関横。
水分確認、戦闘後必須。
靴内の砂、足首負担。
そして、その下に少し迷ってから、もう一行だけ足した。
空席が多い。
救護騎士団の記録としては、きっと正しくない。
でも、今のレナには、それもアビドスの状態を示す大事な情報に思えた。
アビドス編の最終的な展開について迷っています。ぜひ見たい方を投票してください。
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百合って綺麗だから綺麗に終わって
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曇らせドロドロ依存エンド希望